ときメモGSシリーズ

君の声が届く場所【葉主】



 ずっと先の話かと思っていた両親の旅行が明日だと改めて聞かされたとき、わたしはとても驚いた。
 確かに学校が終わってからバイト先――アルカードに直行し、家に帰ったら帰ったで疲れきって最近ではちゃんとお母さんと話をしていなかったけど、それでもまさか明日に迫っているだなんて気づきもしなかった。
「そんなわけだからひなた、尽の分もちゃんと晩ご飯作ってあげるのよ。もう高校二年生なんだからそれぐらいできるわよね」
 お母さんは確認するように、そしてちょっとだけ心配そうにわたしを見る。
 もうっ、大丈夫だってば。尽との二人分ぐらい簡単に作れますよ、だ。
「……はーい」
「あと、戸締まりもちゃんとしてね? ガスを使ったらちゃんと火の用心して確認してね」
「はいはい。わかりました。ちゃんとするからまかせてよ」
 今日はバイトがないのをいいことに、学校から帰ってきて早々わたしはリビングにあるソファーにごろんと倒れこみ、見る気なんてちっともない再放送のドラマなんかをぼんやり眺めていた。もちろんお母さんへの返事も生返事。
 明日だというのは確かに驚いたけど、小さな子供に言い聞かせるように始まった『家での留守番の心得』みたいなのは、さすがにちょっと聞き流したい。
「まったく……ちゃんと聞いてる?」
 ため息をつきながらお母さんはわたしを軽く睨むけど、その時向かいのソファーで携帯型ゲームを熱心にプレイしていた尽が口をはさむ。
「ねえお母さん、ちょっとだけお小遣い置いていってよね」
 視線は携帯ゲーム機に向けたまま、せわしなくボタンを叩きながら尽は言う。
「お小遣い? あら、何に使うの?」
「言っとくけど、お菓子を買うからじゃないよ。ねえちゃんがちゃんとご飯作ってくれなかったときのための、コンビニ弁当代だよ」
「えっ、なにそれ! かっわいくない!」
 お母さんが何か言うよりも早く、わたしは頬を膨らませた。
「だあって、本当のことじゃん! おれ、失敗してコゲコゲになった玉子焼きとか食べたくないよ」
「玉子焼きぐらい余裕で作れます〜」
「でも、このまえ砂糖をどばっと入れすぎてゲキ甘卵焼き作ってたじゃん」
「そ、それはこの前の話じゃない」
「多分、次もやるね、絶対に」
 一瞬だけ顔を上げて、尽はにやっと笑う。
「む〜っ」
 この子――弟の尽はまだ小学生なんだけど、小学生の癖に妙に気が利く弟で、だけどひと言余計なことや余計なアクションを起こすのがたまにキズでもある。
 でも、そのアクションを起こしてくれたおかげで、わたしはクラスメイトでもあり、バイト先の贔屓のお客さんでもある葉月くんの携帯番号を知ることができたわけなんだけど、それでも、今みたいに可愛くないことばかり言ってわたしをからかったりするのが殆ど。そのたびにわたし達はちいさな小競り合いをする。
「……そうねぇ。確かにこの前の卵焼きはちょっとお砂糖が多すぎだったわよねぇ」
「お母さん!」
 話がいつの間にか卵焼きへと移り、母には念を押されてしまった。「本当に大丈夫よね?」と。
 まったく! 大丈夫だって言ってるのに、全部尽が余計なことを言うからだ。
「大丈夫ったら、大丈夫! 朝だってちゃんとご飯作るし、お弁当だって用意しちゃうんだから!」
 わたしはテレビのリモコンを手にし、ブツッと電源を消して立ち上がる。もちろん部屋に戻るためだ。
 背後では「無理だと思うけどな〜」と尽がためいき交じりに呟くけど、無理なんかじゃないもん。
 がんばれば、きっと大丈夫!
 そう思いながらわたしは派手に足音を立てて階段を上った。


 朝起きたときに家の中が妙に静かなのは、お父さんもお母さんも早い時間に家を出ていったからなんだと思った。
 眠い目をこすりながら近くにある目覚まし時計を見てほっと息をつく。
 寝坊もしていない。それどころか目覚ましが鳴る前に起きることができた。
 ――うん、イイ感じ。やればできるんだよね、やれば。
 布団の中でにんまりと笑ったわたしだけど、ふと気がつくことが一つ。
 これからお弁当を作るとしたら、一体何時に家を出られるのだろう、と。
 だってわたしが起きた時間はいつもどおりにセットした時間であって、そこにはお弁当を作る時間など当然組み込まれていない。
 お弁当を作れない。すなわち朝食さえも作る時間がないということだ!
