ときメモGSシリーズ

happy conclusion【瑛主】



いつもしっかりラストまでバイトをしているあいつが、今日は『早めに上がりたい』とじいちゃん――マスターに言ったらしい。
 体調悪そうじゃなかったし、どうしたんだろう。
 なんとなく気になって、さっきあいつが入ったばかりの更衣室のドアをノックした。
 入ってすぐだから多分まだ着替えてないだろうし、大丈夫だろ。
 硬質な音が鈍く響いた後、あいつの――ゆきの声が耳に届く。
「はーい」
「あ、俺。ちょっといい? 着替えてるんだったら、そのあとでも別に構わないけど」
「大丈夫だよ。どうぞ」
 遠慮がちにドアを開くと、ゆきは既にエプロンを外し、帰り支度を始めていた。ほんと珍しい。いつもはもっとのんびりしてるのに。
 ――何か、あるのかな。
「どうしたの、瑛くん」
 口角を上げ、にこっと笑われると、改まって聞くのが少し恥ずかしくなる。
 まるでこいつの一挙手一投足を気にしてるみたいじゃん。
 早く帰れば気になるし、遅くなっても気になるし。なんか、本当に翻弄されてるよな。
 でも、どうしても気になるんだよ、ホント。好きって、やだよな。どこまでもカッコ悪くなる自分が、どうしようもなく恥ずかしい。
「いや、どうしたっていうか……その。今日珍しく早く上がるから、体調でも悪いのかと――」
「心配してくれたの?」
 やんわりと目を細められ、不覚にも一瞬鼓動が高まる。
 なんだ、その嬉しそうな顔。こっちまで嬉しくなるだろうが。
「あ……、まあ。大丈夫なのか?」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でもね、体調が悪いとかじゃないから安心して。ちょっと今日は少し早く帰ってやることがあってね」
 俺と話しながらも、エプロンの紐を使い、たたんだ全体をくるくると器用にまとめる。
「はるひちゃんも千代美ちゃんも今日は頑張るみたいだから、わたしも負けてられない! 頑張らなきゃ! って触発されたの」
 エプロンをロッカーに片付けたあと、両の手でガッツポーズを作り、にんまりと笑みを浮かべるゆきに、俺は首を傾げた。
 こいつが闘志を燃やすほどの何かってなんだ? 珍しいぞ、ぼんやりのゆきがここまでやる気になってるのって。
「触発……って、珍しく燃えてるな。何をそんなに頑張るんだ?」
「女の子が燃えるイベントといったら、明日のアレしかないでしょ」
「ハァ? 明日のアレ?」
 眉を顰める俺に、ゆきは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「鈍い。鈍いなあ、瑛くん。明日はバレンタインデーだよ。瑛くんだって、今年も学校やお店でたくさん貰うでしょう?」
 うんざりするほどの量のチョコレートや菓子類を貰う日が明日に迫っているということを、今更ながら気が付いた。
 そうだった、お客にも何日か前に「今年も用意するからね」とにっこり微笑まれたんだっけ。毎日忙しいから、すっかり忘れてた。――けど、待てよ。
 ゆきがそんなに闘志を燃やすほど今年は何かあるのかよ。っていうか、誰にやるつもりだ、そのチョコレート。
「貰う、だろうけど……。おまえも、誰かにやるの?」
 去年は俺もゆきからチョコレートを貰った。
 ガラにもなく喜んでひっそり食ったけど、今年もまた貰えるとは限らない。貰えるとしても、義理かもしれないしさ。
 確か、去年貰ったのは手作りだったような気がするけど、他意はなさそうな、いつも通りの緊張感のない雰囲気は間違いなく義理だったはず。
 だけど、なんか今年は違うみたいだ。義理に力を注いでチョコレートを作るほどゆきも暇じゃないだろうから、作るとしたらきっと本命だよな、多分。――っていうか誰だ、その本命は。
「うん。だから、頑張って手作りするんだ」
「へえ……。随分やる気で」
「もちろん!」
 ここまでこいつにやる気を出させる正体不明の誰かに、俺は妙に腹が立った。
