ときメモGSシリーズ

フルムーンにくちづけを【瑛主】



 まだダンボールが部屋のところどころにおいてあるのは、大学に入学すると同時に一人暮らしを始めた佐伯の部屋。
 祖父である総一郎と共に暮らしていた時のものを幾つか譲り受けたけれど、それでもなにかと買い足しも必要とあり、ゆきは佐伯と共に一日買い物の付き合いをしていた。
 あれやこれやと電化製品、その他雑物などを選んでいたらあっという間に店の外は暗くなっており、小さな星々が遠くでちらちらと輝く時間帯。おまけに空腹感もあった。
 外で食事をするかと佐伯に言われたのだが、日常品を揃えるために結構な出費をしていたこともあり、節約もかねてゆきは自ら食事係を買ってでたのだった。
 手軽な材料で簡単な料理を何品か作り、揃って空腹を満たしたあと、ふと気付くものがあり、ゆきは思わず声を漏らす。
「あ……」
 床へとおろしていた腰を上げ、窓へと視線を向ける。そんなゆきに、佐伯が声をかける。
「なに?」
「月が丸い!」
「……あのな、それ、当たり前だから」
「それはそうだけど、違うってば。見てよ、瑛くん」
 頬を軽く膨らませたゆきは、床に腰を下ろしたままこちらを見上げる彼を振り返り、窓の外を指差す。
 佐伯はふぅ、と息を吐いたあと、仕方なさそうに立ち上がって、ゆきの背後まで歩み寄る。そして、同じように窓の外を見上げては、驚いたような声を上げた。
「わ、ホントに凄いな。今日は満月かな」
「そうかも知れないよね。それにしても、ここまでまあるい月を見るのってなかなかないかも」
 二人の視線の先にあるのは遠くに輝く月。
 欠けている部分が見あたらず、綺麗な黄色の月は明るく輝いて見え、地上には柔らかい光を届けている。
 こんなに明るい光を届ける月は珍しく、ゆきは部屋の灯りを落とし、暗い部屋を注意して歩いてバルコニーへと出る。人口の灯りが無くても、今日の月ならばこの部屋も明るく照らしてくれるはず。そう思ったのだ。
「暗くしても、明るいね」
「ホントだな。ちゃんとおまえの顔見えるってのが凄い」
「瑛くんの顔も、わたしのほうからはっきり見えるよ」
 手摺りに両腕を置き、互いに小さく笑う。僅かな表情さえも見える今夜。世界中でどれだけの人が気付き、こうして空を見上げているだろうか。
 ――こういう夜は、部屋にいるのがもったいないくらい。
 そんなことを思いながら、ゆきは目を細めて月を見上げる。
「綺麗だな。月の周りがボンヤリと環になって見える。なんか、虹っぽくも見えるかな」
 空を見上げる佐伯の頬のラインが淡く照らし出される。
 表情さえもはっきり見える明るさ。そして、月の周りが霞がかって見える幻想的な風景に思わず見入ってしまう。もちろん、佐伯の表情にもだ。
「言われてみれば、ぼんやりと光って見えるのが虹みたいに見えるよね。なんか、こういうの不思議な感じがするなぁ」
「そうだな。――それに、こうして二人で月なんて見るのって、なんか新鮮」
 こういうのも悪くないな、と笑顔を浮かべている。
「あれ、でも珊瑚礁からの帰り道も夜だったでしょ? わたし、月が出てるときは結構見てたんだよ」
 バイトが終わったあと、佐伯は自宅まで送り届けてくれていたことを思い出す。その帰り道をまれに美しい月が照らしてくれて、共に夜道を歩いたものだ。
 けれど、今日のように美しい月夜はそうなかったように思える。何より、そう思えるのは、やはり心が満ち足りているからなのかもしれない。
 そう思う自分に少しだけ照れくささを感じながらも静かに呟く。
