ときメモGSシリーズ

そして僕の夜が明ける【瑛主】



 小さなバッグに簡単に荷物を詰め込む。シャツとジーンズ、あとは念のため勉強道具一式。本当だったらこんなものは持っていきたくないのだけど、どうせ暇なら時間は有効に使うべきだと思ったのだ。海が遠いあの場所では波乗りすら簡単にできないから、適当に暇をつぶすためのいいアイテムかもしれない。
 久しぶりに実家に戻る春休み。とはいっても、おそらくじっとしていられずに早々に羽ヶ崎に戻ってきてしまうことは目に見えている。そこでまた父とつまらない口論を繰り返すのかもしれないが、面倒な雲行きになったら振り切ってしまえばいいことだ。子供っぽいかもしれないが、面倒なことになるよりはまし。
 なので、本当に少しの荷物で十分。着替えなんて実家にもある。
 軽いバッグとは反対に、重い気持ち、重い足取りで佐伯はリビングにいる祖父の背中へと声をかける。
 祖父はソファーに腰掛け、コーヒーを片手に新聞を読んでいる。テレビは点けていないため、エアコンの音だけが静かに聞こえる。
 自分の祖父とはいえ、ドラマに出てくる穏やかな紳士といった感じがして、なかなか絵になるな、と佐伯はふと思った。
「じゃあ、行って来るよ」
 短く言う佐伯を振り返り、祖父は小さく笑みを浮かべる。
「行っておいで。そして二人に宜しく伝えておいてくれ」
 夏前には、一度そっちに行くから、とも言った。
「うん。それはわかったけど、本当に大丈夫なの、じいちゃん。一人で店やるだなんて……」
 佐伯が留守にする間、祖父は一人で店をやると言って聞かない。
 せめて臨時休業にでも、と佐伯が言っても首を振らないし、そんなに休んでいたらお客様の足が遠のいてしまうよ、と真剣な顔をされてしまった。
 もっともなことだけに、佐伯も強く言い返せない。
 臨時であと一人バイトを雇えるほど経済的に余裕があるわけでもないので、仕方ないと言ったら仕方ないのだが、以前倒れた時のことを思うと心配で仕方がない。
 かといって春休みの間、毎日ゆきに――夏川ゆきにバイトに入ってもらうのも忍びない。
 彼女にだって予定があるだろうし、こちらの都合ばかり押しつけることもできない。それに、「春休みに実家に戻るかも」と匂わせたぐらいで、今日から戻るということをきっちり彼女に伝えてもいない。
 いきなり「毎日バイトに出てきてほしい」と持ちかけられても彼女だって困ってしまうだろう。
 都合がいいように扱うのがなんだか心苦しく、佐伯は彼女に言い出せないでいた。バイトなんだから使って当然といえば当然なのだろうけど、気持ちがしっくりこない。
「毎日店を開けるといっても、夕方からのことだし、この時期ならまだそうお客も多く来ないだろうから心配はいらないさ。それに、おまえはどこまで人を年寄り扱いするんだ?」
 わざとらしくため息を吐く祖父に、佐伯は苦笑する。
「だってホントのことじゃん。前だって倒れたんだぜ? 若い振りしても、体は正直なの。わかる、じいちゃん」
「まったく、一人前の口を利いて。――と、ほら、飛行機の時間もあるんだろう。早めに出なさい。搭乗手続もあることだし」
 ちらりと壁掛け時計へと視線を移した祖父がそう言う。
 佐伯の両親が住んでいる実家は羽ヶ崎からとても遠い場所にある。
 バスや電車、そして飛行機を乗り継いでやっとの場所。
 ここよりも少し賑やかで、街並みも整っている近代的な景観の都市は、多少息苦しさを感じる。街の空は行き交う車の排気ガスのせいで妙に曇りがちで、海も遠いからだろうか。波の音が聞こえない場所は、なんとなく落ち着かないような気がする。
 いや、なにかと口うるさい両親がいると思うから余計にそう思うのかもしれない。
 『遅れないように』と半ば追い出されるようにして玄関口まで向かうと、振り向いた先では祖父が見送ってくれている。
 つま先をとんとん鳴らしながら靴を履き、荷物を掴む。
「ほんとに無理しないでよ。調子悪くなったら、絶対に携帯に連絡してよね。絶対だからな」
 念を押してそういうと、わかったわかった、と祖父は笑う。本当にわかっているのかどうか。呆れてため息を吐く佐伯に、ほんの少し真剣な表情を見せる。
「わたしのことはいいから、ゆっくりしてきなさい。あそこはおまえの本当の家なんだから。そして、父さんや母さんといろいろ話をしてくるといい。日ごろ会えないのだから、話ぐらいちゃんとしてくるといいさ」
 その言葉に、佐伯はこれといって言葉を返せずにいた。
 本当の家なんだから――祖父はそう言うが、高校に入学してからというもの、「実家」というのは妙に遠いもののように感じて仕方がない。
 夢や希望よりも現実主義の父。そしてそんな父をそばで支えるいわゆる良妻賢母を地でいく母。家族仲が悪いわけではない。幼い頃は祖父や祖母と共に旅行に出かけたことだって多くある。家が貧しいわけでも、とりわけしつけに厳しい家庭というわけでもない。
 佐伯が生まれる前は父も相当苦労をしたと祖父から聞いたことがあるが、何一つ不自由なく育てられたという記憶しかない。
 代議士の父。周りから見たら、大事なお仕事に就かれているご主人を持つ、良いご家族というところだろう。
 そう思う。佐伯もそれは思っている。
 大事に育てられたことも、両親が自分に期待をしてくれているのもよく理解している。いい成績、良い学校、いい仕事に就くこと。それが両親の望みであるし、佐伯自身も中学まではなんの疑いもなくそう思っていた。
 けれど、まっすぐで綺麗に磨かれているレールが本当に自分が走るべき道なのかと思い始めてからそれは変わった。
 祖父と祖母が二人で築いた小さな喫茶店を手伝ううちに、あの場所ばとても好きになった。
 「年寄りのわがまま」と祖父が言うように、高齢ゆえ、いつかはなくなってしまうかもしれない店だが、それでもできる限り守りたいと思うようになった。
 コーヒーが好きになった。コーヒーを通してではあるが、人と接するのが楽しくなった。
 祖父の店に通うお客の幸せそうな顔を見るのが佐伯の幸せの一つ。
 そう思うようになったのはいつからだろう。
 これと言ってはっきりしたものはないのだが、気がついたらいつのまにそう思うようになっていた。勉強だけじゃなく、エライ人になるのが一番じゃない毎日。
 緩やかな湯気を上らせる琥珀色に夢を見つけた。そしてその中に小さな幸せと希望を託した。
 小さな光ではあるが、心に優しく淡く灯った将来への夢。
 平凡な毎日の中にそれらを見出し、けれど誰にも言わずに一人でじんわりとかみ締めていたのだが、それからそう時間が経たない時に大きな変化が起こった。
 父との衝突。母の涙。
 親の希望とやらが真っ直ぐに続いていたレールが二つに分かれたのは、それから遠くない時のこと。
 もう一つのレールを敷いたのは、他の誰でもなく間違いなく佐伯自身だった。


「本日の天気は曇り。上空にも多く雲が見えておりますがフライトにはなんら影響がございません。短い空の旅ではありますが、皆様ごゆっくりおくつろぎください」
 機内のアナウンスが流れる。
 狭いシートに、できる限り足を前に伸ばし、佐伯は小さな窓の外を見た。
 機長の言うとおり、上空は白い雲がびっしりと浮かんでいて、地上の景色はまるで見えない。どこまでも続く白の上を飛ぶ飛行機の中で、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