 誰なんだよ。
 俺の知ってる奴かな。――いや、ひょっとすると他校の奴だったりして。
 つか、そんな奴いたのか!? いつの間に知り合ったんだよ。聞いてないぞ、俺。
 と、一人でどんどんエスカレートしていく俺の気持ちなど全く知らないゆきは、笑顔のまま言葉を紡ぐ。
「バレンタインって、なんか凄いよね。はるひちゃんはいつも元気なくせに、自分のことになると『どうしよー、絶対にだめかもしれ〜ん』ってすごく弱気になってるし、千代美ちゃんだってあんなに真面目なのに『今回は先生も何も言わないから大丈夫かな? 大丈夫だと思う?』って必死な顔してわたしに聞いてくるんだよ?」
「……ふぅん」
 仲のいい二人の友達の話に相槌を打つと、ほんの少し照れくさそうな表情を浮かべ、両手の指先を軽く組み合わせる。
「だからね、みんなで頑張ろうって約束したの。同じ時間に一緒に頑張って手作りしようよって。そして一生懸命作ったのを、明日必ず本命の人に渡そうねって」
「本命、か……。……そう、なんだ。おまえも、そういう奴、いるんだ?」
「へっ!? あっ、う、うん? わたしのは……その、なんていうか……。とっ、とにかくみんなで絶対に諦めないで頑張ろうって約束したから、わたしも負けないんだ」
 妙にオロオロしながらも、組んだ指先にぎゅっと力を込めて笑顔を見せるゆきを見て、俺は思った。
 手作りする奴って、こんな風にみんな一生懸命なのかな、って。
 頑張って作っても、必ずしも相手に貰ってもらえるとは限らないのに。
 それでも精一杯思いを込めて作ってるんだなって思うと、何とも言えない気持ちになってきた。
 さっきまでゆきが渡す予定の『誰か』に対してかなりむかついたけど、こいつはこいつなりに必死なんだよな。
 想っている相手のために、頑張るんだよな。――そう思ったら、なんだか少し切なくなり、そして同時に「うまくいくといいな」という気持ちさえ沸いてきた。
 まあ……うまくいってしまったら、俺はかなりへこむんだろうけど。
 誰かを想って頑張るこいつの笑顔を見ているだけで、胸の奥がちくちく痛むのに、チョコレートを渡してうまくいってしまった先なんて想像したくない。想像したくないよ。
 けど……こういういい笑顔を、絶対に曇らせたくない。
 ――って、ああもう! どっちなんだよ、俺。
 なんとも言えない矛盾した気持ちが胸の奥にひっかかり、ひどく胸を軋ませる。
「えと……、あれ、だな。……うまく、いくといいな。……がんばれ」
 この言葉、半分は嘘じゃないよ。張り切るゆきを見てたら、うまくいくといいなって思う。
 おまえが笑っていられるなら、それでいいかもしれないって思うし。
 そのために俺が多少――いや、かなりキツい思いをしても、それは俺だけが抱えこめばいいことだろ。それだけのことなんだ。
 でもさ、もう半分は……。もう一つの本音は……。
 ――やめた。言わない。
 小さく笑ってゆきの頭を撫でると、擽ったそうな笑みを返される。
「ありがと。頑張る。絶対に美味しいのを作るんだ。瑛くんの腕前には敵わないけど」
「そんなことないだろ」
「そんなことあるんです〜。でも、がんばろうっと」
 明るくのんきなゆきは、壁にかけてある時計を見て、はっとした表情を浮かべ、ごめんね、わたし本当に急がなきゃ! と慌てて支度を始めた。


「どうした、瑛。なんだか元気がないようだが。疲れたのか?」
 ゆきが帰ったあと、普段と何も変わらずに接客をして、いつもどおりの笑顔を見せた。
 毎日と何一つ変わらない。笑顔だってちゃんと出てるし、いつも通りだ。
 ――全然平気じゃん、俺。
 そう自分では思っていたんだけど、最後のお客さんを送り出したあと、じいちゃんにぽつりと言われてしまった。
「え……。そ、んなことないよ。疲れてもない」
「そうか。なんとなく、沈んでいるように見えてな。なんともないならいいが。……でも、あまり無理はしないほうがいいぞ」
「うん。ありがとう」