「うそっ!?」
 慌てて飛び起きてもう一度確認をするけれど、やっぱりいつもどおりの時間で、どう頑張っても身支度する時間と、「用意されてある朝食を食べる」時間しか残されていない。
 もちろん朝食など用意されてはおらず、いつもお母さんがやってくれたことを今日から二日間わたしがやらなくちゃいけなかったのだ。
「やだっ、朝ごはんナシ!? ちょっと、勘弁して〜!」
 慌てて制服に着替えてどたばたと階段を下り、まずは洗面所に直行すべく足を踏み出したときだった。
 視界の端に台所。そして、こちらに背を向けるようにしてテーブルについている尽の背中も目に映る。
「……あれっ?」
 今、テーブルの上に何か見慣れたものがあったような気がする。
 こんがり程よく焼けたトーストと目玉焼き、そしてヨーグルト。いつもの朝食三点セットだ。
「ねえ、尽。……今日からお母さんたち旅行だよね?」
 小さな背中にそう声をかけると、トーストを頬張りながら椅子の背に腕をかけて尽が振り返る。
「うん、今日からだよ。始発に近い電車で出かけるって言ってたじゃん」
「だよ、ね。……なのに、なんであんたはトーストとか目玉焼きとか食べてるの?」
 まさか、お母さんが用意していってくれた、なんてないよね。
「なんでって、コレ、ねえちゃんが作ってくれないからおれが作ったんだよ。朝ごはん食べないと力が湧かないからね」
 手にあるトーストの食べかけを大きく頬張り、ごちそうふぁまー、と言っては空いたお皿を流し台へと運ぶ。
 残るは何も残っていないテーブルと、台布きんのみ。つまり、わたしの分はナシ。
 当然といったら当然なんだけど、それでもトーストの一枚ぐらい余分に焼いてくれたっていいのに。
「ええっ、ちょっと尽! 自分の分だけしか作らなかったの? わたしの分は?」
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いだそれをごくごくと飲んでいる尽にそう言うと、尽は呆れた顔でわたしを見た。
「なに言ってんだよ、ねえちゃん。昨日自分で作る、弁当だって用意する! って興奮気味に言ってたのはねえちゃんだろ」
 うっ。確かに言いました……。
「だ、だからって……」
「第一、小学生のおれに朝食を作らせようなんて、甘いっ。姉ちゃんが作ったチョイ焦げのゲキ甘玉子焼きのように甘い!」
 飲み干したコップを流し台に置き、べー、とわたしに舌を見せては、床に置いてあるランドセルを拾って玄関へと走っていく。
「なっ! こ、こらっ、尽っ! 待ちなさいっ」
「トロいねえちゃんを待ってたら遅刻しちゃうよ〜だ」
 憎まれ口をきき、いってきまーすと元気よく残して尽はばたばたと出て行ってしまった。
 しん、と静まり返った部屋で思うこと。それは――。
「……ハッ。いけない! わたし、本当に遅刻しちゃうよ!」
 顔も洗ってないし、髪だってあちこち跳ねてる。全然身支度が整っていないのだった。


 慌てて身支度を整え、からっぽの胃にコップ一杯の水を流し込み、つま先をトン、トンと鳴らしながら玄関の鍵をかける。
 朝起きてから何処も部屋の窓は開けていなかったので戸締まりはこれでOK。あとは駅を目指してひたすらかけていくだけ――だったのだが、五十メートルぐらいダッシュをしたところで、ガスの元栓が気になり、再び来た道を折り返す。
 ――そうだ、尽のやつ、目玉焼きなんて食べてたもの。ちゃんと火は消えていたけど、緩くガスが漏れてたなんてなったらシャレにならないよ〜!
