ときメモGSシリーズ

好きしか残らない【瑛主】



 待ち合わせの時間は二時半。
 そして今、携帯の表示画面に浮かび上がっている時間は二時四十分を示す文字。
「……まずいな」
 そう呟くものの、佐伯は走り出そうとはしなかった。
 歩いていってもどうせあと二分ほどで着くし、それにいつも遅刻してくるのは夏川ゆきのほうだ。
 ――だから、多分大丈夫だろ。あいつがもし先に着いていたとしても、そんなに待ってないだろうし。
 そんなことを思っていた。
 昨日は随分と雨が降っていて、ひょっとしたら今日も雨で約束が流れてしまうんじゃないかと思っていたが、空は太陽を取り戻し、その光を地上へと降り注いでいる真っ最中。
 水溜りがあちこちにできるくらいの降雨のあと、眩しいくらいの太陽の光がさんさんと輝くと、暖められた水分が蒸発し、嫌に蒸した暑さを作り出す。
 夏の暑さが好きな佐伯でも、この湿度の高い空気はあまり好きではない。
 じっとりとした空気がべたべた肌にまとわりつくし、髪型だって一歩外に出たら望んでいない方向に跳ねるし気鬱になる。それがさらに足を遅くさせている原因だった。
 歩いていけばいいとは思いつつも、さすがにちんたら歩くわけにも行かず、少し早歩きで駅前に向かったのだが、待ち合わせ場所の駅の出口が見えてきたところでその足取りがぴたりと止まる。
 彼女は確かにそこにいた。
 約束の場所に佐伯よりも先に着いていた。
 それも、結構早くに来ていたのだろう。早く来ていたがゆえに、きっとあんな『ナンパ』男に狙いを付けられてしまったに違いない。
 視力が弱い佐伯でも、コンタクトをつけていれば視界は良好。自分の立ち位置よりも少し先にある光景にぴくりと眉を跳ね上げた。
 ――なんだ、あの男。
 じめじめとした湿気で気鬱になっていたが、そこに不快感がプラスされる。
 ゆきにへらへらと笑顔を浮かべてまとわりついている茶髪の男性。妙に派手な衣装で、おまけに手や腰まわりなどに不必要なくらいアクセサリーをジャラジャラさせており、絵に描いたようなその軽薄ぶりに佐伯は辟易する。
 ――こういうの、本当にいるんだな。ある意味感心した。
 深く息を吐くが、けれどそう感心してばかりもいられなかった。男の手がゆきの腕を掴んだ時、ひゅっと小さく息を呑み、その次の瞬間には何かに弾かれたように走り出していた。
 一、二分の距離なら歩いたってかまわないと思っていたのに、数十メートルしかない距離で見かけた光景に、咄嗟に走り出したのだった。
 ――ふざけんなよ、なに手なんて掴んでんだ、このバカ!
 心うちで罵倒する言葉は勿論ナンパな男性へ。
「離してください!」
「オレと付き合ってくれるって言うんだったら離してあげる。ねっ? そんなに怖い顔しないでよ〜。ささ、行こうぜ」
「ちょ、ちょっと……! ちょっと、や――」
 言葉以上に明らかに嫌がっているゆきの表情。それに気づかない――というか気づいていても嫌がられるのが楽しいのか何なのか、明らかに周囲の視線を浴びながらも、浮いているこの空気をまるで読んでいない無神経な男。
 どうして誰も助けてやらないんだと苛立ちを感じながらも、佐伯は深く息を吸い込み、ゆきの腕を掴む男の腕をきつく握り締めた。
「……おい」
 思いのほか低い声に自分自身でも驚く。
「アンタさ、ナンパなら相手見てやれよ。恥かくだけだぜ」
「はぁ? なんだ、テメェは? この子は、もうちょっとでオレが――」
 振り向きざま佐伯を見上げた男の視線が高い位置にある顔を見て、その目が驚いたように見開かれる。
「オレがなんだよ?」
「ヒッ! お、オレが……いっ、いえ! 僕がぁ、ですね……」
 何に驚いているのかは知らないが、言ってみろ、とさらに佐伯がきつく睨むと、男は口ごもりながらその視線を徐々に逸らし、そして妙に低姿勢になる。
 この変わりようは何なのか。