 なんだか、見透かされてるみたいだよ。年の功には敵わないな。
 大丈夫だよじいちゃん。疲れてはいないよ。ちゃんと元気だし――って、それはちょっと……無理があるか。
 多少は……いや、やっぱ、あまり元気ないのかな。
 でも、たとえじいちゃんにでも、言えることと言えないことがある。
 だって、言えないだろ、勝手に一人であれこれ考えて、見ず知らずの誰かに嫉妬した上に、ゆきに『がんばれ』なんてエールを送ったなんて。
 みっともなくうじうじしてるし、それに、カッコしいの、情けないヤツの代表格みたいなもんだよ。
 ゆきの笑顔は曇らせたくないけれど、自分が切ない想いを抱えたままでいるのも耐えられないなんて、思い切り矛盾してる。
 でも、どうしたらいいかなんて、全然分からないんだ。
 ――わかんないよ、そんなの。
 自分の気持ちなのに、どうしていいのかわからないんだ。


 最後の戸締りや後片付けは俺がするからと言って、じいちゃんを早めに切り上げさせ、一人誰もいない店に残った。
 店の明りを半分落とした中、砂糖やペーパーナフキンなどの補充をし、ゴミをまとめて店内を総点検する。
 ぼそぼそと言葉にして確認をしたあと、重いため息を吐きながら、カウンターにある椅子へとどっかり腰をおろす。
「終わった……。一日、終了」
 エプロンを外し、タイを緩めるこの瞬間が、一日の締めくくりの時。
 邪魔にならないようにと撫で付けてある髪に指を通し、軽く伸びをすると、ダウンライトの柔らかい光が目に入る。
 時間は九時半。妙に小腹が空いたと思ったらこんな時間だ。
「あいつ、今頃頑張ってるんだろうな」
 台所でチョコを前にして奮闘している姿を思い浮かべては、くちびるに笑みを浮かべてしまう。
 彼女が誰かを想い、その気持ちをチョコレートに託して渡す相手はきっと――間違いなく俺じゃないけれど、頑張る姿をそっと見守りたくなる。
 笑顔でいてくれればいい。
 あいつが笑っていてくれるなら、別にいい。
 幸せなら、それでいいんだ。
 そんな風に穏やかに思う気持ちになっただけでも、俺にとってはいい経験だよ。
 恋愛って、すごくいいもんじゃん。誰かを好きになって、嬉しくなったり悲しくなったり。ああだこうだと考えたりさ。いいときも、悪いときも、全部貴重な経験だ。
 うん。そう思うよ。マジでそう思う。
「――なんて、言えるかってーの! 俺、そんなに人間できてない。無理。絶対に無理! 諦めきれるかって、バカ!」
 このバカ、は勿論俺自身に対してだ。
 少し前まで、うまくいって欲しいなんて思ったけど、やっぱり撤回。ナシ。
 ――うまくいくな。
 うまくいかないで欲しい。あいつには悪いけど、うまくいったら俺、頭おかしくなりそう。
 すっごく性格悪いこと思ってるけど、でもやっぱりあいつが他の誰かと嬉しそうに笑ってる姿なんて、俺は見たくないよ。絶対に嫌だ。
「あー……もう。マジで最悪。性格悪すぎだ、俺。情けねー……。なんなんだ」
 天を仰いだまま、ダウンライトの光を避けるべく両手で顔を覆うと、不意にカウンターの中にある携帯電話が明るいメロディーを奏でる。
 店に出ている間は、携帯せずにカウンターの中の空いているスペースに置いておくのだけど、滅多に鳴ることはない。
 勿論、電話番号を誰彼構わず教えているわけでもなく、この番号を知っているのはじいちゃんと、両親、そしてゆきぐらいだから当然と言ったら当然だけど。
「誰だ……?」
 腰を上げて、携帯を掴むと、バックライトが光る中に見える文字は、『夏川ゆき』。
「あいつ、なんで今……」
 本命チョコ作りに大奮闘してる最中なんだろ。なのに、なんで俺のところになんて電話かけてるんだよ。
 「どうしよう、上手にできないよ瑛くん〜」なんて情けない声出そうが、相談なんて乗ってやらないからな。
 絶対に乗ってやらないぞ。
 俺はそれどころじゃないんだ。根性悪いことたくさん考えてるんだから、無理だからな。捻くれたことしか言ってやらない。
 それ以外、無理!