 ゼイゼイと息を切らして家に戻り、再び鍵を取り出す。
 靴を脱ぐ時間さえも惜しかったのだけど、もたもたしながら家に上がってガスコンロを確かめると、ガスは案の定ちゃんと止まっていた。気になる時に限ってこういうものなのかもしれない。
「よ、よかったぁ……」
 安堵の息を吐くのもつかの間、今度こそ遅刻をしてしまう。
 わたしはまた慌てて駅までの道を走った。
 走りに走ったせいもあり、始業のチャイムに間に合うぎりぎりのバスに乗ることができたのだけど、そこからが勝負だった。
 なにせ朝食を食べずにひたすらダッシュをしたのだ。二時間目の授業の途中から早くもお腹が切ない鳴き声を上げ始め、何も聞こえないふりをしてくれていた葉月くんがとうとう「プッ」と吹きだし、こっそりキャラメルを分けてくれた。苺味のキャラメルだ。
 葉月くんに苺味のキャラメル!? と頭のどこかで思ったけれど、今はそんな小さな疑問より目の前のキャラメル。ちょっとでもカロリーがあるものはとても嬉しい。今日始めて口にする食べ物だ。
「ありがとう」
 恥ずかしいやら、情けないやらで彼にお礼を言うと、葉月くんは小さく笑ってポケットを探り、箱ごとわたしに差し出した。
「これ、食べていいから」
「えっ?」
 聞き返すと、それまでチョークを片手に背を向けていた先生が「誰だ、おしゃべりをしている奴は」と振り返ったので、わたしは慌てて口をつぐんだ。
 代わりにノートの切れ端を使って会話を続けた。
「いいの?」とわたしが返すと葉月くんは「撮影の時、スタッフから貰った。というより、半ば押し付けられた」と綺麗な文字で書いて寄こす。
 押し付けられた、だって。……うん、なんか渋々ながらも受け取った葉月くんの顔想像つくかも。
「だから、苺味なんだね?」
「好きじゃない?」
「ううん、好き。ただ、葉月くんに苺味ってなんかぴんとこなかったから、ちょっと笑いそうになっちゃった」
「なんだそれ」
 わたしたちは目を合わせ、それから肩を竦めながら二人してこっそり笑った。そして、全部貰ってしまうのが申し訳なかったから、葉月くんにも幾つかおすそ分け。
 小さな包装紙を解くと、薄いピンク色のキャラメルが一つ。
 先生にわからないようにして口に含むと、おなじみの味が甘く広がっていく。
「おいしい! ありがとう。今日、朝から何も食べてなかったから、とても助かるよ!」
「寝坊か?」
「ううん、普通どおり。ただ、今日から両親が旅行にでかけちゃったから、ご飯を作る時間がなくて。だから今日のお昼は購買のパン決定なんだ」
「そうか」
 先生の様子を窺いながら、そんなやり取りをこそこそと繰り返していたのだけど、わたしはふと思いついたのだった。
 もしよければ、今日のお昼、葉月くんも一緒にどうかな、って。
 いつもお母さんがお弁当を作ってくれていたから、仲のいい友達と机を寄せ合いながらランチを食べていたけれど、今日は久しぶりに購買へと足を運ぶ予定。
 友達には前もって「今日はごめんね」と伝えておけば大丈夫だ。
 ちょっとだけドキドキしながら「あのね、今日のお昼なんだけど」と書き始めたところで、急に先生が葉月くんではない方の、わたしの隣の男子を指名した。
 急に指名された男子は、先生の質問に「わかりません」としどろもどろに答えたのだけど、先生はあきらめることなく隣にいるわたしを次に指名したのだった。
 幸いすんなりと答えられたものの、途切れた話の続きはもうできなかった。たとえ紙でのやりとりとはいえこれで終了。
 葉月くんは何事もなかったように頬杖をついて机へと視線を落としているから、わたしもそれ以上何も言えなくなってしまった。
 鳴らなくなったおなかとは対照的に、今度は残念のため息が何度も零れた。
 本当に残念。折角お昼を一緒に食べられるかも、と思ったんだけどな……。


「じゃあ、わたし、購買でパン買ってくる!」
「いいパン残ってるといいね」
「うん!」
 四時間目の終業のチャイムが鳴ったと同時に教室がざわめく。数学の授業ではこうはいかないけど、いったん湧いた教室を鎮めるのは大変なことだと先生もわかっているせいか、仕方ないな、という顔で授業を終わらせる。
 わたしも今日ばかりは急いで購買に行かなくちゃ。
 もたもたしていたらパンを買いそびれてしまうし、もしそうなったら朝食に引き続き、お昼まで「食いっぱぐれ」てしまう。それだけは勘弁したいところだ。
 小走りに廊下を走り、別棟にある購買に近づくと、そこではもうすでにたくさんの生徒が詰め寄っていて、黒だかりと化している。
「うわー……。この中を突進していくの?」
 遠巻きに見ていたのだけど、そうしている間にもどんどん人が集まってきている。
 毎日この小さな戦争が起きているのだから、さすがにる程度の数は揃えているであろうけど、どうせなら好みのパンを手に入れたい。……そうなると、これはもう戦うのみだ!