 これから実家に帰るということもあるが、祖父に『あそこはおまえの本当の家なんだから』と言われたことがなんとなく頭の中に残っているからなのだろう。今までも何度か帰省しているが、過去のことをこんなふうに思い出すことなどあまりなかったのに。
 ――あれから二年と少ししか経ってないのか。
 なんだかあっという間のような。でも昔のことのような。
 なんともいえない不思議な感じがする。

「じいさんのあの店、そろそろ閉めた方がいいと思うんだが」
 ある日父は言った。それは中学三年の秋。冬の寒さにあと少しで届く時のことだった。
 突然のことに、そして父のその言葉に佐伯は驚いた。どうしてそんなことを言うのか。明日の天気でも口にするかのように、何でもなさそうな顔をして言う父の考えがまったくわからなかった。
 確かに儲かっているとはいえない経営状況だというのは佐伯にも薄々ではあるがわかっていた。
 夕方からの開店。切り立った崖の先にあるような場所。賑わう街中から外れた所にある分、客足はそれほど多くない。けれど、やっていくのが精一杯というわけでもないはずだった。経営の危機に瀕しているのであれば話は別だが、現状はそう切迫しているものではない。父の言うことが佐伯には理解できなかった。
 コーヒーを美味そうに飲む客の顔、香ばしいコーヒーの香りがいっぱいに広がる店内。そして、祖父の穏やかな笑顔。そこには間違いなく小さな幸せがあった。人の心を温かくするものが、あの店には詰まっているのだ。
 大きな休みを使っては何度も遊びに行った。ただ見ているだけから、皿洗いを手伝うようになり、オーダーも少しずつではあるがとらせてもらえるようになった。
 祖父を、店を手伝うこと。それがとても楽しかったのに。なぜ父は突然店を閉めるなどと言うのか。
「なに……言ってんの」
 自分の声は驚くほど小さく、そして、掠れていた。
「ばあさんも亡くなって、じいさん一人では店をやっていくのも体力的にきついだろう。それに、何かあってからではどうしようもない」
「そ……んな」
 淡々と紡がれていく父の言葉が、胸の奥を何度も無神経に引っ掻いていく。
 ――なんだよ、それ。何かあってからって、なに。
「だから――」
 ――店を閉めるよう、近々じいさんに言おうと思うんだ。
 そう父に言われた瞬間、カッと体の中の血が逆流するような気がした。
 沸々と頭に血が上り、体もかっと熱くなっていくのに、心のの温度が下がっていくような変な感じ。おまけに息までも浅くなっていく。
 両手の指先が痛くなるくらいぎゅっと握りこんで、佐伯は胸のうちにある怒りを口にした。怒りの沸点はそこそこだと思っているが、こんな感情的になったのはいつぶりだろうというくらい激昂した。
「だめにきまってんだろ! なに言ってんだよ!」
 静かなリビングに一瞬にしてぴんとした緊迫の糸が張られたのを、今でもはっきりと覚えている。
 驚いたような母親の顔が視界の端に映る。
 心臓がやけにドクドクと煩い。響く声がまるで自分のものではないような気がした。けれど、堰を切ったように言葉は続く。名を呼ぶ父の声が耳に届いても、それはやめられなかった。
「瑛!」
「じいちゃんがどんだけあの店大切にしてるか、親父だってわかってんだろ!? なのに、なんでそんなこと言うんだよ! わけわかんないよ。なんなんだよ!」
「瑛、落ち着きなさい。聞き分けることを覚えるんだ。それに、店を閉めるのはじいさんのためでも――」
「いやだ! ふざけんなよ!」
 静かな父の声がやけに耳にこびりついて嫌気がさす。
 ――落ち着けって? じゃあなんでそんなに親父は落ち着いてんの。それに、じいさんのためだって? それって本当に? ホントは誰のためなんだ? 親父が面倒くさいことになったら嫌なだけなんじゃないの。店が傾いたら困るとか、目の届かないところでいきなりじいちゃんに倒れられでもしたら、周りから何言われるかわからないからとか。そんなの……そんな体裁ばっかりの話、俺は知らない。
 腹が立って仕方がなかった。
 平然とした父の顔を見ると悔しくてたまらない。
 肩で息をする佐伯の耳に、大人には大人の事情があるんだという静かな父の言葉が届く。
 ――何の事情なの。理由がわからない。聞いてもそれを言ってくれない。なんで大事なとこだけ濁すんだ。
 はっきりと口にすることを阻まれるのをうまくオブラートに包んで誤魔化す。大人の都合やら事情ってこういうことを言うのだろうか。なら、なんてつまらなく、そしてくだらなくて、悲しいことなんだろう。
「なんだよ――なんでだめなんだよ……。ただ……ただこのまま店を続けていくだけじゃん! じいちゃんだって元気だろ。勝手に歳とか言って決め付けて、大切なもの取り上げないでよ! あそこは、ばあちゃんと二人で大事にしてきた店なんだぞ。親父、それわかってるはずだろ!? じいちゃんの息子なんだから、それぐらいわかるだろ! なのに……なんでだよ……っ!」
 どうしてこんなことを言わなくちゃいけないんだろう。
 ――わかってるはずなのに。親父だってわかってるだろ。
「私だってそれぐらいわかっている」
 それまで平然としていた父の表情に幾分怒りが滲んだように見えたが、それでも佐伯の怒りは止まらなかった。
「わかってないよ! だから店を閉めろなんて平気なふうに言えるんだ!」
「子供がわかったような口を利くな。おまえはどういう状況かわかってないからそんなことが言えるんだ。じいさん一人きりで店を切り盛りできるとでも思ってるのか。若い頃と違って、そんなに自由だって利かない。確実に年を取ってるんだ。第一、人を雇うにしても金がかかるし、そこまでしなくちゃいけないほどあの店が繁盛しているとは思えない。いつかはたたむ日がくる。それが遅いか早いか、それだけだ」
 体温というのは不思議だ。
 さっきまでこれ以上ないくらいに体の中が熱かったのに、父のたった一言で、全身から血の気が引いていくような気がした。
 決定的な言葉を明確に口にされ、ぐうの音も出なかった。父の言っていることは、確かなことだ。認めたくはなかったけれど、当然のことを口にしている。
 けれど、それだけの理由で今までなんとか続けていたものを片付けてしまうのだろうか。人の心のよりどころとなる場所を、取り上げてしまうのか。まだ何も起きていないというのに。祖母が亡くなったあとも、祖父は一人で頑張ってあの店を支えてきたのに。
 年老いているとはいえ、今日明日どうにかなるようには思えないし、思いたくもない。
 なのに、いつ訪れるかわからない「いつかのため」に、あの店が簡単に消されてしまうなんて。
「……それでも」
 ――嫌だ。絶対に、そんなの俺はいやだ。だって、じいちゃん、お客さん大事にしてるんだ。いつも優しいけれど、コーヒーのことになると本当に怖いくらい真剣で、俺がどれだけ頼んだってコーヒー淹れさせてくれないんだ。おまえにはまだ早い、って。皿洗い一つだって厳しく注意してくるくらいだ。親父、そういうの知ってる? 美味しいコーヒーをありがとうってお客に言われると、じいちゃん、凄く嬉しそうな顔をするのを、知ってるの? 勉強ばっかしてた俺が、あそこで皿割ったり、コケそうになったり、お客さんに『新米、がんばれ』なんて言われてるの、知ってる?
「――嫌だから」
「なに?」
 悔しいと思った。
 本当は何もわかっていない父にそんなことを言われるのが心底悔しかった。
 小さな小さな希望と夢を、あの店で見つけた自分のことなんて、知らないくせに。
 ――大人の都合や事情なんて、俺は知らない。そんなの、わかりたくない。勝手にそんなもの、押し付けるな!