 心の中では思い切り不機嫌に言いながらも、思わずボタンを押してしまう。
「もしもし。なんだ、なんなんだよ、こんな時間に」
 店が終わってのんびりしているこの時間、俺が不機嫌に出るのはいつものこと――あいつ、絶対にそう思ってるだろうな。
 分かってるくせに、疲れてるとこごめんね〜、なんてへらへら笑って言うんだ。まったく。
『疲れてるとこ、ごめんね。どうしても伝えなくちゃいけないことを言うのを忘れてて……』
 やっぱり、当たり。ビンゴだ。
「明日じゃだめなのか?」
『明日のことだから、今日中じゃなくちゃだめだったの』
 のんびりでぼけぼけしてる奴、とずっと思ってるけど、やっぱりのんびりだ。用があるならバイトから帰る前に言えって。
「ハァ……。で、なに?」
『うん。……あの、ね。明日のお昼、屋上に来て欲しいんだ』
「屋上? なんで」
『なんでも』
「どうして」
『どうしても。とにかく用事があるから、絶対に来てね。他の女の子からチョコレート貰い歩いてすっぽかすなんてしないでね』
 笑いながらとぼけたことを言うな。おまえ、目の前にいたら絶対にチョップだぞ。
「するか、んなこと。っていうか、おまえ今電話してて大丈夫なのかよ」
 闘志燃やしてる最中のくせに、他の男のところに電話なんてするなよ、バカ。
『うん、今やっと一段落したんだ。日付が変わらなくてよかったって安心しているところだよ』
「あっそ。それはよかったな。で、……できたのか?」
 何聞いてんだよ、俺も。聞けば聞くほど自虐行為じゃないか。
 ああ、もう……。
 なんだよ。
 なんなんだよ。
 こいつと話していると、さっきまで落ち込んでたのがあっという間に消えていく。
 こいつのことで悩んで、考えて、勝手に傷ついてもやもやしてたっていうのに、それでも嬉しくなってしまう。
 バカみたいに、喜んでしまう。たとえ自虐行為でも、話をしたくなる。
 ――ホント、とことんカッコ悪いな、俺。そんなにこいつのことが好きなのかよ。
 呆れて思わず笑みさえ浮かぶ。
『ふふっ、とびきりのができました! 入魂の一作だよ』
 人の気も知らないで、明るい声で言うなって。
 入魂の一作とやらは俺にはまわって来ないんだから切ない限りだ。他の誰かさんのもとに行くんだろうな。
 ――あー……。なんか、やっぱ面白くない。
 声聞けて嬉しいと思ったけど、気が変わった。
 面白くない。バカ。もう聞かない。聞きたくない。
「あー、はいはい。入魂の一作の完成、おめでとう。じゃあな。切るぞ」
『ええっ、自分で話を振ってそれ?』
「ウルサイ。明日の勝負に備えて、おまえはとっとと寝ろ!」
『もうっ、また怒るんだから。わかりましたよ! じゃあ、明日ね。明日のお昼休みに必ず屋上に来てね。約束だよ』
「わかった、わかった。じゃあな」
 切れた電話のバックライトさえもため息の原因となる。
 音声を発しなくなった携帯電話に向かい、俺は一人毒づいた。
「出るんじゃなかった! ああもう、くそっ!」
 出なきゃよかった。
 電話に出なければ、傷口に塩を塗りこむような自虐的なことしなくてすんだのに。なのになんで出てしまうんだろう。
 っていうか、喜んでおいて今更なに言ってんだ、だよな。さっきから俺、矛盾ばっかだ。ころころ意見変わりすぎ。
「……バカみたいだ」
 ――こんなに好きになるなんて、思いもしなかった。
 偶然と事故が重なったキスは、心の中に思いもしない落し物をしてくれた。その落し物とやらにここまで翻弄されるなんて、まったくもって計算外。
「あーあ。俺、バレンタイン考えたヤツ恨む。……学校行きたくない。つーか、明日なんて来んな!」
 ため息を吐きながら冷たいカウンターテーブルへと頬を寄せ瞼を閉じる。閉じた瞼にまだ眩しく見えるライトは、切ない心にいつまでも残った。


