ときメモGSシリーズ

てのひらに世界【設主】



 ピアノを弾く人の手は大体大きい。
 そう設楽は言ったし、設楽自身の手も美奈子よりはるかに大きかった。
 体格が大きいわけでもないし、手だってごつごつしているわけでもない。
 けれどその手はちゃんと男性の手であって、美奈子の手をすっぽりと包んでしまうほど大きく、温かかった。
 学生の頃から彼と共にあり、お互いを思う気持ちがやっと一つになったばかりのこの秋、設楽は日本の地を離れ、遠くヨーロッパの地へと羽ばたく。
 出会ったばかりの頃は愛想のなさ、そっけなさ、そして突き放すかのような口調に気難しさを覚えたものの、それでも「知りたい」という気持ちが美奈子の気持ちを駆り立てた。一歩ずつ近づき言葉を交わし、彼の音楽――ピアノの音色を聞くうちに、少しずつ彼を知るようになった。
 無愛想だけど、さりげなく手を差し伸べてくれる人。
 そっけない言葉や態度を取るときほど、彼の気持ちは反対を向いていること。
 納豆を思い出すのも嫌だと顔をしかめる程のかわいい好き嫌いがあること。
 そして、本人が気がつかないほど彼がピアノを愛していること。
 彼はピアノを辞めるためにはばたき学園に入学したと言った。
 神童と呼ばれ、ピアニストとしての道がいつでもすぐそばにあった彼の前に、ある日のコンクールで大きな壁が立ちはだかった。いつも一番という栄光を手にし、神童と呼ばれた彼につきつけられたのは、彼よりも上のレベルの者がいたこと。一位には手が届かなかったのだ。
 きっと彼を取り囲んでいた者も思っただろう。「勿体ない」「一度のことだ」「諦めるな」「これも一つの試練だ」――と。けれど彼の気持ちは壁に向かうことよりも、ピアノから遠ざかる方向へと向いてしまった。
 幼い頃からピアノと共にあり、音楽は自分の周りに当然あるものだと思っていた彼に訪れた挫折。自分を上回る技術やセンスと言った形にならないもので追い越されてしまったときの敗北感や、屈辱、喪失感はどれほどのものだったのだろう。言葉に表すことのできない様々な気持ちがどれだけ彼を覆い尽くしたか、美奈子には想像もつかないほどだ。
 そんな風にピアノを諦めようとしている彼に美奈子は出会った。
 きっかけは教室まで届いたきれいなピアノの音色。以前からピアノの上手い先輩がいるとは聞いていたけど、一度も会ったことがなかった。
 何気ない好奇心が美奈子の足を音楽室へと運び、そこで初めて設楽を見た。
 楽しそうとも辛そうとも見えない表情だが、聞こえる音色は悲しいほど美しく、やけに胸を打ったことを今でも忘れていない。
 あれからピアノの音色が聞こえる度に音楽室へと出向き、あからさまに「なにしに来た」「迷惑だ」「邪魔だ」といった感情を向けられても、部屋の隅、下手をすれば廊下からその音色に耳を傾けた。
 どこか悲痛さが感じられなくもないけれど、無愛想な彼とは真逆の優しく柔らかい音色は、時を忘れていつまでも聞いていたくなるほど。
 あまりにしつこく音楽室に通い続けたものだから、根負けした設楽が「そんなすみっこで聞くような音じゃないつもりだ」と憮然とした顔で言い放ち、美奈子の手を掴んではグランドピアノのすぐそばの椅子に座らせてくれた。
「……リクエスト」
 ぶすっと言い放った言葉が美奈子に対してのものだったと気付くのに少し時間が要った。
 まじまじと見つめると、その頬を少し赤らめて「何を弾いてほしいのかと聞いてるんだ!」と言った。
 クラッシック、ましてやピアノ曲がまるでわからない美奈子は戸惑ったのだけど、何か言わないと追い払われてしまいそうなその横顔に、美奈子は思い切って口を開いた。
「じゃ、じゃあ、猫ふんじゃったをお願いします!」
 このときの設楽の顔は生涯忘れることがないだろう。
 目を丸くし、口をぽかんとあけていた。整っている顔立ちが面白い具合に崩れている。それこそ鳩が豆鉄砲を食らうというのはこの表情がぴったりなのではと思うほどだった。
「……お、おまえ、俺をなめてるのか!」
「わっ!」
 ばあん、とピアノが派手に鳴った。イライラしているのはその声の震えから伝わってくる。が、美奈子としては冗談で言っているわけでもなく、本当にそれしか浮かばなかったからだ。
「え、えっと、ごめんなさい! 本当にそれしか知らないんです! 今度いっぱい勉強しますからっ!」
「あのな……今まで何のために俺のピアノを聞いていたんだ! 廊下にいたのは赤点を取って立たされてたからか!? 音楽室の隅にいたのはおまえの生き霊か? ドッペルゲンガーか!」
 まくしたてる設楽に、美奈子はただただ身を縮こまらせた。
「ど、どっぺる? あの、その……きれいだからずっと聞いていたいって思ってただけで他に意味なんてなくて、ただ素敵だったから……っ! あ、あの、ごめんなさい!」
 ――本当にごめんなさい!
