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 今日は朝から空気が蒸している。夕方五時になってもそれは変わらなくて、せっかく整えた髪があちこち跳ねてしまうんじゃないかと気にしながら、わたしは駅の南口に立つ。
 南口は車の出入りがしやすい大きなロータリーがあって、わたしのように車を待つ人 ――ちょっと年上だったり、同い年ぐらいだったりの女性が、滑り込んでくる車を笑顔で迎えて、一人、また一人と約束をしていた人の元へと小走りに駆けていく。その笑顔はみんなとても明るくて幸せそう。
 これから好きな人と一緒にいられて、もっと幸せな気持ちになるんだろうな、と思うと自然と嬉しくなっていく。そして、そう間を置かずしてわたしもその一人になるのかなと考えるだけでそわそわと落ち着かない気持ちになるし、家族や仕事以外で男性が運転する車に乗るんだと思うとドキドキが止まらなくなる。
 ――あぁ、本当に落ち着かない! 心臓、凄くバクバクしてるし……っ。
 今日の車の運転手は司さんで、わたしたちは今から二時間近く時間をかけて西のほうに温泉旅行に向かう。旅行と言っても前から綿密に計画を立ててのものではなくて、数日前に急に決まったものだった。
 一泊だけの小旅行。だからわたしの手には旅行と呼ぶには小さすぎるバッグが一つだけ。いつものデートよりちょっと多いメイク道具と着替えがちんまり詰まっているくらいで殆ど重さを感じないんだけど、その分、期待と喜びがたくさん詰まっている大事なバッグだ。
 これから一日のことを思うと自然と笑みが浮かんで止まらなくなる。
 そっとバッグからスマホを取り出して時間を確認すると、約束の五分前。司さんそろそろ来るかな? と持ち手を握り直した――そのときだった。
 白い車が一台こちらに近づいてきて、わたしが立っている前のあたりでハザードランプを点滅させて止まる。車に疎いわたしでも、その車が高級車で有名なメーカーのものであることぐらいはわかる。
静かに開いた窓からは司さんが軽く手を挙げているのが見えた。
「あっ」
 ドキン、とひときわ大きく高鳴る胸を手で押さえる。押さえたら少しは大人しくなってくれるのかと思いきや、その逆で顔が熱くなっていく。
 ――落ち着いて。落ち着かなくちゃ。だってこれからなんだよ。
そう自分に言い聞かせて、わたしは笑顔で手を振り返して小走りで車に近づく。
 アスファルトを踏みしめながら思う。さっきの彼女たちも嬉しい、幸せという気持ち以外にこんな風にドキドキしたのかな、って。
「やあ。待たせてしまった?」
「う、ううん! まだ時間前だから全然」
 落ちてくる髪を耳に掛けながら窓を覗くと、司さんが少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「本当は下りてエスコートしたいところなんだけど、どうやら後続車があるようだから、乗ってもらってもいいかな」
 そう言って、こちら側に身を乗り出してドアを開けてくれる。
「はい。えと……じゃあ、お邪魔します」
 僅かに開いているドアをさらに開いて、高級感あふれる革張りのシートに座る。
平気な顔をしているけど、「うわぁ! うわぁ!」と言いたいくらいくらいにドキドキは最高潮で、額にじんわりと汗が浮かぶくらい体温が上昇している。
 ――だって……だって、しょうがないよ。こういうの初めてなんだもん。
 シートベルトをつけて、ぴたりと膝と膝を合わせ、その上に乗せたバッグの取っ手をきゅっと握る。なんだろう、ドキドキは止まらないし緊張するし、これで二時間も持つのかな。
「あ、あの、司さん、今日は一日よろしくお願いします!」
 深く頭を下げると、司さんがクスッと笑ってハザードランプを解除する。ボタンを押す指にまで胸が高鳴る。
「まるで新人の付き人みたいだな」
「あ、確かにそんな気分かも」
「ははっ、俺も似たような感じ。人気アイドルを乗せる新米運転手みたいな気分だ」
「んっ、人気アイドル……?」
 まさかと思いつつも自分のことをそおっと指差すと、司さんが笑顔のまま頷く。
「そう。というわけで、細心の注意と安全運転を心がけるので、一日よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
 二人で笑い合うと、司さんが「それじゃ、行こうか」とブレーキから足を離すとゆっくりと車が動き出す。高級車なだけあってとても静かで滑らかな滑り出しなんだけど、この車って司さんのものなのかな。だとしたら凄い。
「この車は司さんのなの?」
「いや、これは実家で共有している車なんだ。ただ、父や母にしても、それぞれ自分の車があるから実質上、俺の専用みたいな感じになってるのかな」
「そっか。凄いなぁ。クルーザーも運転できて、乗馬もできて、車の免許も持ってるなんて。よくドライブしたりするの?」
 司さんってホントになんでもできちゃうんだなぁ。実は他にも色々資格を持っていたりして。わたしも車の免許は一応持っているけど、調理師免許以外に履歴書に書けるものと言ったらそれぐらいしかない。
「事務所の寮に入ってからは実家にもあまり戻らないし、運転することは滅多にないかな。だから少々自信が……」
 と、急に口調が弱くなってきたのでわたしは驚いた。
「えっ。えっ!? あっ……じ、じゃあ何かあったらわたしが代わろうか!?」