 昨夜のイライラはやっぱり朝も続いた。
 朝から顔を合わせるなり女子にチョコレートを押付けられるし、呼び出しも多い。その度俺は営業スマイルを浮かべなくちゃならないから、顔の筋肉がこわばるし、正直すごく疲れる。
 でも、ゆきとの約束だけはちゃんと守らなくちゃな。たとえどんな話をされても、だ。
 っていうか、俺だって結構ストレスたまってるから、チョップでもしてストレス解消させてもらうぞ。のろけ話聞かされる前に、先手を打ってやる。
 そんなことを思いつつも、不機嫌のまま言われたとおりに屋上に向かった俺に待っていたのは、少し緊張気味な面持ちのゆきで、彼女は屋上のフェンスに手を当てて、外の景色を眺めていた。
 いつにない硬質な雰囲気を内心怪訝に思いながら、俺はゆきにそっと声をかける。
「ゆき」
 声をかけられたゆきは、一瞬びくっと肩をあげたように見えた。
 ――なんだ? どうしたんだ。まさか、チョコレート、ダメ……だったのか? 
「瑛くん」
「……なんだよ、こんなとこまで呼び出して」
 いつもより屋上には人が多く溢れているので、俺は声を潜めた。やっぱり、アレか、バレンタイン効果なのか? 手渡しするにはもってこいの場所だしな。
「ごめん。ちょっとね……」
 軽く首を傾げて笑うゆきが、両手をさっと後ろに隠した。
 その手に持っているのは、多分、チョコレートが入っているペーパーバッグ。ブルーの色がちらっと見えた。
 ――なんで今そんなの持ってるんだ? これから渡すのか? それとも……や、やっぱりだめだったのか? 真面目な顔してるのは、だめだったからなのか? うわ、マジかよ……。昨日俺が『うまくいくな』なんて思ったからか? だから――。
「どっ、どうしたんだ? 昨日いきなり『屋上に来い!』なんて言うからびっくりしたんだぞ」
 ハラハラする気持ちを隠しながら、とりあえず俺は平静を装う。
「う、うん。あの、ね……実はわたし――」
 意を決したように、きり、とした表情で俺を見上げるゆきの言葉を待たず、俺は慌てて口を開く。
「あっ――と。い、言わなくていい! 言わなくてもいいんだ。……わかってる。よくわかってるから! だから、おまえはもうこれ以上言わなくていいんだ」
「えっ!?」
 目を丸くするゆきに、俺はさらに先を続ける。
「今日は放課後、どこでもつきあってやる。ケーキ食いたいのか? それともゲーセンか? まあ、どこでもいいよ。つきあうから。ちゃんとつきあってやるから、しょんぼりするなよ? くよくよするな」
 少しなら店に出るのが遅れても大丈夫だろ。じいちゃんにあとで連絡しよう。今日はこいつにとことん付き合ってやる。うん、そうしなくちゃな。
「え? くよくよって……。あ、あの、瑛くん?」
「甘いもの食べれば、嫌なこともぱっと忘れるって。な?」
「う、ん? 甘いもの……ね?」
 怪訝そうな顔をするゆきを見て、はっと気がついた。
 バカだ、俺。なに言ってんだ! 甘いものなんて、今は触れちゃマズイに決まってるだろ。……サイアク。
「えっと……その、だな。甘いものじゃなくて、しょっぱいものでも……って、あー、しょっぱいものも、なし! 言葉悪すぎ。ええと……」
「瑛くん」
「あっ、なら辛いものならどうだ? 俺さ、辛いものなら結構いい線いけるから食いっぷりを見せてやる……って、辛いかよ。――それもまずいじゃん。……ああ、もう、なにがいいんだか」
 いい案が浮かばない。食い物って、どうしていい表現のものがないんだ。しょっぱいやら辛いやら、酸っぱいやら、ろくなのないよ。……だめだ。全然わかんない。
「あの、瑛くん……」
「待って、今考え中」
「瑛くんてば!」
