風も穏やかで、陽も暖かい。太陽を隠すような雲も少なく、いい天気だな、と時折窓の外を眺めつつ授業を受けていたが、柔らかく響くチャイムとともに、午前中の授業が終了する。
担当の教師がドアを開けて出ていくと同時に、生徒たちもそれぞれに椅子を鳴らして席を立つ。
伸びをするもの。腹へったぁ、とため息混じりに呟く者。慌てて購買へと駆けていく者とざわめく教室の中、皆それぞれだが、佐伯は一人浮かない表情を浮かべた。
――これから、お昼か……。
空腹を満たす時間は普通であればささやかな幸せの時なのだろうけど、佐伯にとってはそれほどでもない。むしろ、疲労感がより一層濃く感じられ、同時に忍耐をも試されているような複雑な時間へと変わる。もっともそれは、今日のように女子たちと共に昼食を取るときのみの話だが。
――確か、約束の場所は屋上だったはず、だよな。
深くため息を吐き、重い腰を上げる。
昨夜、それほど長く店の手伝いをしていた訳ではないが、空いた時間に近くに迫っている試験勉強を遅くまでしていたこともあり、疲労度はそれなりに高い。
こんなときこそ好きなサーフィンを気分転換も兼ねてと思うのだが、店の手伝いと勉強する時間、そして自らの体力とを差し引いて計算すると思うように時間を取るのが難しく、「いつか時間があるときにでも」というのがしっかりと心の中で根を張ってしまっている。その「いつか」がいつのことになるやら、だが。
そんな毎日ということもあり、正直な話、お昼時ぐらいほっと息を吐かせて欲しいのだけど、自分を慕い、共にお昼を食べようと集まる女子たちの誘いを断ることもできず、約束された場所へと足を運ぶ。
せわしなくばたばたと足音を立てて廊下を走り過ぎる同級生。その姿をぼんやりと視界に写しながら、なにも考えずに重い体と重い気持ちを引きずって歩いていると、上の階――すなわち屋上へと続く階段の手前で名前を呼び止められる。
「佐伯くん」
ぼうっとしているところを不意をついて呼ばれたこともあり、声の主が誰なのかも判断できない。ただ、どきりとしつながら慌てて笑顔を作るのが精一杯だ。
「あっ――、えっと……」
――今度はわたしたちと一緒にご飯食べようね、かな。それとも、今日の約束忘れないでね、かな。……どれだ?
いろんな言葉を想定し、それに対してより良い返答をするべく一瞬のうちに考えを巡らせるのだけど、声の主の顔を見た瞬間、それらは無駄なことだったと一気に肩の力を抜く。
「……なんだ、おまえか」
ふぅ、とため息ついでに肩を落とすと、おまえかと呼ばれた相手――夏川ゆきは困ったようなとも呆れたともつかない曖昧な笑顔を浮かべる。
「なんだ……って、失礼だなあ。それより、佐伯くんも今からお昼?」
「ああ。約束しちゃったから、今から屋上行き」
髪を軽く掻き上げながらながら仕方なく言うと、誰とのお昼かがわかったらしく、なるほど、といったような風に頷き、そして、首を傾げて少し心配そうな顔で見上げてくる。
「あの……、大丈夫?」
「なにが」
「なんか、疲れてるみたいだよ。無理しすぎてない?」
疲れていても女子の誘いを断ることができない理由を、唯一知っているのが彼女。
いい子でいるため、と佐伯の事情をわかっていても、なおも問いかけてくるほど自分の顔は疲れて見えるのだろうか。
「昨日遅くまで勉強してたから、ちょっと……な」
「そっか……。でも、そんなに疲れてるなら、断ってもいいんじゃないのかな」
ゆきに言われるまでもなく、そうできるのであれば、とっくにそうしている。
だが、一人断るとそのあとが大変なことになる。それがわかっているから断ることなどできないのだ。
「一人断ると、あとが大変だろ」
「あと?」
「ゴチャゴチャする。誰かとつきあってるんじゃないかとか、冷たい態度を取られたとかって大変だよ。そんなになるんだったら、今我慢する方がマシ」
一度断ると、その十倍ぐら気苦労が伴う。自分一人ならまだしも、他の誰かとつきあっているなんて噂をされた日には、その相手にも迷惑がかかる。火種は幾つも飛んでいくことは目に見えてわかる。その都度事細かに事情を説明し、より一層の笑顔と優しさとで対応しなくてはいけなくなるなんてまっぴらごめんというところだ。
「そっか……。うーん、大変だね」
なんか、芸能人みたいだね、とゆきは他人事のような台詞を神妙な顔つきで呟く。
「っていうかさ、おまえ、女子のくせにそういうトコ、ほんっと気にしないよな。結構、いやかなり大雑把だろ。時々感心する」
大雑把と括ってみたものの、うまく言葉が見つからずに言ったところもあり、少しニュアンスが違う部分もある。
細かいところを気にしないのは確かに大雑把なところでもあるが、いいように言うのであれば、細かなところにこだわらず、いつも自由といった感じ。
