ときメモGSシリーズ

ボーイフレンド【瑛主】



 今日はバイトもなく、だからといって友人からの放課後のお誘いもなく、「ぼんやり帰るかな」と下駄箱で靴を履き替えたゆきに、佐伯が声をかけてきた。
「ゆき」
 少し走ってきたのか、振り返ったゆきの前でハァ、と深く息を吐く。
「瑛くんも、今帰り?」
「ああ。おまえの姿見かけたから追ってきたんだ。……なあ、その、一緒に帰らないか?」
 ストレートに一緒に帰ろうと佐伯が言うのは珍しい。ゆきから声をかけてばかりだったのでこの誘いには内心ちょっと驚いたが、これもファンの女子から逃げる手段のうちの一つなんだろうなと思い一人納得する。
「いいよ。協力してあげる」
「は? ……協力?」
 ぱちぱちと目を瞬かせる佐伯にゆきはちらちらと辺りを窺った後、ぼそぼそと呟く。どこで誰が見ているかわからないし、学校の近くまでは多少なりとも気を使ったほうがいいだろう。
「今日もファンのみんなから逃げてきたんでしょ? なら、捕まっちゃう前に早く帰ろう」
「ファンって、おまえな……」
「急がないと、見つかっちゃうよ?」
 見つかったら面倒なことになるのは佐伯よりはもちろんだがゆきも面倒なことになる。
 廊下で、帰り際の下駄箱付近などで、すれ違いざまに何度ちくちくと牽制を受けたことか。深刻とまではいかないにしても、つまらないことを言われるとさすがにゆきも少しは堪えるし、出来ることなら避けて通りたい。
 ファンの姿を気にするゆきに、ちょっと困ったような顔をした佐伯が首筋に手を当てて呟く。
「逃げてきたとか、見つからないようにとか、俺はべつにそういうのじゃ……」
「え?」
「あ、いや……そ、そうだな。うん、そうしよう。早く帰ろう! すぐ帰ろう! なっ?」
「う、うん……?」


 あと少しでテストだね、夏休みに入ったらお店も本格的に忙しくなるね、という話をしながら佐伯と帰り道を歩いていたのだが、珊瑚礁か、ゆきの家かという分かれ道に差し掛かったとき、珍しく佐伯が「家まで送ってやる」と言う。
 遠回りになるよ? と言っても、「たいしたことないから、別にかまわないよ」と笑って返すばかり。なんだか今日の彼はちょっとばかりご機嫌のようだ。
「ありがとうね、瑛くん」
「別に。どういたしまして」
 少しでも彼と長くいたいという気持ちはゆきも一緒なので、佐伯のありがたい申し出を素直に受け取り、夕暮れの道を二人で歩く。
 こうして佐伯と一緒に帰るようになって、今年でもう三年目だ。春の進路指導のときに、佐伯もゆきも一流大学への進学を希望したので、合格していれば来年の今頃は二人とも大学生になっているはず。
 来年の春には学校も変わり、制服を着ることもなくなる。
 ゆきは、マスターさえよければこのまま珊瑚礁でバイトをさせてもらえたらいいと思っているが、それも新しい環境次第になることぐらいは、なんとなくだけど分かっている。
生活が、環境が変わるのだから仕方のないことだが、一新するであろう生活というのは今はまだ想像すらできない。
 今と変わらずいられたらいい――そう強く思うが、先のことなんてわからない。新しいドアを叩くときは、希望や期待といった明るい気持ちだけではなく、ほんの少しの不安も伴う。
 ゆきが不安に思うことは、隣にいる佐伯とこれからもこうして歩いていけるかどうかだ。小さな不安と思われるかもしれないが、ゆきにとっては大事なこと。
 大切だと思う人と、これからも一緒に歩いていきたい。不確かで曖昧な関係の二人だけれど、変わらずこうして歩いていきたい。
 ――ただ、それだけなんだよ。
 自分の隣にある長く伸びる影を目で追いながら、ゆきは小さく息を吐く。
 「ぼんやり」といった印象で見られていることもあり、ゆきがこんなふうに思っているのを、きっと佐伯は知らないだろう。
「……おねえちゃん!」
 ――先のことなんて、誰にもわからないけれど、でも……変わらないでいられたらいいな。大事なところが変わらないままでいられたら、嬉しいんだけどな。たとえば、こうして一緒に歩く帰り道とか、なんでもないことを話したりとか。そういうの、このままずっと変わらなければいいのに。
「おねえちゃんてば!」
「ゆき。おい、ゆき。呼んでるぞ」
「……へっ?」
 オレンジ色の夕日に染まる家々を視界に映しながらそんなことを考えていたゆきだが、聞き覚えのある元気な声に気付き、ふと足を止める。
