いつものように瑛くんの部屋で一緒に晩ごはんを食べて、のんびりとしている時。
読んでいた雑誌か顔を上げて、何気なく視線をめぐらせたとき、ふと目についたものがあった。
ベッドの隣にそっと立てかけてあるのは、以前みたことのあるギターだった。
懐かしささえ感じるそれに、わたしは指をさして尋ねてみた。
「あれ……珊瑚礁にあったギターだよね?」
片肘をついてレポートと向き合っていた瑛くんは、眼鏡をかけたままちらっとわたしを見て頷く。
「うん。じいちゃんに譲って貰ったんだ」
でも、少し前まではなかったような気がする。
わたしは少しだけ納得しないような顔をしてふぅん、と呟いた。
それで瑛くんもわかったらしく、「この前じいちゃんの家に言ったときに、貰ったんだよ」と付け足した。
「弾けるようになった?」
「まぁ、昔よりはな」
制服を着ていた頃に、ハリーから一生懸命教えてもらっていたことをわたしは思い出す。
どんなにねだっても聞かせてくれなかったけれど、今はどうなんだろう。
変わらず練習は続けていたのかな。
「練習してたんだ?」
「少しずつだから、超スローペースでの上達だけどさ」
決まり悪そうに笑って瑛くんは眼鏡をはずし、「うーん」と伸びをする。
コーヒーでも淹れるかと瑛くんが腰を上げたとき、高いところにある端正な顔を見つめてわたしは聞いてみる。
「聞かせて?」
「ん?」
「ギター。聞いてみたいな」
「……っていっても、下手だぞ」
苦笑しているけれど、断られはしなかった。
「聞いてるのがわたしでもだめ?」
もう一度聞いてみると、瑛くんはふいっと視線を逸らし、ため息混じりに呟いた。
「……おまえさ、なんか、上手くなったよな」
「えっ、なにが?」
「ねだるのが」
「そうかな」
「そうだ。……しかたない、特別。外しても笑うなよ」
「笑わない!」
ホントかよ、と瑛くんは困ったように小さく笑い、コーヒーを淹れる代わりにギターを取る。
ベッドの端に腰掛ける彼のすぐそばで、わたしは頬杖をつく。
肘がほんの少しベッドに埋もれてしまうけれど、瑛くんを見上げるにはベストポジション。
ベッドの高さもわたしが肘をつきやすい高さ。うん、丁度いい。
そして、ゆっくりと奏でられるメロディ。聞いたことのあるこの曲は、ラブソングだろうか。
一音、一音が二人だけの部屋に溶けていく。
時々弾きづらそうで、音がかすれたり、とぎれがちになるけれど、それでも柔らかい音がゆっくりと流れていく。
今のこの時のように静かで穏やかだ。
ゆっくりで、けして上手ではないけれど、でも優しくて、嬉しくて、それは切なくなるくらい。
まるで二人の関係みたいで、ちょっとくすぐったい。
音を外すたびに、二人で一緒に小さく笑ったけれど(瑛くんも笑っているから、わたしも笑った)、瑛くんの指が、曲を締めくくるように弦の上を流れていく。
重なりあう音がやがてゆっくりとこの部屋に溶けていく。
しん、とした静寂が戻ったとき、わたしが何度も拍手をしたので、瑛くんは少し照れた表情を浮かべて肩を竦めた。
「これが精一杯」
下手でごめん、とふてくされたような、でも申し訳なさそうな複雑な顔で瑛くんは言う。
「ありがとう。嬉しかった」
頬杖を外し、程よい高さのベッドに頬を寄せて目を閉じる。
少し伸びた髪が、頬にかかる。
蛍光灯も少しまぶしい。瞼の裏で、丸い影が映る。
「なんか、暖かくて優しくて。でも、優しすぎてもどかしいっていうか、ちょっと切なくなっちゃうような曲だったね」
そう呟くと、「そういう歌なんだってさ。針谷にCD聞かせてもらったんだけど、やっぱりそんな感じがした」と瑛くんは言う。
「もうちょっと上手かったら、多少雰囲気違うんだろうけどな」
ため息を吐く瑛くんに、わたしはううん、と首を振る。
上手じゃなくても、わたしは好きだよ。
不器用でも、構わない。
暖かくて、何かに包まれているような気がしたから。
幸せな気持ちになったから。
言葉にはせずにちいさく微笑むわたしの頬にかかる髪を、そっと払う指先。
ゆるやかな時間。こんな贅沢な時間を、少しずつ重ねている。
高校を卒業してからもう一年半経つけれど、今もこうしてそばにいる。変わらずケンカもするけれど、愛しさは増えていくのだから、不思議。
「なんか、わかんないけど……思ったの。瑛くんのギターを聴いてて、ちょっと思ったんだ」
「なにを?」
「こういう時間って、凄く幸せなことなんだって」
柔らかい音色。
暖かでゆるやかな時間。
想う人がすぐそばにいるこのひととき。
愛しすぎて、幸せすぎて涙がでそうになるのは、やはり切ないからなんだろうか。
寂しくないのに。辛くもないのに、胸が苦しくなるのは切ないから?
だとしたら、このもどかしい感情はどうして過ごせばいいんだろう。
一緒の時間を過ごせば消えるのだろうか。
このままここで夜が明けるのを一緒に過ごせば、この不思議な気持ちは消える?
わたしは顔を上げてもう一度両手でほおづえをつき、そして、ベッドの端に腰掛けてギターを持つ瑛くんを見上げる。
ん? という顔でわたしを見る瞳。
少し上がった眉を見つめ、思っていることを言葉にする。
「今日、帰らなくてもいい?」
そっと尋ねてみた。もっとそばにいればわかりそうな気がする。
好きな人のそばに。
――そうすれば、この切なくて、もどかしい気持ちは消える?
愛しいのに、切ないなんて不思議。
へんなの。苦しくなる。
このまま一人で帰ったら、もっと切なくなる。寂しくなる。泣きたくなるよ、きっと。
再び頬杖を外し、ベッドにぴたりと頬を寄せるわたしの耳に、深いため息が聞こえた。
「やっぱり、おまえさ、ねだるの上手いよ。……腹立つくらい」
少し面白くなさそうにいう声が可笑しくて、わたしは肩を揺らす。
「帰った方がいい?」
顔を上げずにそう呟くと、ベッドが軋む音がする。
視界が少し陰るのは、瑛くんが困ったように笑ってわたしを覗き込んでいるからだ。
「そんなこと言ってないだろ」
「じゃあ、いてもいい?」
「……まあな。居て、よし」
「よかった」
きっとキスが降ってくるだろうと思い、わたしは目を閉じた。
頬に、髪に触れられる。
窓から見える笑う月を見て、わたしは思った。きっと、いくらキスしても足りない――と。
「……何?」
少し微笑んで覗き込んでくる瑛くんの首筋に腕を回し、額を寄せて同じように笑顔を浮かべた。
「ううん、なんでもない」
二人でいられるなら寂しくない。
そばにいてくれるなら、きっと。
灯りを消した部屋の中、幸せな時が流れていく。
End.
2007.02.25UP