金色のコルダ2

ガラス越しに恋をして【吉羅×香穂子】



 いつものように家の前まで車で送ってくれて、少しだけ目元を緩めて「それでは、おやすみ」と言ってくれる。
「おやすみなさい」
 車のテールランプが見えなくなるまで見送った後、香穂子の心に残るのはひと時の時間一緒にいられた小さな幸せと、その後に残るなんともいえないもどかしさ。
 高校生には勿体無いくらいの高価なディナーで食欲を満たした後は夜のドライブ。
 夜の闇に浮かぶきらびやかな小さな明かりはまるで宝石のように瞬き、いやがおうでもロマンチックな気持ちを盛り立ててくれる。
 海が見える場所で、狭い場所に二人きり。甘いムードを作り出すのにこんな好条件がそろっているというのに、吉羅暁彦は甘い言葉や甘い視線はおろか、ムードさえも作り出そうとはしない。
 ただ静かにきらきらと輝く景色を見つめ、そして、時折安堵の息を吐きながら瞼を閉じては一人の世界に浸っている。
 理事長に就任したことにより、多忙な毎日を送っているのは彼よりうんと年下の香穂子にもわかっているが、自分がそばにいてもいなくても変わりないような彼のこの態度に、香穂子はいささか不満を抱いている。
 何もない。っていうか、何もなくても平気なの? と。
 なにもあからさまに手を出して欲しいわけではない。けれど交わすことはあっても甘く絡むことのない視線や、自分のことをどう思っているかという言葉のひとかけらもないまま毎日が――二人の時間が過ぎ去っていくのは、いくら子供以上大人未満の未成熟な高校三年生でもさすがに不満に思い始める。
 好奇心旺盛で多感な年頃には、駆け引きなど上等な技は通用しないに等しいので、出方を見ないで、心を試さないでと強く思わずにいられない。
 今欲しいのは駆け引きではなくストレートな感情。
 一番知りたいのは思う相手の気持ち。そう、知りたくて仕方がない。彼の中で自分はどう思われているのかや、どんな風にして想いを打ち明けてくれるのだろうかとか。小さなことでも数え上げたらきりがない。
 けれどそれを直接彼に問うことができない。
 理知的な瞳で見つめられると、こんな子供めいた考えすらしてはいけないような気持ちになるし、口にしても相手にすらしてもらえないだろう。
「なんかすっきりしないな、もう……」
 ――こんな気持ちは私だけ? だったらほんと、馬鹿みたい。
 ジャケットは脱いでもスカートは穿いたままという、なんとも中途半端に制服を脱ぎ散らかし、ベッドにどさりと倒れこむ。
 気後れしそうなくらいのレストランも、一流のシェフが腕を振るう料理も、胸を梳くような夜景を車から眺められるのも、どれもが洗練された年上の男性ならではの接し方。大人の男性にあこがれる年頃のこの心をふわふわさせるには、おつりがくるほどのこの現状だが、一度も口にされていない「好きだ」という言葉はどんなにキャッシュを積んでも言ってくれそうにないのが悔しい。
 香穂子が積まなくてはいけないのは知識と経験。そして年月とそれに合う色香。すぐには手に入らないものばかりが目の前に高く立ちはだかっている。
 会う度どんどん吉羅が気になり、好きになっていくのは自分だけのような気がする。
 彼から与えられるものと香穂子が欲しいものとがうまくかみ合わない。
「ばか……もう、嫌い」
 つまらないことを考えている自分が嫌い。
 でもそっけないあの人はもっと嫌い。
 少しぐらい躍らせてくれたっていいじゃない。
 着飾ってフロアに躍り出ても足元がローファーではダンスも上手に踊れやしない。
 けれど吉羅は困っていてもきっと新たな靴を差し出してはくれないだろう。それどころか、困っている自分に彼はきっとこう言うに決まってる。
 ――子供は家に帰りなさい。


 春の音楽祭が過ぎてほっとしたのもつかの間。
 三年に進級した今、次なる難関は大学受験。
 音楽科に転科した土浦とは違い、相変わらず普通科に籍を置く香穂子には、演奏技術だけでは補えない知識も当然のごとく必要となり、放課後には音楽科の教師の厚意に甘え、週に二日ほど補修を受けさせてもらっている。
 勉強はあまり好きではないほうだが、音楽に関することならば別かもしれないという考えは補修初日でぱっと霧散し、楽典や教本をめくるたびにため息が零れそうになる。
 桜も散り、正門広場にも青々とした葉が視界に写る中を、つい先ほど与えられた課題を思い出しては、どうやっつけてやろうかと歩いていると、校舎側、つまりは後方から「日野さん」と自分を呼ぶ声が聞こえる。
 振り向けば、こちらへと駆けてくる加地葵の姿がそこにはあった。
「やあ、君も今帰り?」
 追いついた加地が息を弾ませて尋ねる。
「うん、補修も終わったから帰ろうと思って。加地くんは? 今日は遅くない?」
 背の高い彼を軽く見上げると、相変わらず柔らかい笑みを浮かべながら香穂子を見る。
「今日はクラスの奴らに誘われてテニスをしてたんだ。結構筋がいい奴がいたものだからついつい白熱してしまって。気がついたらいつの間にか時間が経ってたというわけ。こんなにみっちりプレイしたのは久しぶりだよ」
 言ってさわやかに笑う横顔に香穂子も笑みを向ける。
「私も見てみたかったな、加地くんがテニスするところ」