「ん? ……うわ」
 いきなりぎゅっと腕を捕まれたと思ったら、いきなり視界がブルー一色に変わり、俺は焦点をどこに合わせればいいのか一瞬躊躇った。
「わ、なんだコレ……?」
 条件反射でそのブルーの物体へと手を伸ばして掴むと、それは妙に軽い。
 よくよく見ると、ブルーの正体はさっきまでゆきがもっていたペーパーバッグだ。
「え……」
 なにがなんだか、さっぱりだ。わけわかんないよ。
「はい、瑛くんのチョコレート」
 肩を竦め、照れくさそうに笑うゆきが俺を見る。
「ふふ、変な瑛くん。さっきから、なに言ってるのかわからないけど、これは、バレンタインのチョコレート。入魂の一作だよ?」
「ああ、そうなんだ。サンキュウ――いや、そうじゃなくて。……っと、これ、ホントに俺、に?」
 入魂の一作、って、昨日も言ってたよな。それも、本命――って。
 信じられない思いでゆきを見ていると、可笑しそうに肩を揺らしたあと、二度ほど頷く。
「頑張って作ったんだ。中途半端なの作ったら、絶対に瑛くんからダメ出しされそうだったから、気合入れて作りました! ねぇ、開けてみてよ」
 にこにこと笑顔を向けられ、俺はゆきの言葉に急かされるようにぼんやりしたまま中の包みを開く。
 丁寧なラッピングにも驚いたけど、中身を見てもっと驚いた。
「うわ、おまえ、これすごいぞ……。売り物みたいだ」
 八つに区切られている中には、それぞれ八種類のチョコレートがきれいに並べられていて、トリュフだったり、刻まれたナッツが入っているものやらと、手間がかかったことは一目瞭然。それも、形がきちんと整っている。
「これ……さ、すごく手間かかったんじゃないのか?」
 感心しながら呟くと、ちらっと舌を覗かせてゆきが笑う。
「うん、実はね。だから昨日は早上がりしたんだよ。家に帰ってから、はるひちゃんや千代美ちゃんとも連絡を取って、一斉にスタートしてからそれはもう頑張ったんだよ。……その、やっぱり特別、だから」
 指先を組みながら、少し俯くゆきの耳がほんのりと赤く染まる。それを見て、俺まで顔が熱くなってきた。
「そ、そっか。これは、俺のために……。そうか。――そっか」
 言葉にしたら、もっと嬉しくなってきた。
 バカだ、俺。ひとりで早とちりして、『別の誰か』にあげるもんだと勘違いしてた。
 なんだ……。なんだよ。俺にじゃん。
 入魂の一作をもらえた幸せなヤツって、俺のことじゃないか。
 やばい。すごく嬉しい。嬉しくて、顔が緩む。
「受け取って、貰える?」
「ああ。……すごく嬉しいよ」
「よかった!」
 満面の笑みを浮かべるゆきを見て、俺は思っていたことを素直に口にする。
 この際、もういいや。気になってたこと、ついでだから言ってしまえ。
「俺……さ、昨日ずっと気になってたんだ。おまえがバイトを早上がりしてまで作るチョコレートって、誰が受け取るんだろうって。……だって、手作りだろ?」
「え、それを言うなら、瑛くんにあげた去年のチョコだって手作りだよ」
「そうだけどさ……。でも、気になったんだぜ。誰が貰うんだろうって。それと……」
「うん?」
「こんなにおまえが頑張って作ってるのに、うまくいかなかったらどうしようかって思った。……いや、ちょっと違うな。なんていうか……その、ヤな言いかただけどさ、誰かとうまくいったらどうしようかと、実は思った」
 心が狭いけど、本当にそう思ったんだから仕方ないよな。
「瑛くん……」
 驚いたようなゆきの顔を見て、俺は慌てて笑って誤魔化した。
「あ、えっと……今のナシ。聞かなかったことにして。なんか余計なこと言ったみたいだ。……ごめん」
「う、ううん」
「俺、なにバカなこと言ってんだろうな。ホント、忘れて」