「俺、絶対に反対だから」
「瑛!」
「絶対に、絶対に認めない!」
 逃げ出すようにして、リビングを出た。
 大きくドアが閉まる音と、母の呼ぶ声が重なったが、足を止める余裕などこれっぽっちもなかった。子供みたいな駄々を捏ねて背中を向けくるほかなかった自分がどんなに無力かを痛烈に思い知った瞬間だった。認めたくはないけれど、それは事実であり、悔しくて目頭が熱くなりそうだった。
 そして、大人の事情とやらに大事なものが消されてしまうのが、歯がゆくてならなかった。


 二年と少し前のあの日の自分は、やはり幼かった。
 こうしてガラスに映る顔は一緒なのに、とても無力だった。いや、無力なのは今も昔も大差ないのかもしれないが、少し前の自分を思い出し、幼いと思えるようにはなった。そういう風に思えるようになっただけでも、少しは成長したのだと信じたい。
 小さな窓から差し込む太陽の光がまぶしくて瞼を閉じるが、アテンドの女性に声をかけられ、再び目を開く。
「お飲み物は何になさいますか」
 優しい声に、佐伯は首を振る。喉は渇いていない。
「いえ、結構です」
 そして、もう一度窓へと視線を向けた後、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと目を閉じた。
 眩しい光が瞼の裏に強く焼きついているが、敢えて光を遮ろうとは思わなかった。

 父とのやり取りがおそらく分岐点だったと思う。
 間違いなくあのときから、自分の中の何かが変わった。
 祖父が一人で切り盛りできないというのなら、自分が手伝えばいい。
 人を雇う金がないというのであれば、自分なら無給だって平気だ。
 店を残す方法が、ここにある。
 祖父の店を本格的に手伝う。それを思うようになったのは勢いだけじゃない。
 地元の進学校を受験するのをやめて、羽ヶ崎に行こうと思うようになったのは、明らかに父とのやり取りがきっかけとなったのだ。
 羽ヶ崎学園を受験する――思いもしない佐伯の発言に父は前回の衝突よりさらに怒った。
 静かな父を怒らせるのは、物心ついてからこれで何度目だろう。あまり無かったように思うし、父も忙しい人だからゆっくりと話す機会が無かったのも事実。とにかく、前回以上に父は声を荒げて怒ったのだ。
 それまでいい成績でいればさしてうるさく言わなかった父が、自分を怒鳴りつけた。なにを考えている、と。母もはらはらと涙をこぼしていた。
 「どうしちゃったの。何があったの。どうしてあんな遠くの、それも――」
 ――それも、レベルの低い学校に。
 穏やかな母。滅多に人が嫌がる言葉を口にしない人だし、教育熱心と言うわけでもない。けれど、黙っていても進むと思っていた有名進学校を受けないというのはショックは大きかったのだろう。――とても。
 途切れたの先は、聞かなくても想像がついた。寸前のところで言葉にこそしなかったが、母は、本当だったらそう言いたかったのだろう。
 でも、レベルが低いといっても、それほどひどいわけではない。確かに、少し前まで希望していた地元の進学校や、はね学と同じ市内にあるはばたき学園よりはランクは落ちるが、絶望されるほどひどい学校ではないはずだ。
 むしろ絶望したいのは佐伯の方だった。学校だけ良いところに行けばいいのか。勉強だけおとなしくしていればいいとでもいうのだろうか。
 確かに幼い頃は近所の子供達としょっちゅうケンカをした。けれどそんなのは子供の頃の話。今は適度にいい子の顔をしていると自分でも思う。勉強だってしてる。成績だって落としてない。周囲の評判だって、悪くはないはずだ。
 でも、自分はそれだけなのだろうか。それしか自分の価値はないのか。自分は親の満足を得るためにしか歩いていないのか。
 前に進んでいるはずと思っていたけれど、それは間違っているような気がしてならない。
 目の前のレールは何のためにあるのだろう。それは誰のために続いているのか。
 自分のためと思っていたけれど、それは違っていたようだ。
 親が思う、理想的な『自分』のためだ。
「……ごめん、母さん。もう決めちゃったんだ。クラスの担任にもそう言った。この気持ちは変わらないから。俺、絶対に羽ヶ崎に行くよ。それ以外は、受けないから」
 絶句する両親だったが、なにを言われても意思が変わらない佐伯に対し、後日とある条件と引き換えに祖父の下で働くことを許可したのだった。――絶対成績に影響がでないこと。学校では問題を起こさないこと。
 それが両親の出した条件。
「これが守れないようなら、許可はできない。三年間好き勝手やらせるんだ、これぐらいは最低限守ってみせなさい。これが守れないのであれば、何があっても家に連れ戻すから覚悟しなさい」
 父の言いつけはこれだけだった。
「わかったよ。約束するよ。その代わり、親父も約束を守ってくれるよね」
「店のことだろう」
「そうだよ。俺、絶対に約束守るから。成績落とさないようにするし、問題も絶対に起こさない。約束するから、親父も約束して欲しいんだ」
「……わかった。約束する」
 成績なんて落とさない。いままで以上に「いい子」を演じていれば、学校生活にだってなんら問題がない。そう思っていたが、勉強と店との両立はなかなか大変なことだと気付くようになったのは、入学してから間もない頃の話。
 時間には制限がある。そして、体力にも。
 やりたいことを削らなくてはいけない。趣味はもちろん、友達との付き合いだって、店のことがあるからある程度の限りがある。それに、夜遅くまで営業している店だから、友達に教えてしまったら最後、今度は学校側からなにを言われるかわかったものではない。
 すべてに制限がつくことを、あの時はこれっぽっちも計れないでいた。
 両親はそれをすべて見越していて、あの条件を出してきたのだろう。今ならそれがわかる。
 絶対に続くはずがない、泣きごとを言うのがおちだと見込んでいたのだろうけれど、祖父と共に暮らすようになってもう三度目の春だ。
 高校生活も残りあと一年。なんとかここまでやってきたのだ。
 卒業まであと少し。
 ――そう、あと少しなんだ。


「勉強の方はどうだ。毎日ちゃんとしてるか」
 ちらりともこちらを見ないで言う父に、佐伯は少し面白くない気持ちになる。
 空港へと降り立ち、電車やバスに揺られてやっとたどり着いた実家。日が傾き始めた時間帯というのもあったのだが、一息ついていたらあっという間に夕飯の時間になっていた。
 久しぶりに実家で夕食をとるというのもあるが、多忙な父が珍しくこの席にいることもあり、なんとなくだが、落ち着いて食事をする気持ちになれない。
 ――なんか、やりづらい。
 そんな憂鬱な気持ちで箸を取ると、開口一番が勉強の話ときたものだ。もっと他に聞くべきことがあるのでは、と思いながらも言葉を返す。 
「テストの順位はちゃんと母さんにも言ってるじゃん。……聞いてないの」
 顔を見て言うのも癪に障るので、父と同じように白いプレートだけを見つめて言った。佐伯の様子が心配になり、まめに連絡をよこす母には、テストの結果が出るたびにきちんと順位を報告している。もちろん、母はテスト結果が気になったから連絡をよこしてきたわけではないのだろうけれど、親からの連絡というと、ついついそういうひねくれた方向に考えてしまい、返す言葉もそっけなくなる。
 そしてあとで必ず後悔するのだった。心配してくれたんだから、もう少し優しく言えばよかっただろうか、と。
「母さんからはちゃんと聞いている」
「じゃあ、なに」
 苛立ちを上手に隠しきれず、少しだけ声が尖ってしまう。そんな佐伯に、夕食の席についてから父は始めて視線を向け、ため息混じりに呟く。
「……おまえは話もできないのか、まったく」
 言い方はつっけんどんだが、要するに話をするきっかけが父は欲しかったのだろう。言われてから佐伯も気が付いたのだが、素直にごめんとは言えず、黙って夕飯を口にするばかり。
 久しぶりの母の手料理はどれもこれも手が込んでいるものばかりで、しかも佐伯の好物ばかりだ。帰ってくることをとても楽しみにしていたというのがこの賑やかな食卓にはっきりと表れている。
 店の休憩時間や、閉店後に祖父と食事を共にしたり、たまに晩酌の相手をしてはいるが、こんなに豪勢な食事を取るのは久しぶりで、なんとなくではあるが、やはりこういうのがいわゆるお袋の味なんだろうな、と舌鼓を打った。
「あ……あのね、瑛が帰ってくるっていうから、お母さん、たくさんお夕飯作り過ぎちゃった。――ということだから、お父さんも瑛も、しっかり食べてちょうだいね」
 母はしんとしたこの空気を和らげるべく明るく言う。ごはんもまだあるからおかわりしても大丈夫よ、とやんわりと笑顔を向けられることに照れくささを感じながら、十分だよ、と小さく笑って返した。
 実際、こんなに胃に詰め込んだのは久しぶりのような気がする。
