ときメモGSシリーズ

スマイル・フォー・ミー【瑛主】



 一学期末のテストが迫ってきているこの頃では、各教科の教師が何かにつけて「テストに出すぞ」「範囲だぞ」と半ば脅しのような決まり文句を口にしていることもあり、妙な緊迫感が校内全体に漂っている。
 ゆきこと夏川ゆきもその緊迫感に煽られたのか、「今日は図書室にこもって勉強してみる」と言っていた。なんでも、自宅では没頭できないらしく、しんと静まっている図書室が勉強するには最適の環境なのだそうだ。
 佐伯も「一緒にどう?」と誘われはしたがなんとなく気分が乗らないので断ってしまい、でも、店の手伝いもない今日はなにか物足りなく、こうしてゆきの姿を探しに図書室まで歩いてきたのだ。
 歩くたびにワックスで磨かれた床が鳴り、それが静まっている放課後の廊下にやけに響く。
 テストが控えているこの時期は、クラブ活動も休みとなるので、放課後の学校はとても静かだ。誰もいない廊下を歩いていると、故意に作られた静けさの中に一人だけ放り込まれたような気分になり、なんとなく居心地の悪さを感じた。
 足早に図書室へと向かうのだが、すべりのいい引き戸を開けたとき、人がいるにも関わらず、これまた静まっている室内がもっと居心地悪かった。
 ――ゆきのやつ、どこにいるんだろう。
 少なくとも、机のある辺りには姿が見えない。となると何か探し物でもしているのだろうか。
 天井まである棚と棚の間をそれとなく探して歩くがなかなか見つからない。
 ひょっとしたら気が変わって帰ってしまったのだろうか。そんなことを思いながら小さくため息を吐くと、微かにだが覚えのある声を聞いたような気がして、そちらへと足を向ける。
 すると、それほど歩かずして彼女の姿を見つけることができたのだが、そこにはゆきだけでなく彼女の傍らにはやけに背の高い男子生徒の姿があった。
 ――あいつ、確か……志波、だっけ。
 クラスも一緒になったことはなく、また、まともに話をしたこともないけれど、寡黙で運動神経がずば抜けていいと耳にしたことがある。自分と同じように、太陽の下がとても好きそうな肌の色をしていて、あまり愛想が良いとは言えない表情をいつもしている男子。
 その志波が、ゆきの背が届かない場所にある本に軽々と手を伸ばし、それを彼女に渡している。
 少し照れたような笑顔を浮かべながら受け取るゆきを見たとき、心臓が嫌にどくんと跳ね、そしてなぜか彼女に背を向けるようにして近くの棚に身を隠してしまった。
 見たことのない笑顔だった。
 別に話の盗み聞きをしようと思ったわけではなく、何も考えずに体が勝手に動いた。室内は的温のはずなのにやけに足元がひんやりする。古臭い紙の臭いがすぐそばでする。
 息を潜めていると、「また取ってもらっちゃったね」「相変わらず無理して取ろうとする」といった苦笑交じりの会話が少ないながらに続く。
 本の隙間からそっとゆきの表情を窺うと、少し前に見た表情と同じまま。その控えめな笑顔は可愛らしく、それがやけに自分の心をざわつかせる。
 ――なんか、悔しい……? つか、何にだよ……。
 そんなことを思うと、次第に自分自身に対して苛立たしさも感じる。
 何に対してこんなに悔しくなるのか。それとも焦りなのか。そんな中、少し混ざる寂しさは一体何なのだろう。言葉にならない気持ちが胸の奥で広がっていく。
 ゆきに声をかけないまま、自然と足がドアへと向かう。ここにいないほうが良いような気がしたのだ。
 作り笑いも出来ない今の自分をゆきに見られたくなかったし、勿論、志波にも見せたくなかった。
 ぼんやり海を横にして歩いた。いつもの慣れた道をただ歩く。何を考えていたのかさえ思い出せないくらいだが、いつの間にか家に辿り着き、ネクタイに指を引っ掛けて緩めたあとベッドにうつ伏せに横になったら、いつの間にか辺りはすっかり夜になっていた。
