最後の客を見送って、営業終了の札をかける。
簡単に食器や器具の片付けや掃除、そして消耗品の補充などが殆ど終わったとき、ゆきは今がチャンスとばかりにこっそり用意してきた『とあるもの』を隠し持つ。
今日は十月三十一日。キリスト教でいう万聖節の前日で、世間ではハロゥインと呼ばれている日だ。
お化けや魔女などに子供が変装をして『Trick or Treat!』と家々を回るという行事も日本で大分認識されつつあるこの頃。
変装こそしないが、ゆきも前日に自宅でクッキーを焼いてきた。もちろん佐伯に渡すためだ。
――お菓子をくれなきゃいたずらするぞって、まさか瑛くんは言わないだろうけど、先手必勝だよね。これ以上いたずらならぬ、意地悪されませんように。
そんな小さな祈りを込めて、簡単にテーブルを拭いている佐伯の後姿へと声をかける。
「瑛くん」
「なに?」
手を止めて、顔だけ背後にいるゆきへと向ける佐伯に、ゆきは手に持っている包みを差し出す。
「はい、これ」
急に目の前に差し出された小さな包みとゆきとを交互に見て、佐伯は目を丸くする。
「……なんだ、これ」
「いいから、受け取って。クッキーを焼いてきたんだ」
にっこりと笑うゆきに、佐伯は少し屈めていた体を起こし、ラッピングされた包みをわけがわからないといった表情のまま受け取る。
「クッキー……? へぇ、サンキュウ。でもどうしたんだよ、いきなり」
幾度か目を瞬かせる佐伯に、ゆきは窓際に飾ってあるかぼちゃのお化けを指差す。
「アレ。ほら、今日はハロゥインだよ。――小さい子が言うでしょ? お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ! って。だから瑛くんにも」
「あっ、そうか。それでお菓子か。……って、俺は子供かよ」
ゆきの額を指で弾くような仕草を見せながらも、佐伯は小さく笑ってクッキーが入っている包みを解く。
包みの中には、店の窓辺に飾ってあるお化けかぼちゃと同じように模ってあるものが幾つか。気持ちばかりの量だが、佐伯に食べてもらいたい一心で作ったのだった。
「おっ、すごい。ちゃんとかぼちゃの形になってるじゃん。へえ……」
かた抜きを使ってのものだが、佐伯は手にあるかぼちゃ型になっているクッキーを面白そうに見つめる。
「うん。この前一緒に行った商店街で見つけたんだ、かぼちゃのかた抜き。かわいいし面白いな、って思ったの」
「いいな、これ。おもしろい。……よし、じゃあ早速いただきます」
「えっ、今食べちゃうの?」
「うん、今。ちょっと小腹減ってたしさ」
簡単にエプロンで手を拭いたあと、子供のように嬉しそうな笑顔で一つ取り出してそれを齧る。さっきは「子供かよ」って突っ込んでいたくせに、とゆきは心うちで小さく笑いながら、佐伯の反応をうかがう。
「どうかな。きちんと焼けてるとは思うんだけど……」
本物の食用かぼちゃをゆでで裏ごししたものを生地に混ぜていることもあり、焼きあがった色はほんのり黄色味を帯びている。それほど多くかぼちゃを使わなかったこともあり、それ自体の味は薄いかもしれないが、色と香り付け程度になっていればいいかな、と思い混ぜ込んだのだった。
「……あ、うまい。それにこれ、ちょっとかぼちゃの味がする。ほんの少しだけど、なんかそんな香りもするな。ひょっとするとかぼちゃ入れた?」
「えっ、わかるの?」
もごもごと口を動かしながらも、うん、と頷く佐伯にゆきは少しばかり驚いた。
――すごい。あまりわからないかもと思ってたんだけど。……わかっちゃうとは驚き。さすがだなぁ。
「すごいね、わかっちゃったんだ。ほんのり色付け程度にって思ってたんだけどな」
「おまえな、これでも俺はちょっとばかり味や香りにはうるさいんだぞ。……まあ、普通の男だったら、なんかちょこっと色が違う? ぐらいで終わるんだろうけどさ」
「甘く見んなよ?」と言いながらも、手にある食べかけのものを再度口に含み、やっぱり美味い、と目を細める。
「エヘへ、褒められちゃった。作った甲斐があったよ」
照れ混じりの笑みを浮かべ、指先で頬に触れていると、佐伯は突然「あっ」と短く呟き、少し考え込むような顔を見せる。
「……どうしたの?」