 食事なんて適度に空腹を満たせるのであればいいというぐらいにしか思っていなかったから、やや詰め込み過ぎた感がある。父との会話が成り立っていない分、箸を動かすことしか気を紛らわす方法がないというのもあるのだが、それでも食べ過ぎていると思う。
「うん、どれもうまいし、好きなのばかりだよ。……なんか、こういうのって久しぶりって感じがする」
 気恥ずかしくもあり、でも素直にぼそぼそと呟くと、母は嬉しそうに目を細める。
「そうそう。なんだかんだ理由をつけて、なかなか帰ってこないんだもの。電話をしても、用件しか話さないし。男の子ってみんなこうなのかしらね。もっといろいろ話したいって思っても、あっという間に切っちゃうんだから」
 ふう、と母は残念そうに肩を下げる。それについては佐伯も申し訳ないと思うが、いざ話すとなると何を話せばいいのかわからないし、改まる感じがなんとなく落ち着かないのだ。
「ごめん」
「お母さん、何も成績のことだけを聞きたいわけじゃないんだから、ちょっとぐらい相手をしてくれたっていいんじゃないの? お父さんだって、心配してるんだから」
「……そう、だね」
 ちらっと父を見ると、難しい顔をして軽く咳払いをしている。
 父も居心地が悪そうな感じだ。実の親子なのに、久しぶりに会うとなると妙な気遣いをしてしまうのがなんだか変な感じがする。互いの様子をうかがうものの、それを口にしようとはしないのだから。
 母もそんな二人の様子を察してか、妙におしゃべりだ。元々それほど話す方の人ではなかったと思うのだが、今日はよく話をする。気を遣ってくれているのが痛いくらいにわかり、何となくお客様にでもなったような気持ちになる。まあそれも最初のうちだけなのだろうけど。
「あ……。あのさ、じいちゃん、二人によろしくって言ってた。夏前には一度顔を見せに行くって」
 祖父に頼まれていたことを思い出し、母にそれを伝えると、そうなの、と嬉しそうな顔をした。
「お義父さん、お元気? 体調はどうなの?」
 前に倒れたことを電話口で伝えたとき、母はとても慌てていたが、とくに何か別状があるわけでもないことを伝えると、幾分ほっとしたように息を吐いていた。義理の父とはいえ、やはり母も心配しているようだ。大昔はどうだったか佐伯の知るところではないが、今ではすっかり穏やかで人当たりのいい祖父なので、母も実の父以上に気にかけているらしい。それはたまにかかってくる電話が長いことから想像が付く。勿論、話相手は佐伯ではなく祖父だ。
「元気だよ。俺がこっちに戻ってきている間は店休んだらって言っても全然聞かないくらい。年寄り扱いするな、なんて逆に言い返された」
「そうなの。お義父もまだまだ元気で良いことだわ。でも、だからといってあまり無理はさせないでちょうだいね」
「うん、わかってる。俺もちゃんと店の方手伝ってるから、大丈夫だよ」
 頼んだわね、と言う母の言葉に頷くと、父がおもむろに口を開く。
「じいさんは昔から無理ばかりするからな。一度こうと決めたら頑として聞かない。まったく、頑固というか、なんというかだ」
 仕方ない、と半ば呆れたような顔をしている父に、佐伯も同意、と心うちで呟きつつも短く返事をする。
「……うん、俺もそう思う」
「ちゃんと手伝うんだぞ。言い出したのはお前なんだ、言葉に責任を持ちなさい。勿論、約束したことも忘れるんじゃないぞ」
 約束したことというのは勿論成績のことと、問題をおこさないことという二つ。
 父に言われるまでもなく、その約束を果たすがために、毎日夜遅くまで起きては店の手伝いと学業の両立をさせている。好きなサーフィンさえも控えているというのに。
 結局これだ、と佐伯は深く息を吐く。
「わかってるって」
「なんだ、そのため息は」
「別に意味なんてないよ」
 毎回顔を会わせるたびに同じことを言われる。わかっていても、毎度のこととなるとさすがにうんざりする。そして、この流れからすると次はつまらない言い合いになるのが目に見えている。
 早々に席を立った方が良さそうだ、と空いた食器をまとめていると、父が煽るような言葉を口にする。
「……これだ。都合が悪くなるとすぐに逃げる。いつまでもこれじゃ話にならない。相変わらずだな」 
 じゃあ、わざと煽る自分は何、と逆に問い返してやりたいところだが、それを堪える。
「逃げてなんかない。ただ、これ以上雰囲気悪くする必要がないから部屋に戻るだけ。なんでもかんでも悪い方に取らないで欲しいよ」
 シンクに皿を置き、スポンジを手に取ると背後では母が慌てたように声をかける。
「瑛、お皿はいいから」
「いいって。自分で食べた分ぐらい、洗うよ」
「でも……」
「好きにさせなさい。小さい子供じゃないんだ、自分で食べたものの始末ぐらいできるだろう」
 困惑気味な母の声のあとに、不機嫌そうな父の言葉が続く。それが余計にかちんと来るが、言い返さずに皿を洗う。
「今までは自分のお皿なんて洗ったことなかったのに、変わるものね」
 母がしみじみとそう言う。実際、家事のすべては母がこなしていた。食事も洗濯も、もちろん後かたづけもすべてだ。こうして皿を洗う佐伯が、珍しくて仕方がないといった感じだ。
「そうかな。じいちゃんと二人きりだから、自分でできることは全部自分でやってるだけだよ。余計な負担かけたくないし」
「そう……」
 小さな母の声がどことなく寂しそうに感じたのは気のせいだろうか。
 そんなことをふと思ったとき、急に携帯電話らしき呼び出し音が小さく鳴る。
「わたしのだ」
 どうやら父の携帯らしい。席を立った父は、続きのリビングへと向かい、携帯を取る。どうやら仕事関係の話のようで、話しながら書斎へと歩いていく。
 タイミングもいいことだし、佐伯も自室へ戻ろうとするが、不意に母に呼び止められる。
「瑛、お父さんね、ここ最近とても忙しくて、毎晩遅くまでお仕事していたのよ」
 幼い頃から父はいつも忙しそうで、家に帰ってくるのも随分と遅かったのだが、それは相変わらずのようだ。
 特に何も返事をしないままでいると、母はさらに話を続ける。
「あなたが小さい頃からそうだったけど、最近は本当に忙しくてね。でも……」
 言葉を切った母が、その続きを静かに紡ぐ。
「今日だけは、早く帰ってきたのよ。毎晩遅くまで仕事をしているのに、今日だけは早かったの。お父さん、何も言わないけれど、瑛が帰ってくるのを楽しみにしていたのよ」
 そんな母の言葉になんとか「……うん」と小さく返事をし、部屋へと戻った。
 祖父の喫茶店の件から何かと小さい衝突を繰り返してきた。
 久しぶりに顔をあわせても「勉強は」「手伝いはちゃんとしているのか」ということを何かと棘のある言葉で聞いてくるくせに、自分が帰ってくることを楽しみにしているなんて。
 疎まれているのかと思っていた。
 親の意志に反して好き勝手なことをしている自分を疎んでいるのかと思っていた。
 怒鳴られたし、母には涙も流された。
 成績さえよければいいのかと、両親を疑った。
 ――それなのに。
「なんか、調子狂う……」
 はぁ、と大きなため息を吐いて、ベッドに寝転がる。
 慣れていたはずの天井は妙に高く感じ、少しだけ違和感がある。それだけ祖父と一緒に暮らしているあの家に馴染んでしまっているということだろうか。でも、自分の本当の家はここなのだ。両親がいて、家族が集う場所。寝て起きて、時折小さな会話を交えたり、食事をする。ただそれだけのことなのだが、それすらも今は祖父と共に毎日を過ごしている現状。
 本当の家族がここにあるのに、皆それぞれに妙に気を使っている。ただ、決して悪い雰囲気でないことが救いだ。
 ――変なの。少し前までは全然普通に暮らしていたのに。
 調子狂うんだよ、と眉間に皺を寄せていると、不意に携帯の着信音が響く。起き上がり、バッグの中から取り出して見ると、明るい液晶画面には『夏川ゆき』と表示されている。
「あれ、ゆき……?」
 空港に着いてから電車を待つ間、彼女に一度連絡を入れたのだった。
 今日から実家に戻ることと、たった今空港に着いたということ。そして、しばらくはこっちにいるから、と短く用件だけ伝えたのだったのだが、一応連絡はしておいたはず。なのに、どうしたのだろう。
「はい」
 不思議に思いながらも通話ボタンを押して応えると、「あ、瑛くん? 夏川ですけど」ほっとしたような声が耳に届く。ほんの少し音がざらついているのは、遠く離れているせいだろうか。
「わかってるって。で、どうした? なにかあった?」
「えっ、何もないよ。ただ、なんとなく電話しちゃった。でも、いきなりなにかあった? なんて聞いてくるのって、珍しいね」
 ふふっ、とゆきは笑っている。確かに、言われてみればそうだ。何かあったのかなんて、はばたき市にいるときは口にもしなかったのに。 離れてみると何かと心配していることに気付かされる。店のことだけじゃなく、ゆきに対してもだ。のんびりもので少しドジな彼女だから、自分がいない間になにかあったらと気になってしまう。もちろん、そう思っていることを彼女に伝えるつもりはないけれど。
