ときメモGSシリーズ

Re:【瑛主】



「あ、瑛くん。おはよう」
 少し早めに学校に出てきた佐伯は、まだ誰も来ていない教室で一人昨日の授業内容の復習をしていた。近いうちにテストもあることだし、予習じゃなく、復習。それもいいだろう。そう思ってペンを走らせていたのだが、静かな教室の中、ふと声をかけられ、一瞬びくっと肩を上げる。
 驚いたというのはもちろんだが、もし自分を取り巻く女子の一人だったらどうしようかと思ったのだ。
 おそるおそる振り向くと、入り口からひょこっと顔を覗かせていたのは、他の誰でもない、夏川ゆきだった。にっこりと笑う彼女。手までひらひら振っている。
「なんだ、おまえか。びびった……」
 彼女だったからよかったものの、これが他の女子だったらどうしようかと思った。
 眼鏡をかけている姿を見られるのは、いやだった。かっこわるいし、なにかにつけまた騒ぎ立てられるのは勘弁したい。でも、それは、杞憂に過ぎなかった。
「早いじゃん、週番か何か?」
 ペンを走らせる手を止め、下りては目元にかかる髪を軽くかき上げる。
「うん、そう。昨日からちょっと早く出てきてるんだ。お花の水もやらなくちゃいけないから」
「大変だな。おつかれさん」
「そういう瑛くんは、今日も早勉?」
 お邪魔します、と教室の中へと入ってきたゆきは、佐伯のすぐ目の前の席を引いて、浅く腰掛ける。遠慮がちなのは、自分のクラスではないからだろう。
「そう、早勉。やっぱ家だと落ち着かないから」
 何かにつけて店のことが気になってしまうし、そうなるといつまでたっても集中できなくなってしまう。だから、人気のない朝の学校は一番気が引き締まる。
「そっか。で、やっぱり眼鏡をかけている、と」
 自分の目元を指差し、にっこりと嬉しそうに笑うのが何となく気に入らない。少しからかわれているような気がしてならないのだ。
「なんだよ。悪いか。つーか、あんま見んなよ」
 こんなことならやっぱりさっさとコンタクトをつけておけばよかった。疲れた目元をきつくして、眼鏡を外す。
「あっ、取っちゃった!」
「ウルサイ」
 残念そうな声に、チョップでもおろしてやろうかと手を伸ばすが、眼鏡を取ってしまったせいか、簡単によけられてしまう。
「くそ、逃げられた!」
「ふふっ。残念でした。……ねぇ、本当に見えないの?」
 なんとか彼女の顔は見えるものの、多少、いや、大分ぶれて映っている。乱視が混じっているというのはいささか厄介だ。焦点の合わないぶれた天然のレンズは心底苛々する。視力がいい者を、心からうらやましく思う。
「見えなくはないけど、どういう表情してるのか、ちょっとわかんない」
 ぎゅっと眉間に皺を寄せて焦点を定めようとしても、どうしてもぼやける。ぶれる。頑張れば頑張るほど疲れるし、それでも見えない分ストレスが溜まる。
「じゃあ、文字は?」
「顔がわかんないんだから、もっと見えないよ」
 そう言うと、ゆきはふうん、と感心したように呟き、さらには「なにかいらない紙とかある?」と尋ねてくる。
 いらない紙はないが、ノートの後ろ側なら別に問題はない。最後のページからなら構わないと答えてノートを反すと、「じゃあこれもかして」と佐伯の手からペンを取る。
「ちょっと待っててね」
 小さく鼻歌なんて歌い、彼女は反したノートにペンを走らせる。それも、佐伯に背中をむけて、こちらから見えないようにしているから何を書いているのかさっぱりだ。
「質問その一。瑛くん、これ見える?」
 振り向き、差し出されたノートにはなにやら文字が書かれているようなのだが、全くわからない。どんなに目を凝らしても見えない。
「わかんない。もっと大きく書けば見えるかも」
 すると彼女はまた背を向けて、ペン先を動かしている。
 どうやら彼女なりの視力検査らしい。半ば面白がっているようにしか見えないのだが、まあいいか、と佐伯は付き合うことにした。
「えっと……じゃあ、これ。一回り大きく書いたんだけど……み、見える、かな?」
 そろそろと差し出されたノートといい、躊躇いがちなその口調といい、あまりいいことは書かれていないようだ。
「見えない。つーか、おまえ、見えないことをいいことに、何書いてんだ」
 むすっと言い捨てると、彼女はぶるぶると首を振り、そして慌ててこちらに背を向ける。
「た、たいしたことじゃないよ! ……え、えっと〜、じゃあ次!」
 どう見たって怪しい。大した事じゃないはずだ。
「……時間切れ」
「最後だから!」
「ったく……」
 少しだけ待ってやると、それほど間をおかずにゆきは振り返り、はいどうぞ、とノートを向ける。
 二度目よりもさらに大きく書かれているようだが、やはり読めない。文字が滲んで見える。
 読めないのもこれで三度目。彼女のちょっとしたお遊びに付き合ってやるつもりだったが、彼女が何を書いたのかちっともわからない上に、佐伯の反応を見て、ほっとしたような、そして少し嬉しそうにも思えるその様子とに、次第にイライラし始める。