 クラスメイトはおろか、他のクラス、果ては下級生にまで騒がれていたことを思い出す。
 華やかな印象を強く与える彼のことだ、この春に卒業してしまった一つ上の柚木梓馬とまではいかないにしろ、ファンはかなりの数がいるはずだ。
 もちろん、ファンといかないまでも香穂子だってクラスメイトとして、そして友人の一人として彼の明るい笑顔を見るのがとても好きだ。
「ほんと? ……なんだ、じゃあ惜しいことをした。補修さえなければ絶対に君を誘っていたのに。今度テニスするときは日野さんにも必ず声をかけるね。だから、応援に来てよ。日野さんが見ていてくれるなら、どんなボールでも絶対に打ち返せそう」
 お世辞でもなく本心で言ってくれている彼の言葉に香穂子がありがとう、と言ったときだった。
 正門を出てすぐのところで見覚えのある一台の車が二人を追い越していく。
 左ハンドルの運転席に見えた顔は間違いなく彼――吉羅暁彦。この学院の理事長でそして、おそらく……いや、間違いなく香穂子の恋人でもある男性。
「今のって理事長だよね」
「えっ。そ、そう?」
 知っていてもとぼけて答える。心の中では「あっ!」と大きく叫んでいるのに、それを口に出来ない。
「あの車、ここら辺じゃ見かけないから一発でわかるよ。吉羅理事長、なかなかいい車に乗ってるんだよなぁ」
 車を目で追う加地に、香穂子も確かにそうだね、と相槌を打つ。
「ああそうだ、理事長といえば、この前父がこんなこと言ってたよ。あの年で独身ではさぞかし多方面から見合いの話がくるだろうな、って。今年理事長に就任して表に立つことも多くなっているから余計だろうね。それに、この時代にナンセンスだとは思うけど、いまだに根付いているみたいだよね、「結婚をして妻を娶ってこそ一人前。家を守ってくれるものがいるからこそ心置きなく仕事に取り組めるんだ」なんていうのがさ」
「へ、へえ……そうなんだ」
 よくありがちなその言葉に耳を傾けはするものの、さっきからやけに心臓がうるさい。
 ――吉羅理事長の車を見たから? そこにあの人がいたから? ううん、それだけじゃない。
 ドキドキというよりも、ぎゅっと締め付けられるように苦しい。
「まあ、そういう意見はわからなくもないけど、押し付けられると窮屈かな。第一、知らぬは周りばかりで、実際の所もう心に決めた人がいるかもしれないし。いい大人がそんなにへらへら言うわけないじゃない?」
「う……ん」
「そのうち、ひょっとしたらいきなり婚約パーティーとかあったりしてね」
「えっ!?」
「ふふっ、なんて冗談だけどね」
「あっ、ああ! そうだよね……うん」
 冗談を言っていることぐらいわかっている。けれど気持ちが落ち着かない。
 ――わかってる。そういう人がいないことぐらいわかってるよ。でも……でも起こりえないことじゃないことも、よくわかってるの。
 確かに婚約なんて聞いていないし、自分以外に女性と付き合っているという話も聞いていない。
 けれどふと想像してしまう。本命は吉羅とも釣り合いが取れるような家柄の人で、スーツが似合い、見るからに聡明そうな大人の女性が彼の傍らに立つ姿とやらを。
 馬鹿げたことだとわかっていても、それを想像しては息が詰まりそうになる。
 苦しくて、切なくて、もどかしくなる。
 ハイヒールとスーツの似合う頭の中でこしらえた大人の女性と、対してローファーと学生服がぴったりな自分。彼の気持ちが聞き出せなくてやきもきしている子供の自分。
 吉羅の車はとっくに行き過ぎてしまっているが、遠くを見つめて香穂子は小さく呟く。
「……私、どうしてもっと早く生まれてなかったんだろう」
「日野さん?」
 どうしてこんなに子供で、年が離れているんだろう。
 年が近ければ気持ちももう少し読めていたのかもしれない。多くを語らない彼でも、考えていることが少しぐらいはわかったかも。
 けれど経験が少ない今の自分ではさっぱり見当がつかないし、彼の心をどう切り崩していっていいのかさえもわからない。
 ――だけど好きなの。好きになっちゃったの。けど、全力で好きだっていうのがばれるのが悔しい。悔しいから小出しにしてるのに、あの人はちっともだよね。
 大人はどう見たって余裕そうでずるい。
 そして私はこれっぽっちも余裕がなくて辛い――。
「……子供なのが、悔しい」
 スーツも、ヒールも化粧も、アルコールも似合わない。
 香穂子の独り言のような小さな呟きに加地は返事をするでもなく、ただ黙って隣を歩いていた。


 加地と別れたあと一度自宅にもどり、なぜか妙に落ち着かない気持ちのまま着替えたあとは、近所の公園で時間をつぶす。
 ぼんやりする時間があるならヴァイオリンでも弾いていたほうがよっぽど自分自身のためになるのだろうけど、今の状態ではきっと集中できやしないことぐらい香穂子にも良くわかっている。
 今が新緑の季節でよかった、と香穂子は思う。これが冬だったら寒さで凍えていたに違いない。
 暖かい缶紅茶を買い、ブランコに腰掛けながらちびちびと口に含む。
 まだ明るい空を暗くするには、こうして時間をつぶすしかなかった。早く暗くなれ、夜になれ――香穂子はそう願いながら空を見上げる。
 星が瞬く頃になれば吉羅も家に戻るだろう。