「そうか? 別に珍しくは――って、待て。……ひょっとして、おまえ今、外にいんの?」
 いつもより声が聞き取りづらいのは電波の関係かと思ったのだが、そうではないようだ。彼女の声と共に、ざあ、とまるでテレビの砂嵐のような音が聞こえる。おそらく車が通りすぎる音だ。妙に騒がしく聞こえてくる。
「うん、そう。よくわかったね! 今ね、海岸通り歩いてるの」
「えっ、こんな時間に? 一体何してんだよ。つーか、おい、大丈夫なのか?」
 時計を見ると十時を過ぎている。今日はバイトじゃないはずなのに、彼女は何をこんな時間にうろついているのか。大した事件がおきない街とはいえ、こんな遅くに女子が一人で歩いているのはやはりあまり良いとは言えない。大体、日ごろのバイトの帰り道だって自分が途中まで送っているというのに。
 ――やっぱりこいつ、目を離してると絶対に危ない。そばにいないと、マジで心配する。
 そんな佐伯の心配など知りもしないゆきは、変わらずのんきで、そして明るい声で言う。
「大丈夫。暗くて怖いのいやだから、遠回りして明るい道路歩いてるんだもの。……それより、ねえ、少しだけ耳を澄ましてみて」
「は?」
 何を言い出すのか。心配しているというのに、どうしてさっさと話を切り替えてしまうのか。
 僅かに苛立ちを感じ、ひとこと言い返してやろうと息を吸い込んだのだが、彼女の声はそれを簡単に阻止してしまう。
「いいから、少しだけ静かに。お願い」
 いつになく真剣な口調に仕方なく黙っていると、耳に届く音はザー、という妙に大きい音。さっきからゆきの声と共に聞こえていた音だ。
 けれど、よくよく聞いてみると、それはある程度のリズムを持っている。大きくなったり、少し遠くなったり。まるでそれは波のよう。時折大きいのは、寄せる波が岩やテトラポッドに当たる音だ。
 目を閉じて意識を傾けると、いつも珊瑚礁の部屋から見ていたあの景色が目の前に広がっているかのように思えてくる。潮の香りと独特の湿気を含んだ風がないのがやはり物足りなくはあるが、それでも馴染んでいたあの音だ。幼い頃、貝殻に耳を当てると潮騒が聞こえてくるような気がしていたが、今この耳にあてている携帯が、まるで幼い頃の貝殻のようだ。
「ちゃんと聞こえた? 波の音」
「……うん、聞こえた」
 瞼を閉じたまま答える。
「瑛くんの実家って、海が遠いんでしょ? 多分海が恋しいんじゃないのかと思って。サービスだよ」
 へへっ、と笑う彼女に、佐伯は少しばかり面白くなさそうに言い捨てる。本当はとても嬉しかったのだけど、なんとなく素直になるのが恥ずかしいのだ。
「なにがサービスだ」
「えー、じゃあ、いらなかった?」
「そんなこと言ってないだろ」
「ちょこっとぐらいは嬉しかった?」
「少しな」
「もう一声」
「……嬉しかったよ」
 素直に言うもんか、と思っても結局は負けてしまう。
「素直じゃないんだから……」
 まったく、と呟く声に、今度こそはっきりと不貞腐れて言う。
「うるさい。言わせておいて、それ言うな」
「はいはい。すみませんね、と。……ねぇ、今実家なんだよね」
「うん。部屋にいる。何もすることなくて、だらっとしてるよ」
 いつもであればまだ店にいて、仕入れのチェックやら足りなくなった用度品のことをあれこれ考えている頃のはず。忙しいときは、ほっとする時間が欲しいと思っていたくらいなのに、いざ時間があるとなると落ち着かないなんて不思議なものだ。
「そっか。久しぶりにゆっくりしてるんだね。瑛くんいつも忙しいから、たまにはそういう時間があってもいいんじゃない? のんびりタイムだね」
「のんびり、か……。どうなんだろ」
「え、違うの?」
 驚くゆきに、ため息混じりの声で言葉を返す。 
「……なんかさ、俺、お客さんみたいな感じで……。調子狂うっていうか、なんなんだろ。親父とは相変わらずなんだけど、でも、なんかが違うんだ。居心地が悪いんじゃないけど、でも良くもなくて。なんだろう……うまくいえないけど、こうしてベッドに寝そべって天井見てるだけでも、なにかが違うって気がするんだ」
「久しぶりだからなんじゃない?」
「まあ、な。それにさ、これから何日も何して過ごせばいいのかわかんないよ。海が近かったら、波乗りできんのにな」
 少し長めにこっちにいるつもりでいたが、やはり耐えられそうにもない。何もすることがないのだから、困ったものだ。このままだと本当に勉強ばかりして過ごしそうで怖い。
「優等生らしく勉強でもしてれば?」
「ウルサイ。おまえがしっかりやれ」
 笑みを含んだ、からかうようなゆきの言葉に、佐伯はむすっと言い捨てる。ずばり言い当てられるとなぜか嫌なものだ。
「わかりましたよ、だ! でもまあ、ゆっくりしてきなよ」
「うん……、まぁ、そうだな」
 ゆっくりできるのだろうか。そんなことを思いながら、濁った返事をする佐伯とは反対に、彼女の声は明るい。
「こっちのことはわたしに任せて! しっかり瑛くんの代役するから」
 バリスタ見習いっていうことで、と笑う彼女につられ、佐伯も笑って肩を揺らす。
「うわ、頼りねー!」
「言ったな〜! しかも、笑ってるし。もうっ」
 ゆきと話していると、不思議と心が晴れてくる。あんなに重かった気持ちが、嘘みたいに晴れている。誰かと話をすることで、こんなに気持ちが変わるのだろうか。
 でも、誰でもいいわけじゃないことを、佐伯はよくわかっている。
 ――他の誰かじゃ駄目なんだ。こいつだから、きっとこんなに笑えるんだ。情けないけど、ちょっとだけ弱音が吐けるんだ。
 そう思うと、少しだけ幸せな気持ちになれる。甘えることというのは、きっとこういう小さなことの積み重ねなのかもしれない。少しだけ弱音を吐くことで心が救われたり、幸せな気持ちになったり。自分以外の誰かによって気持ちが和らいだりするのだろう。上手に言えないけれど、そんな気がする。
「……うそ。ごめん、頼りにしてるよ」
「ん……。がんばるね。なんか、今日の瑛くんは素直だよ」
 耳にくすぐったい小さな声でゆきは優しく言う。その優しい声がやっぱり心にもくすぐったくて、思わず面白くないような風で返してしまう。何となく――いや、明らかに損をしていると思うが、これも性分だから仕方がない。そんなあきらめも含めて呟いた。
「なんだよ、それ。素直じゃ悪いのか? 第一、ほんの少し前、人のことを素直じゃないって言ってたのは誰だよ」
「わたしでした」
 おそらく、さらっとした髪を揺らして、肩を竦めていることだろう。小さな笑い声はその姿さえも浮かぶようで、佐伯も僅かながらに目を細めた。
 そして、そんな姿を思い描いていたら、急に彼女に会いたいと思った。
 会って話がしたい。声が聞きたい。電話越しじゃなくて、直接その声を聞きたいと思う。
 でも、海岸沿いを走ればその背中に追いつくような距離に今はいない。同じ夜空が窓の外には広がっているが、遠いところでそれぞれの時を過ごしている。声はこんなに近くなのに、なんだかそれがもどかしく感じる。
「なんかさ……」
「ん? なあに?」
「……思うんだけど、俺、ホームシックって始めてわかったような気がするよ」
「実家に戻ってから実感したの?」
「っていっても、こっちに帰りたかったっていうんじゃなくて、その逆だよ」
「逆?」
「ああ。……俺さ、早くそっちに帰りたいよ。波の音がないと落ち着かないし。それに、さ――」
 ――ここには、おまえがいないから。
 そうとは言えず、瞼を閉じる。
「あ、珊瑚礁も気になるし?」
「う、ん――まあ、そういうとこ……かな」
 ――半分あたりだけど、半分はずれ。
 ゆきの言葉に心うちでそう呟いた。
 実家を出てから随分とこっちに戻ってきていなかったのに、戻りたいなんて思うことはほとんどなかった。でも、彼女に「帰りたい」と口にしたら、心からそう思えるのだから不思議だ。
 遠く離れて初めて気がついたことは、あの場所に帰りたいという想い。
 好きな子が暮らしている街と、大好きな店があるあの場所に、帰りたくて仕方ない。
 自由が利かなくたって構わない。こうしてのんびりする時間がなくても、それでもあの場所が自分の居場所なのだと、改めて気付かされた。
 ――やば……。なんか、マジでホームシックかも。
 この部屋からは波の音が聞こえない。一人で海岸沿いを歩いているという彼女の背中を追いかけることができない。
 そう思い始めたら止まらなくなり、その思いが深く長いため息となってこぼれ落ちる。そんな沈みかけた佐伯の気持ちを知ってか知らずか、彼女は優しい声音でそっと呟く。
「戻っておいでよ」
「え……?」
「……瑛くん、早く帰ってきてね」
「ゆき?」