「どうした、体の具合でも悪いのか?」
 食卓で向かいの席に座っている祖父に言われ、「別に。ただ、頭がぼうっとしてるだけ」と返す。
 祖父に呼び起こされるまでしっかり寝てしまい、又、珍しく長く昼寝してしまったこともあり、頭がぼうっとしている。少しだけ頭痛もする。この痛みは例えて言うなら、脳が活発に膨張したり収縮したりの繰り返しをしているような感じだ。あまり空腹を感じないせいか、箸の進みも遅い。
「また喧嘩でもしたのか」
 誰と、と返すのもなんとなく面白くないので「してないよ」とそっけなく言う。
 店のことばかりが頭にいっぱいの佐伯の交友関係は実に狭い。どこかに遊びに行くとか、放課後友達とつるんで歩くということがないし、一日の授業が終わったら真っ直ぐに珊瑚礁に戻る行動パターンから、祖父にはそれがお見通しだ。
 その狭い交友関係の真ん中――というか大半を占めているのが、同じ珊瑚礁でアルバイトとして働く夏川ゆきで、その彼女としょっちゅう小さなことで喧嘩しているを、そばで呆れつつも暖かく見守ってくれているのも、この祖父だ。
「まぁ、お前が波乗りしないで寝てるくらいだ、何かしらあったんだろう」
 そう言われ、佐伯ははっとする。
「あ。忘れてた……波乗り」
 ぼんやりと海沿いのいつもの道を歩いてきたからサーファーの姿を気にも留めなかったが、珊瑚礁の手伝いがない日はできるだけ海に入る時間を増やそうと思っていた。
 疲れて帰って寝るだけなんて、まるでサラリーマンのようだと祖父に苦笑されたのもあるが、ただ無心で波に乗ることは気持ちの切換えにも繋がり、精神的にも丁度いいのだ。
 けれど、今日はそれさえも忘れてしまっていた。
 深く息を吐き、茶碗に残っている御飯をかき込むと、自分の茶碗と空いている皿と一緒に流し台へと運ぶ。それらを手早く洗ってから「ごちそうさま」とひと言残して再び自室に戻る。やれやれ、というため息混じりの祖父の声が小さく聞こえたが、佐伯自身も「ほんとにやれやれだよ……」と言いたいくらいだ。
 もう一度ベッドに落ち着くことはせず、海に面した窓を開けると、じっとりと湿気を含んだ潮風が暗い海の方から押し寄せるように流れてくる。今日は少し風が強い。
 海開きは期末試験が終わったあとにやってくるから、本格的なシーズンまであと少しだ。
 梅雨も開けて、海のシーズンが訪れて、心は夏の空の如く晴れやかに――といきたいところだが、今の自分は目の前で起きた小さな出来事に馬鹿みたいに動揺し、勝手に沈み込んでいるといった有様だ。
 ゆきは悪くない。志波も悪くない。誰も悪くない。あれはただのやりとりだ。相手が志波でなくほかの誰であっても同じような気持ちを抱いていただろう。
 それがわかっていても、見たことのない笑顔が腹の底を焦げ付かせるようにちりちりと燻る。
「……俺の前でもああいう顔したらいいじゃん。バーカ……」
 窓枠で頬杖をつき、潮騒にかき消されることを願いながら不満を口にする。
「ああいう顔ができるなら、日ごろからしてればいいんだ」
 ゆきが自分に見せる顔といってぱっと思いつくのが、遠慮なく口を開いて笑ってるところや、チョップをされたあとによく見せる口を尖らせた不満げな顔、フグみたいに頬を膨らませているところ。あと、能天気にボケッとした隙だらけの表情。そういったものばかりだ。
 「佐伯クーン」と自分を慕ってくれる女子たちのように意識して声を弾ませたり、どことなくご機嫌を伺っているような類の笑顔を向けろとまでは言わないが、それなりに自分を意識をした顔を見せてくれてもいいんじゃないかと思う。昼間の表情を見たら、悔しいくらいにそう思えてくる。
「でも……そんなのになったら、俺もあいつの前でそういう顔、見せられなくなるんだろうな」
 どの顔が自分の本当の顔なのかわからなくなってる。