 すごまれて怯むくらいなら声なんてかけなければいいものをと苛立たしさがさらに募っていく。
 そもそも声をかける相手を間違ってるよあんた、と佐伯は思う。もっと暇そうなヤツに声をかければいいものを、なにをどう高望みしてゆきに声をかけたのか。つい声をかけたくなる気持ちはわからないでもないが、自分のレベルをまるでわきまえていない。
「あ、あの……。え〜と…道をお尋ねしようかなぁ、と思いまして?」
 あは、あははと乾いた笑いを発する男に、見え透いた嘘を吐くなと言葉にはしなかったものの、その思いが眉間の縦皺になって深く刻まれていく。
「この辺りでダセぇ真似すんなよ。――目障りだ。それと、人の女をこの子呼ばわりすんな」
 腹立つ、とさらに凄むと、男は「ス、スイマセンでしたっ!」とそそくさとその場を離れていく。その姿はあっという間に人ごみにまぎれてしまい見えなくなる。まったく逃げ足だけは速い。
「ったく、何だってんだあいつ。ナンパなんて百年早い」
 苛立ちも収まらず、また、きつくなった目元がなかなか戻らないまま男が消えていった方向を睨んでいると、ゆきに恐る恐る声をかけられる。
「さ、佐伯くん。あの、あ……りがとう。助かったよ」
 いつになく殊勝なその態度に、佐伯は面食らうが、よくよく見てみるとバッグを握る彼女の手が微かに震えているのがわかる。
「え、あ……。いや、俺も遅れたから。ホントごめんな」
「うん。……わたし、びっくりしちゃって……」
 あんなにしつこいのは初めてだったから、と彼女は小さく言う。
「手、掴まれてたもんな。そりゃ驚くよ。つーか俺ももっと早く来るべきだったよな」 
 離れたところからでも抵抗するゆきの声が聞こえていたが、あの時は随分とはっきり、そして強く相手の誘いを断っていたように見えたのだが、あれは精一杯の抵抗だったのだろう。今こうして笑顔を見せていても、幾分こわばっているのがわかる。
「佐伯くん助けてくれたから、ほんとよかった。ありがとうね」
「い、いや……べつに……」
 明るくて、元気なところばかりだと思っていた。
 けれど、やっぱり彼女も普通の女の子には変わりなく、弱いところだって勿論ある。
 それを目の当たりにし、佐伯は少しばかり戸惑いを感じた。
 ――なんか……調子狂うな。『なんで遅れたの!?』ってふくれっつらされるかと思ったのに。……でも、こわかったんだろうな、やっぱり。
 そう思うと申し訳なさがこみ上げてくるのだが、もう一度その気持ちを言葉にしてあらわすにも、さっきから互いに「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返してばかりだ。
 堂々巡りになりかねないこの状況をどうしたらいいものかと視線をさまよわせていると、ふと自分の発した言葉で引っかかるものがあることを思い出す。勢い任せに口にした言葉の一つが急に頭に浮かぶ。
「……あっ」
「えっ?」
「あの、さ」
「うん?」
 首をかしげるゆきに、佐伯は首筋へと手のひらを当てつつも、ぼそりと呟く。
「……あ、あの、さっきのあんま気にすんなよな」
「さっき、って?」
「その……人の女って言ったのは、あくまでも勢いだから。ふ、深い意味とかないから」
 自分で口にしておきながらも、改めてみるとなんて恥ずかしいことを口走ったのか。意識するたび耳がかっと熱くなる。何より、口ごもりながら言うとますます恥ずかしくなる。
「えっ? う、うん……。わかった」
 驚いたようにゆきは目をぱちぱちと瞬かせているが、その頬に少しずつ赤みが差していく。
 なんだかさらに気恥ずかしい雰囲気を作り出してしまった感が否めない。
 戸惑いながらも視線を逸らすと、駅前にある大きな時計が目に映る。
 ――二時四十七分、か。
 ぼんやり時間を読むが、ふと思い出してみるとそもそも今日待ち合わせをしたのは一緒に映画を見に行く約束をしたからだ。