 ――だからそれまで一人で我慢。
 香穂子はもう一度缶に口をつける。
 賑わう街の中では妙に孤独を感じてしまうので、こうして人気のない公園で一人の時間を確かめる。
 見えない吉羅の気持ちや、彼に対する自分の想い。
 そして、彼に会いたいという気持ち。
 会いたくなった。
 本当に突然だけど、吉羅に会いたくなった。
 帰り際に見かけた一瞬の横顔だけでは物足りない。声が聞きたい。たいした会話にもならないことぐらいわかっていても、それでも言葉を交わしたい。近くに彼を感じたい。
「しょうがないよね、こういう風に思うのって」
 一人言い訳がましく呟いては、空になった缶を近くのゴミ箱へと捨て、賑わう駅前方面へと足を向ける。
 バスを乗り継ぎ、彼の家のすぐそば――であろう場所でステップを降りるとそこは駅前の喧騒が嘘のように静かな場所。高級マンションがちらほらと立ち並ぶ一等地だ。
 音を立てて通り過ぎるバスを見送ったあと、かつて一度だけ通ったことのある道を歩く。
 今まで吉羅の家に案内されたことはないのだが、二人で出かけているときに急の用事が入り、自宅前までなら立ち寄ったことがあった。
 けれど立ち寄ったのはほんの僅かな時間だけで、彼がマンションの何階で暮らしているのかは全くわからない。
 助手席に乗って流れる景色をしっかり見ていたとはいえ、それまで通ったことのない道とあってはさすがに記憶力にも自信がなく、マンションだけでなく高級住宅が立ち並ぶ道を心持ち頼りない足取りで歩く。
「ふう……。この辺りって、なんでマンションも多くあるんだろう。ほんとにどれだったっけ……。一つだけならわかるのになぁ……」
 きょろきょろと上を見上げては記憶にあるマンションの外観と照らしあわせてみるのだが、どれもしっくりこない。
 おまけにかれこれ一時間ほど何度も似た道を歩いている気がするから気持ちも落ち着かなくなる。
 もやもやしたままの気持ちであたりを見回しながら歩いていると、香穂子の気持ちと同じような曇りがちの空からは、霧雨が降り始める。微細なそれは今すぐ服や髪を濡らすほどの量ではないにしても、傘も持たないまま歩き続けていれば話は別だ。
 生憎住宅が立ち並ぶ一帯とあっては、雨宿りさえも難しい。通り過ぎるマンションは皆オートロックで、エントランスこそ立ち入ることができるものの、住人の目が気になり、ぼんやり雨宿りなどできる雰囲気ではない。
 十分、十五分とさらに歩き続け、次第に髪にも服にも雨の重たさが加わっていく。
 いくら暖かい気候の頃とはいえ、半そでにはまだ早く、肌に張り付く雨の冷たさは身体を徐々に冷やしていく。
 ちょっと寒くなってきたかも、とぶるっと小さく身震いをしては、しっとりと濡れている髪先へと触れる。
 空を見上げると、重く濃い灰色の空はいつの間にか夜の色へと変わっていた。
 雨と寒さと見知らぬ土地とがさらに不安を募らせていく。おまけに歩き回ったことで足も大分疲れ、もしも今バスが通り過ぎたなら、そのバスを止めてでも乗って家に帰りたいくらいだ。
 吉羅に会える偶然はおろか、帰るバスさえも見つけられない。ただ、どんどん身体は冷えて、心がさみしくなっていくばかり。
「……なんか、私……」
 息を漏らすように小さく呟く。
 ――中途半端だ。
 会いたいだけで飛び出てきて、家がどこにあるのかもちゃんとわからない。
 第一、吉羅が自宅にいるのかさえもわからない。携帯の番号も知らないのだから確かめようもない。
「馬鹿だぁ……。ホント、なにやってるんだろ……」
 惨めな気持ちは細く震える声となって零れ落ち、吐くため息も頼りなく揺れる。
 行きゆく車のヘッドライトが髪の先のしずくを照らす。
 ――髪、随分濡れちゃったな。服も重いや。こんな格好で帰ったら、お母さんすごく怒るんだろうな……。なにより、やっぱりヴァイオリンを持って出なくてよかった。雨が降るなんて、知らなかったし。
 もう一度深く息を吐いたそのとき、不意に強い力で肩を掴まれ、強引に後ろを向かされる。
「えっ……」
「失礼」
 そう短く言われはしたが、突然の出来事と、その手の力強さとにただ驚いて身を硬くしていると、驚いたような、けれどため息交じりの声が耳に届く。
「……やはり君か!」
 大分耳になじんだその声。時々――いや皮肉ばかり言うが、その言葉とは裏腹に香穂子自身を気遣ってくれる男性。
 今一番顔を見たかった人の声だ。
「吉羅、さん……?」
 驚いた。
 けれどどこか心がここにあらずなのはどうしてなのだろう。
 ぼんやりと彼を見上げると、彼はいつになく怖い顔で香穂子を見つめている。
「何をしているんだ、こんな所で。それに、傘もささないでどうしてこんなに濡れるまで! 風邪でも引くつもりなのか」
 肩を掴むその手の強さと彼の静かな剣幕とに香穂子は俯く。いつもより口調が荒いのはそれだけ怒っているからだろう。
 黙ったままで視線を伏せると、少しずつ強くなっていく雨音と吉羅の言葉が重なる。
「まさか私に会いに来たとでも言うんじゃないだろうね」
 冷たく響く声に、香穂子はくちびるの内側を軽くかみ締めて首を振る。
「……違います。散歩ですよ」