 見ると声の主はお隣の家に住む小学生の男の子、音成遊だった。黒いランドセルのベルトに手をかけて、大きな目をまっすぐにこちらへと向けている。
「あれっ、遊くん?」
「あーもう、やっと気づいた! おねえちゃんのこと何回も呼んだんだよ! ……っと、へへっ、佐伯さん、こんにちは!」
 ぱたぱたと足音を立ててこちらへと駆け寄ってくる背後では、彼と同じようにランドセルを背負った男の子が数人、同じように遊のあとについてくる。
「……こんにちは。あいかわらず元気だな」
「うん! 佐伯さんもかわらなそうだね」
「はは……そりゃ、どーも」
 佐伯とのデートやバイトからの帰り、彼に自宅まで送ってもらった際に少しの間立ち話をしていることがあるのだが、そんなときひょっこりと遊が顔を覗かせることが幾度かあった。
 最初は「なんだよ」とでも言い足そうな怪訝な顔つきをしていた佐伯だったが、ゆきの知らないところでも話をする機会があったのだろう。気がつくといつの間にか二人は仲良くなっており、「遊」「佐伯さん」と気軽に呼び合っているのを知ったときは、ゆきも少しばかり驚いたのだった。
「遊くん、今帰りなの? それもみんなお揃いで」
「うんっ」
 にっこりとゆきが微笑むと、遊は深く頷く。
「皆も、こんにちは」
 そして、遊からその友達へと視線を向けて皆に挨拶をすると、ランドセルの一群は照れた笑みを見せ、それぞれに「おねえさん、こんにちは!」と元気に挨拶を返す。
「これからみんなで遊びに行くのかな?」
「うん! 僕の家でゲームするんだ。おねえちゃんも一緒にゲームする?」
 遊が大きな目を輝かせて尋ねてくるが、ゆきは少し首を傾げて彼を見る。
「うーん、今回はパスしようかな。もう少しゆっくり帰りたいなって思ってるから」
 言って佐伯を見上げ、目を細める。そんなゆきを見て、遊は「なるほどね」と神妙な顔で頷いたあと、再び屈託のない笑顔を見せる。
「そっか。じゃあ、気が向いたら窓から呼んで! いつでも仲間に入れてあげるからさ」
「ありがと」
「あと、晩ご飯食べたあとにでも、お姉ちゃんの部屋に行っていい? おっもしろい本見つけたんだよ」
 一緒に見ようよ〜、とねだる遊に、ゆきは笑みを見せて答える。
ゆきには兄弟がいないので、いつも明るい声で「おねえちゃん!」と声をかけてくる遊には少しばかり甘い。
「ほんとう? うん、いいよ。いつでもおいで。窓の鍵を開けておくから」
「へへっ、ありがと。じゃあ、あとでね! 佐伯さんもまたね!」
 友達に「それじゃ行こっか」という具合で合図を目でして、ゆきたちに背中を向ける。
「え。あ、ああ……」
 忙しなくぱたぱたといくつもの足音が遠ざかる中、はしゃぐ声が大きく聞こえる。
「いいな、年上の女の人ってカンジ〜! 大人〜!」
「超かっわいい〜」
「でも彼氏いるんだね」
「ちぇっ、残念」
 などなど、時々ゆきたちを振り返りながら駆けていく。その後姿を手を振りながら見送っていたのだけど、ランドセルのにぎやかな一群は、先の角を曲がったところでその姿を消す。
「あ、アハハ……。元気、だね……?」
「ったく、ませガキどもが……」
 フン、と鳴らしながら佐伯が悪態をつく。彼が渋面で言うものだから、ゆきはついつい笑ってしまう。
「……なんだよ」
 じと、と睨む佐伯に対し、ゆきは肩を揺らしながらううん、と返す。
「なんかさ、小学生から見たら高校生って十分大人に見えるんだなーって思って。わたしたちが二十歳の人を見るとうんと大人びて見えるのと一緒なのかな、ってね」
 今よりもっと幼い頃、制服姿がやけに大人に見えたことをゆきは思い出す。制服も、鞄も、リボンも、すべてが違って見えた。一種の境界線のようにも思えて、それらを身に着けている学生たちが、自分たちよりも大人のように思えて仕方がなかったのだ。
 憧れに袖を通し、大人に思えたこの制服姿でいられるのもあと一年もないところまで来ているが、自分自身で大人になったと思うことはほとんどなく、むしろあの頃と大差がないとさえ思ってしまう。いったいどこまでが子供で、どこからが大人なのか。その境目を見つけることが出来るのは、まだまだ先のようだ。
「まあ、それは何となくわかるけど。……でもさ、おまえを見て年上とか、大人っていう台詞が出てくるのには驚きだな」
 まじまじと頭からつま先までを見つめ、佐伯はプッと吹き出す。日ごろ女子たちに紳士な態度で接している彼だが、ゆきに対するこの反応は随分と失礼なもので、思わず頬を膨らませてしまう。