 作り笑顔もものにしてしまえば本当になるのだろうし、彼女に見せているように、不貞腐れた顔の自分は本当の自分ではない、と思い込んだらそうなるのだろう。気持ち次第――というより思い込み次第でも人は変わるのだと思う。
 そういった話をゆきにしたとき、彼女はほんの少し悲しそうな顔をしていた。けれど、そんな情けないことを口にする自分を、受け止めてくれるかのような柔らかい笑顔で言ったのだった。
「ウソでも本当でも、目の前にいる瑛くんは瑛くんだから、わたしも、そのままのわたしで一緒にいるよ」
 なんだかよくわかんないこと言ってるけど、と困ったように笑うのを見て、佐伯も「何がなんだか、俺にもよくわかんないよ」と同じように笑ったけど、あのあとの帰り道は、自分でも驚くほど気持ちが軽くなっていたことを思い出す。
 誰にも話したことのない本心を、ただこうして聞いてくれる人がいることだけでも救われている。まだ自分は大丈夫、頑張れると心から思ったのだ。
 ――そういうの、わかってるはずなのに。もうちょっとあいつのこと大切にしなくちゃいけないって、わかってるんだ。
 「なんか、から回ってる」と深くため息を吐いて、両手で額を覆い、そのまま髪をかき上げる。
 そのときふと祖父に言われた言葉をふと思い出す。――子供じみた態度ばかり見せていると、誰かに彼女を取られるぞ、と。祖父は冗談めかして言っていたが、それが本当になってしまったら冗談ごとでは済まなくなる。
 それもよくわかってはいるのだが……。
「あののほんとした顔、ときどきピントずれたこと言うあいつを前にすると忘れちゃうんだ――調子狂うんだよ。……あぁもう! やっぱあいつが悪い!」
 唸るように言って、バーカともう一度誰に宛てるわけでもなく言って、ベッドへと大きくダイブした。
 柔らかいベッドにはまだ自分の温もりが残っており、微かに海からの潮の香りがする。
 春の穏やかな香りとは違い、湿度が高くしっとりとした空気で、それはどちらかといえば早く通り過ぎて欲しい時期のものだが、やがてはその空気も熱を帯びたものへと変わっていくだろう。――今より一歩前にある、本格的な夏の訪れと共に。


「お待たせいたしました。珊瑚礁ブレンドです」
 テスト準備期間はバイトに来なくてもいいと言ったのだが、「大丈夫!」とやる気に満ちた目で押し切られた結果、彼女は今日も元気に店の手伝いをしている。
 佐伯を含め、高校生が二人も揃っていることもあり、祖父の計らいによりテスト前の一週間は閉店の時間を一時間ほど早めているのだが、閉店間近のこの時間、今日はこの一組で最後のようだ。今また、別の一組の客が支払いを終えたので、佐伯はその背中を見送り、外にかけられている「OPEN」の札を返す。
 今日はそれほど忙しいというわけではないのだが、一組去ってはまた一組といったように続けて客が入ってきたので、ゆきとは殆ど口を利いていない状態だ。
 佐伯はふぅと息を吐いて、空いているサイフォンやカップなどを片付け始める。今日は仕入れの品もないので早く上がることができるだろう。
 祖父に「こっちはもう大丈夫だろうから、少し休んでなよ」と促すと、一組残っている客を見て、「じゃあ、そうしようか。すまないが、あとを頼んだよ」と笑って、祖父は二階へと上がっていく。
 ちらっとゆきを見ると、彼女も空いているテーブルをさりげなく拭いたり、レジ周りの整頓をしている。この調子なら表はゆきに任せて、裏は自分が片付けていれば大丈夫だろう。
「よし、やるか」
 小さくそう言って、シャツの袖を丁寧に織り上げる。祖父が昔から丁寧に扱ってきた器具はどれも新しいもののように光っており、こうして照明の近くに掲げてみても、ガラス部分にはくすんでいる所がない。それはプロなら当然といったら当然の手入れなのだろうが、だからこそ手を抜かず日々繰り返されてきた洗浄や手入れといった地道な作業が大切なのだと佐伯は改めて思うのだった。