「君の家からここまで随分離れているが、それでも散歩とでもいうのかね。こんな天気の中傘もささずに? ……だとしたら随分酔狂な話だ」
 そのあんまりな言葉に香穂子は思わず彼を振り仰ぎ、声を荒げる。
「わ、悪いですかっ!? 遠くまで散歩したい時だってあるでしょう!? 私だって……私だってそういうときぐらいあるんです!」
 酔狂かもしれない。優しく言葉をかけられるわけもないのに会いたいだなんて。
 けれど、急に顔が見たくなった。誰よりもその声が聞きたくなってしまったのだ。
 じっとしていたってその方法が見つからないときはどうすればいいというのだろう。動くことしか知らないし、じっとおとなしく待ってるなんて出来ない。
 ――私は、悔しいけれど物分りのいい大人なんかじゃない。
「こんなに身体を冷やしてまですることではないと思うがね」
 かっとなった香穂子とは対照的に、温度の低い彼の口調。
 その言葉に香穂子は再び俯いてしまう。
 彼の言うことは尤もだ。さぞかし彼の目には自分の行動は酔狂に映るのだろう。そして、強がりに隠した本心さえもすべてわかりきっているだろうから、心底呆れているに違いない。
 そう思ったら、また急に身体の温度が下がり始めたような気がする。
 小さな震えを抑えようとしても膝が、指先が、肩が微かに震えてしまう。
 そんな香穂子を目の前にして、吉羅は掴んでいる肩から手を離し、僅かに背を向ける。
 拒絶されたのかと心がひゅっと寒くなったとき、彼はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、すばやくボタンを押す。
「……吉羅です。二十時からのお約束の件なのですが、大変申し訳ありません、急用が入ってしまったので今回は……。……ええ。そうですね、ではまた改めて。楽しみにしております」
 手短に話を終え、吉羅は再び携帯をしまいながらちらりと香穂子を振り返る。
「来なさい。そのままでは風邪を引く」
「でも……」
「ここで君の手を掴んで無理矢理車にでも押し込んだりしたら私はちょっとした変質者扱いになるだろうね。出来るならそれは勘弁してもらいたい。君も好奇の目にさらされたくなければおとなしく言うことを聞きたまえ」
 そうしてライトを落としている車のほうへと歩いていく。拒否権はない。いや、拒否する必要もないのだが、前に進もうとする足取りは重い。
 見慣れた車。だがそのドアを開けてシートに座るのは些か躊躇われる。
「どうした?」
「あ……えっと私、服が濡れちゃってるから、シートが……」
 革張り、それも柔らかい上質なベージュの皮のシートではいくらなんでもまずいだろう、と半分開け放たれたドアの前で立ち尽くしていると、吉羅はまるで気にする様子もなく「いいから早く乗りなさい」と言う。
「車のシートと今にも風邪を引きそうな君を天秤にかけるまでもないと思うが。それでも君はそこに立っているつもりかね」
「でも……」
「君に体調を崩されては私が困るのだよ、日野君」
 以前学院内で急ぐ吉羅にぶつかったことがあった。そのとき彼はヴァイオリンは大丈夫か? と香穂子よりもヴァイオリンを気遣った。香穂子にとっては一つしかない大切なヴァイオリンなので、彼の気遣いはありがたかったのだが、したたかに肩を打ちつけた香穂子には何の言葉もなかった。
 あのときからそれほど時は経っていないはずだが、変われば変わるものだ。
「じ、じゃあ……失礼します」
 助手席に足を踏み入れ、恐る恐る腰を下ろすのだが、身体をシートに沈みこませるときは思わずぎゅっと目を閉じ、「ごめんなさいっ」と小さく謝ってしまう。
 背筋を伸ばし、身体を強張らせている香穂子に彼は一瞬だけ小さな笑みを見せ、ハザードの点滅を消してはアクセルを静かに踏み込む。
 静かなエンジン音。すべるような走りの車中は濡れた路面を走行する音だけがやけに良く聞こえる。要するに無言なのだ。
 いたたまれないほどのこの雰囲気に香穂子は早くも帰りたい気持ちになるのだが、不意に綺麗にたたまれているハンカチを差し出される。
 思わず反射的に受け取ってしまったものの、ぽかんと吉羅の横顔を見つめると、彼は軽く眉間を寄せた。
「髪を拭きなさい。ハンカチでは足りないだろうけど、何もないよりはましだろう」
「あ、はい」
 ――ああ、そっか。運転してると自分じゃ髪拭きづらいよね。
 なるほど、と香穂子は心うちで納得をし、そっと手を伸ばして吉羅の髪に触れようとする……が、触れるよりも早く手首を掴まれてしまう。
「日野君」
「わっ! なんですか!?」
「なんですかではない。どう見たって君の髪のほうが濡れているだろう」
 吉羅も多少驚いているようで、運転をしながらもちらりと香穂子を伺う目には動揺が見える。
「でも、吉羅さんだって……」
 僅かに濡れて光っている髪は、傘も差さずに立ち話をしていたせいだと思う分、申し訳なくなる。
「これぐらいかまわない。頼むから自分のことを気遣ってくれないか」
「わ、わかりました」
 小さく肩を竦めて香穂子はそのハンカチで丁寧に髪を拭うのだが、何か不自然なことが一つ。
「あの……」
「なんだね」
「手、ちょっとだけ離して貰っていいですか?」
 ――ホントは離さなくてもいいんだけど。