「でも……やっぱりあのときとはちょっと違うかな。帰り道じゃなくて、瑛くんのアパートからっていうのが……全然違う」
「……ああ」
 やんわりと目元を緩め、佐伯は指先を組む。優しいその表情は、そっと彼を見ているゆきのこころまでも穏やかにする。
「それに、なんか近いしね。あの頃より」
 瞼を閉じ、そっと隣にいる佐伯の肩にもたれると、こめかみの辺りに彼の暖かさを感じる。こういうふうに自然に寄り添えるようになったことが、今更ながらに嬉しく思える。もう一緒にいることができないんじゃないかと思った日々が、あの月の向こう側にあるかのように遠く感じる。
「そうだな」
 ふっと笑みを含むその声に心を擽られ、ゆきは「ん……」と小さく返事をする。
 数ヶ月前、佐伯にさよならを言われたのが随分と前のことのようだ。別れを告げられた時は強いショックを受け、彼が戻ってくるまでの間、不安や悲しみが、彼を信じる気持ちと交互に波のように寄せては引いてと繰り返していたが、あの頃がうそだったように、今ではこんなに穏やかだ。月は満ち欠けを繰り返す分、不安や頼りなさ、移ろいやすい心の例えにされることもあるが、今のゆきにはそういうふうには思えない。むしろ、柔らかい光は安堵感とあたたかさを与えてくれる。
 ――不思議。そばにいるとどきどきするのにね。……でも、こんなにもほっとするんだ。出会ったばかりの頃は、こんな風に一緒にいるなんて思いもしなかったのに。
 出会った頃だけでなく、今だって変わらず小さなケンカを繰り返す二人。意地の張り合いや負けず嫌いを互いに見せ付けながらも、こうして一緒にいる。想いを伝え合った今も、変わらず二人で。
「ゆき」
「うん?」
 顔を上げずに返すと、言いづらそうに言葉を切って、佐伯がぽつりと言葉を紡ぐ。
「あの、さ……。その…………しても、いい?」
 何を? なんてこの雰囲気では聞けない。もちろん、聞く勇気も。
 月明かりとお互い以外に何もない。
 明るい月の光に表情がはっきりとわかってしまうのがとても困る。思わずまじまじと彼を見詰めると、手すりに両腕を預けたまま、少し照れたような顔をしている。
「え……」
「だめ?」
 その声、その表情が甘く、ほんの少し切なさが混じって見える分、ノーとは絶対に言えない。
 勿論言うつもりもないけれど、面と向かってストレートに言われてしまうととても恥ずかしい。ましてや、その問いかけは、ゆきの頬をかっと赤くするのには十分すぎるものだ。
「だめって……えっ!? て、瑛くん、それって、あの……そ、その。……こ、ここで?」
 慌てふためき、僅かに踵を後ろにずらすゆきに、佐伯は尚も柔らかく微笑む。
「見てないよ、誰も」
 ――でも、外だしっ……。『そういう』ことは、きっとそう遠くないうちにあるんだろうと思ったけど……で、でも、いきなり外では無理だよ……。ぜ、絶対に無理! キスだって恥ずかしいのに、そっ、それ以上なんて……。
 ちらりと部屋の中へと視線を向ける。無造作に置かれているダンボール。小さなテーブル。そして、ベッド。でもどうして言えるのか――それなら、せめて部屋で、などと。
 ドキドキが収まらない。
 顔に熱が集まりすぎて、額にじんわりと汗を掻いている。なのに、どうして目の前の彼は余裕そうなんだろう。
「そ……れは、そうだけど。でも、でもね……っ」
「いいから」
 しー、という具合に指を押し当てられ、ゆきは口ごもる。ただ指先を当てられているだけなのに、目の前の瞳が妙に煌めいているから尚のこと落ち着かない気持ちになる。