 お財布を両手で握りしめ、ごくっと息を呑んで戦闘体勢を整える。
 ――よし、行くぞ!
 勇ましく足を一歩踏み出したときだった。
「小川。おまえも今日、購買なのか」
 静かな声がすぐそばで聞こえた。もちろん、その声の主はわたしに苺味のキャラメルをくれた葉月くんだって確認しなくてもわかる。
「あれっ、葉月くんも?」
「ああ。自分のと、猫用のミルクを買いに」
 そう言って、黒だかりへと視線を向けるんだけど、その表情が些か困惑気味のようで、わたしはちょっと心配になった。
 葉月くんって、人がたくさんいるところが苦手だったような気がするんだけど……大丈夫かな。
「あの、さ。もしよかったら、わたしが葉月くんの分も一緒に買ってこようか? リクエストに答えられるかどうか微妙なところだけど、がんばって戦ってくるから! もちろん、ミルクも忘れないよ?」
 小さくガッツポーズを作って見せると、面食らったように目を瞬かせていた葉月くんが、ややあってその目元を柔らかくする。
「……いい。こんな人ごみの中をおまえに行かせたら、戻ってこられるかわからない」
「ええっ、そんなことないよ」
「戻ってきても、パンを買えてるかどうかだな」
「うっ……。そ、それはそうだけど」
 見事に指摘され、言葉を詰まらせていると葉月くんはぽん、とわたしの頭に触れる。
「リクエスト」
「えっ?」
「パン、何がいいんだ?」
 尋ねられるがままに「特製コロッケパンと、タマゴサンド」と答えると「わかった」と短く返される。
 そして、周りの皆より気持ち少し背の高い葉月くんの後姿をわたしは見守った。
 どうかもみくちゃにされませんように! って。……でも、それは杞憂に終わった。
 なぜなら、彼が人ごみの中にゆっくりと入っていくと、それまでパンの争奪戦に必死だった人たちが、ふと葉月くんの姿に気づくとほんの一瞬だけ「あ……」と驚いたような顔を見せ、それから僅かに身体の位置をずらすのだった。それが一人だけじゃなく、釣られて何人も。輪の中にいないわたしにはよくわかるんだけど、それはまるで……ええと、モーゼの十戒というか――。
「……葉月くんの、十戒?」
 ハァ、御利益ありそう……と深いため息をついているうちに、葉月くんはいつも通りの表情で、人ごみを器用に避けて戻ってきた。その手には猫たちにあげるミルクのほかに、わたし用のパンが二種類。
 そして……そして、葉月くんの分のパンは?
「ねえ、葉月くん」
「なんだ?」
「葉月くんの分は? ひょっとして、お弁当持ってきた?」
 葉月くんのご両親はお父さんの仕事の都合で海外に暮らしているって聞いた。そして、家の中を見てくれているのはハウスキーパーさんや、たまに顔を見せに来るいとこのおばさんだって。
 でも、わたしは葉月くんが毎日お弁当を持ってきているのを見たことがない。去年も同じクラスで、今年も運良く同じクラスだけど、一度も。
「ああ……別に、俺の分はなくてもかまわない。ただ、猫の分がないと、あいつら腹減らしてかわいそうだと思って」
 本当に何でもなさそうに言って葉月くんはビニール袋に入っているミルクへと視線を移す。
 俺の分はなくても猫の分、って……それじゃ葉月くんがお腹空いちゃうじゃない!