 柔らかい優しい声に、少しだけ寂しさが混じったような気がして、思わず名前を呼ぶ。けれど、思い違いだったのだろうか、すぐにいつもの明るい彼女の声に戻り、なんてね、と笑う。
「そっちでもう少しだら〜っとゆっくりしたら、早くこっちに帰ってきてね」
 わかるような、でもわからないような、何とも面白いことをのほほんと言う。
「だら〜って、なんだそれ」
「まあまあ。だらっと言ったら、だらっとだよ。――でも。……でもね。本音を言うと、やっぱり早く帰ってきてね」
「……うん」
「わたし、瑛くんの淹れたコーヒー、飲みたいんだ」
「なんだよ、そういうことか」
 ふん、と面白くなく鼻を鳴らすが、ゆきはゆっくりと言葉を続けていく。
「わたしには、大事なことなの」
 少し前のように、ほんのちょっぴり寂しさをにじませた声。 ――やはり、気のせいではなかったようだ。
 ゆきは、ぽつりぽつりと呟く。
「観たい映画がね、あるんだよ」
「……うん」
「でも……一人じゃ、つまらないよ」
「……だな」
「それに……ね、大分あったかくなったから、遊覧船も乗りたいな」
 舳先で風を切るのがとても好きだった。ただ、冬場は鼻先だけでなく全身が凍りそうだから、しばらくはやめておこうと二人で笑ったことを思い出す。
 季節はもう春だ。暖かい風がきっと気持ち良いはず。髪を撫でるような潮風も、体をそっと包み込むような空気も、きっと心を解してくれるだろう。
「あれ、俺も好き」
「うん。わたしも好き」
 少し笑ってくれたのがなぜか妙に嬉しかった。寂しそうな声を聞くと切なくなる。すぐそばに行きたくても、この距離ではそれが叶わないのだから。近くにいても、きっとただそばにいるだけで何もできないかもしれないけれど、やはり距離は大事だと、離れてみて思った。
「あの……さ。俺、なるべく早く帰るから」
 帰ってきてねという言葉は暖かいが、けれど同時に寂しくもあり、頼りない彼女の声に心が衝き動かされる。
 ――会いたい。やっぱり、すごく顔見たい。
 閉じた瞼の裏の笑顔だけではやはり物足りない。明るい彼女。いつもそっと自分の隣に居てくれる人。そばにいたい人は、彼女しかいない。
 センチメンタルな気持ちが一滴こぼれ落ち、心に小さく切なさの波を寄せる。
「帰るから、だから――」
 だから、待っていて。
 言葉の先を言い躊躇っていると、ゆきが自分の代わりにその先を続ける。彼女の言葉で、佐伯が言いたかった言葉の対となるものを、そっと口にする。
「待ってるね」
 ちゃんとこっちで待ってるから、ともう一度彼女は言う。
 潮騒が聞こえる街で、彼女は待っている。
 帰りたいと思う場所に、待っていてくれる人がいる。それは暖かくて、嬉しく、そしてなんて優しい奇跡なんだろう。
「ゆき」
「うん?」
 ――ありがとう。
 今の声、掠れてはいないだろうか。そんなことをふと思わなくもないが、今は胸にともる暖かい思いに、そっと心を預けた。



 朝を迎えるのももう二日目。やっぱり天井が慣れない。自分の部屋なのに。
 それに何もすることがない日々は退屈で仕方がない。いい骨休めじゃないか、と祖父に電話をした際に笑われたが、時間のつぶしかたがわからず、ただボンヤリと時間だけが過ぎていくばかり。
 昨日はテレビや雑誌を見て過ごしたけれど、さて今日はどうしよう。ベッドに入ったまま、額に手を当てて考え込んでいたが、カーテンの隙間からふと差し込んできた明るい日の光を見て、今日は外にでも出るかと思い立った。
 歩いても海岸にはたどり着かないところだけど、家でじっとしているよりはいいだろう。のんびり散歩も悪くはない。
 バスに乗り、人が多く集まる駅の中央口側ではなく、それほど人気も多くない南側へと回る。
 何度か祖父と一緒に訪れたことのある喫茶店が確かあったはず。随分と昔に訪れたきりだから、ひょっとしたらもうなくなっているのかもしれないが、探してみる価値はある。
 駅のロータリーを歩き、大通りから少しはずれたやや細い道を進む。このあたりはこぢんまりとした店が多い。駅前開発が進んでいても変わらずに残っている店が多く、中央口が新ならば、こちら側が旧といったところ。昔から経営している古い店は、どことなくノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
 ――昔来たときと変わんないや。
 そう思いながら、古ぼけた雑居ビルと路地の間に漂う、独特の空気を軽く吸い込む。
 実際、店内の色調が賑やかでBGMのうるさい流行の店よりも、こういった落ち着いた感じの店のほうが気が楽でいい。佐伯は、それぞれの店へとちらちらと視線を向けながら、目的の店を探すべく歩いた。
 いくつか曲がり角を過ぎると、洋服お直し受け付けます、という立て看板が目に映る。古ぼけたレトロな看板は今でも覚えていたので、その看板のあるビルを右に曲がる。店はこのすぐそばだったはず。
 雑居ビルの二階部分を見上げると、昼間でも柔らかいオレンジ色のライトが点っており、ボルドー色のビロードのカーテンがきちんと纏められているのが外からでもわかる。外観もそのまま。あの喫茶店だ。
 狭い階段を上り、ドアを開ける。
 佐伯のような高校生がこういうクラッシックな喫茶店を好むのが珍しいのか、店に入ったとたん、「おや」とでも言うようにマスターらしき男性は一瞬目を丸くした。
「あの……一人なんですけど、いいですか?」
 何となく尋ねなくてはいけないような気がして尋ねてみると、口元に髭を蓄えた中年の男性は、「どうぞ、お好きな席へ」と目元を柔らかくする。
 路地を見下ろせる窓際の席に座り、さっとメニューに目を通す。豆の種類はそこそこにある。でも、今時のカフェのようにフレーバーコーヒーの種類はそれほど多くない。
 すぐそばのカウンターにいる口髭の男性へとオーダーを頼み、再び窓の外を見る。
 コーヒーが香るこの店にいると、実家に戻ってからなんとなく落ち着かなかった気持ちもだいぶ和らいでゆく。実家にはインスタントぐらいしかなかったので、あまり飲んだ気がしなかった。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
 声をかけられ、そっと目の前にカップを置かれる。軽く頭を下げてひとくち口に含むと、程良い酸味と苦みとがふわりと広がる。
 結構好きかも、この味――そう佐伯が小さく安堵のような息を吐くと、カウンターから声をかけられる。
「うちみたいな店があるのを、よく知ってたね。あまりに若い人が来たもんだから、少し驚いたよ」
 ランチなどはやっていないのだろう。お昼近くだというのに、店内には佐伯一人しかいない。くだけた口調の男性に、佐伯は軽く笑ってみせる。
「昔、祖父と一度来たことがあって。懐かしくなって、探しに来てみたんです」
「そうか、それはありがたいね。君、コーヒー好きなの?」
 嬉しそうに笑う男性に聞かれ、はい、と答える。
「祖父の喫茶店を手伝ってるんです、俺。っていっても、こっちじゃなくて、少し離れたところでなんですけど」
「へぇ、じゃあ同業者っていうことで、採点は厳しいかな?」
 悪戯っぽく笑う人に、佐伯は首を振る。
「とんでもない。とても美味しいです」
「ありがとう。ところで、少し離れた所って言ってたけど、君、ここの人じゃないの?」
「いえ、実家はこっちなんです。ただ、どうしても祖父の手伝いがしたいから、無理言って店の近くにある高校に入学させて貰ったんです」
 どこに住んでるのと尋ねられ、はばたき市の名前を出す。そして、随分と遠くまで冒険をしたもんだねと楽しそうに笑われた。
「親御さん、反対したんじゃないの? そんな遠くじゃ」
「そう、ですね……。猛反対されたし、母には泣かれました。親が希望する学校じゃなかったから、余計に」
 彼の人柄なのか、それとも頻繁に訪れることがない店だから無意識に安心しているのか、それまであまり人に語ることのなかったことをつい話してしまう。
「そうだろうなあ。僕も君とそれほど年が変わらない息子がいるけれど、きっと反対する」
「やっぱり、そういうもんですか?」
「ああ、そりゃそうだよ。君ぐらいの年の子が親元から遠く離れて暮らすなんて言ったら、誰だって最初は反対するんじゃないのかな。心配っていうのもあるけれど、いつまでも手元に置いておきたいもんだしね」
 言いながら、男性は自分の分のコーヒーを用意している。
「でも、男ですよ? 女ならわからなくもないけど……」
「親からすれば、子供は子供なんだよ。いい意味でも、悪い意味でもね」
 父に言われているのであれば、おそらくカチンと来ていたに違いないが、不思議とこの人に言われると嫌な気がしない。素直に、やっぱりそうなのかな、とさえ思ってしまう。そんな意味も含めて感慨深げに黙り込む佐伯に、男性はカウンターについた両肘に体重を預けるようにして身を乗り出し、にっと笑顔を見せる。