「ああもう、だから読めないって! おまえ週番の仕事あるんだろ。さっさと行けよ。勉強の邪魔。シッ。あっち行け」
「シッ、って……! 犬じゃないんだからね、もうっ。――って、ああっ、ペンまで取り上げるなんて!」
 彼女の手からペンを取り上げると、不服そうな声で彼女は言う。
「これ、俺のだから。言っとくけど?」
 次いでノートを引き寄せようと手を伸ばすと、「わっ」と慌てた声を上げてゆきが佐伯より早くノートをつかみ取る。
「おい、なにす――」
「ちょっと待った! だめ、見ちゃダメだって!」
 珍しくゆきは慌てている。
「さっきまで自分から見せてただろ」
「眼鏡かけて見られたくないの! 視界良好バージョンの佐伯瑛はダメ!」
「バカ、なにわけわかんないこと言ってんだ。とにかく、俺のノート返せ」
「引っ張らないで! ダメだってばっ。ああもうっ」
 途端、びりっと小さな音がする。
 明らかに紙が破けた音だ。見ると、さっき使っていたところが小さく破り取られている。
「アアッ!? おまっ、なに勝手に……っ!」
 目をつり上げ、目の前にいるはずの彼女を見たつもりだったのだが、危機を察知したのか、ゆきはさっさと席を離れていた。普段トロいくせに、こういうときだけやけに行動が素早い。
「破っちゃって、ごめんなさいっ!」
「って、逃げんな! 待てコラ!」
「そんなこと言われて待つ人なんていないよーだ」
 すでにドアの所まで逃げてしまった彼女は、制止の言葉を振り切って、「またね!」と明るい声であっという間に消えてしまう。
 残るのは、人気のない廊下をぱたぱたと走る足音だけ。
「逃げ足の早いやつめ! ったく。何しにきたんだ、あいつ!」
 ため息を吐き、そしてほんの少しイライラしながら、勉強途中だったノートをめくろうと手を動かすのだが、なぜ彼女があんなにムキになってノートを渡したがらなかったのかがふと気になった。
 どうせ悪口だろうけど、何を書いていたのかぐらいは知りたい。
 文字が書かれてあるものは彼女が破り去ってしまったが、適度な筆圧で書いていれば、次のページにも筆跡が残っているかもしれない。
 ――フン。ゆきのやつ、手抜かりありだ。……よし、チェックしてやる。事と次第によってはチョップで返り討ちにしてやるからな。
 おろかものめ! と心うちで呟き、「筆圧に気付くなんて、さすが俺。見てるところが違うな!」と自らを褒め称えまでした。
 机の上に置いた眼鏡を手に取り、再び掛けてはシャープペンで薄く塗りつぶしていく。芯が折れないように斜めにペンを倒して薄く塗っていくと、まず一つ目が浮き出てきた。
 それは彼女の小さく丸い文字の跡だ。佐伯の文字ではない。
「お、あったあった。なになに………さ、え、き……てる。――なんだ、俺の名前じゃん」
 一つ目は「さえき てる」。佐伯のフルネームがひらがなで縦一列に書かれている。それだけだった。
 じゃあ二つ目はなんだろう。
 ゆきは随分おどおどしていたようにも思える。
 先ほどと同じように角度をつけてペンを動かし、浮き出てきた二つ目の言葉を追っていく。
「『いじわる! チョップ名人』だあ? ……っの〜、ゆきのやつ! チョップ決定だかんな!」
 怒りを口にしたものの、まるで子供のようなゆきの残した言葉を見て、佐伯は小さく吹き出す。
 ――なんか、まるっきり子供のケンカみたいだな、これじゃ。
 乗ってしまっている自分も自分だけど、と肩を揺らす。
「さて……と、三番目の言葉は……と」
 さらにノートを塗りつぶしていると、三つ目の言葉、つまりは最後の言葉が浮き出てくる。
 そして、すこし大きめな文字を見たとき、どきり、と鼓動が跳ねた。

『でも、好きだよ。』

 慌ててノートを閉じてしまった。
 見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。
「やば……、なんか……」
 ――なんか、顔が笑う。嬉しくて。
 せっかく勉強しようと早めに出てきたのに、ゆきのせいでこれじゃちっとも頭に入りそうにない。
 『でも、好きだよ。』たったこれだけの台詞で、さらに簡単に気持ちが舞い上がる。
「成績下がったら、おまえのせいだって言ってやる」
 ひとりごちて、そっとノートを開いては、ペンを走らせる。
 メールなんて、携帯メールぐらいしか返していないが、便利な言葉もあるものだと感心した三つの文字を、彼女が残した言葉の前に文字を書き足す。そして、『でも、』と言う文字の上に横線を二本つける。
 アルファベットと記号の三文字。これがつくだけで、返信になるのだから、随分と簡単なものだ。
 それを面と向かってこの唇で紡ぐことはとても難しいのに、この三文字を書き足すのはなんて簡単なのだろう。
「しばらくこんなの絶対に言ってやらないからな」
 言ってやらないのではなく、まだ言えないだけなのだが、小さな強がりを呟いて、ノートを閉じた。



End.
2007.02.16UP
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