 配達するときに運転する程度だけど、普通に運転は出来てるから多分、大丈夫だと思う。
 すると司さんは小さく噴出してわたしをちらっと見る。
「なんて冗談。大丈夫だよ、君を心配させない程度には普通に運転できるから」
 肩を揺らして笑う司さんにわたしは頬を膨らませる。まったくもう、ちょっと心配してしまった。
「もうっ、からかうの禁止! ……でも、ちょっと安心したかも」
「さすがにペーパードライバーの腕前で長時間、君を乗せようとは思わないよ」
 司さんは笑みを浮かべながら前を見て運転しているけど、ふと疑問に思ったことが一つ。やっぱりこれは聞いておかないと。
「実は誰か女の子乗せてたり……?」
 じっと横顔を見つめると、流れる景色を背景にして司さんは横目で一瞬わたしを捉える。
「誰かを乗せるのは君が初めてだよ。だからかなり緊張してる。伝わらない?」
 はにかむ横顔にわたしは目を細めた。わかっていても聞きたいこと、確認したいことというのがある。別に心から疑っているわけでも信頼していないわけでもないけれど、言葉にして欲しいことってあるんだな、と司さんと出会ってから思ったことだ。それを今、司さんの口から聞けて嬉しい気持ちになる。
「……よかった。わたしも、家族やお仕事以外で助手席に座るのって初めてなの。だから司さんが迎えに来てくれる前からすごくドキドキしてた。今もだよ」
 信号が赤に変わり、車が静かに止まる。少し先にある横断歩道をたくさんの人が行き交う。今は一般道を走っているけれど、途中から高速道路を走ると司さんは言っていた。そうじゃないと時間ばかりかかってしまうから当然かもしれない。
混んでなければいいな、なんてことをまだ落ち着かない胸に手を当てて考えていると、不意にこちらに身を乗り出してきた司さんがわたしの唇にキスをする。
「えっ。ちょっ、司さん!? ひ、人が近くにいるのに」
 前後左右と車が信号待ちで止まっているし誰が見ているかわからないのに、と驚きと恥ずかしさが入り混じった気持ちで司さんを見つめると、彼はふっと目を細める。
「思うほど気にしてないと思う。……それに、君の言葉を聞いたらちょっと我慢ができなくて」
 この狭い空間は思っている以上にいいな、と司さんは満足そうだけど、こんな風に頻繁にキスをされたら心臓が持ちそうにない。
「うぅ……。ま、前を見て、運転に専念してください運転手さん」
「ははっ、真っ赤だ」
「イジワル……」
 じわじわと耳が熱くなるのを感じながら、恥ずかしくてずるずるとシートに身を預けると、「あぁ、そうだ」と言って再び司さんが身を乗り出してくる。それも本格的に。
「わっ、な、なに!?」
 思わず両手で頬を覆うと、再びキスをされるのではなく、伸びた腕がわたしの腿の上を通過して座席の横の方を指差す。
「シートの調節はこのスイッチを押すとできるから、どうぞご自由に。適当に試してみて」
 言って、再び姿勢を戻して前の車に続いてアクセルを踏む。
「へ? あ……えと、う……。ハイ……」
 何かされるんじゃないかと思っていたわたしは肩透かし――じゃなくて、気の抜けた声で返事をしたんだけど、クスッと笑い声が聞こえたので司さんの横顔を見ると、堪えきれないといったように肩を震わせている。というか、司さん……声を殺し切れてないんですけど。それどころか段々クスクスが大きくなってるんですけど!
「し、仕返ししちゃうから」
「どうぞ?」
 さらに笑っている姿を見ていて思う。こんな司さん滅多に見られないかもって。それだけ心を許してもらえてるのかなと思うと嬉しくなるけど、でも……でも今は恥ずかしさと悔しさがどうしたってその気持ちを上回る。
「あっ、甘く見てる。本当に、絶対にしちゃうよ!」
「ああ、かかって来い。待ってるよ」
 待ってるよ、が優しくて、ああダメだ司さんに本当に甘く見られてるとわたしは思った。馬鹿にされている方の意味じゃなくて、何でも受け止めてくれちゃう「甘さ」だから弱い。それに、笑っている横顔がとても楽しそうで、幸せそうに見えるから、胸の奥をくすぐられるような気持ちになる。
もっとこの笑顔を見ていられたら、と欲張りにもなっていく。
 ――もし、司さんがわたしにしてくれたことを司さんにしたらどうなんだろう。わたしは……恥ずかしかったけど嬉しかった。だったらその逆は?
 凄く恥ずかしいけれど、小さく息を呑んで決意した。そして、前を向いて楽しそうに運転をしている司さんへと少し身を乗り出し、その頬に一瞬だけ軽くキスをする。触れるだけの小さなキス。あとはもうシートにもぐりこむようにして体を埋めた。
「えっ」
 司さんは目を丸くしてわたしと前とを忙しく見てわたしがキスした頬を手で触れる。
「し、仕返しという名のお返しです」
「え……あ、ああ。それは……どうも、ありがとう」
 じわじわと耳が赤くなっているのが横で見ていてはっきりとわかり、わたしはどうしたって吹き出すのを堪えきれない。
「ふふっ、耳が赤いよ? 司さん、可愛いかも」
「まったく、してやられた気分だよ。……まあいい、今に見てろ?」
 クスッというよりニヤリと言ったほうが近い笑みを浮かべる司さんに嫌な予感がした。ど、どんな仕返しが待ってるんだろう。




本文へと続く


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