気になってゆきが首を傾げると、彼の表情は考え込むそれからさらに難しそうなものへと変わっていく。
――な、なに? なんなの……。
おまけに腕を組みながらじろりとゆきを見つめている。
「あ、あのー?」
「……くそ、先手打たれた」
「え?」
短く呟かれた言葉に、ゆきは瞠目する。
「うっかりお菓子もらっちゃったから、おまえにいたずら仕掛けることができないだろ。してやられたな……」
俺としたことが! と不貞腐れたように言う姿に、ゆきは肩を揺らして笑う。
「ふふっ。いつも意地悪されてるから、今回は先手必勝。いたずら防止策だよ。どうだ!」
えへん、と胸をそらすゆきに、佐伯はますます表情を渋くする。
「なんだよ、意地悪って……人聞きの悪い奴だな」
「本当のことじゃない」
「違うだろ」
ふん、と鼻を鳴らして細目で見る佐伯に負けじと、ゆきは少し踵を浮かせて彼を見上げる。
「えー、違わないよ!」
「違うって」
「違わないってば、もう! 日ごろたっぷり意地悪されてます! チョップだって、山ほどもらってるよ」
「それはおまえが何かしらしでかすからだって」
「む……。で、でも意地悪反対!」
譲り合わないまま、互いにじいっとにらみ合っていたのだが、根負けしたのか佐伯のほうが先にため息を吐きながら「参った。……降参」と肩を竦める。
珍しいこともあるものだと、ゆきはとても驚いたのだが、思ったことを口にすると余計な結果を生み出すことぐらいわかっているので、ぐっと堪える。
何よりも、佐伯はというと、少ししゅんとした面持ちで視線を外している。いつにないその表情に、ゆきは目をぱちぱちと瞬かせる。
「瑛、くん?」
――珍しいな、瑛くんが引くなんて。それに、なんかおとなしいよ、ね……?
「…………あのさ」
「えっ!? あ……は、ハイ!」
「俺……そんなに意地悪?」
切なそうとも、悲しそうとも取れる表情に、ゆきはどきりとし、そろそろと言葉を紡ぐ。
「あの、すごく、ではないけれど……ちょっと、かな? あ、でも、いつもじゃなくて……。その、あの……あのぉ……」
「そうか……そう、なのか」
「え、ええと……?」
いつもの強気で返されると思っていた分、しおらしくされるとこちらがひどく意地悪をしているような気持ちになり、ゆきも声がどんどん小さくなっていく。
ちらりと佐伯を見上げれば、やはり表情は悲しそうなまま。端正な顔の作りをしている分、切なさが色濃くにじみ出ていて、彼のファンがこんな表情を見た日には悲鳴か涙か、はたまたゆきに対する非難の言葉が飛び交いそうなくらい。
それぐらい威力がある佐伯のこの表情に、ゆきは血の気が引く思いであれこれ必死に言葉を選ぶ。
――ど、どうしたらいいんだろう。わたし、ひょっとすると、瑛くんのこと傷つけてる……? う、うそ……、どうしよう。
「てっ、瑛くん! そっ、そのぉ、瑛くんは……あ、あんまり、意地悪じゃない……よ?」
「でも、『あんまり』なんだろ?」
ますます悲しげな顔をする佐伯に、ゆきはもっと言葉を選ぶべきだった、と内心頭を抱えたくなった。
「うっ……。そ、んなことない! 訂正! ちっとも意地悪じゃないよ!」
ぶるぶると首を振り、懸命に佐伯を仰ぐゆきを見て、彼の切なげな表情の中に、甘く小さな笑みが浮かぶ。
「別に、いいんだ。――なぁ……ゆき、ごめんな。俺、今度からおまえにもっと優しくするよ。……意地悪なこと、もう言ったりしないよ。だから、今までのこと許してくれるかな」
あまり謝らない佐伯が謝った。その彼の言葉に、ゆきの鼓動は嫌に大きく跳ね上がる。
「ちが……」
――ちがうよ。そんな……傷つけるつもりで言ったんじゃないの……。違うの。
俯き、さっきよりも強く首を横に振る。
鼓動がやけに早く感じられ、胸の奥が苦しくなる。
――なんか、やだ……。こういうことを瑛くんに言わせちゃったのが、やだな。そういうつもりじゃなかったのに……。
「本当にごめんな」
――わたし、言い過ぎちゃった……。
「瑛、く……」
「もうチョップしたり、怒鳴ったりしないから。……な?」
――どうしよう。どうしよう。瑛くんが素直になっちゃった……。こんなの、やだ。いつもどおりがいいよ。多少の意地悪ぐらい、ちっとも嫌じゃないから、普通の瑛くんのままでいて欲しいよ。