 肩を精いっぱい竦めてひたすら謝っていると、ややあって深いため息とともに、美奈子にも馴染みがある曲が流れ始める。リクエストをした曲だった。
 けれどそれはよく弾かれているあのシンプルなものではなく、教会の鐘のようにいくつも音が重なるものだった。主旋律は変わらないものの大幅なアレンジがされていて、もし途中からこの部屋に入って来る者が聞いたら、誰もが知っているあの平凡な猫の曲だとは思いもしないだろう。
 音符が弾むというのをこのとき美奈子は初めて知った。そして、リクエストはと設楽に問われればこの曲ばかりを頼むようになったのもこの日からだった。
 それがもう三年も前の話になるなんて。
「……どうした?」
 搭乗口へと向かう前の僅かな時間。暫くは会えなくなる恋人が怪訝そうに尋ねてくる。
「猫ふんじゃった、聞いておけばよかった」
 美奈子が小さく笑うと、設楽はああ、と懐かしむように目を細める。
「俺にあんな変わったリクエストしてくる奴は、おまえが初めてだったな」
「わたし、あれ大好きだった。……いつも聖司先輩に弾いてもらったなぁ。仕方ないって顔をしかめながら弾いてくれるのが、すごく嬉しかった」
 いつだってそうだった。
 あそこに行きたい、ここに行きたい、あれが食べてみたいと好奇心旺盛な自分に、設楽はなんだかんだ言いながらも付き合ってくれた。仕方ないと不貞腐れた顔をしても、いつの間にかその表情を和らげては隣で笑ってくれていた。
 それが明日からは遠くなってしまう。
 怒った顔も、笑った顔も、年上の割にはよく拗ねるところも全部大好きなのに、それをすべて連れて彼は海を渡った向こう側に行ってしまう。
 留学をすると言った彼には迷いがなかった。音楽を学ぶには日本は環境も講師も整ってはおらず、いつかはそう言われるであろうと美奈子も覚悟はしていた。無理もない、かつては神童と言われ、当然のように『世界』が目の前にあった人なのだから。
 恋人ができたから日本にとどまる、なんていう安いメロドラマのようなことも少しは憧れたりしたけれど、自信を満ちた表情と凛と煌く瞳を見ていたら、そんな安いドラマチックな道はどこにも存在しないのだと早々に諦めた。
 桜の時を風のように駆け抜け、夏の暑さを少しばかり残したこの季節が来るのは本当にあっという間だった。ただいつものように過ごしてここまで来てしまったような気がする。
 離れて暮らすけれど何も変わらない。そう設楽にも言われたし、自分にも言い聞かせていた。だから特別変わったことをしようとはお互いに思わなかった。
 手をつないでいつものようにデートをし、まだちょっと不慣れなキスをして照れたように笑い合う。家の前でまたねと振るこの手も、彼の後姿も何一つ変わらなかった。
 けれど、この状況がだめなんだと美奈子は実感した。空港という多くの人が行き来をする場所。見送られる人も見送る人も、はたまた一人で旅立つ人の姿がぐるりと自分達を囲む。
 気を抜くとうっかり涙が出てしまいそうで、美奈子は精一杯笑いながら彼を見つめた。
「たまには帰ってきてね。……ううん、ちゃんと帰ってきてください」
「……そうだな。まとまった時間を作れるよう努力する」
 ああずるい。そうやって笑わないで。こんなときだけ優しいのは卑怯だよ。
 頻繁に帰ってくること。彼と会う時間が一年に数回でもあること。それらが簡単なようでも叶わないことを美奈子はよくわかっている。設楽もそれを十分すぎるほど理解しているはずだ。なのにいつものように「無理だ」と一蹴することはせず、優しく言うのがずるい。本当に叶わないことのように思えて悲しくなる。
 その気持を押し隠すようにして交わした言葉達を、美奈子は殆ど覚えていない。しばらく会えなくなるのだからたくさん話をしておかなくちゃ、と思えば思うほどどうでもいい言葉だけが唇からこぼれ落ちる。
「ホントによくしゃべる奴だな。そんなに慌てて話さなくたって大丈夫だ」
 設楽は笑うけれど、黙っている時間がもったいないような気がした。
「だって……!」
 頬を膨らませる美奈子を、設楽は真っ直ぐに見つめる。
「話したくなったら、逢いに来い」
「え……」
「じき来るんだろ、おまえも」