誰かに噂をされようが、男女問わず明るく声をかける。
実際佐伯も、彼女が他のクラスの志波や針谷などと昼食を取ったり、一緒に帰っている姿を見たことがある。そして、その度に佐伯の耳にも「あのヒトとつきあってるのかな?」という噂話が聞こえてくる。
ただ一緒にメシ食ってるだけだろ? とその噂話とやらに心内で突っ込みを入れつつも、なんとなく真相を知りたがっている自分もいる。
実際の所どうなんだよ、と彼女に聞けば真実はすぐにわかるのだが、改めて聞くほど特別な感情を抱いているわけではない。
ただ、彼女が他の男子と仲睦まじくお昼をとる姿を想像すると多少面白くないとは思うが、それだけだ。そう、――なんとなく面白くないだけ。
そういった周りの詮索など全く知ることのない彼女は、いつもと変わらないのんびりとした様子。誰かに恋をしているとか、付き合っているというような雰囲気はまったくなさそうだ。ただ、本当に「一緒にご飯」「一緒に帰る」というだけの関係らしい。まあ、相手がどう思っているかは佐伯も彼女も知るよしもないが。
人の目や噂など気にしない――そういうところはほんの少し羨ましいと思う。彼女がぼんやりであまり細かなことを気にしないという性格の問題もあるが、性別関係なく心おきなく笑って時間を過ごせる相手と、自由な時を過ごせるのは正直な話、羨ましいと思う。
今の佐伯にはできないことを、彼女はなんでもないような風にさらりとこなしている。
天真爛漫で、自由。それでいて嫌味がなくさりげない。それは傍目で見ていて、いっそ気持ちがいいくらいだ。
「それ、褒めてる? なんか微妙だなぁ……」
複雑な表情を浮かべるゆきに、佐伯は軽く肩を竦めて笑う。
「褒めてんだよ。おまえがそうじゃなきゃ、俺、もたないよ。疲れちゃうだろ」
唯一こうして気楽に話すことができるのは、秘密を知っている彼女だけなのだ。
入学式の朝に偶然出会い、偶然同じ高校に入学し、そして偶然彼女が珊瑚礁にアルバイトとしてやってきた。そして、一緒の帰り道でふと立ち止まった佐伯にぶつかるような形になった、あのキス。あれはまさに偶然としか言いようがない。
ここまで偶然が重なると、必然のように思えてくる。忙しい自分に神様が唯一気を許してもいい相手としてゆきとめぐりあわせてくれたような気さえする。
――不思議だよな。こんなにとぼけてる奴なのに、俺、一番自然でいられるんだ。気を使わなくていい、余計な力は入れなくていいって、不思議と思えるんだよ。……変だよな。自分でもそう思うけどさ。
こういう風に思っていることを、ゆきには伝えたことがないが、でも最近よく思うことだ。
どうしてなんだろう。どうしてゆきだけにそう思うだろう、と。
「っていうことだから、褒め言葉は素直に受け取れって」
「……うん。じゃあ、まあいいか!」
「そうそう、人間素直が一番」
「そういう佐伯くんは素直じゃないけれど?」
笑顔を浮かべてのんびりとそんなことを言う。
「ウルサイ。そんなにチョップが欲しいのか、おまえは」
じとっと睨むと、彼女は一歩後ずさりして顔を顰める。
「えっ、やだよ。……って、佐伯くん、時間大丈夫なの? 待ち合わせしてるんだよね?」
ゆきにそう言われ、佐伯はあっ、と小さく声を上げる。ゆきと話していてすっかり約束を忘れてしまっていた。
何分? と聞くと、ゆきはさらりと髪を揺らし、腕時計へと視線を落とす。十二時十分と答えられ、佐伯はマジで? と短く呟く。少しのんびりしてしまったようだ。
「げっ、いけね。じゃあ、俺そろそろ行くから」
――ホントはおまえと話していたほうがよっぽどいいんだけどな。
気が楽だし、さ。――その心の声は言葉にせずにそっと胸のうちにしまい、彼女に小さく笑ってみせる。
「おまえは食いすぎ注意だぞ。お腹一杯〜、なんて午後の授業居眠りするなよ? 廊下に立たされてたりしたら、俺、あとで思い切り笑ってやるからな」
「もうっ! そんなに食べないよ。居眠りも我慢するもん!」
「アハハッ、そっか。ま、なににしても油断するなよ。じゃあまたな」
ズボンのポケット口に軽く親指を掛け、改めて階段を上ろうとしたとき、もう一度ゆきに呼び止められる。
「あっ……待った、佐伯くん!」
振り向いた佐伯に、ゆきは首を傾げながら遠慮がちに尋ねる。
「あの……。あのね、明日一緒にお昼食べない? もし良かったら、なんだけど。……大丈夫なら、わたしがお弁当作ってくるよ」
「……おまえが?」
目をまるくしてゆきを見ると、口角を上げて彼女は深く頷く。
「うん。他にないオリジナル特典として、食後には昼寝タイムつきなんだけど。どうかな? 予定は埋まっちゃってる?」
この言葉に、佐伯は瞠目する。食後に昼寝。のんびり話をするでもなく、ただの昼寝だと彼女は言う。