 ――うぅ、なんで瑛くんはこんなに余裕なの! それに、なんでこういうときに限っていつもの二割増しでかっこいいんだろう……。口調だって優しいし。ああもう、反則だよぉ〜……。
 ぎゅっと目を閉じると、肩に手を置かれる。体の向きを少しだけ変えられ、そっと手をとられると、唇には柔らかい感触。
 それから待てどもどこにも触れられる気配がない。
 ――……え。
「なに体固くしてんの。……バカ」
 可笑しそうに笑う佐伯が軽くチョップをおろしてくる。
 どうやら彼の指していた言葉はキスであって、ゆきが思うような『それ』とは違うようだ。
 ほっとしたような。でも残念のような。複雑な気持ちが交差する。
「な、なんだ。びっくりしたぁ……」
「なんだってなんだよ」
 眉間に皺を寄せ、不服そうな声を漏らす佐伯に、ゆきははっとしてぶるぶると首を振る。
 うっかり心の声が漏れてしまった。
「いえ、べ、べつに?」
「胡散臭い。なんだ、言えよ、言いなさい」
「な、なんでもないったら!」
「嘘つけ。十分キョドってるぞ。俺に隠し事ができると思うなよ?」
 さっきまでの雰囲気はどこへやら。にやりと笑う顔が月夜にイヤに映える。……それも、不吉な方の意味で。
「その顔、怖いってば」
「ウルサイ。誤魔化すな」
 視線を目の前の佐伯から、夜空へと落ち着かなくさまよわせると、突然はっとしたような声が目の前から聞こえる。
「…………あ!」
 驚き、びくりと肩を上げるゆきとは対照的に、佐伯はさっきよりももっと含みのある笑みを浮かべる。
「ひょっとして、おまえ、勘違いしたろ。違う方に。不純な方に!」
 一歩ゆきへと近づき、勝ち誇ったような笑みで覗き込む佐伯の胸を、ゆきは両手でぐっと押し返す。
「してないよ! してないったら! なに言ってんの!」
「顔赤いぞ。やらし〜。どんな想像してたんだか」
 ぐりぐりとつむじを押す手を払おうとするが、逆にあっさりとその手を掴まれてしまう。
 ――ああもう! 恥ずかしいよ。なんでばれちゃうんだろうっ。やだな、もう……。
「赤くないもん! やらしくもないってば! 瑛くんのばかっ。……わ、わたしもう帰るからっ」
 自分の手をしっかり掴んでいる佐伯の手を軽く叩き落とし、くるりと背を向け足を進めると、そのあとを佐伯が慌ててついてくる。
「えっ? ち、ちょっと待てよ!」
「待たない。帰る!」
 いつもは佐伯が怒り、そのあとをゆきが追っていたのだが、今日はその逆。暗い部屋の中を歩く腕を、佐伯が掴む。 
「暗くて危ないから、足下。っておい、聞いてる?」
「平気だよ、ちゃんと見てるもん」
「暗くてよく見えないだろうが。待ってろって、今灯りつけるから――って、痛っ!」
「えっ、ちょっと、大丈夫!?」
 がっ、と佐伯の足元に硬質の何かが当たる音。佐伯の悲痛な声に振り返ると、躓いた勢いでゆきの肩の辺りへと佐伯が突進するような形でぶつかってくる。
「わ、ばか! 止まるな……」
「そんなこと言ったって――わあっ!」
 もちろんゆきに避け切れるわけも無く、肩への軽い衝撃を受けたまま横倒しになる。
 床へとしたたかに右半身を打ち付けるかと思いきや、寸でのところで佐伯に腕を引かれ、落ちた先はかろうじてベッドの端。それもあと少しずれていたら床へと落ちるぎりぎりのところだ。
「って〜。マジで痛……。つーか、ぎりぎりセーフ……」
 すぐ隣で聞こえる佐伯の声に、ゆきが慌てて体を起こす。
「てっ、瑛くん、大丈夫!?」
「うーわー……。頼むから動くな! 今、猛烈に足の指痛いんだから。ダンボールの角で、小指打った……マジで痛え」
 苦悶の表情を浮かべ、必死で痛みに耐えている様子に、ゆきは小さく声をかける。