 本心は押し隠してちょっと拭きづらいかもしれませんと、微笑むと吉羅はぴくりと片眉を跳ね上げて、今気がついたかのように手を離した。
「……ああ。すまないね」
「いっ、いえ! 全然」
 ――ホント、全然。……全然かまわないんだけどな。
 跳ねた毛先に触れながら、冷えた身体の温度が少しだけ高くなったような気がして、香穂子は僅かに俯いた。
 その後、吉羅の自宅にたどり着くまで不自然なほど会話がなかった。


 彼の自宅が香穂子が必死になって歩いていた通りの一本向こう側にあると知ったときは、脱力感でいっぱいになった。
 それこそ許されるのであればエントランスでしゃがみこみたいくらいだったが、小さな偶然と幸運に大きく感謝をした。偶然にもその一本向こうを歩いていた香穂子に出会えたのは、たまたま道が混んでいたのでルートを変えたからだったらしい。
 もしスムーズに車が流れていたら――吉羅が通るルートが混んでいなかったら間違いなく出会えなかっただろうことを思うと、香穂子は自分の運のよさに少しだけ感謝をしたのだった。
 初めて上がる吉羅の――男性の部屋は、一人暮らしとは思えないくらい綺麗な部屋。
 必要最低限のインテリア以外これと言って目を惹くものはないのだが、インテリアそのものがシンプルとはいえ明らかに高価そうなものばかりなので、それだけでも十分な存在感がある。
 わぁ……と香穂子が息を呑むのもつかの間、来なさい、と呼ばれて付いていった先は脱衣所。
 白一色で整えられた脱衣所で目を瞬かせていると、あっという間にバスタオル、着替えのシャツとスウェットを渡され、腕の中に積まれていく。
「ちょっ、吉羅さん!?」
「サイズが合わないのは我慢しなさい。そのままの格好で寒い思いをするよりましだと思いたまえ。脱いだ服はそこにある乾燥機を使って乾かしなさい。使い方はわかるかね?」
「あ、はい。うちにもあるので……」
「なら結構」
 あっけに取られる香穂子を尻目に、吉羅はドアを閉じて出て行ってしまう。
 かすかに聞こえる足音が遠くなる。
 彼の姿はもうないけれど、なんだかとてもおちつかない。
 吉羅の家に初めて訪れたというのは勿論だが、彼の服を渡され、それを彼の家で着替えるということ事体がやけに恥ずかしくてたまらない。
 ――静まれ心臓!
 これは心の声だけに留まらず、言葉となって弱々しく零れ落ちる。だが零れ落ちるのは言葉だけではなかった。
 ぶるっと寒さに身を震わせた後、くしゃみを一つ。
「っくしゅっ! ……うぅ〜、寒い。早く着替えないと本当に風邪引いちゃうかも」
 肌にまとわりつく服を一つ一つ脱ぐ。下着はさほど濡れていないのでそのまま身に着けているとしても、袖を通したシャツはやはり一回り大きく、慣れない着丈と袖を通る空気にさっきから頬の熱が上がりっぱなしだ。
 乾燥機をセットしたあと、妙に緊張する足取りで、もう一度リビングへと向かう。
「あ、あのぅ……」
 ドアを開けてそっと声をかけると、ジャケットを脱ぎ、タイを緩めた姿の吉羅の視線が香穂子をとらえる。
「なんだね? ご所望とあればシャワーも使って構わないよ」
 髪をかきあげながらしれっとした顔で言う吉羅に、香穂子は首だけでなく全身を震わせて「いえ、いいですっ!」と大きく返す。
「そうじゃなくて、その……服までお借りしてしまって、すみません」
 堂々と彼の前に出る勇気がなく、そろそろと歩み出ると、彼は幾分目元を和らげて香穂子を見る。
「わかっていたが、随分とサイズが合わないようだね」
「……ですね」
 肩を竦めて返すと、彼は香穂子のいる方へと足を進める。そして、香穂子がしっかりと胸の中で抱えているバスタオルを手に取る。
「まったく、髪を全然拭いていない。ちゃんと拭きなさい」
 軽く広げた後、その大きな手でそっと髪を拭き始める。こうして誰かに髪を拭いてもらうのは子供のとき以来だろう。なんだかくすぐったいような、でもホッとするような懐かしい感じがする。
 けれど両親でも兄弟でもない目の前の存在は苦しいくらいにこの胸を締め付ける。
「あの、今から予定があったんですよね。私のせいで、本当にすみませんでした……」
 電話でその予定をキャンセルしていたのを香穂子も聞いている。自分が現われてしまったせいで予定を変更せざるを得なかったことに香穂子は申し訳なさを感じ、視線を落とす。
「いや、昔なじみの人との食事だ、君が気にする必要はないよ」
「でも――」
「それより、私のほうこそ聞きたいね。なぜ連絡もなしにこんなところまで来たんだ。何か急用かね」
「急用じゃありません。それに、連絡ができなかったのは携帯番号知らなかったから……」
 二人で一緒に出かけるようになって随分経つが、彼に直接繋がる連絡先を香穂子は知らない。いつも学校の帰りに偶然とか、休日に街中で偶然出会うという、なんとも運任せの『偶然』やら『奇跡』のようなものに頼っていた逢瀬だったのだ。
 彼の連絡先を知っていたところで、日中だけでなく夜も仕事をしている彼にそう簡単に連絡できないことは香穂子もよくわかっているが、それでも携帯電話番号の一つも知らないままというのは、時として頼りなく感じる。