「でも、たいしたもんだよ、親元離れて店を手伝うなんて。……君、よっぽどお祖父さんのお店が好きなんだね」
 優しい口調で言われ、少し嬉しい気持ちになる。佐伯は彼の言葉に頷いて、暖かいカップをそっと手で包む。ミルクも砂糖も入っていないブラックのコーヒーを見つめ、そっと言葉を紡いでいく。
「祖父と祖母が二人でやってきた大事な店なんです。それに、将来、ああいう店持ちたいっていうふうに思えたのも、あそこがあったからだし……」
 守りたい、大切にしたいという気持ちをいくつもあの店で見つけた。確かに、学業と店を両方――それも成績に影響がでないようにこなしていくのは大変だ。睡眠時間を削られることは多くあるし、自由な時間というのにも制限がつく。「普通」に学生生活を楽しんでいる同級生を時折羨ましいと思うことも正直な気持ちだ。
 でも、それらを引換にしても守りたいと思えるものがある。
 大事にしたいもの、大事にしたい気持ち。それが自分をここまで動かしてきたのだ。
「君も、店持ちたいんだ?」
 コーヒーを淹れ、カップを片手に佐伯を見る。
「……はい。そのために、いろいろ勉強したいんです。大学に行って経営学っていうのもあるけれど、それだけじゃなくて、もっといろんなこと知りたいな、って。まだまだ足りないことばかりだし」
 半ば自分に言い聞かせるようにそう呟くと、いつの間にか男性は佐伯のすぐそばまで歩み寄っていて、手に持っているサーバーを軽く掲げて佐伯を見る。
「やりたいことがあるのは、素晴らしいことだよ。君の年で見つけられるのは、とても幸せなことだ。皆やりたいことなんてそう簡単に見つけられないしね。……でも、肩に力を入れすぎないで、頑張りなさい。こうして茶でも飲んだり、たまにバカみたいに思い切り遊んで、ぼんやりする時間も大事だよ。それもね、君達若い人がしなくちゃいけない仕事の一つだ」
 言って、サービスだよと笑って佐伯のカップにコーヒーを注ぐ。
「え……あ、あの」
「未来の同業者に――あ、今もそうなのか。まあいいさ、とにかく、生き生きとしている未来のマスターにちょっとしたサービスだよ。それに、店も見ての通りだしね。誰も咎める者なんていないさ」
 客がいない店内を見渡して、肩を竦めて笑う。あまりにもあっけらかんとしているその様子に、佐伯もつられて笑ってしまう。
「それじゃあ、ごちそうになります」
「どうぞどうぞ」
 それからしばらくは男性といろんな話をして盛り上がった。彼が店を持つようになったきっかけや、これまでの苦労話。そして、若かりし頃の話なども楽しく聞いた。
 自分は決しておしゃべりなほうではないと思っていたが、同業者ということもあり、そしてなにより彼の人柄もあって、随分と長く話しに花を咲かせた。 笑いもしたし、真面目に耳を傾けたりして過ごしていたが、一人、二人と徐々に客が入り始めたのをきっかけに、佐伯は名残惜しい気持ちで席を立った。
 コーヒーのお代わりのみならず、ケーキまでご馳走になってしまったのだが、「コーヒー一杯分のお代だけでいいよ」と言って男性は余分な金をけして受け取らなかった。
「すみません……俺、客なのに」
 申し訳なく、心からそう言うのだが、男性は「いいって、いいって」気にするな、と笑うばかり。
「いつか店が持てたら、報告がてらにまたいらっしゃい。……というか、こっちに戻ってくるようなときは、いつでもおいで。美味いコーヒー淹れて待ってるから」
「ありがとうございます。……俺、本当はもう少しこっちに居ようかと思ったんだけど、電話で……向こうにいる奴と話したり、こうしてマスターと話していて、やっぱり気が変わりました」
「うん? 早く帰りたい、とか?」
 お見通しといった感じのその視線に頷いて返す。
「家でごろっとしてるよりも、店のほうがやっぱり落ち着くし、なんか体を動かしてるほうが合うみたいです。それに――待ってると思うから」
 ――じいさんも。そして、ゆきも。
 心うちでそっと呟き、「待ってるね」といってくれた人の顔を思い出す。 
「そうか。……じゃあ、またいつかだね。頑張れよ」
「はい。コーヒー本当に美味かったです。ありがとうございました。また必ず来ます」
 笑顔の男性に小さく頭を下げ、ドアを開けると、やわらかいドアベルが鳴る。柔らかく、そしてかろやかなその音を聞いて、やはり帰りたいと思った。
 店に帰りたい。
 大切な人が待っているあの場所に。
 一歩、二歩と踏み出す足取りは、とても軽かった。


「本当にもう帰るの? 飛行機のチケットは大丈夫なの?」
 家に戻ってくるなり「今からあっちに帰る」と言い出した佐伯に、母はとても驚いたようだ。そわそわと落ち着かない様子を見せ、何度も同じ事を尋ねてくる。
「なんか、やっぱり店のことが気になるし。チケットのことなら大丈夫。ネットで見といたんだ」
「そう……」
 落胆する声が聞こえる。
 荷物は最初からあまり持ってきていないこともあり簡単にまとまってしまい、あとはもう家を出るだけ。移動と飛行機の時間を考えると、のんびりしていられそうもない。
「うん。……ごめん、帰ってきても、これじゃあ母さんも落ち着かないよな」
 気ばかり使わせている母に対し、申し訳ない気持ちになる。
 いつ衝突するかわからない父子、そしてさらにはまるで居心地が悪くて逃げ出すかのように見える佐伯のこの行動とに、母はこの数日とても疲れたのではないかと思う。
 佐伯からすれば逃げ出すつもりではないにしても、思っていることをきちんと両親に伝えることなくふいっと踵を返す自分の姿は、逃げているように見られても仕方がない。それも、父の不在のときに家を出るとなれば尚更だろう。
「あのさ、父さんにもよろしく伝えておいて。また大きな休みがあるときにでも帰ってくるから。――あと」
 一度言葉を切り、改めて口にする。
「忙しいのもわかるけど、無理しないようにって」
 以前祖父にはおまえは父さんに似て不器用なんだから、といわれたことがある。自分もそう思う。こうして離れて暮らしてみて、少しだけそれがわかった。今でも好き勝手にしている自分にはいい顔をしない父で、そんな父を疎ましく思うことが多くあるが、でも心底嫌いなわけではない。
 祖父も年をとっているならば、間違いなく父も年をとっている。多忙な人だ、体調を崩さないとも限らない。もしここで父に倒れられたら、きっと自分は後悔をする。つまらない衝突を繰り返していても、やはり失いたくないものの一つには家族がある。
「……そうね。ちゃんと伝えておくから」
 顔を合わせたのは一昨日の晩だけだった。会ったところで話すことは何もないのだが、顔をあわせることもないまま、また離れて暮らすことになる。
 体調崩さないようにね、と寂しそうな顔の母に見送られ、丁度やってきたバスに駆け込む。午後の柔らかく暖かい日差しを浴びながら、少しの間揺られて駅までたどり着き、そのまま空港近くの駅へと向かう。
 予定通りの時刻で飛び立った飛行機の中、佐伯は暮れかかる空を見つめる。
 行きの飛行機はあんなに気鬱だったのに、今は気が急いて仕方ない。昨夜のゆきとの電話はもちろんだが、昼間に立ち寄った喫茶店のマスターと話といい、妙に心を衝き動かす出来事が多い。
 帰りたい場所がある。それは随分と訪れていなかった実家ではなく、海の見えるあの街。
 目を閉じて思い出すのは、カウンターに立つ祖父の姿と、店いっぱいに香るコーヒー。
 そして、彼女――ゆきの笑顔。
 はばたき市を離れてまだ数日しか経っていないのに、なぜか懐かしく感じてしまう。会いたくて、帰りたくて仕方がない。
 以前実家に戻ったときはここまで思わなかったのに、今のこの気持ちはなんなんだろう、と佐伯はふと可笑しくなり、口元に小さく笑みを浮かべる。
 郷愁というほど懐かしい訳ではない。
 けれど、今心に一番しっくりとくる言葉は、おそらくそれだとなぜか強く思うのだった。


 バスを降りたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。実家を出たときが夕方近くだったので無理もないが、砂が混じる地面をじり、と踏みしめ、そして波の音を聞いたとき、帰ってきたことを実感した。
「やっぱいいな、ここ。気が落ち着くよ……」
 荷物をどさりと地面に落とし、大きく伸びをする。辺りには人影もないから思う存分両手を伸ばし、ついでに胸一杯に息を吸い込む。独特の潮の香りで肺が満たされると、その分心が浮上したような感じになる。幾分体が軽くなるような気にさえなるのだから、慣れた空気というのは不思議なものだ。
 声が漏れるほどもう一度うんと伸びをした後、息を吐き出す。
「よし……と。じゃあ、行くか」
 一人ごちて、軽い荷物を拾い上げる。離れた所に見える灯台と喫茶店。営業時間に間に合うように戻ってきたので、店にはお客がいるかもしれないが、なんとなく今日は正面から入りたい気持ちになり、緩く長い階段をはやる気持ちを抑えつつゆっくりと上っていく。