「失礼な! 遊くんたちから見ればそうなんだから仕方ないでしょ」
「大人の女、ねぇ。……ま、悪くないよな。あ、言っとくけどおまえのことじゃないからな?」
 遠くを見るように目を細めた佐伯に、今度はゆきがじとりと視線を向ける。
「やらしー……」
「な、なんだよ。なにもやらしくないだろ。ただ、悪くないなって思っただけじゃん」
 緩む佐伯の口元。
 ――なにを考えてるんだか。やっぱりやらしー……。
 心の声は言葉にせず、だけどじとりと彼を見る視線はそのまま。
「瑛くんも、子供の頃はあんな風だったんだ」
「は? バカ、違うって!」
「どうだか〜?」
 肩を竦め、笑いながら歩き出すゆきのあとを「こら、待て!」と言いながらついて来る。そして、再びゆきの隣に並ぶ背の高いシルエット。
「聞けよ。あのな、男は仕方ないの。みんな似たようなもんだって。……あ、でも俺はあんな風にロコツに言ったりしないぞ」
 夕日に照らされ、オレンジ色に縁取られている輪郭をゆきはちらりと見る。
「ロコツに言わない方がもっとやらしーかも」
 くすっと笑って言うと、軽くゆきの頭にチョップを落として短く呟く。
「ウルサイ。……まあ、あれだ」
「なに?」
「たとえ相手が子供でも、へらへらムダに愛嬌を振りまかないこと」
 そっぽを向いて言う佐伯に、ゆきは目を丸くして見つめるが、彼がどんな表情をして言っているのか、こちらからはまったく見ることができない。第一、大人の女の話からどうしてこういう話になるのかがさっぱり掴めず、何度もぱちぱちと瞬きをする。
「えっ!? な、なんで? それは、どういう意味――」
「ガキだって侮れないってこと。それに、勘違いしたら面倒じゃん」
 目の端だけでゆきを見るが、やはり彼の言っていることが全然わからない。
なにが侮れなくて、どう勘違いするのだろう。眉を顰め、さらには首を傾げて佐伯の頬の辺りを見つめる。
 「ぼんやり」に続き、「鈍い」と言われるが、佐伯の言うことが何を指しているのか時々分からないことがある。いつ、どこで、というのは別としても、誰が、どうして、どうなった、という言葉を言ってくれないこともあり、彼に言葉の意味を聞き返すことが多くある。けれど、聞き返すときに限って二度とは教えてくれないのだからますます謎が深まるばかり。
「なんの? なにが勘違いなの?」
「……いろいろとな」
 こっちはただでさえ大変なのにガキまで増えたら厄介だ、小学生って言ったってあいつら来年は中学だぞ、とぶつぶつ佐伯は呟く。
 そんな彼の呟きはゆきの耳にもしっかりと届いており、今回は珍しく簡単に彼が指す言葉の意味がわかった。
 面白くなさそうな色を浮かべている佐伯の正面に回り込み、ゆきは首を傾げてにっこりと尋ねる。
「ひょっとすると……」
「なんだよ」
「瑛くん、やきもち妬いてるの?」
 瞬間、佐伯の目が大きく見開かれる。それを見て、ゆきは自分の言葉が間違っていないことを確信する。
 ――わ、本当みたい。やっぱりやきもちだったんだ。
「だっ、誰がやきもちなんて! ……ハッ。バカかおまえは!」
 その口調はとても早口。頬を僅かに赤らめ、でも表情は間違いなく怒っている風でゆきを見つめる。
「だって、ちょっと面白くなさそうに見えて……」
「そんなこと、これっぽっちもない。おまえの勘違い」
「でも……?」
「勘違いだ!」
 一文字ずつきっぱりと言われてしまい、ゆきは「はいはい、わかりました」ととりあえず引いておく。
 ――頑固なんだから。……まあ、いっか。
「でもね、瑛くん。その……大丈夫だと思うよ」
「何が」
「わたし、彼氏がいるように見えてるらしいから」
 自らを指差し、にっこりと笑って見せるゆきを、佐伯はとても驚いたようにまじまじと見つめ返す。
「……え? ――誰だよ、彼氏って」
「瑛くんのことじゃないのかな。さっき、『彼氏いるじゃん』って佐伯くんのこと見てたもの」
「ふ、ふぅん。そうか。……そ、それなら、ガキどももあきらめて近寄ってこないだろ。よかったな。っていうか、あいつらもなかなか見る目がある。うん」
 さっきまでの難しい顔から一変し、今度はちょっと嬉しそうな様子を覗かせる。「子供って正直で素直って言うしな。よし、よし」と何度も満足そうな顔で納得しているのを見ると、悪い気ではなさそうだ。
 佐伯の姿を見て、ゆきはほんの少しくすぐったい気持ちになる。