「ご、ごめん……ね?」
「ヤダ!」
「ご、ごめんなさいっ」
「可愛く言っても許さない」
「ええっ」
「……なんて、嘘」
 言って、チラッとこちらを見た佐伯の表情があっという間に笑顔に変わっていたことに気がついたゆきだが、あっと思うよりも先に組み敷かれてしまう。
「わ、瑛く……!」
 覆いかぶさるようにして上にいる佐伯が、真っ直ぐにゆきを見つめる。
「だましたな……ずるい」
「ごめん」
「ヤダ!」
「……バカ。真似すんな」
 先ほどの佐伯の言葉を真似て言うと、小さく笑って返されるが、彼の表情はすぐに真剣なものへと変わる。
 耳から顎にかけてのラインだけがやんわりと照らされる。艶めいて見える瞳はいつもの彼の持つ雰囲気を少し大人っぽくする。気持ち甘さも浮かぶ瞳から、視線が外せない。月の光が弱い部屋の中でも、それははっきりとわかり、ゆきの鼓動が小さく跳ねる。
「ゆき。……あのさ」
「……うん」
「さっきの、アレ。もし、そういう意味だったら、おまえどうしてた?」
「アレって……その……」
 わかっていても、いや、わかっているからこそ余計に口ごもるゆきに、佐伯が敢えて「キスじゃないほう」と小さく笑う。
 散々笑っておいて今更そんな顔して聞くなんて、卑怯。カッコいいから、余計にずるい。ずるいよ。――心うちでそう思いながら、ゆきはため息を混ぜて呟く。
「……たぶん」
「たぶん?」
 聞き返す佐伯の声に、『うん』と首を縦に振る。言葉にして言わなかったのは、とても恥ずかしかったからだ。
「ホントに……?」
 佐伯は驚いたような表情を見せて、何度か瞬きを繰り返す。そんな彼に、今度は「うん」と短く返事をする。
「だって、嫌な理由……どこにもないし。だから……『うん』」
「……そっか」
「うん……」
「なんか、キスしたら、止まらなそう……かも」
 指の背でゆきの頬のラインをそっと撫でる。
 鼻先が触れ合うほど互いの顔が近づくとほのかに温かく、そして、ゆきの額に佐伯の髪が触れる。
「そう……なの?」
 妙にドキドキする心臓の音が聞こえてしまいそうで、ゆきは胸元を押さえる。本当は同じことを思っているのに、この唇は思っていることとは違う言葉を紡いでくれる。
 ――なんでそういうこと言っちゃうんだろう。そうじゃないのに。本当は、違うのに。
「そうなの、って……。そうじゃないの、おまえは?」
 月明かりが頼りの暗い部屋。そして二人がいるのはベッドの上。いやでも雰囲気を盛り上げてくれるのに、「そうじゃない」なんてありえない。あの灯台で互いの気持ちを確認し、心の距離が近づいた今なら尚更だ。
「ううん、同じ。……わたしも、瑛くんと同じだよ」
 ゆっくりと傾けられる頬のラインと、長い彼の睫毛をぎりぎりまで見つめ、ゆきは降ってくる柔らかい感触をそっと瞼を閉じて待った。


 握られる手が熱い。
 額に、頬に触れる唇も、柔らかくて、温かい。
 キスをされているだけなのに、体がふわふわしてくる。
 首筋に一つキスを落とされ、佐伯の額がゆきの額へと押し付けられる。
「ほんとに、いいの?」
「……ん」
 吐息が首筋にかかり、くすぐったくて思わず肩を竦めてしまうが、ためらいがちな彼の問いかけに対しての返事も込められている。
 すると一瞬佐伯は驚いたように僅かに目を丸くするが、そのあと深いため息と共に低く囁かれる。
「それ、ずるい。参った……」
 ブラウスの襟元へと伸ばされた手が、小さなボタンを外す。
 一つ、二つと外されていくと、それほど窮屈でもなかったはずなのに、妙に呼吸がしやすくなる。ドキドキが収まらないのに、それでもだ。