 わたしはさっき渡されたパンをそのままそっくり葉月くんに押し付ける。幸いまだお金を葉月くんに払っていないから、正確にはわたしのパンじゃない。
「小川……?」
 葉月くんは目を丸くしてわたしを見てる。なにやってるんだ? と静かに訴えているのがわかる。
「これ、返す。……だめだよ、葉月くん。確かに猫たちがお腹を空かせたらかわいそうだけど、わたしは葉月くんにもちゃんとお昼ご飯を食べてもらいたい。食べなくたって構わないわけないでしょ。だって、わたしなんて朝ごはん一食抜いただけでこの世の終わりがちょっと見えたくらいなんだから! ご飯は大事なの! だから、今度こそわたし、戦ってくる!」
「おい、おまえ……」
 一気にまくしてわたしは鼻息荒く人ごみを軽く睨みつける。
「……勝つ!」
 そして、数歩あるいたところで振り返り、葉月くんに「待ってて!」と残して輪の中に自ら突進した。


 白や茶色のぶちがある猫たちが一心不乱でミルクを飲んでいる近くで、わたしと葉月くんは建物の壁に背を預けて同じパンを食べている。
 そう、わたしは無事にパン争奪戦を勝ち抜いたのだった。それも、葉月くんに頼んだものと同じものをまた購入。少しは気を利かせればよかったものの、あの人ごみの中で勝ち抜くことだけを考えていたら、メニューなんてすっかり忘れちゃっていた。
 だから二人とも特製コロッケパンとタマゴサンド。そして、無我夢中で引っつかんできた飲み物はイチゴミルク。
 苺味のキャラメルを押し付けられた葉月くんは、今日もまたわたしによってイチゴミルクを押し付けられたのだった。
 パンも美味しく食し、仕上げのイチゴミルクをちゅー、とストローを小さく鳴らして飲んだあと、わたしは恐る恐る口を開いた。
「あのぅ……」
 「ん?」という表情を見せる葉月くんに、わたしは壁から背中を離し、背筋をちょっとだけ伸ばす。
「ご、ごめんね、勝手なことしちゃって! わたし、パンを押し付けたり、イチゴミルクを押し付けたり、ちょっとあつかましかったよね。おせっかいっていうか、その……傲慢、だったと思う」
 こうして言葉にすると、胸にちくっとくる。よかれと思ってやったことでも、葉月くんからしたらそうじゃないかもしれない。そう考えると、なんて勝手なことしちゃったんだろうって思わずにはいられない。
 食事を摂らないと確かに身体にはよくないけれど、その人なりのリズムというのがあるんだ。朝食を抜かしたらまるでパワーが出ないわたしがいるように、食べてしまうと逆にパワーダウンしちゃう人だっているし、それは人それぞれだ。
 なのに、わたしは勝手に決め付けて、押し付けて……。
「ごめんなさい」
 もう一度呟くと、「別に」と葉月くんは言う。
 葉月くんはよく「別に」と言うけれど、それはもうどうでもいいという投げやりなものなのか、それとも大丈夫だから、という意味なのか。
 その真意を確かめたくて思い切って視線を上げ、端整な横顔を見つめた。すると葉月くんはなんでもなさそうな顔をして静かに言葉を紡ぐ。
「あつかましくなんてない。むしろ……おせっかいな奴が一人いるくらいが丁度いいんだ、俺には」
「葉月くん……」
 わたしとおなじようにイチゴミルクを飲んでいる。
 そして、正面を見ていた彼の顔がわたしの方を向き、純粋な日本人にはない瞳の色が眩しそうにそっと細められる。
「俺のほうこそ、気を遣わせて悪かったな。……あと」
「なあに?」
「おまえがパンを買ってきてくれたから、俺、次からはレパートリーが増えそうだ」
 ――うん? レパートリー?
 目を瞬かせるわたしに、葉月くんは嬉しそうに笑う。
「コロッケパンも、タマゴサンドも美味かった。次もまたこれを買おうと思う」
「あ……パンのこと? ……な、なるほど! そう。そうなんだよ、タマゴサンドなかなかイケるでしょ? わたしもたまに購買のパンを買うんだけど、そのときは必ずタマゴサンドを買ってるんだ。パンもあまりパサパサしてないし、タマゴとマヨネーズの割合が丁度よくて、好みの味なんだよ。……って、葉月くんって、確か購買のパンをよく買ってるんだったよね?」
「ん? ……ああ」
「……ちなみに、今まで何のパンを買って食べてたの?」
 なんとなく怖い気もするけど、聞かずにはいられない。
「何って……普通の」
「うんうん、普通の?」
「食パン」
 ――あぁ……。
 がっくりと肩を落としたい気持ちになりながらも、葉月くんの言葉に耳を傾ける。
「毎日行くのが遅いから、それぐらいしか残ってないんだ。……あ、コロンとした丸いのもあったな。……確か、バターロール、だっけ。あれも、結構美味いんだ。ん……どうした、小川?」
「どうしたもこうしたも、葉月くんって、随分素朴な味を好むんだなぁ――……って、待って。毎日行くのが遅いって……じゃあ今日は、どうして?」
 だって、四時間目終了のチャイムが鳴ったあとすぐにわたしは購買に向かったんだ。そのあとそれ程間を置かずに葉月くんに声をかけられたはず。
 だから、早いうちに今日は購買に来ていたっていうことになるんだよね。……でも、今日に限ってどうして?