 大きく肩を竦めて笑って見せると、ゆきは目元を柔らかくして俺を見上げる。
「それは……そのチョコレートは瑛くんのだから。他の誰にもチョコレートあげてないよ。それにね、わたしは義理チョコはあげない主義なんだよ」
「え……」
 義理チョコはあげない、って……。だったら、おまえ、去年のも……つまり――。
「だ、だから、大事に食べてね。え、ええっと……呼び出し内容は、以上でした! それではわたしはお昼ごはんを食べてきまーす」
 驚き、目を丸くする俺にチョップをするような仕草を見せて、ゆきはそれじゃね、と隣を早足で通り抜けていこうとする。
 そんな彼女に対して俺がすることといったら、今はこれしか浮かばない。手を伸ばして、その腕を取ることだけ。呼び止めなくちゃ、いけない気がした。
「あ……、待てよ!」
「て、瑛くん!?」
 不意に腕をつかまれたゆきはとても驚いた顔を見せる。
 そうだよな。
 びっくりするよな。
 でもどうしても言いたいことがあるんだ。
「あの……さ」
「う、うん?」
「あとで、これ一緒に食べよう」
 おまえが一生懸命頑張って作った物っていうのもあるけれど、二人でくだらない話して、ばかみたいに笑って、そして、いつもみたいにちょっとケンカしてさ。――つまりは俺、おまえと一緒にいたいんだ。チョコはその口実。
「えっ」
 目を瞬かせるゆきに、ちょっとだけ笑って声を潜める。
「どっか隠れて……二人で」
 堂々と見せびらかしたいくらいの気持ちだけど、さすがにそれはまずいよな。本当だったらそうしてやりたいんだけど……ホントごめん。
 いい子、いい奴で通さなくちゃいけない、なんていうどうしようもない理由でも、やっぱり、どうしてもおおっぴらに出来ないんだ。
 でもさ、本当のことを知ってるお前にだから、こんなこと言えるんだ。ほかの誰も知らない本当の俺のことを知ってるお前にだから、俺、甘えることができるんだ。
「わたしも、一緒でいいの?」
「ああ。だって、おまえが作ったんだから。っていうかさ……」
「うん」
「すごく嬉しいから、一緒に食べたいんだ」
 自惚れさせてもらうけど、おまえが精一杯思いを込めて作ってくれたものだから、隣におまえがいてくれたら、すごく嬉しい。
 一緒にいて欲しいんだ。――我がまま言うようだけどさ。
 ちらっとゆきを見ると、仕方ないなあ、っていう顔で笑ってる。
 俺、こいつのこういうとこ、好き。――すごく好きだ。
「……了解! でも、全部食べちゃったらごめんね」
 悪戯っぽく笑うゆきに、俺は首を振る。
「それはダメ。おまえは一つ。あとは俺」
「えーっ」
「えーじゃない。これは俺の」
 びしっとチョップをする俺に頬を膨らませるけれど、それはほんのひと時。次の瞬間にはやんわりと目を細めて見せる。
「……うん。まあ、最初から全部瑛くんにあげるものだし。それに……わたしの想いが全部に込められてるんだから、心して食べてね? 大事にしないと、ばちが当るぞ?」
 照れくさそうに言って、今度こそ俺の隣を通り抜ける。
 すれ違いざまにまたね、と小さく呟き、笑顔を浮かべては靴音を鳴らした。
 俺はその華奢な背中を見送りながら、小さく笑みを浮かべてひとことそっと声にした。
「……了解」
 その想い、全部貰います。
 ペーパーバッグの底に、『義理でぇす!』って書いてあるカードを見つけても、この気持ちは変わらない。
「フン。義理なんて書いてあっても、今更遅い。――可愛いことすんなよ……バカ」
 大丈夫。他の誰にも、あげるつもりはないから。
 約束するよ。



End.
2006.11.19UP(初出2006/10/15)
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