意地悪と言ってもいつもからかう程度のもので、悪質なそれとは全く違う。
それに、いつも冷たいわけでも、意地悪なわけでもない。ゆきを気遣ってくれるときもあれば、どきっとするほど優しい言葉をかけてくれることもある。
時々彼とはケンカをするけれど、気兼ねなく言い合いができるのは、相手が佐伯だからこそだ。
学校の皆に対するよそよそしい態度ではなく、いつも言いたいことを本音でさっぱりと言ってくる佐伯のことが、ゆきは好きなのだ。
「や、だ……」
「え?」
「意地悪なこと言ってもいいし、わたしが失敗したら、怒ったってかまわないよ。……だから、そんな風に謝ったりしないで」
弱々しいゆきの言葉に、佐伯は驚いたように眉を上げる。
「それに……わたしこそ言い過ぎちゃって、本当にごめんね。いつもどおりでいいの。変に優しくなくていいよ。屈折していても、意地悪でも、怒りっぽくても、そのままでいいよ。わたしは……わたしは、そういう瑛くんのほうがいい。そのままの瑛くんが、わたしは好――……あ」
――好きだから。
思わず流れに乗って本音を口にしてしまいそうになり、ゆきは慌てて言葉を止める。
「今、おまえ……」
佐伯の驚く声を聞き、そして、うっかり言ってしまいそうになった言葉に羞恥を覚えつつも、次第に熱くなってくる頬を押さえてさらに言葉を紡ぐ。
「だっ、だから……、だから、そのままでいいの! 瑛くんは、そのままでいい。そのままがいいよ!」
どんどん俯いていくゆきに、佐伯は小さく息を呑む。そして「……バカ」と、とても小さな呟きが耳に届く。それは、本当に小さな声で、うっかりしたら聞き逃してしまいそうなくらい。
「……ホントにこのままで、いいのか?」
「うん……」
「また意地悪なこと、遠慮なく言うかもしれないんだぞ」
「そんなの、もう、慣れっこだよ」
――慣れているけど、それでも「意地悪」って言うのは口癖みたいなものだから。だから、ホントは平気なんだよ。本当に嫌だからじゃないんだよ。
そんな思いで言葉を紡いでゆく。
「またおまえに、チョップするかも」
「……うん。それも、もう慣れてるよ」
「そう、か……」
「そうだよ」
「……へぇ。そうなのか?」
「…………う、うん?」
一つ言葉を交わしていくごとに佐伯の声が明るくなっていくのは気のせいだろうか。
そう不思議に思いながらもそろそろと顔を上げると、そこにはいつものように一癖ある笑顔が待ち構えていた。
「……そうなんだ。――ほぉ?」
――う、うわ、ひょっとすると……!
「えっ!? ちょっ、ちょっと……!」
やられた! とゆきが思うよりも早く佐伯の声が降ってくる。
「そうかそうか! おまえがそこまで言うなら、仕方ないよな。……早速チョップだ!」
妙に明るい声と共に頭上にびし、と下ろされたのは、いつもどおりの佐伯の手。そしていつもの定位置に小さな衝撃を受ける。
「痛っ!」
「甘いな!」
にやっと笑う佐伯に、ゆきは頭をさすりながら頬を膨らませる。今までの殊勝な態度はなんだったのかと強く非難をしたくなる。
「うー……。お芝居だったの!?」
「ハハハ、ひっかかったな」
「わたし、お菓子あげたのに〜。ひどいよ!」
痛みはないのだが尚もまだ頭をさすりながらじと目で見上げると、それはそれ、これはこれと冷酷無比な言葉が返ってくる。
「オニ!」
「なんだって? もう一度チョップが欲しいのか。おまえ、まだわかってないようだな……よしっ!」
「ひゃあ!」
逃げ腰のゆきの肩に不意に腕がまわされる。「えっ!」と思ったときにはがっちりと捕まっていて、動かないようにしっかりと引き寄せられてしまう。
「ぎゃー! もう、なに!? 離してよ!」
何とか腕は動くので、佐伯の背を軽く叩いて抵抗をするが、「イヤだ」と笑ってその腕を解こうとしない。
「暴れても無駄。覚悟しろよ」
「うぅ、ひどい〜……」
またチョップが降りてくると覚悟をし、ゆきはぎゅっと目を閉じるが、予想していた衝撃はいつまでたっても降りてこない。
――チョップ、しないのかな……。どうしたんだろう。
不思議に思いつつも体をこわばらせていると、大きな手が不意を突いてゆきの頭をくしゃっと撫でる。どうやらチョップの代わりらしいのだが、その手は妙に優しく、暖かい。
「て、瑛くん?」