 寛いでいく胸元へとぼんやり視線を向けると、次のボタンへと手をかけたまま動かそうとしない指先が目に映る。
「瑛、くん?」
 不思議に思って声をかけると、しばし考えたように唇を結ぶ佐伯が、「ああ、もう!」と苛立たしげに言って、ゆきの肩口にぎゅっと額を押し付ける。
 肩を押し付けられたゆきは体を起こすこともできず、小さく顔を動かすのが精一杯。
「ど、どうしたの?」
 尋ねると、理性と欲求との葛藤、と短く返ってくる。どうやら彼は理性を取ったらしい。が、少しだけ……いや、大分後悔しているようにも思える。友達以上、恋人未満の関係でなくなった今なら、キス以上のこともできるのに。
「あ、あの……」
 わたしなら、大丈夫だよ? と言うゆきに、わかってる、とも言う。
「ハァ……。ホントにごめん。ここでやめんのって、根性ないんだろうな」
「それって、やっぱりイヤだから……とか?」
 ぼそっと力なく呟く佐伯が心配になり、そっと尋ねてみると、慌てて顔を起こした彼が思い切り横に首を振る。
「バカ! んなわけあるか! そんなこと絶対に絶対にありえないって! したいよ! したいにきまってるじゃん! ……って、何、力説してんだ。マジでバカ……」
 キスはすれどもそれ以上のことはせず、彼はゆきの手をぎゅっと握りしめる。
 ため息をつく姿は、途方にくれた子供のよう。こんなとき可愛いなんて思ったらだめだろうか、とゆきは心の中で呟きながらも、首を傾げてそっと微笑む。
「あの、気にしないで。別に、わたしは気にしてないから」
「……ゴメン。ホントにイヤだからじゃないんだ。むしろ、その逆で……。でも、さ。今そういうことしちゃうと、本気で抑え利かなくて、なんかやばいんじゃないかって……。なんていうか、その……そういうことは焦んないでいこうって思ってるから、さ。これでも、一応」
「え……?」
「急いで走って、大事なものを失くしたくないし、壊したくない。……大事にしたいんだ。その……好き、だから」
 そっと髪を撫でる手が優しい。
 彼が言うように、壊れやすいものをそっと大事にするようなその仕草に、胸の奥が甘く、ぎゅっと締め付けられる。
 大切にされていると思う。
 時々乱暴だし、言葉だってきついときもあるのに、それでも大事にされているという実感がある。この暖かい手が、見つめる優しい瞳が、何よりもそれを伝えている。
「瑛くん……」
「自分のやりたいことや夢は勿論大事だけど、おまえのことは、もっと大事にしたい。もう、この手は離したくない。やっと、ちゃんとつかまえたんだから」
 確かめるようにぎゅっと力を込められた手を、ゆきも握り返す。
 こうして温もりを感じられる。言葉を交わし、視線を合わせ、唇に触れることだってできる。
『もう離さない』と気持ちを確かめたあの日の言葉は、今もちゃんと胸の中にある。けして忘れることなく、そしてこれからもずっと色あせることなく、心に残る約束。
「うん……。わたしも、離れたくない。もう、いやだよ?」
「……ごめんな」
 切なげな光が揺れる瞳を、ゆきは目を細めて覗き込む。
「許す。……かっこいいから許す」
 いつもの彼の言葉を真似てみると、佐伯は一瞬目を丸くしたあと、ふっと笑みを漏らす。
「なんだよ、それ」
「あれ? こういうときって『そんなの当たり前』って言わないの?」
 首を傾げて尋ねると、形のいい額をぎゅっと強く押し付けられる。そして、幸せそうなため息に混ざり、優しい声が降ってきた。
「……バーカ」
「バカって……もうっ」
「バカだから、バカって言ったんだ」
