ときメモGSシリーズ

二月十四日【瑛主】



「がんばって作ってみました、今年も!」
 もうちょっと器用だったらよかったなと夏川ゆきは思いながら、十五センチ四方の箱をすぐ隣に座っている佐伯へと渡す。
「うん。しっかり貰ってやる、今年も」
 こうして佐伯にバレンタインの贈り物をするのは今年で四回目だが、お菓子の本にあるような豪華な物を作れる技量はなく、でも精一杯の思いを込めて作ったのが、手の中にあるガトーショコラだ。
 分量も手順もテキスト通りに作った。途中、床にへらを落としたり、結構な量のチョコレートを手にくっつけてしまったものの、オーブンの温度だって表示画面と自分のおでこがくっつきそうなくらいの至近距離で確認をした。出来上がりの見た目も悪くない。
 「だから大丈夫なはず、多分。きっと!」と何度も心うちで自分に言い聞かせるのは、まともに味見をしていないからだ。
 料理ならある程度の味見ができるが、この菓子はちゃんと型に流し込んで作っている為、「余り」や「切れ端」というのがなく、焼きあがったものに手をつけることが出来なかったのだ。
 それでも、目につかないであろう底辺を少しだけつまんでなんとか味の確認をしてみたのだが、爪の先ほどの大きさでは満足な味見もできず、その不安な気持ちが今も引き続いている。
 わくわくしている子供のように箱の蓋を開ける佐伯の表情が「あ、ガトーショコラ」という言葉と共に明るくなる。
「ハート型だ」
「うん」
「ちゃんと出来てるじゃん」
「がんばりました! ……ただ、味に自信がございませんが」
「ハハッ、なにしょぼくれた顔してんだよ。よし、じゃあがんばったおまえの力作、早速食べてみるか」
 佐伯は表情を曇らせるゆきを見て明るく笑い、パウダーシュガーがかかっているハート型にそっとナイフを入れる。
 小さく切ったものを皿には乗せず、フォークで刺してそのまま口へと運ぶ。
 ゆきはその横顔をまじまじと見つめ、彼がどのような感想を述べるかを待った。
 ――美味しいかな。甘すぎたりしない? それとも苦い!? あぁ、どっちなんだろう!
 この緊張感は過去三回にはなかった程のもので、焦らすかのようにしっかり咀嚼している佐伯の肩を「感想は!?」と急いて揺すりたいくらいだ。
「……うん。うん、うん」
 佐伯はそう頷き、ちらっとゆきの顔を見る。
「うん、って……あの、味は大丈夫かな? ちゃんとガトーショコラ? っていうかしっかり焼けてる?」
 落ち着かない気持ちで佐伯の顔を覗き込むと、彼は小さく切り分けたものをもう一つのフォークで刺してそれをゆきのほうへと向ける。
「気になるなら食べてみれば」
「いいの?」
「うん。……はい、あーん」
「えっ!?」
 フォークが取りづらい方向に向けられていたのはこのためで、まさかそのまま食べさせてもらうことになるとは思いもせず、ゆきは絶句したまま佐伯を見つめる。
「ホラ、誰も見てない。お父さんだけだから」
「だ、だけど……」
 その「お父さん」だから余計に恥ずかしいのだ。ゆきの気持ちを十分に知っているのか、佐伯はやけに楽しそうに、そして少し悪戯っぽく笑ってフォークの先を向けている。
「あと十秒のうちに食べなければ没収」
「そんな!」
 無情な言葉にゆきは一瞬だけくしゃっと顔を顰めたあと、意を決して向けられているフォークに齧り付いた。パウダーシュガーの甘さがさっと広がったあと、しっとりしたビターチョコレートの生地が口の中で解れていく。
 パサつきすぎない程よい焼き加減に、ゆきは素直に感想を口にした。
「……あ。美味しい」
「うん、美味い。合格だな」
 優しく言うその声にゆきは目を細めて笑う。四年連続して佐伯に手作りの物を渡せたのがとても嬉しく、また、今年はこんな風に佐伯の部屋で二人で食べられたというのが何よりも幸せだった。
「今年は瑛くんにちゃんと手渡しすることができて、本当によかった」