 自分が手抜きするわけにはいかないと念入りに手入れをしていたら、不意にレジの音が聞こえたのではっと顔を上げる。見ると、最後の客が「ごちそうさま」と店を出て行くところだった。
「ありがとうございます」
 ゆきの声を追うようにして佐伯も言うと、いよいよ店内には二人だけになる。
 トレーに空いたカップを乗せ、手早くテーブルを拭いて佐伯がいる所へとやってくる。
「手伝おうか?」
 洗い場を手伝おうとしてくれていたのだが、佐伯はそれを制する。
「あ、洗物はいいよ。俺がやっとくから。お前はレジ精算と補充よろしく」
「それもそっか。じゃあ、お願いします」
 彼女は小さな笑みを見せて踵を返す。
 それほど間を置かずして、レジロールがガーッと音を立てて回り始め、小銭の音が聞こえる。それに混じって今度はゆきの鼻歌が流れてくる。それは丁度今、店に今かかっているジャズCDのフレーズと同じだ。
 何枚かを交換しながらBGMとして曲を流しているのだが、自然と佐伯が覚えてしまったように、ゆきも曲を覚えていたようだ。
 高音のところを時々音を外しながらも、調子良さげに口ずさんでいるのがなんだか可笑しく、口元に笑みを浮かべて佐伯は二組のカップを丁寧に洗った。
 洗物や床掃除、ゴミをまとめるといった佐伯の作業は一通り終わったので、彼女の様子は? と振り返ろうとするのだが、佐伯の斜め後ろで懸命に踵を上げ、何かを取ろうとしているゆきの姿がそこにはあった。
 おそらく上段の開き戸のなかにある新しいペーパーナフキンを取ろうとしているのだろうけど、彼女はいつだって踏み台という便利なものを使おうとしない。面倒だったら自分に声をかけてくれればいいのにそれをせず、毎度頭上に大量のペーパーナフキンの塊をぼこぼこと落としている。言い訳は「今度は取れると思ったんだけどなぁ」とのこと。
 精一杯爪先立ちをして、小さい手を必死に動かしている姿を見て、佐伯はふと思い出した。
 「相変わらず無理して取ろうとする」
 それは志波の言葉。
 彼女とのやり取りでそんなことを言っていた。
 ――ゆきのやつ、どこでも一緒なんだな。……ったく。
 ここで「馬鹿、何やってんだ」と不満げな声を出せば、いつものように彼女の頭上にはペーパーナフキンが落ちてくるのだろうけど、昨日のゆきと志波を思い出し、ぐっと息を飲み込んだ。
 ――馬鹿なのは、ホントは俺のほうなんだ。ちゃんと取ってやればいいだけの話なんだから。
 手に持っていたゴミ袋を離し、ゆきの背後へと歩み寄り、彼女よりも先に目的物に触れる。
「……え?」
 驚いたような声を上げてゆきが佐伯を振り返る。
「いいから」
「う……うん」
 両手に抱えるほどのペーパーナフキンは佐伯の手の中に簡単に収まった。それをそのままゆきの手の上に乗せてやると、戸惑ったような、どことなくぎこちない声で小さく「ありが、とう」と言う。
「お前さ、無理して取ろうとするなよ。こういうのは俺に言えばいいんだって。まあ、今日はアタマが大丈夫で何よりだ」
「そ、そうだね……う、うん!」
 真後ろに立たないと取りづらかったとはいえ、すっぽりと彼女を取り囲むようにしているこの体勢は、佐伯自身も今になって「ひょっとしなくても近すぎ!?」と思ったほど密着している。
 わかっていたけど、彼女の肩は小さいし、背だって自分よりも低い。髪だって柔らかくてさらさらで、なんだかいい匂いがする。
 ――やっぱり……女子なんだな。
 そんな当たり前のことを思う。
「あ、あの……瑛くん」
「なに?」
「動けない……んです、が」
 ペーパーナフキンの大きな塊を抱きしめて、俯きがちにゆきが言う。
 いつもだったらもっと覇気のある声で返してくるのに、今日はどうしたことか控えめな口調だ。
「え。あ……ああ? ごめん」