「瑛くんは、わたしの彼氏役でもよかったの?」
「べ、べつに、なんでも……」
 ふい、と視線をそらされてしまうが、いつになく焦っている様子に嬉しさを覚えてしまい、ついつい問いかけてしまう。
「どうなの?」
「……ウルサイ。いちいち聞くんじゃない」
 視線を合わそうとしない佐伯のそばに一歩近づき、そして、どうしても笑ってしまう口元は隠さずそのままで、首を傾げて見上げる。
「やっぱり、さっきはちょっと妬いてたの?」
 結構やきもち妬きなんだね、と冗談めかして言うと、佐伯は眉を吊り上げては、むきになって反論する。怒っていないとわかるのは、赤くなっている耳と、彼をそばで見てきた『感』だ。
「妬いてない! っていうか、もう帰る。おまえここから一人で帰れ!」
「ええっ、いきなりなに!? って、待ってよ〜」
 眉間に皺を刻み、佐伯はゆきを追い抜いて早足で歩いていく。こういうやりとりはもう慣れっこで、早足で歩く彼の背中を追うのはいつものことだ。一人ズカズカと歩いていくくせに、結局なんだかんだ言いながらもゆきを待っていてくれる。
 離れたり、近付いたり、時には近付きすぎて驚いたり。そんな二人の距離がなんとも言えず居心地がよく、そしてとても愛おしい。
 ――瑛くん、足が速いから追いつくのが大変だけど、でも……こういうやり取り、続けていきたいな。面白くなさそうに待っていてくれる瑛くんに追いつくのって、わたし、嫌いじゃないんだよ。――待っていてくれるから。どんなに遅くても、瑛くん、ちゃんと待っていてくれるから……わたし、好きなんだ。
 追いついたゆきにちらっと視線を流す佐伯は、やはりふくれっ面をしている。
「離れて歩けって。誤解されるだろ」
「誰に?」
「皆に」
「彼氏って?」
 ぼそぼそと呟くその声に、わかっていても敢えて問いかける。
 また佐伯の機嫌を損ねてしまうことは目に見えているが、たとえまた彼の背中が遠ざかってしまっても、何度だってその後を追いかけるつもりだ。
 何度も何度も繰り返し、ゆっくりでもいいから心の距離が近付けばいい。たとえ同じことの繰り返しでも、近付きたいという気持ちを忘れない。
 なんでもない会話と、つまらない言い合いの中に、きっと大切なことがたくさんちりばめられているはず。そしてその一瞬一瞬は、きっとかけがえのない宝物になるのではないかとさえ思う。気付かないうちにいつの間にか大人になったとしても、決して失われることのない大切な宝物に――。
「……ああもう、おまえうるさい。こんなことなら、急いでおまえのこと追いかけるんじゃなかった」
「え……?」
「昇降口でおまえのこと見かけたから、一緒に帰りたいって思ったのに……まったく」
 深くため息を吐く佐伯の横顔をまじまじと見つめる。
 ――じゃあ……、ファンのみんなから逃げるためじゃなくて……。
「ほんとに、わたしと一緒に……?」
「う……」
 驚きを隠せないまま呟くと、一瞬だけしまった、といった感じで佐伯は言葉を詰まらせる。その様子からして、おそらく言うつもりの言葉ではなかったのは明白だが、会話の流れについ口を滑らせて締まったのだろう。「失敗した……」と照れくさそうな顔で首筋に手を当てている。
「瑛くん……」
 いつも自分ばかりが追いかけていると思っていた。
 帰り道も、怒ったときの早足も、どこかに行きたいな、と誘うときも、いつもゆきが彼を追いかけているのとばかり思っていたのに。
「い、いいだろ。俺だって、そういうときぐらい、ある……んだから。……ホラ、もう行くぞ! のんびりしてたら夜になる」
 ゆきを置いて佐伯は再び歩き出すが、その歩調はさっきとはまるで違う。ゆっくりと離れていくその背中は、数歩足を踏み出せばすぐにでも届く距離にある。
 どきどきと妙に騒ぐ胸の辺りへとそっと手をあて、ゆきは浅く息をする。そして、足を弾ませては背の高い白い夏服のシャツを軽く握る。
「……ありがとう」
「ゆき?」
 僅かに驚いているようなその声に、もう一度だけ短く呟く。
「ありがとうね」
 今こうして掴んでいるのは制服のシャツだけど、できることならこれから先も、手を伸ばせば届く距離にいたい。
 夏が過ぎ、秋が訪れ、冬を越しても。
 制服の頃を過ぎても、ずっと。
「追いかけてくれて、ありがとう」



End.
2006.12.29初出
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