 床にあるコーヒーカップを両手で包んで安堵の言葉を呟くと、佐伯が申し訳なさそうに「ごめんな」と言う。
「あっ、違うの! 嫌味とかじゃなくて……」
 何気なく呟いた言葉だったので深い意味はなかったのだが、佐伯からしてみればそうとは取れないだろう。慌ててゆきがフォローしようとすると、佐伯の手がそっとゆきの頭を撫でる。
「嫌味で言ったんじゃないくらいわかってるって。でも、おまえに散々心配かけたのはやっぱり俺の方だし。……それに、じいさんにも」
 一年前のこの日、佐伯がもうはばたき市にいないことを承知の上で、ゆきは手作りのチョコレートを手に夕暮れの海岸線を走ったのだった。
 その日は、いつも聞いていた波の音がやけに大きく感じられたし、、空気はとても冷たかった。
 息を切らしながらも珊瑚礁の前に着いたとき、明りのない店にはやはり誰の姿もおらず、両膝が落ちそうになった。それまでなんとか自分の気持ちを奮い立たせ、佐伯のいない毎日を変わらず過ごそうと決めていたけれど、がらんとした暗い店の中は、本当の自分の気持ちがそのまま形となって目の前にあるような気がして、張り詰めていた気持ちの糸がぷつんと切れそうになった。
 ――もういないんだ。佐伯くんはここにはいない。戻ってこない。わたしがそんなことないって必死に思おうとしても、事実は変わらないんだ。
 そんな風にくちびるをかみ締めた時だった。偶々店の片付けにきていたマスターこと佐伯の祖父、佐伯総一郎に出会い、久しぶりにあの穏やかな笑顔を見た。
 なぜか昔から知っているような懐かしさを感じる暖かい笑顔のマスターだが、佐伯はもうここにはいないことを改めて告げられ、胸に大きな風穴が開いたような気持ちになった。けれど、佐伯のためにチョコレートを持ってきたというゆきに対し、「瑛を好きになってくれてありがとう」と優しく言うその表情はやはり心に暖かく、自然と溢れるもので視界がぼやけはじめる。
 年はうんと離れていても、似た面立ち、優しい微笑みの中に佐伯を見たような気がして、急に目頭が熱くなり、返そうとする言葉も胸の辺りで痞えてしまう。
 冷たい風が吹く中走ってきたので鼻も頬も冷たく冷え、指先なんかはかじかんで上手く力が入らない程だったこともそこでやっと気づき、惨めさがより一層涙腺を緩めたのだった。
 あのあと店に入るように促され、総一郎とはたくさんのことを話した。幼いころの瑛のこと、店を畳んだ本当の理由、そして――いつか必ず戻ってくるから、佐伯を信じていて欲しいということも、どこか確信に満ちた励まされるような声で言われたのだった。
「俺、驚いたんだ。バレンタインデーの次の日に、じいちゃんから荷物が届いてるって言われて。……中身が、おまえからのチョコの贈り物だっていうのも手紙に書かれてあって、本当に驚いた」
「……うん」
「あとでじいちゃんには『お嬢さんの気持ちをちゃんとおまえに届けなければ、とあんなに使命感に燃えたのは、若い時以来久しぶりだったさ』って笑われたけど、……でも俺、おまえからのチョコレートを見て、俺は何してるんだろう、なんでちゃんとありがとうって言ってあげられないんだって、たくさん――本当にたくさんおまえのこと考えたよ」
 あのときは本当にごめんと佐伯が静かに呟くのを聞いて、ゆきはカップを床に置き、横に座っている佐伯の肩にそのままこめかみの辺りを押し付ける。
「わたしも、たくさん瑛くんのこと考えたよ。もっといろんな話をちゃんとしておけばよかったとか、あんなに一緒にいたのに、なんで瑛くんの気持ちに気づいてあげられなかったんだろうって。……ごめんね。わたし、自分のことばっかりだったと思う。瑛くんのこと見ているつもりで、ちゃんと見ていなかったのかもしれない」
「ゆき……」
 どちらともなく互いの手を握り合い、一年前の気持ちを思い出しながら、今の二人のことを思ってゆきは目を閉じる。
「でも……卒業式の日、瑛くんが灯台に来てくれなかったら、わたしたちどうなってたんだろうね」