 じっと葉月くんを見詰めると、彼は何度か視線を揺らしたあと、僅かに眉根を寄せた。
「どこかのおっちょこちょいがまた食いっぱぐれたら、次はあげられる食い物がないから……だからだ」
「う、うん〜?」
 どこかのおっちょこちょいがわたしかどうかはわからないけど、食いっぱぐれとか、あげられる食べ物がないとかっていうのは、午前中のキャラメルのこと……だって思ってもいいのかな。
 っていうか、多分そうなんだよね……?
「そんなにまじまじと見るな」
「ご、ごめん。つい……」
「……いや、別に怒っているわけじゃない」
「あ、うん。……で、さっきのおっちょこちょいとか、食いっぱぐれって、ひょっとしなくてもわたしのこと?」
 怒っているわけじゃないみたいだから、まじまじと横顔を見ると、葉月くんは耳をちょっとだけ赤くしながら言った。「……別に」って。
 それを見て、わたしはちょっとずつ嬉しさが増してくる。胸の奥も変にドキドキし始める。
 だって、一応わたしのことを心配してくれてたっていうことだよね?
 だから葉月くん、購買の前でうろうろしていたわたしに助け舟を出してくれたんだよね?
 ――それってなんか、嬉しい。
 下手をすれば自分のことさえも気にかけない葉月くんが、少しでもわたしのことを心配してくれたっていうのが、とても嬉しい。
「……ありがとね」
 わたしの言葉に返事はないけれど、もう一度だけ言った。「本当にありがとう」と。
 そして、今なら言えそうな気がした。――明日のお昼もよかったら一緒にどうかな? って。
 今日は気がついたらこうして一緒に体育館脇まで歩いてきて、何気なく一緒にお昼を食べているけれど、もし明日も一緒ならいいな……なんて。
「あ、あの、葉月くん。明日のお昼なんだけどね、もし迷惑じゃなかったら、またこうして一緒に食べない?」
 ――うわ、言った!
 かあっと頬が熱くなるのを感じつつ、じっと葉月くんの言葉を待っていると、僅かに驚いたような声が耳に届く。
「……俺と?」
「うん。葉月くんと。……あ、えっと、猫たちも!」
 なんとなく恥ずかしくて、つい猫たちもと付け加えてしまった。
「授業の時にも紙に書いたけど、今日からうちの両親が旅行に出かけてるんだ。……それで、今朝はちょっと間に合わなかったんだけど、本当はお弁当を自分で作るつもりでいて……」
 葉月くんの視線を感じながら、わたしはちょっとだけ俯き、そして思い切って続きの言葉を口にする。
「だ、だから、一人分作るのも、二人分作るのも変わらないかなって! ……あ、あの、嫌じゃなかったら葉月くんも一緒にどうでしょうっ!?」
 ――ああ……。「どうでしょうっ!?」ってどうなんでしょう……。
 できるなら両手で顔を覆いたいくらいの気持ちなんだけど、さすがに本人を目の前にしてそのアクションはできず、ただひたすらに顔をカッカと熱くしていると、不意に小さく笑う声が聞こえる。
 見ると、葉月くんが楽しそうに笑っている。そして、驚くわたしにこう言ったんだ。「……じゃあ、お願いします」って。
「おまえの明るい声を聞きながらお昼食べるのって、悪くない」――だって。

 それからあとのことは、何を話したか正直言って覚えていない。ただ、ひたすらわたしは舞い上がり、また、家に帰ってからは真剣な顔で尽に詰め寄ったのだった。もちろん、昨日話題に上がった玉子焼きについてだ。
「ねえ尽、わたしが作った玉子焼きって、本当に甘かった? うえっ、ってくるほど甘かったの!? 本当の事を言ってよ。明日また玉子焼きを作るんだから!」
「ね、ねえちゃん!? ちょ、ちょっと鼻息荒いってば! っていうか、なんか怖いって!」
 怯んだ尽はじりじりとあとずさりをしている。
 もうっ、怖くもなるよ。
 だって、家族以外の誰かに料理を食べてもらうんだから。その相手っていうのが男の子であれば尚のこと。
 なにより、気になっている男の子ならば――余計にね。



End.
2010.8.22UP(初出2008.6.22発行コピー本「君の声が届く場所」より)
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