 慌てて身体をずらすと、佐伯の方へと向き直った彼女はぎこちなく小さく笑って見せたり、視線を泳がせたりと妙に動作が硬く不自然だ。
「どうかした?」
「えっ! あ、あの、ありがとう!」
 目を合わせてもすぐに逸らしてしまう。
 ――志波には照れたような可愛い顔してたくせに……。なんだよ。ちょっと優しくしてやろうと思えば、俺にはぎこちない笑顔なワケかよ。
 器の大小というのはこういう小さな所で測られるのかもしれないが、生憎佐伯は自分の器がまだまだ小さいことを自覚している。
 ゆきがそそくさと逃げようとするところ、その肩をすかさず捕まえる。
「待て。待ちなさい」
「わっ! なに!?」
 まるで小動物のようにびくっと身体を竦めているのが不思議だったが、捕まえた以上話を続けるまでだ。
「なにじゃない。……お前さ、笑顔足りなくない?」
「笑顔……? わたし、変な顔して接客してた?」
 怪訝そうなゆきに、佐伯はそんなんじゃなくて、と一度言葉を切る。
「してないけど……してないけどさ、同僚に対してはどうなのかと思わなくもない……くもない」
 するとゆきは少しの間思案するような表情を見せたあと、何か思いついた風に佐伯を見る。
「……あ、ひょっとしてマスターに対してとか?」
 ――鈍感め!
 その答えを聞いて遠慮なく佐伯はチョップを下ろした。
「いたっ!」
「マスターはマスターだろ。同僚っていったら俺。馬鹿かお前は」
「なによ、自分だって絶好調に仏頂面のくせに……」
 口を尖らせるゆきに対し、佐伯は身を屈めて僅かに顔を近づけ、営業スマイルを全開にさせる。
「ハイ? そんなこと、ございませんが? 視力は大丈夫ですか、お客様」
 近くで佐伯の笑顔を見たゆきが眉間をぴくっと動かす。一度だけではない、何度もひくつかせている。
「うぅ……瑛くん、キ――」
「キモイと言うな!」
 もう一度チョップを落とすと、彼女はペーパーナフキンを胸に抱いたまま、片手で頭のてっぺん辺りを撫で、佐伯には渋面を向ける。
「いったーい! 最後まで言ってないじゃない!」
「言ったも同然。つーか、人のことキモイとか言うならお前やってみろ。三、二、一、ハイ」
「無茶振りだよ!」
「うるさい」
「うー……暴君め。しかたないな……こ、こう……?」
 口角を無理やり引っ張り上げたような顔で笑うゆきに、佐伯はブフッと遠慮なく吹き出す。
「変な顔! アハッ、わかってたけど変だ!」
「う、うるさいな! 見ててよ、もう一回。ちゃんと本気出すから!」
 瞼を閉じ、何かをイメージしているようだ。僅かに沈黙が続いたあと、ゆきは瞼を閉じたままフフッ、と笑みを零した。
 ――あ。今の顔、なんか……悪くない、かも。
 その笑顔はなんだかとても楽しげで、突っこみを入れるタイミングを逃してしまうくらいだった。
 なにがこんなに彼女を楽しくさせているのか。
 志波に向けていた照れたような顔も確かに可愛かったが、こうしていつも見慣れている笑顔はやっぱり佐伯には馴染んでおり、なぜかとても安心するのだった。
「あ。今、目を閉じたまま笑っちゃったけど、これはオーケー?」
 数秒後、目を開いたゆきが首を傾げて尋ねる。
「……うん。可愛かったから、よし」
 目を逸らして佐伯が言うと、「よし、勝った!」とゆきは素直に喜んでいる。
 なんでもないことで笑ったり頬を膨らませたりする彼女を目の前にして佐伯は思うのだった。
 ――昨日の「あれ」って、やっぱり余所行き用の顔なんだよな。だから、こうしてなんでもないことで笑ってるっていうのはその逆で……つまりは、俺がそういう顔を一番よく見てるっていうことになるんだよな。……うん、そうだ。多分――いや、絶対そうだ。……と思いたい。
 冷静に考えなくてもすぐに見つかるようなその答えに、やっとたどり着いたような気がする。
 ――なんか俺、こいつのことが絡むと思考がおかしくなる。正常な判断が下せなくないか……?