 このまま彼がどこかにふらっといなくなってしまったらどうやって彼と連絡をつければいいのだろうとか、もしも彼の身になにかあったらどうするのだろう、と起きてもいないもしものことを考えてしまう。
「連絡先か……。確かにそう言われれば聞いていなかったね、君の連絡先」
 本当に今気がついたとでも言うような彼の口調に香穂子は少しばかりあっけにとられる。
 彼の先輩でもある金澤からは『ああ見えてどこかとぼけた奴でな。なかなか面白い奴だぞ』と聞いた事があったが、それはどうやら本当らしい。
「お仕事の邪魔にならないようわきまえますから、携帯番号とメールアドレスぐらいは教えてください」
「わかった、後で教えよう。君の連絡先もそのとき聞かせてもらいたい。……だが、一つ言っておこう」
「はい?」
「携帯にメールを貰っても返事がないかもしれないが、それは見ていないと言うわけではないので覚えておいて欲しい」
 顔を上げて吉羅の顔を見つめると、やや眉根を寄せて彼は言う。――どうもあの作業は苦手だ、と。
 確かに彼が素早くボタンをプッシュする姿は想像できないし、どちらかといえば不機嫌な顔で指を頼りなく動かしている方がしっくりくるような気がする。
「わかりました」
 小さく笑って答えると、吉羅短く息を吐き、それから再び本題へと話を戻す。
「とにかく用がない以上、ほいほいと簡単に来られても困るんだよ。君の同級生の友人とは訳が違うのだからね」
 気が緩んだのもつかの間、再び心がひんやりするような言葉を浴びせかけられる。それは少し前まで霧雨の中を頼りない気持ちで歩いていたときよりも低い温度のもので、香穂子は自分のしたことの軽率さに再び胸を痛める。
「すみません……。ただ――」
 ただ、どうしてもひと目逢いたかった。
 子供の恋愛ごっこと笑われようが、吉羅の家も知らずに、そして彼が家にいるかもわからないのにここまでやって来てしまった軽率さは確かにあるが、それでもどうしても逢いたくなってしまったのだ。
「ただ、ちょっと……」
 ――逢いたかったんです。
 絞り出すようにして呟く言葉に対し、吉羅からの言葉はなかった。
 子供じみた言い訳だと、呟いた言葉に対して後悔の念を抱き、香穂子がぎゅっと目を瞑ると深いため息混じりの声が聞こえる。 
「私が教師ではないことは君もわかっているだろう。学院のトップに就いていても教鞭を振るうわけでもなく、単なる一経営者に過ぎないからね」
「……はい」
「だがその前に一人の社会人だ。今回は理由があったにせよ、年端もいかない一人の女子高校生をそう簡単に自宅に招くわけにはいかないんだよ。仮にも教育の現場に関わるものとして、長自らが周囲に不信を与えるような行為をするわけにはいかない。たとえそこに後ろめたいものがないとしても、良くない風評が立ってしまっては将来のある君にとって汚点にもなるし学院のためにも決して良いことではない。……それは君とて十分わかっているだろう」
 香穂子にとって汚点と言うのは頷けないが、学院のためにならないという吉羅のそのもっともな言葉には頷ける。
「もっとも、君を散々引っ張りまわした挙句にこんなことを言うのも今更何をと思うが……。君にこうするな、ああするなと押し付けるのは筋違いなんだろうね」
「いえ……」
 彼の言うように、こうして部屋に上げること自体本当は好ましくないことも、言葉にされて改めて気がつく。
 ――やっぱり、私、何もわかってないよね……。自分の気持ちばかりで、いろんなことをちゃんと考えていない……。
 社会人である彼の立場も、そして彼が、香穂子自身も大事に思っている学院のことも、わかっているつもりで何もわかっていない。
「今後……気をつけます」
「日野君……」
「軽率、でした」
「……聞き分けを持っていてくれて安心したよ」
 香穂子の言葉よりしばらく経って発されたのは、少し切ない響きがあるもの。それが気にならないでもなかったが、彼は再び香穂子の髪を優しく拭く。微かに香るのは彼がいつも身につけているオードトワレの香り。運転席と助手席という二人を隔てる微妙な空間より、今はうんと近づいている。
 少なくとも、彼の香りをすぐそばで感じられるくらいには。
「ほんとに……すみません」
 でも、こんなに近くても抱きしめてもらうことは叶わない。
 好きだとも言ってもらえない。
 ――近くて遠い。
 こんなに優しく頭を撫でられるのも、卒業までもうないのかもしれない。
 それに、この手はとても暖かいのに切ないのはどうしてなんだろう。低く、心地よい声をすぐそばで聞いていると、勝手に目頭が熱くなってくる。
 いっそこの胸に飛び込むことができたらどれだけいいか。
「いや、もうこの件はいい。それより、どれだけあのあたりを歩いていたんだ。体が冷えている。やっぱりシャワーでも浴びた方が体が温まるんじゃないか?」
「一時間……ううん、たぶん二時間ぐらい……だけど、平気です。大丈夫です」
 そう口にしながら、あのときの心細さを思い出しては胸が苦しくなる。
「まったく、健康管理には気を配りなさいと以前からあれほど言っていたはずだろう。困った人だね、君は」
 困っているというよりも呆れているといったそのため息混じりの言葉に、ああ、また彼を困らせている、と思えば思うほど今度は瞼だけでなく鼻先がつんとする。