なんとかして佐伯の顔を見ようとするが、しっかりと頭を押さえ込まれてしまっているので、顔を上げることができない。
――じたばたしても、多分無理なんだろうなぁ……。
仕方なしに足下を見つめていると、ふっと笑い声が漏れるのが聞こえる。
「おまえ、ほんと変な奴。……バカだよ、マジで」
少し前にもバカ、と小さく言われたが、あの時と同じような声。仕方なさそうな――でも、嬉しそうな……そんな声だ。
「ひどいなぁ。もうっ、クッキー返して」
軽く頬を膨らませて言い返すと、ぽんぽん、と頭に触れて「食べちゃったから無理」と笑われてしまう。
文句の一つでも言ってやろう! とゆきが口を開くよりも早く、もう一度佐伯に頭を撫でられる。
そして、驚くゆきの上からは静かな声が降ってくる。
「でも……サンキュウ。おまえみたいな奴って、他探しても、きっと見つからないよ。意地悪でも、屈折していてもいいなんて……こういう奴、そう見つからないよな」
――ホント……ありがとう。
もう一度耳に届いた言葉は、ほんの少しの切なさと優しさが感じられるもので、思わず大きく鼓動が跳ねる。
「瑛、く……ん」
「そういうへんな奴には、今回は特別にチョップ免除してやるよ」
「そ、そう……」
「そうだ」
回されている腕が離れたとき、ゆきはどういう顔をしていいのかわからなくなる。
ほんの少し熱く感じる頬に指先をあて、視線を床へと落としていると、佐伯が不意にくすくすと笑い始める。それは次第にはっきりとした笑い声へと変わる。
「アハハッ、おまえさ、髪が凄いことになってるぞ」
明るい声に視線を上げると、こちらを見て楽しそうに笑っている佐伯と視線が合う。
「え……髪?」
「ああ。ぐしゃぐしゃの大爆発」
わけがわからず、ぼんやりしているゆきを後目に、とうとう肩を揺らして笑い出す。
「えっ……。う、うそ。そんなにひどいの?」
「うん。すごい」
「ああ、もう〜……」
――瑛くんのせいだ〜!
頬の熱が引くどころか、羞恥でさらにかっと熱が高まる。慌てて手ぐしで髪を整えるゆきに、佐伯は大きく息を吐きながら笑顔を向ける。
「ゆき、あのさ」
「うん?」
「今度の日曜、ヒマなら一緒に出かけないか?」
突然の誘いに、髪を梳く指を止めて佐伯をじっと見つめる。照れて視線を逸らす佐伯に、ゆきは目を瞬かせながら問いかける。
「えっ……。いいの……?」
「うん。クッキーのお礼」
「えっ、そんなのいいのに!」
本格的に用意した物ではないし、お礼をされるほど大層な物ではない。慌てて手を振って断るゆきに、佐伯は言いづらそうに口を開く。
「っていうかさ、最初からちゃんと誘うつもりだったから、お礼っていうのは取って付けた誘い文句。……その、都合悪いなら、別に――」
少し顔が赤くなっているのは、おそらくゆきと同じく照れているからだろう。首筋に手を当てて、所在なく視線をさまよわせている。
「うっ、ううん! 予定空いてるから大丈夫!」
「……そっか。じゃあ、出かけるか」
「うん! あ、ねえ、どこに行くの? 瑛くんはどこか行きたいところとかあるの?」
弾む声で尋ねるゆきとはまったく目を合わせようとはせず、ため息混じりに呟く。
「……場所は」
「うんうん」
「その、……おまえが行きたい所。一番行きたい所でいいよ」
驚きのあまり、まじまじと見つめるゆきの視線を受けて、さらに佐伯の顔が赤くなる。心なしかその表情は少し怒っているかのようにも見えるが、それは本当に恥ずかしいからなのだろう。
ここでいつまでもぐずぐずしていると、痺れを切らして佐伯が「やっぱりナシ!」と言いかねないので、ゆきは言葉少なに尋ねる。
「……どこでも、怒らない?」
「うん」
「本当に?」
「怒らないから、大丈夫」
気持ち少しやんわりと目を細めた佐伯に、ゆきは軽く息をのんで答える。
「じゃあ……ここがいいな。珊瑚礁のもう半分、瑛くんの部屋がいいな。それじゃだめかな」
「俺の部屋? べ、つに……構わないけど。でも、そんなんでいいのかよ。もっとこう、遊園地とか、水族館とかってあるだろ」
ゆきと視線を合わせた佐伯は目を丸くして驚いているが、ゆきはそんな彼ににっこりと笑顔を見せる。
「ううん。わたしは瑛くんの部屋がいいな。今日は少ししか用意できなかったけど、今度の日曜に改めてお菓子を作ってくるよ。ダメ押しの予防線を張るためにもね!」