「瑛くん?」
 顔を覗き込まれ、佐伯ははっと我に返る。
「あ、ごめん。……なぁ」
「ん?」
「あのさ」
「はいはい、なんでしょう?」
「さっき目を瞑ってたとき、何考えてたんだ?」
 なんとなく気になって聞いてみると、逆に「怒らない?」と聞かれる。肩を竦めて表情を窺っている様子でなんとなく答えの想像はつくが、気になるものは気になる。答えを持っている本人が目の前にいる限り、絶対に聞き出したい。
「怒らないから。帰り道もちゃんと送ってあげるから本当の事を言いなさい」
 なるべく優しく言うと彼女は楽しげに笑う。
「あはは、お父さんだ」
「……いいから!」
 少し唸るように言うと、さらに楽しそうだ。
 ある程度笑いが収まると彼女は息を深く吸い込み、「あのね」と佐伯を見る。
「プリンススマイルって言われている顔と、こーんなにして目を吊り上げてわたしにチョップする顔を交互に思い出したら、なんだか可笑しくて……つい笑っちゃったんだ」
 こーんなに、と言うところでゆきは変な顔をして見せる。
「おまえな……馬鹿にしてんのか? つーか、チョップの覚悟はいいか」
 ゆきの言う「こーんな」顔をして佐伯は一歩前に足を踏み出すと、慌ててゆきが首を振る。
「違う、違うって! 馬鹿にしてるんじゃなくて、誰も瑛くんのこういう顔を知らないんだって思ったら、なんだか自然と笑っちゃったんだってば」
「意味が、わかりませんが?」
 今度はわざと晴れやかな笑顔で言ってやると、ゆきは「だ、だから、違うの! 誤解だよ!」とすでにチョップを回避すべくペーパーナフキンの塊を頭の上に乗せている。
「たとえ怖い顔してても、そういうのを近くで見られるのって、わたしの特権なんだなって思ったの!」
 その言葉に、佐伯は目を瞬かせる。
 ――やっぱりよくわかりませんが。
「……特権?」
「うん。そりゃあ、わたしだってみんなが見ているような笑顔を向けられたいって思うときもあるけど、わたしにまで瑛くんがそんなだったら、息つく間もなくて疲れちゃうだろうなーって。だから、瑛くんの仏頂面はとても貴重なんだなって思ったの。……でも、仏頂面が貴重なんて人、めったにないじゃない? そう考えたら、へんなの! って可笑しくなっちゃって……」
「それで……笑ったのか?」
「うん。……ごめん」
 ナフキンの塊を頭に掲げたまま肩を竦めて謝るゆきに、毒気を抜かれたと佐伯は思った。
 いい子の顔と、遠慮のないそのままの顔。
 それをあからさまに使い分けている自分のことを馬鹿にしているのかと思っていたが、まさか不機嫌な顔を貴重と言われるとは思いもしなかった。
「変な奴」
 苦笑せずにはいられない。
 ――怒って目を吊り上げたり、不貞腐れた顔が良いなんて……変だって、お前。
「むっ。じゃあ瑛くんは、わたしがいつでもウフフ、オホホってお上品に笑っていた方がいいって思う?」
 おそらくゆきは過剰なお上品さを想像してそう言ったのかもしれないが、佐伯は昨日の図書室で見かけた余所行きの笑顔を思い出した。
 ――あれはあれで可愛いと思うし、あれも含めてこいつなんだろうけど……でも、なんか違うんだ。
 可愛いと思うけど何かが違う。
 遠慮なく自分にぶつかってくる彼女というより、透明なベールのようなものが彼女を全て覆っているかのような不思議な感じがする。すぐ目の前にいるのに、本当は少し離れた場所にいるような、おかしな距離を感じるのだ。
「上品に笑うお前なんて、結構寒いよな」