 どうして想う気持ちと行動とがこんなにうまくかみ合わないのだろう。
 好きでいると迷惑をかけてしまいそうで怖い。
 後先を少しは考えて行動しているつもりでもちっとも考えていないことを改めて思い知らされる。
 そして、そんなことを繰り返していくうちに愛想をつかされてしまうのではないかと不安になる。
 ――やだな。……嫌われたくないよ。せめて、嫌いにならないで。
 どうしたって子供で、どんなに考えて行動をしても彼の期待にこたえられるかどうかわからないけど、突き放されたくない。
「ごめ……なさ……」
 泣くつもりなんてないのにどんどん視界がぼやけてくる。
 今落ちた水滴は涙。でも気づかないで欲しい。雨のしずくが落ちたと思っていて。
「……日野君?」
 珍しく困惑した様子の吉羅の声に、香穂子は俯いたまま慌てて両手を振る。それも無理やり笑顔を作ってだ。
「あ、あははっ。え、えっと、ご、ごめんなさい。その……これはなんでもなくて。その……そのっ――」
 ――その、の後になんて言えばいいの。だめ。わからないよ。頭の中、真っ白で。でも……でも、これだけはわかっていて欲しい。
「……わないで」
「なんだね?」
 耳をくすぐるようなその声に、香穂子は目の前の胸に額を押し付ける。
「嫌わないで、ください。……お願い……、き、嫌いにならないで。ごめんなさい……ごめなさ……」
 堰を切ったようにぽろぽろと涙が溢れ出す。睫の先から雫が落ちるたびに吉羅のシャツへとしみこんでいく。
 それを幾つ見送ったときだろう。躊躇いがちにそっと身体を引き寄せられ、そっと抱きしめられた。
「……まったく、私にどうして欲しいというんだ。君は私の話を聞いていたのか」
 明らかに困惑しているであろう吉羅が深いため息混じりに呟く。それを聞き、香穂子は慌てて顔を上げる。
 困らせたくて額を押し付けたのではない。時として抱きしめて欲しいとは思っていたけれど、それが叶わないことというのも今日でよくわかった。
 今こうして抱きしめているのは子供をあやすのと同じ意味合いのものだろう。愛や恋といった感情をもってのそれではないはず。
「あ……。ちが……っ! 違うの、そういう意味じゃ、変な意味じゃな――」
 けれど言い訳は降ってきたくちびるに閉じ込められる。目に映るのは吉羅の頬のラインと耳元。
 驚いた。
 驚きすぎて瞬きも出来ないくらい。
 初めて感じる柔らかな感触。一度僅かに離れ、彼の目が香穂子を捕らえる。ダウンライトの光に甘く照らされた瞳に息が詰まりそうになりながらも、もう一度深く触れてくる唇に今度は瞼を閉じた。
 長いキスが終わり、そっと目を開くと、すぐそばにはやや困惑した表情を浮かべた吉羅の表情があり、香穂子はどうしてそんな困った顔をしているのだろう、と問うように軽く首を傾げた。そうるすと、さらに彼は眉根を寄せる。
 怒っているのか、困っているのか。どちらともつかない表情だ。
「これだから……。だから言わん事じゃないんだ」
 吉羅は独り言のように呟く。
「あ……の」
「滑稽なことに、どれだけ尤もな言い訳をつけても無駄だったということなのかね……。まったく、可笑しなくらいに考えを簡単に覆されてしまう。自分が馬鹿馬鹿しく思えるよ」
「ええ!? それは、ど、どういう……?」
「いや、なんでもないよ。……どうやら私は近頃の高校生を――というより、君という女性を甘く見ていたようだ」
「へっ!?」
 間抜けな香穂子の声に、吉羅は小さく笑う。
「今の声さえなければ、ずいぶんと扇情的だったということだよ。あれこれ理由をつけて自制しようとしても無駄なくらいに」
「そ、それって……、それってつまり……」
 頬にまとわりつく髪を、なでるようにして梳く吉羅の手に自分の手を重ね、香穂子は信じられない思いで背の高い男をまじまじと見つめる。
「もしかして、ちょっとは欲情、しました……?」
 これには吉羅が片眉をぴくりと跳ね上げた。だが、息を吐いてから紡がれるのはいつもどおりの彼らしいシニカルな言葉。
「言っただろう、キスのあとに間抜けな声をださなければ、と。まぁ、今の君では無理だろうがね」
 軽く斜めに見下ろされ、ファーストキスに「わあ、わあ!」と内心舞い上がっていた香穂子はとたんに鼻じろむが、それを尻目にして吉羅はキッチンへと歩いていく。
 冷蔵庫から取り出したのはおそらくミネラルウォーター。
 二つグラスを並べた中になみなみと注いでいくのを少し離れた所で香穂子はぼんやりと見ていた。
 どうしてだろう、今更膝がふわふわと熱い。まるで地面に足がついていないようだ。
「あいにくジュースは置いていないのでね」
 差し出されたグラスを受け取り、香穂子は頬を膨らませた。
「もっ、もう、子供扱いしないでください」
 そして、ソファーへと座るように促され、ためらいつつも腰を下ろす。
 湿った髪をタオルでぬぐいながら吉羅をじっと見ると、彼は口元に薄く笑みを浮かべる。
「このグラスの中身が水でなくアルコールになる時がきたら、子ども扱いは止めてあげるとするよ」
「卒業後じゃないんですか?」
「残念ながらね。……だが法令にかからない程度に規制解除をするとしよう」
「……は?」
 ――法令? 規制解除? いったい何のこと?