本気で言っているのかと、改めて彼女に確認する。
「べつに、予定は……。っていうか、食後のデザートじゃなくて、マジで昼寝?」
「そうだよ。あ、でも、勿論デザートも食べるよ? そのあとに昼寝をするの。気持ちいいよ、きっと。中庭の奥のほうならきっとほとんど人目にもつかないから、安心して昼寝ができるよ。大丈夫、安心して!」
言いながら、笑みをほころばせるゆきに、何度か瞬きをしたあと、佐伯もつられて笑ってしまう。
彼女が自分を気遣っているのは十分すぎるほどわかる。少し前の自分であれば、結構だと一蹴するところだけど、のんきな笑顔を浮かべての気遣いが、ここ最近では嬉しく感じる。
――いつもぼんやりしてるくせに。……ホント、おまえ、人が良すぎ。俺、おまえに対して結構そっけない態度してるっていうのにさ。
意地悪と非難をされること、少々。
ふくれっつらを見せられることも多々ある。
天の邪鬼とも屈折しているとも言われた。
けれど、戸惑い、呆れながらもゆきはいつも笑ってそばにいてくれる。
怒ったり、笑ったり。いつもありのままで、飾ることなく接してくれている。
そんな彼女の隣にいるのが心地いいと感じるようになったのは、いつからだろう。
彼女が笑ってくれるなら、思うように時間の自由が利かない『今』を乗り切っていけそうな気がすると思うようになったのは、いつからだろう。
「……それ、いいな。うん……昼寝付き、乗った」
佐伯の言葉に、ゆきの表情がぱっと明るくなる。
「いいの?」
「ああ。それより、ホントにおまえが弁当作ってくんの?」
「それはもう、まかせて!」
満面の笑みを見せるゆきに、佐伯は目を細める。階段の踊り場にある窓から差し込んでくる光は確かに眩しいが、それよりも目の前の笑顔のほうが数倍眩しく感じるのは気のせいではないはず。
どうしてこんな風にきらきらと笑えるのだろう。見てるこちらまでが嬉しくなるような笑顔だ。
「よし、じゃあ頼んだぞ、夏川。楽しみにしてる。味の採点してやるから、心しろよ? おまえのためにもならないから、辛口でいくぞ」
「うっ、おふみのファッションチェックならぬ、料理チェック、佐伯くんバージョンですか。悪態つかずにはいられないんだね。……まったくもう」
肩を竦める彼女に、佐伯は「当たり前。それが俺なの」と笑って返す。
「じゃあ、酷評されないよう腕をふるいます。見てろ〜」
「ハハッ、本気で期待してるぞ?」
「うん! 明日を楽しみにしていてね。……っていうことで、佐伯くんもこれからがんばってきて!」
他の女子と一緒に食事をすることをがんばれというのもおかしな話だ。佐伯は思わず吹き出しながらも言葉を返す。
「サンキュウ。それじゃ行って来る」
「いってらっしゃい」
笑顔で手を振られ、佐伯は目元を柔らかくする。
そして、自分は屋上へ向かうべく階段を上り、彼女は下の階へと足を進める。目的はおそらく購買といったところだろうか。何にしても向かうところはそれぞれだ。
――いってらっしゃい、だって。ホント面白い奴だよ、あいつ。
こみ上げてくる笑いに人目を気にせず小さく肩を揺らす。
鈍感で、ぼんやりで、足元あぶなっかしくて、ドジな女の子。でも、いつだって一生懸命で、屈託のない笑顔が心をを軽く、明るくさせてくれる。
今だってそうだ。ゆき以外の女子と愛想笑いを浮かべながらの昼食は確かに気が乗らないが、ゆきと話したことにより気持ちも、足取りさえも幾分軽くなっている。
気がついたら階段を登り切っていて、目の前のドアを開けば青空はすぐそこに広がる。
鈍く銀色に光るドアノブへと触れる寸前、「行ってらっしゃい」と言ったゆきの笑顔をふと思い出し、佐伯はもう一度くちびるに笑みを浮かべる。それは佐伯を待っているであろう彼女たちへ向ける準備の笑顔ではなく、心からの素直な笑顔。
「……いってきます、か」
誰に言う出もなく小さく呟き、そっと瞼を閉じる。
すうっと息を吸い込んだあとに重いドアを開けると、眩しい光と柔らかい秋風が体を包み込む。
あと一ヶ月もしないうちに、外での昼寝は難しくなるほど空気が冷たくなるだろう。
きっと、青空の下での食後の昼寝は今のうちだけ。あとは、緑が芽吹く新しい季節が来るまで、しばらく待つようだ。
――明日、晴れればいいな。うん、……晴れますように。
手でひさしを作りながら、佐伯は高く青い空を見上げた。
「晴れてくれよ。頼むから、さ」
願い事を口にする。
明日、暖かく居心地のいい場所が確保できるように。
ゆきのお手製のランチもいい。明るい彼女のそばで、のんびり昼寝をしてみるのもいい。
一人じゃなく、二人で。
そんな風にふと思ったことが、妙に胸に暖かく広がった。
End.
2006.11.11UP