 余裕を持って少し早く待ち合わせをしようということだったのだが、気がつけばあと十分程で時計の針は三時を指すところだ。
「……げっ。やべ、時間迫ってるぞ」
「えっ!? うわっ、ほっ、ホントだ! いい席なくなっちゃうよ、佐伯くん!」
「だよな。よし……行くぞ夏川」
 いつもならここで先を行くところだけど、今日は違う。
 休日と言うこともあり、駅前は妙に人であふれているし、おまけにさっきのナンパもあった。ぼんやりしている彼女のことだ、うっかりはぐれてしまうかもしれない。
 もっともそう離れず歩けばいいだけのことなのだが、佐伯はそれをしなかった。
 空いている彼女の片手を掴み、軽く引き寄せる。弾みで一、二歩足を踏み出した彼女が驚いたように目を丸くして自分を見つめている。
「……さっきみたいな変なのがいたら、絶対に映画観れなくなる。手、少しだけ我慢しろよな」
 気恥ずかしくてゆきを見られずにそっけなく言うと、うん、という躊躇いがちな小さな返事とともにこの手をそっと握り返される。
 この一瞬、妙にどきりと鼓動が跳ねたのは自分だけの秘密だ。そして、なんて柔らかい手なんだろうと思ったことも秘密。
 ちょっと変わった奴で、おっちょこちょい。そしてとぼけた同級生。少し前まではそう思っていたけれど、最近少しその評価に変化が起きはじめている。
 一緒にいると他の奴誰といるよりもほっとできる女の子。のんびりしててとぼけているくせに、時々妙に聡い奴。それが前までの彼女に対する評価だが、たいして気にならなかった存在から、ここ最近どうも目が離せなくなってしまっているのが不思議でたまらない。
 ――なんか、嫌な予感。
 何かが変わる予感。自分自身も、彼女に対するこの気持ちも、何かが変わっていくのを感じる。
 手を繋ぎながら、妙にドキドキし、体温がかっと熱くなっていくのを感じる。これは湿度のせいじゃなく、明らかに繋いでいるこの手のせい。
 ただ手を繋いだだけで過剰反応してしまう自分自身に少しだけ情けなさを感じ、しっかりしろ! と叱咤したくなる。
 ――かっこ悪い。たかが手でなにドキドキしてんだ。
 それも、こいつに――。ちらりとゆきに視線を向ける。
 友達以上にある微妙な感情。それがどこに向かうのか、なんとなく自覚をし始めているから厄介だ。
 キライじゃなくて、普通でもない。
 もっというなら友達という感情も超えている。じゃなかったらナンパ男の手が彼女の腕に触れたとき、きっと駆け出したりはしなかったはずだ。
 自分以外の誰かが気安く彼女に触れるのが面白くない。はっきり言って不愉快以上の何ものでもなかった。
 キライでもなく、ふつうでもなく、友達でもない。
 そうなったら残る思いはただ一つ。
 『好き』しか残らない。
 夜眠る前、そしてひとりでぼうっとしている時間に何度も何度も考えてみたけれど、やはりどうしたってこの答えに行き着いてしまう。
「……はぁ」
「佐伯くん、なに? ため息なんて」
 どうかしたの? と笑いながら自分を見上げる彼女に『人の気もしらないで』とチョップをしたい思いに駆られつつも、佐伯はぎこちなく笑った。
「ウルサイ。なんでもない」
「……へんなの」
「おまえに言われたくない」
「なによ、それ」
 ――ホント、人の気もしらないで。
「うん? なに? なにか言った?」
「……あーもう、うるさいよおまえ!」
 まったくもう。そう小さく呟いて、信号の色が青に変わるのを待った。彼女はぷくっと頬を膨らまして佐伯を見つめているが、その視線に気付かない振りをして信号だけを見つめていた。 
 次の約束から、佐伯がゆきより遅れて待ち合わせ場所に現れるということはほとんどと言っていいほどなかった。



End.
2007.07.12UP
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