「言い方がかなり気に入らないけど……でも、そう思うでしょ?」
「ああ。遠い感じがする。余所行きの笑顔も悪くないんだけど、いつもみたいに明るく笑ってるお前のほうがいい。……俺もさ、お前がさっき言ってたみたいに、ほっぺた膨らませた不機嫌な顔、嫌いじゃないし」
「あ、ありがとう……」
 ゆきは指先で頬を掻いて、照れたような表情を浮かべる。
「学校でよりも、ここでそういう顔を多く見る分、余計にそう思うのかもな」
 いつもよりやけに素直に話せているなと思っていると、気がつけば目の前ではゆきが頬を緩ませてニヤニヤと笑っているではないか。
「って、何ニヤニヤしてんだよ」
「ニヤ……って、またそう言う! 言い方ってあると思うんだけどな」
「ぴったりの言葉だろ」
「もうっ! ……せっかく、一緒のこと考えてたんだなって喜んでたのに」
 確かに、言われてみれば二人とも似たようなことを考えていたようだ。見慣れた景色に安堵し、心地良さを感じるというのは誰の心にもあるだろうけど、見慣れた表情にもそれを感じるなんて、なんとなく不思議な気分だ。
 ――似たもの同士、って言うんじゃないのかそういうの。……って、乙女チックで寒ッ、俺!
「……ま、まあな。でも、俺はお前みたいにニヤニヤしないけど」
 意地悪げに笑ってみせると、ゆきはムッと頬を膨らませるが、何かに気づいたようにその頬を急にしぼませ、一変して楽しげに笑う。一年と少々の付き合いの中でよくわかってはいるが、膨れたり、笑ったりととても忙しい女の子だ。
「あ。じゃあ、ニヤニヤじゃなく爽やかに笑って見せてよ。プリンスじゃない笑顔を三、二、一、ハイ!」
「ハアッ!?」
 そのあまりにも急な振り方に佐伯は目を丸くするのだが、彼女はとても楽しげで、期待の目を佐伯に向けている。
 アホか、こいつ。――そう心うちで呟くが、続けてこうも思うのだった。
 ――まぁ、でも……こんなに楽しそうなんだから、いいか。
 彼女の額を指で弾き、佐伯は目を細めて笑う。
「バーカ。俺の笑顔は高くつくからな。後悔するがいい!」
 冗談めかして言ったつもりなのだが、ゆきは面食らったような顔をした。
 少しの間だけ目を丸くした彼女が何を思ったのか佐伯にはわからないが、「……うん、ちょっと後悔した。確かに今のは高いかも」と言った頬が少しだけ赤くなっていたのがとても印象的だった。というより、胸がどきどきした。
 そのあとなぜか上手く話を繋いで行くことができずに、勝手にぎくしゃくしたのは佐伯だけの秘密だ。
 ゆきにはずっと不機嫌を装って見せたのだが、二人だけの帰り道、彼女の口元が嬉しそうに、何より楽しげに緩んでいるのを見て、「無駄な努力だった!」「馬鹿みたいじゃん、俺」と耳を熱くして後悔したのだった。
 どうやら彼女にはお見通しだったようなのだが、いつものように見慣れた笑顔がそばにあることがやはり嬉しく感じ、佐伯は幾筋か星が流れていくのを見上げながら、言葉すくなに彼女の家までの道のりを歩いたのだった。
「流れ星、発見」
「えっ、ウソ! 瑛くんだけずるい!」
「ずるくない」
「教えてくれてもいいのに……」
「じゃあ、次に見つけたら教えてやる」
「絶対だよ?」
「うん、ちゃんと教えてやるって」
 こんななんでもない会話が、今日のこの帰り道はとても楽しく思えたのだった。



End.
2009.01.25&28UP
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