「ダメ押し? なんだそりゃ」
目をぱちぱちさせる佐伯に、ゆきは再び窓際のかぼちゃを指差す。
「Trick or Treat!」
「ああ、『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!』だっけ。……って、俺そんなことひとことも言ってないだろ」
「うん。だから、言われる前に渡すの。今回のクッキーもまさにそれ」
「あっそ」
呆れたように目を細め、ため息交じりで「でもさ」と続ける。
「俺の部屋に来る予定なのに、予防線張るのって……なんか、それ矛盾してるぞ」
「え、なんで?」
その言葉の意味がよくわからずゆきが首を傾げると、佐伯は首筋に手を当てて、言いづらそうに視線をさまよわせる。
「なんでって……。なんつーか、その……、二人きりで部屋にいて、こう、いい雰囲気にならないとも言い切れないだろ……――って俺、なに説明してんだ。……っていうか、なんでおまえわかんないんだよ!」
「わっ、いきなりなに!?」
はっきりとしない物言いかと思いきや、今度はいきなり真っ赤になって声を上げる佐伯。その突然の切り替わりに、ゆきは思わず一歩後じさりしながら、まじまじと彼を見つめる。
「なにじゃない! そんなこと俺に聞くな、バカ!」
強く言ってすれ違い際にチョップを落とし、佐伯はカウンターに向かってずかずかと歩いていく。
――うぅ、またチョップした。チョップ免除っていうのは、さっきだけみたい。……っていうか、瑛くんが何を言いたいのか全然わからないよ、もうっ。
不意をつかれて衝撃を受けたゆきは、痛みにも佐伯に対しても思い切り頬を膨らませる。
白いシャツの背中をじとりと見つめていると、突然佐伯が振り返る。――が、何も言わずにただ黙ってゆきを見つめるばかり。
――あれ? なんだろう……?
「なに?」と言葉にはせずとも首を傾げていると、フゥ、と息を吐いた佐伯が、不貞腐れた顔のままおもむろに言葉を紡ぐ。
「……一応言っておくよ。『Trick or Treat』――お菓子をくれなきゃ、いたずらしてやるぞ。……っていうことで、ちゃんと次の日曜に用意してこいよ?」
「あ……」
――『いたずらかお菓子か』なのに、なんで偉そうなんだろう。『いたずらしてやるぞ』って……瑛くん。
横柄なその言葉にゆきは呆れながら小さく笑うが、ふといたずら心が湧いてくる。ゆきから仕掛ければきっとまた佐伯に怒られるだろうけれど、黙ってばかりではいられない。
――さっき驚かされた仕返し、だよ?
そう心うちで呟いて佐伯を真っ直ぐに見つめる。そして、くちびるに小さな笑みを浮かべながら、そっと言葉を紡ぐ。
「……トリック」
「……え?」
驚き、これ以上ないくらいに目を丸くしている彼に、もう一度ゆきは呟く。
「わたし、トリックでいいよ。次の日曜までに、いたずらを考えておいてね」
「……か、考えておいてねって…………おっ、おまえ、知らないぞ。マジで知らないからな! やだって言っても取り消しなしだぞ!」
子供みたいな口ぶりで、妙に慌てる佐伯がおかしくて、ゆきは肩を揺らして笑う。
「うん、いいよ。だってさっき言ったじゃない。意地悪でも、屈折していてもいいよ、って。だから、いたずらぐらい平気だよ」
目を細めて見つめると、佐伯は赤くなった顔を片手で覆う。そして、大きなため息一つを吐く。
「おまえ……やっぱ全然わかってない。ハァ……いたずらと意地悪されてるのは、間違いなく俺のほうだ」
がっくり、という言葉がぴったりなその様子に、ゆきは首を傾げて尋ねる。
「え、なんで?」
「なんでも」
「どうして」
「どうしても!」
ウルサイ、早く仕事しろ! と再び背を向けた佐伯に、ゆきは心の中で小さく「ごめんね」と手を合わせる。
――ゴメンね。やっぱり、わたしのほうがちょっと意地悪……かも。
少し熱い頬へと指先を当てて、そっとひとこと。誰にも聞こえないように、小さく囁く。
「『どっちも』は、そのうち……かな?」
いたずらも、甘いお菓子も。
それはまたいずれ。
ハロウィンじゃなくても、イベントというきっかけがなくても。
いつか――『どっちも』
End.
2006.12.29初出(2008.02.16WEB公開)