「知ってる? そういうことを言う人が一番バカなんですよーだ」
「おっ、言うな。生意気な……!」
「キャー!」
 アハハと笑いながらも、体を抱きしめてくる佐伯に、ゆきもその胸の中で肩を揺らして笑う。
 暖かい温もりは、ここにある。
 笑って、怒って、時々涙を浮かべる日もあるかもしれないけれど、それでも構わない。
 そして、もし再び彼の心がばらばらになったとしても、この手で繋ぎ合わせていけばいい。勿論、その逆も然りだ。
 そのために互いがあるのだから。
 この手は、心を通わせることができる手。この唇は、心に触れることができる唇なのだから。


 瞼の裏が妙に明るい。
 おまけに遠くでは鳥の囀りさえも聞こえてくる。
 夢でも見てるのかな、とゆきは重い腕を上げて目をごしごしと擦る。
 ぼんやりとした視界に写るのは、妙に白っぽい天井で、ゆきの自室のそれとは違う。
 そして、洋服を着たまま寝てしまっていることに気付いたとき、ずれた意識がはっきりとしていく。
「……ん。ここ、どこ……」
 ――わたしの部屋じゃない。……っていうか、なんでパジャマじゃなくて、服着て寝てるの?
 なによりブラウスのボタンが外れかかっている。動いたら下着がはっきりと見えるところまで開いているのには流石に驚いた。
「わあっ」と叫び、慌ててぷちぷちと襟元近くまでボタンをしめると、ふっと笑う声が耳に届く。それも、聞きなれた声だ。
「おはよう」
「おはよ……って! あ、あれ……っ!?」
 ついつい返事をしてしまったが、よくよく見ると、片方の肘をついたまま、笑顔でこちらを見つめている佐伯がすぐ隣に。
「瑛くんっ!」
 ゆきはわけがわからないまま慌てて体を起こす。
「えっ、ええっ!?」
 ぺたぺたと頭を触り、自分の体をまじまじと見つめる。開いたブラウスの前は少し前にちゃんと閉めた。スカートもちゃんと穿いている。ほんの少し皺が寄っているが、そう酷くない。――いや、今は服どころではない。
「ひょっとすると、わたし……昨日、家に帰らないで、そのまま……」
 ぼんやりと記憶を繋ぎ合わせながら呟くと、佐伯がそう、と頷く。
「俺よりもぐーすか寝てたぞ。それよりも、おまえ凄い頭! ハハっ、笑える!」
 心底可笑しそうに笑って指さす佐伯に、ゆきは唇を尖らせて軽く睨む。
「それいうなら、瑛くんだって! ぐしゃぐしゃだよ!」
「俺はどんな俺でもかっこいいからいいんだ」
 ――にくたらしい。
 そう思うけれども、カッコいいのは本当のこと。前髪が降りているのを無造作にかき上げる仕草は、妙に絵になる。
「うー。言い返せない。……いいもん。悔しいから、また寝ちゃおうっと」
 再び横になり、布団を頭まで持ち上げるのだが、ゆきが瞼を閉じるよりも早く佐伯が布団をめくり上げる。
「あっ、こら、寝るな! 起きろカピバラ!」
「カピバラってまたいう〜」
「そのボケた顔は、まさにカピバラ以外の何ものでもない」
 ふん、と意地悪そうに笑う佐伯だが、ややあってその表情をふと柔らかいものに変える。
「……でもさ、得したってカンジ、かな」
 からかってみたり、微笑んでみたり。朝からさっぱりわけがわからない佐伯の言動に、ゆきは体を横にしたまま首を傾げて尋ねる。
「得? え、なんの?」
「寝顔。ちょっと可愛かった」
「み、見たな!」
 目を見開き、佐伯を凝視すると、軽く眉を跳ね上げられ、さらっと返されてしまう。
「いいだろ。前にも見られてるんだから、今更じゃん」