 何度も言われた言葉。設楽は美奈子が留学することを望んでいる。大学に入学して半年もたっていないし、第一簡単に答えが出せる問題ではない。語学は勿論、何を目指して海を渡るのかを目標に持たなければ彼に寄りかかるだけで終わってしまいそうな気がするからだ。
 支え合えるパートナーがいることは何よりも強みになるけれど、それだけでは済まされないことがきっとあるだろう。未成熟ではあるけれど、美奈子にだってそれぐらいのことは想像がつく。だからただ黙って海を渡ることはできない。簡単には「うん」とは言えない。
 躊躇ったままで口を噤むと、設楽は苦笑して美奈子の手を取る。ぎゅっと握られた指先はほんのりと温かい。
「おまえ、正直だよな。ここでうんって頷けば無理やりにでもさらって行けるのにな」
「聖司先輩……」
「まあ、そのうち黙っててもおまえが付いてきたくなるように頑張ってみせるさ」
 自信たっぷりの笑顔。こういう風に笑うのがとても好きだというのをこの人は知っているだろうか、と美奈子は笑みを返しながら思う。
 搭乗のアナウンスが柔らかく響き、握られていた指先が自然と離れる。
「そろそろ行くか……」
 二度と会えないわけじゃない。
 永遠のさよならなんかじゃない。
 なのにさっきから得体の知れない何かが胸を刺す。苦しくて、息が上手に出来ないくらいの痛み。
 ばかだな、先輩が言うみたいにわたしから会いに行けばいいだけだよ。
 わかってる。……わかっているけど、最後にもう一度。
 美奈子はもう一度設楽の手を取った。そして、かつてしたように設楽の掌と自分の掌を合わせる。
 一関節分は余裕で違う大きな手はあの頃と何一つ変わっていない。けれど、この手はこれから大きなものを掴むだろう。努力と時間を引き換えに彼が望む素敵なものを、この手はきっと掴むはず。
「……聖司先輩の手は相変わらず大きいなぁ」
「いきなりだな」
 始めは驚いていた設楽だったが、いつかと同じように手を合わせたままするりと美奈子の指先を掴む。こうしていると制服の頃のあの思い出がよみがえる。音楽室から見えた景色もよく立ち寄った喫茶店もすべて。
「……頑張ってきてね」
 懐かしくて、きらきらと輝いていたあの頃がとても眩しく見える。時の輝きはその中にいる時にはけして気づかず、通り過ぎてから気づく大切な輝きなのだと美奈子は思う。
 けれど、これからの未来もあの頃に負けないくらい輝くはず。今はちょっとのさみしさに涙が溢れそうになるけれど、それらを乗り越えて待つ未来で今を愛おしく思える自分がいるよう努力をしたい。
「この大きな手で、世界を掴んできてね。そして、帰ってきたら……帰ってきたら――」
 もう一度、こうしてください。
 もう一度、わたしと手をつないでください。
 そして、いろんな話を聞かせて。
 もう一度あの大好きな猫の歌を弾いてくれますか?
 そう言おうとしたけれど、その言葉は急に抱きしめられた強さに消されていく。
「馬鹿。笑いながら泣くな。そんな風に泣くなよ。……俺まで泣きそうになるじゃないか」
 馬鹿、ともう一度言われ、抱きしめられたまま珍しくぐしゃぐしゃと乱暴に髪を撫でられた。時折声が詰まったのは、設楽にもこみ上げる想いがあったからだろうか。
 だとしたら、もうちょっとこのまま引き留めたい。できることならずっと傍にいてほしい。
 言葉にできない思いを、背中に回す手に込める。
「泣いてなんかないよ。……違うよ」
 じゃあ頬を流れるものは何なんだろう。自問しながら美奈子はぎゅっと目を瞑る。
「待ってろとは言わない。俺はそこまでお人よしじゃない。だからあえて言う。何度でも言う。……追いかけて来い。俺を追いかけてこいよ」
 暖かいものが伝わり落ちていくのを感じながら、最後に囁くような声を聞いた。
 ――俺にはどうしたっておまえが必要なんだよ。
 急に大きく聞こえ始める周囲の雑音。アナウンス。それらすべてを心の中でシャットアウトさせて願う。
 ――神様、一つお願いがあります。
 わたしの小さなてのひらでも精一杯伸ばせば届くこの人と、どうかもう少しだけこうさせて下さい。
 行ってらっしゃいを言う前に、もう少し。

 今だけ時間を止めて。



End.
2010.8.23UP(Pixiv)
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