 香穂子はせわしなく目を瞬かせた。
「君が不安や不満を抱かない程度には、御期待に備えてあげようということだよ。もちろん、卒業してからと言うことになるが」
「それって……」
「不安……というより不満だったんだろう?」
 妙に楽しんでいるような彼の表情。どこか艶めいているのは、そのくちびるに浮かぶ笑みだけでなく、発する言葉にもあるということを香穂子はややあってから気づく。
「えっ!? 不満って……あっ、あ、あああのっ! そっ、そそういうつもりとかじゃなくてっ!」
「おや、君は意外と往生際が悪いようだね。一人暮らしの男の部屋に押しかけてきたにしては殊勝な言葉だ。まあ、今すぐではないから安心しなさい。私もそこまで急いていない。……もっともどこまで持つかわからないが。とにかく、これしきのことでせめてうろたえない程度には成長をして欲しいものだね」
「う〜……。――あ!」
 じと目で正面にいる吉羅を見つめていた香穂子だが、ふといいことを思いた。
 ちいさなことでうろたえずにすむ方法。それは彼がそういう風に香穂子を慣らしてくれればいいだけのこと。
 他の誰にもその真似ができないのだし、香穂子が心と『そういうこと』を許すのは目の前の男一人だけなのだから。
 だから彼に教えて欲しい。うろたえずにすむ方法をこの人に教えてもらいたい。
 それができるのはただ一人、吉羅だけなのだから。
 頭にかかっているバスタオルをするりと取り払い、真っ直ぐに正面を見据える。
「あの……それは、誰かに教えてもらわなくちゃ無理です」
「なに?」
「一人でいきなりうろたえないようにするなんて無理。楽器もないのに曲を弾こうとするのと一緒です。……だから、吉羅さんが少しずつ慣らしてください、私を」
 この言葉のあと、吉羅は随分と驚いた顔をしていた。
 おそらく今まで見たことがないくらい動揺をしていたように思える。
「君は、自分で何を言っているのかわかってるのか」
「え? あ、はい。一応……? あれっ、変ですか?」
「……いや。なんでもない。改めて思い知らされた気がするよ。無自覚、無意識の強さとやらを。それで私を振り回そうなんて、君はたいしたものだ」
 ――な、なに? なんか、驚いてると思ったら、今度は随分と楽しそうなんだけど。私、何かした?
 香穂子がぱちぱちと瞬きを繰り返していると、いつもは涼しげな顔をしている彼の表情に、艶やかな笑みが浮かぶ。それは香穂子の頬を熱くするには十分すぎる威力を持つもので、同年代の男性にはない大人の色香というのが鮮やかに彼を縁取っていた。
「言っておくが、私は大人には容赦はしないから、それなりに覚悟をしておくように」
「ええっ、大人って……さっき自分で言ったじゃないですか! アルコールが大丈夫な年とか、成長しなさいとかって! 子ども扱いしてるくせに。それに……それにちょっと前に不信がどうのとか、風評とか、私にとっての汚点がどうのこうのって難しいことたくさん言っていたのに!」
「……そうだね」
 背後には背もたれがあり、これ以上下がることなどできないのだが、吉羅の並々ならぬその『大人ならでは』の雰囲気になぜか後ずさりをしたい気持ちになった。自分の言葉のなにがどう彼を奮起させたのかはしらないが、彼の中のスイッチに触れてしまったようだ。
 ――うわ……。どうしたんだろう、吉羅さん。なんか……なんかいつも以上に大人っぽくて、どうしたらいいのかわからないよ。……もう、反則。
「確かに、朝令暮改というところだろう。それは深く謝るよ。だが、人をけしかけておいてそういうことを言うのは反則だよ、日野君」
「だ、だから、それは吉羅さんだって同じでしょう!」
「……じゃあ、責任をとろうか、今から」
 言って立ち上がった吉羅を、香穂子は目を丸くして見上げる。
「え。……え? ええっ?」
 さっきのキスだって足が震えるくらいだったのに、それ以上のことをされた日には溶けてなくなってしまうんじゃないかと香穂子はたじろぐ。
 彼がどう思っているか知りたい、近づきたいとは思っていたが、三段飛ばしで階段を駆け上がらんとしている今の状況に、驚かずにはいられない。
 ――どうしよう。どうしよう! 心の準備が!
 吉羅がこちらに近づく。手を取り、立つように促したあと、彼は耳元で低く囁いた。
「早く髪を乾かしなさい」
「き、吉羅さ……」
 鼓膜をくすぐる低音に香穂子が思わず肩を竦めると、彼はふっと息を漏らすようにして笑う。
「時間も遅くなっている。女子高校生を自宅まで送り届けなくてはいけない。学院の理事として。そして、一社会人としてね」
 その言葉に呆然と吉羅を見上げると、彼は至極満足そうに、そして意地悪そうに微笑んだ。そう、香穂子が彼にプレゼントしたチェシャ猫の置物のように。
「おや? なにか御不満でも?」
 ――ま、まったくこの人は〜! むかつく、むかつく! やっぱり嫌いっ。
「……なんでもないですっ!」
「結構」
 窓際へと向かう彼の背中に、香穂子はおおきく舌を出した。きっとガラス越しに自分のこの顔は見えていると思うが、香穂子も気づいたことが一つ。
 ガラス越しの彼の顔が、とても楽しげだということ。
 それはからかっている笑顔でもなければ、悪ふざけをたくらんでいるものでもない。
 ただ、楽しげに、そしてちょっとだけ幸せそうに映って見えた。
 それに激しく動揺したのは、自分がまだ子供だからだろうかとも思ったが、それは違うと心の中でそっと首を振る。
「どうした、早く支度をしなさい」
 愛しい人の顔を覗くことが出来たから、嬉しくて胸が騒ぐのだ。
「……はいっ!」
ガラス越しの恋人の顔を、こんなに愛おしいと思ったのは、これが初めてだった。



End.
2007/10/03-07
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