 いわれてみれば、去年のクリスマスの日も、うとうとと眠ってしまい、今と同じように佐伯の部屋で朝を迎えたのだった。それは、珊瑚礁が閉店した日でもあった。そして、「寝顔どころじゃないようなこと、しようとしたんだし……」とも続けられ、ゆきは顔がかあっと熱くなる。
「そっ、それは、そうだけど、恥ずかしいんだってば!」
「そうか? 可愛かったから、別にいいと思うんだけどな」
 いつになく素直な佐伯の言葉に少しばかりどきりとしたが、言われてばかりもちょっと悔しい。
「……じゃあ、今度はわたしが瑛くんの寝顔見てやろうっと!」
 ゆきも一度佐伯の寝顔を見ているが、それはまだ彼に言ったことがないのだ。
「無理。絶対におまえの方が早く寝て遅く起きるに違いない」
「そんなことないよ。わたしだって早起きできるもの」
 自信たっぷりに笑うと、呆れたように佐伯が横目でこちらを見る。
「言ったな。まあ、せいぜいがんばるんだな。ってそれよりもさ、今更だけどおまえ家のほう大丈夫なのか? 結局その……泊まりになっちゃったわけだし、親に連絡とか……」
 僅かに耳を赤く染め、急に言葉の切れが悪くなる佐伯に、ゆきは首を縦に振って頷く。
「あ、うん。大丈夫! はるひちゃんちに泊まるって言っておいたんだ」
「そうなのか。ならいいけどさ――って、そうなのか!? 最初っから、おまえそういうことだったのか? 泊まるって……マジで!?」
 今度跳ね起きたのは佐伯の方で、とても驚いているように見える。そして、なぜか少し怒っているようにも見える。
「う、うん? なに、いきなり」
 佐伯のその反応に少々面食らいつつも尋ねてみると、彼は突如目の前で頭を抱えこむ。
「わっ、どうしたの?」
「ああ!! ったく、どうしたの? じゃないって! あのな、そうならそうと、早く言えって。……ああもう、こんなことならやっぱりしておけばよかった! 急がないなんて口走った昨日の俺、カムバック!」
 唸る佐伯だが、ゆきはなにがなんだかさっぱりわけがわからない。
 恐る恐る肩に触れてみると、なぜか睨まれる。それも凄い顔で。
 ――な、なんなの? なにがいけなかったの? 
「あの、瑛くん?」
「ウルサイ。今俺に話しかけるな」
「ええっ!」
「話しかけたら……」
「話しかけたら、なに?」
「押し倒す」
「……えっ!」
 物騒な言葉とその瞳とにゆきはぎょっとし、僅かに体を引く。そんなゆきを見て、佐伯はため息をつきながら再度頭を抱え込む。
「……嘘だ」
「なあんだ」
「なんだよ、それ……」
 驚いたような、面白くないような、とにかく複雑な表情で佐伯はゆきの顔を覗きこむ。
「べつにー」
「ハァ!?」
 なあんだ、というのは半分本音。残念の「なあんだ」。
 昨夜、なにかあっても構わないというゆきの気持ちは本物だったし、西本の家に泊まると親に嘘を吐いたのも、ひょっとしたらそういうことがあるかもしれないと、買い物帰りの夕暮れの道を歩いているときに思ったからだ。
 買い忘れたものがあると席を外し、ドキドキしながら家に電話をしたゆきの気持ちは、きっと佐伯にはわからないだろう。
 何もなかったことに対し、ちくちくと佐伯を苛めるのも可哀相かとは思うけれど、苛めるのも今だけのこと。
 ――今だけ、ごめんね。
 心うちでそっと謝って佐伯を見る。
「……なに」
 訝しげな顔で短く言う彼の頬に、そっと唇を寄せて笑う。
「ふふっ。なんでもなーい」
 少し遅いおはようのキスに、ぼさぼさ頭の彼が絶句したのは、言うまでもない。



End.
2007.02.04UP
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