 なにかに引き寄せられるかのように、ゆきは卒業式のあと友達の誘いを断ってあの灯台へと足を向けた。三年間通い詰めた珊瑚礁ではなく、あの灯台に向かったのだ。
 そして、頂上へと向かう途中の壁に掲げられていた『かわいそうな人魚』の絵と、灯台の上から見る羽ヶ崎の海の色を見て、断片的に残っていた幼い頃の記憶が一つの答えへと辿り着いた。
 ゆき、と自分の名を呼ぶ声に振り向くと、幼い頃に約束をした男の子――佐伯が遠い記憶にある景色と同じく、夕焼けを背にして立っていた。
 なにかが一つでも欠けていたらけして交わることがないはずなのに、幼い頃に約束を交わした場所で、こうして再びめぐり合う時間。偶然が重なった出来事――都合のいい言葉で言い表すとするならば、きっとこういうのを人は運命だと言うのだろう。
「それでもきっと、こうしていたんじゃないかな」
 佐伯の言葉にゆきは顔を上げる。
「たとえ灯台に行かなかったとしても、俺、絶対におまえに会いに行くって決めてたから、必ず会ってたよ」
 柔らかく笑う佐伯に、ゆきは悪戯っぽく笑って返す。
「灯台じゃなかったら、瑛くんが昔会った男の子だ、って気づかなかったかもしれないよ?」
「それでも、高校に入ってからずっと一緒に過ごしてきた時間があるから、過去になんて負けないと思う。一生おまえが思い出さなくても、その分俺がちゃんと覚えてるし。過去も確かに大事だけど、それにとらわれて目の前にある大切なものをなくしちゃダメなんだ」
「……うん。そうだね」
 こうしてちゃんと付き合うようになってから、佐伯は随分と素直に、そして大人びた表情をするようになったな、とゆきは思う。
 時折子供っぽくなるところや、変な癇癪を起こすところは相変わらずだが、肩の力が抜いて穏やかに笑うことが多くなったような気がする。おかげで、大学に通うようになってからも彼のファンは根強く存在している。
「なんか、瑛くんちょっと変わったね。大人っぽくなった……って、わたしが最近気づいただけなのかな?」
 首を傾げてちょっとだけ考え込むと、「お子様のおまえにはわかるまい」と偉そうな口ぶりで佐伯が言う。
「なによ、それ」
「ホントのことじゃん。っていうか、俺もこの一年で気づいたことがある」
「うん? なに?」
 ちらっと横目でこちらを見るのが気になりその顔を僅かに覗き込むと、不意に佐伯も顔を近づけてきたのでゆきは驚いて目を丸くした。
「わっ、な、なに!?」
 身体を後ろに引こうとするが、腕をとられてしまいそれができない。
「あのさ、キス……しても、いい?」
「えっ! い、今? ここでっ?」
「そう。今ここで」
 すっかり見慣れてしまってはいるものの、端整な顔が間近にあるとどうしても動揺してしまう。知り合って四年目、付き合い始めてそろそろ一年で、キスはおろかその先の段階も踏んではいるけれど、急に仕掛けられることがやはり弱い。
「あっ、あの! ケーキがあるしっ、コーヒーだって冷めちゃうし」
 ――うぅ、なに言ってるのかわかんなくなってきた!
 顔を逸らしても見つめる佐伯の視線は動かず、それどころかどんどん顔が近づいてくる。
「別に、コーヒーなら何度でも淹れてやるけど?」
「で、でもね。えっと……あの! そ、そのっ」
「それとも、いやなの?」
「そっ、そんなことっ! 違うけど……違うんだけどね、で、でも……」
 いやというわけではないのだが、急襲に弱い。けれどそれを口にするのもなんだか悔しいので、懸命に言い訳を探そうとするのだが上手く言葉が見つけられない。
 そんなゆきを見て、佐伯は耐えられないといったようにプッと噴出したかと思うと、あははと声にして盛大に笑い始める。
「あ、あの……」
 恐る恐る声をかけると、佐伯は前髪をかき上げる振りをしつつも、顔を覆って笑い続けている。くくく、やらブフフと堪えた笑い声が聞こえる。
「も、もう瑛くんっ! ちょっと笑いすぎだってば!」
 ――ていうか、なんなの!?