 年季が入って見えるウッド調のドアにある小さな窓からは祖父の顔が見える。
 こんなに早く帰ってくるなんて、祖父はなんと言うだろう。何も連絡をせずに戻ってきたから、少しは驚くだろうか。そう思い、佐伯はドアを開ける。少しだけ悪戯をする子供のような気持ちになった。
 柔らかいドアベルが鳴る。これを聞いたとき、少しだけ照れくさくなった。――まるでお客さんみたいだ、と。
 そして鼻腔をくすぐるのはふんわりと漂うコーヒーの香り。馴染んだ香りだ。
「いらっしゃいませ――と。おやおや」
 穏やかな表情に、驚きが見える。目を瞬かせてもいる。
 ――やっぱじいちゃん驚いてるよ。
 思っていたとおりだ、と佐伯が笑顔を浮かべたとき、祖父以外の声が自分を出迎える。
「いらっしゃいませ」
 明るく、りんと通る声。それは紛れもなくゆきの声なのだが、本来なら彼女は今日は休みのはずだ。なのに、なぜ――。
「って……、えっ、瑛くん!?」
 驚き、僅かに目を丸くして佐伯が入り口付近に立ちつくしていると、彼女も負けずに目を丸くして佐伯を見つめている。
 幸いにして一組のお客しかいなかったものの、何事かとちらりと視線を向けられた。
 入り口でいつまでもぼうっとしているわけにもいかず、中へと進み、カウンター側の椅子の上に荷物を置く。そして、改めて彼女を見つめる。
「なんで、おまえ今日出てきてんの? たしか今日は休みだったはずじゃん」
「そっちこそ、なんでこんなに早く……」
 お互いにぱちぱちと目を瞬かせていると、祖父が肩を揺らして笑う。
「彼女は、おまえが実家に戻っている間は毎日出ると言って、手伝いに来てくれていたんだよ。開店から閉店まで」
「え……」
 さらに驚いてゆきを見ると、彼女は少し照れくさそうに唇を軽く噛みしめて、ぎこちなく視線を逸らす。
「それも、おまえに内緒でってね」
「わっ、ま、マスター!」
 祖父の言葉にゆきは慌てて顔を向けるが、そんな彼女にはすみません、と祖父はやんわり笑って肩を竦めて見せた。
「なんだよ……電話じゃ、そんなこと言ってなかっただろ」
 ぼんやり呟くと、うん、とゆきは頷く。
「だって、なんか、じっとしていられなくて。それに、待ってるって言ったでしょ、わたし」
 鼻の頭を人差し指爪で軽く掻きながら、彼女はちらっと佐伯を見て、それからにっこりと嬉しそうな笑顔になる。
「待ってるなら、珊瑚礁で待ってようって思ったんだ」
「どこで待ったって、同じじゃないのか」
 照れくさくとふいと視線を逸らす。我ながら悲しくなるくらい憎まれ口なら出てくるんだな、とこの損をしている唇を恨み、軽くかみ締める。
「確かに、そうなのかもしれないけど」
 でも、と彼女は付け足して佐伯を見上げ、目を細める。
「お帰りなさいが言いたくて。……ちゃんと、言いたかったの。だからよかった、営業時間内に瑛くんが帰ってきてくれて」
 明るい笑顔でゆきはもう一度、おかえりなさいと言う。
 おかえり――それはいつも言ったり、言われたりしている言葉だ。けれど、どうしてこんなに今胸が詰まるんだろう。すぐに返事ができなかった。
 まるで聞いたことのない言葉を耳にした時のような衝撃で、でも、そのあとにつれてくる感情は、胸を熱くさせる不思議なものだった。それが何なのかはわからない。
 ただ、胸が苦しいくらいに熱くて。
 締め付けられて。
 目頭がちょっと熱くなった。
 そう、不覚にも、涙が出そうになったのには驚いた。
「瑛くん?」
 不思議そうに首を傾げる彼女に、佐伯は眉間を寄せて目頭を抑えた。
「……やば、コンタクトずれた」
「えっ、大丈夫?」
「……大丈夫じゃないよ」
 ――ホント、冗談じゃない。涙が出そうになったなんて、誰が言えるか。
「ちょっ、ほんとに?」
 慌てて顔を覗き込む彼女に視線を向ける。目を押さえた指の隙間から心配そうなゆきの顔が映る。
「……嘘」
 言って、冗談めかして笑うと、ぎょっとしたようにゆきは表情を凍らせる。そして、徐々に頬を膨らませる。
「しんじられない」
「ごめん」
「許してあげない」
「悪かったよ」
「本当にそう思ってないでしょ」
「おっ、すごいな、わかるのか!」
「……まったくもう」
「ははっ、ごめんごめん」
 口を尖らせてむくれる彼女の後ろでは、カウンターにいる祖父は肩を揺らして笑っている。佐伯もその姿を見て、祖父に向かって小さく目配せしてみる。そして、髪を軽くかきあげたあと、うっすらと涙が浮かんだ目じりを拭う。きっと、彼女には笑い泣きしたあとのようにしか見えないだろう。
「……なあ」
「うん?」
 まだちょっと怒っているという顔でゆきが見る。
「コーヒー淹れてよ。俺、喉が渇いた」
 佐伯の言葉のあと、少し考えるような間を置き、それからカウンターを振り返る。祖父が笑顔で頷くのを見て、ゆきも同じように首を縦に振る。
「了解。……でも、高いよ?」
 カウンターに入り、彼女はにやっと笑う。
「取んのかよ」
「勿論。タダじゃないですよーだ」
 意地悪そうな笑みに、佐伯はカウンターの椅子に腰を下ろしながら盛大なため息を吐いて「ケチ」と返す。彼女はケチですよーと笑ったものの、それ以上は何も言わなかった。代わりに佐伯への一杯を淹れるため、慣れた手つきで小さなその手を動かす。
 佐伯はそんな彼女をぼんやりと見つめながら、再度深いため息を吐く。
 飛行機や電車、バスを乗り継いでやっとたどり着いたこの場所。正直、疲れていないといったら嘘になるのだが、不思議なことに彼女と話していると疲れを忘れてしまう。それにこのコーヒーの香り。ゆっくりと瞼を閉じると心がとても落ち着く。帰ってきたという気持ちになる。
 出かける間際に祖父は「あそこはおまえの本当の家なんだから」と言っていた。
 でも、本当の家にいても気持ちはなぜか落ち着かず、遠くにあるこの場所ばかりが恋しかった。わけもなく恋しくて、帰りたくて仕方がなかったのだ。
 そんなことをぼんやり思っていると、目の前でカタン、とカップの音が小さく鳴る。
「はい、お待たせしました。特製ブレンドだよ」
 やんわりと微笑まれ、佐伯は「ありがとう」とカップを手に取る。
 ひとくち含もうと唇を寄せるが、その前に目の前にいるゆきをじろりと見上げる。忘れていたことが一つ。さっき彼女が言っていた「タダじゃない」と言う言葉。 
「……で、条件はなんだっけ?」
 白い湯気が睫毛につきそうになる。
「え?」
「タダじゃないんだろ?」
「そ、そうだった……よね。うん。……えっとね、その……たくさん話がしたいな」
「は?」
「お土産話、聞かせてくれる?」
 首を傾げて頬杖をつく彼女。突拍子もない言葉にちょっと驚きはしたが、佐伯は小さく笑って答えた。
「つまんないよ、多分。たいしたことなかったし」
「それでもいいの。なんでもいいから聞きたい。飛行機どうだったとか、向こうの天気はどうだったとか、どこに行ったとか。なんでもいいの」
 嬉しそうに目を細める彼女の幸せそうな顔を見て、佐伯はやはり少し驚いた。なんでもいいなんて、本当に何もなかったのに。それでもいいなんて。
 ――おかしな奴。やっぱり、変だよ、コイツ。
 でも、そんな「おかしな奴」の顔が見たくて仕方がなかったのだから、そんな自分もおかしな奴なのだろう。
 一口コーヒーを含む。
 ほろ苦く、そしてさっぱりとした酸味のあるコーヒーは、祖父が淹れる味でもなければ佐伯の味でもない、彼女の味。
 あまり慣れていないはずのその味だが、懐かしい味がした。
「……わかった。美味いコーヒー淹れてくれたお礼、してやる。……帰り、一緒に帰ろう。ちゃんと送るよ」
「ほんとに!?」
「ホント」
 その帰り道に、彼女が望むたくさんの話をしようと思う。
 実家に帰る途中、ぼんやりと昔のことを思い出したこと。
 天井が慣れなかったこと。
 そして、コーヒーの美味い、いい店を見つけたこと。
 こっちに帰りたかったこと。
 目の前のその笑顔に会いたかったこと。
 いつもであれば気がつかなかったものは、きっと何気ない毎日に隠れている。
 明け方の真珠の海も、オレンジに染まる海も。
 潮風の心地よさも、すべて。
 離れてみて、その大切さに改めて気がついた。
「あ……そうだ、忘れてた」
「うん?」
 安堵の息を吐き、暖かいカップを手で囲んでゆきを見つめる。
「ただいま」
 気がつけば、戻ってきてから一度も言っていなかった言葉を、今やっと口にして微笑んだ。
「うん。おかえり」
 またいつものように夜が過ぎて朝が来るけれど、ここには海がある。
 還るべき海が、ここに。
 朝起きても、天井に慣れないなんていうことは、もう、きっとない。



End.
2007.02.12-02.24UP 
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