「アハハッ! おまえさ、自分で俺にちょっかい出したりするのは平気なくせに、逆にちょっかい出されると決まって動きが鈍くなるよな。うろたえるし、言葉に詰まるし……なんか、オモシロ小動物みたいだ」
 まだ笑い足りないといったように肩を揺らしている佐伯の頭に、堪えかねたゆきはチョップを落とす。
「ばかっ! もう知らないっ」
 再びコーヒーカップを手にし、すでにぬるくなっているのをごくごくと飲み干す。そして、息を整えるために荒く息を吐いている佐伯を尻目に、手作りのガトーショコラを箱ごと奪い、ナイフ丁寧に切り分けることなくフォークで荒く切り取っては頬張る。
 ――もう、全部食べてやるんだから!
「げっ。おまえ、それ俺のだろ! ちょっ、待て!」
 慌てた佐伯が奪い返そうと手を伸ばすが、ゆきはそれを寸でのところでうまくかわす。
「作ったのはわたしだもん」
「貰ったのは俺だから! ……って、あ、バカバカ! それ最後っ――」
 最後の一切れを頬張るところで、大いに焦っている佐伯を横目でちらりと見る。
「……食べないでほしい?」
 ゆきの問い掛けに佐伯は頷く。
「ごめん。からかった俺が悪かったよ」
「本当にそう思ってる?」
「……うん。謝る」
 素直にごめんと謝る佐伯を見て、ゆきはフォークの手を止め、その向きを変える。
「じゃあ、これは瑛くんにあげる。――はい、あーん」
 一瞬佐伯の頬が引きつるのが分かった。そして、その表情に悔しさと恥ずかしさを滲ませてゆきを見る。
「……おまえ。卑怯だぞ!」
 唸るように言うが、頬を赤くしている様子では折れるのは明らかだ。
「じゃあ、わたしが――」
「わかった! わかったから! ……早くするように」
 観念したように佐伯は目を閉じる。
「うん、それではいきます。瑛くん、口を開い――」
 開いて、と言うよりも早く佐伯の手がフォークを持つゆきの手を掴む。
 一瞬の出来事のはずなのだけど、視界にゆっくりと映るのは傾けられた佐伯の頬のラインと、くちびるには柔らかな感触。それこそ「えっ」と驚く間もないくらいの出来事だった。
「……ゆき」
 軽く額が触れ合うこの距離。目を合わせるのが恥ずかしいくらいで、ゆきは視線を落として返事をする。
「は、はい」
「あのさ」
「う、ん」
 ――本当にありがとう。
 静かに、だけどはっきりとそう言われ、視線を上げて佐伯を見つめる。
「瑛くん……」
「これ、凄く嬉しかった」
 そう言って、掴んだままのゆきの手をそのまま持ち上げ、フォークに刺さっている最後の一切れを口に運ぶ。
 やっぱり美味いや、と嬉しそうな佐伯に、ゆきは目を細めて笑い返し、彼の口元へとそっと指を伸ばす。
 佐伯の口の端にはパウダーシュガーもケーキの欠片もついてはいなかったのだけど、そっと口元を拭う仕草をして、それから軽くくちびるを押し付けた。
 何度目か分からないキス。けれど一年経ってもやはりまだ気恥ずかしいので一瞬触れる程度のものだったけれど、それでも一つの願いを託した小さなキスだ。
 ――来年も、これからもずっとこうして一緒に居られますように。
 一年前の今日、息を切らしながら走った日の事を忘れない。
 指がかじかんでいるのを忘れてしまうくらい、真剣に目の前の人のことを思っていたあの日、あの時。
 その気持ちをこれからもずっと忘れない。ゆきにとって、バレンタインデーはそんな日だ。
 大切な人の存在と、自分の気持ちを改めて確かめることができる大切な日。
 それが二月十四日。



End.
2009.02.15UP
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