買い物につきあって欲しいと佐伯からの誘いを受け、澄んだ青空が高く広がる日曜日の午後、ゆきは買い物客で溢れるにぎやかな商店街を佐伯と歩く。
季節にあったディスプレイ商品を探してきて欲しいとマスターに頼まれた佐伯は、ゆきに時折意見を求めながらも目的のものを一通り揃え、ほっとしたように息を吐く。
「どこかでお茶しようか」と幾つか店を覗いてみるが、午後三時ともなれば皆気持ちは似たようなものなのか、どの店も席が埋まっている。
「混んでるな……。荷物持ったまま待つのも面倒。仕方ない、場所変えるか」
「でもどこも同じようなもんだよね?」
どうしようねとゆきがぼんやり呟くと、いっそのこと俺んち来るか? と佐伯にさらりと言われる。
特に用もなければ急ぐ必要もない。佐伯の部屋には何度も訪れているので混雑する店内よりずっと落ち着く。
おまけにそれなりに荷物もあるので、ゆきはうん、と二つ返事をする。勿論、佐伯と一緒にいたいという気持ちが何よりも優先されてのことだ。
互いに荷物を片手にバスに揺られること十五分。やっとというほどでもないが、佐伯の部屋に辿り着いたときには二人揃って安堵の息を漏らした。
「ふう……。なんか今日はいつもより人が多かったね」
「だな。やっぱ、アレかな。ハロウィンの影響も少しあるのかな」
「あ、そうだね。それもあるかも。家族連れも多かったし、ハロウィングッズコーナーにかなり人がいたよね。すごいな〜と思ってわたしも見てたんだ」
今日はハロウィン前の日曜日。
幼い頃はなじみが薄かったこの行事も、成長するにつれて年々日本でも浸透してきたように思う。
「Trick or Treat!」――『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ』も今では珍しい言葉ではない。
佐伯が淹れてくれたコーヒーをひとくち含んだあと、ゆきは思い出したように買い物袋の中から自分用にと購入した品物を取り出す。
「……なんて言って、実は見てただけじゃなくて、買っちゃったんだけどね」
ベッドの端へと腰を下ろしている佐伯のほうに、かぼちゃのお化けのキャンドルを見せる。
オレンジ色がベースとなっているのかぼちゃに、黒く三角に塗られている目のコントラストがくっきりしているそれは、ゆきの手のひらに乗るほどのコンパクトな大きさ。
椅子から立ち上がったゆきは、ベッドの端へと座っている佐伯の前まで移動し、手を出すようにとせがむ。
コーヒーカップを持つ手を止めて、ゆきの言うとおり佐伯が手を差し出すと、その手のひらにかぼちゃ形のキャンドルを乗せ、目を細める。
「これ、瑛くんにもあげる。二つセットだったから、一つは瑛くんに。もしなんだったら、お店に置いてもらってもいいよ。それほどポップな作りじゃないから、お店にも合うと思うし。カウンターやレジに置いても可愛いよね」
にっこりと笑うゆきに、佐伯も笑顔を浮かべる。
「そうだな。三十一日までは、店に置いとかせてもらって、そのあとは俺の部屋にでも飾らせてもらうよ」
「え、三十一日過ぎても飾ってくれるの?」
佐伯の隣に腰を下ろし、その横顔を見上げる。
「悪くないから、飾っておくよ」
サンキュウ、と手にあるキャンドルを目の前にかざす佐伯が、柔らかい表情のまま、その視線をちらりとゆきへと向ける。
「えーと、さ……。三十一日、おまえちょうどバイト入ってるよな?」
「うん。金曜日だから入ってるよ」
「じゃあ、その日になんか用意しておいてやるよ、甘い物。コレのお礼って言ったらヘンだけど、特別にリクエストに応えてやる」
少し離れたテーブルの上にちょこんとキャンドルを置く。
オレンジ色のお化けカボチャが二人を見つめる中、ゆきはぱっと表情を輝かせ、体ごと佐伯に向き直る。
「じゃあ、じゃあね、パンプキンパイがいい! あ、でもケーキもいいなあ……。どうしよう!」
どっちがいいかなと悩むゆきに、佐伯はあきれ顔で「どっちかにしろよ」と眉を寄せる。
「うーん、じゃあやっぱりパンプキンパイ。手間がかかるけど、本当にいいの?」
三十一日は平日だし、その前日も勿論平日。それも当然のように学校がある。
佐伯の作る菓子はどれも美味しい。ゆきはまれに差し出される手作りの菓子に喜び、その完成度の高さを絶賛しつつ舌鼓を打つのだが、キャンドル一つばかりのお礼にしては随分と大きいおかえしだ。ゆきよりもずっと多忙な佐伯の負担にならないかと少し心配になる。
「平気。今なら店でもパンプキン関係の菓子を作ってるだろ? ちょうどハロウィンだしさ。だから、そんなに手間がかかるって程じゃないんだ。まあ、期待していなさい」
「はーい」
満面の笑みで返事をするゆきだが、いつになくサービス精神旺盛な佐伯に、ここ最近思っていたことを口にする。
「わたしね、三十一日にお店に出たら、瑛くんにお菓子ねだろうと思ってたんだけどな。先越されちゃったよ」
佐伯のことだから、ハロウィンだとか「いたずらするぞ!」なんていう類は呆れ顔で間違いなくスルーするだろうと予測していただけに、先手を打つような今回の対応には少しばかり驚いた。
「それは残念だったな」
「うん、残念。お菓子をくれなきゃいたずらするぞ! ってやりたかったな〜」
古典的ではあるが、両手首から先ををだらりと下げ、よくありがちな日本の幽霊の真似をするゆきに、佐伯は肩を揺らして笑う。
「ハハッ、なんだよそれ。どんないたずらをする気でいたんだか。っていうか、どんなことされてもかわす自信があるし、驚かないっていう自信あるけどな」
両手を後ろの方へとずらし、不適な笑みを浮かべて上体をそらす佐伯に、ゆきは軽く頬をふくらませる。
「それ、絶対に本当? わたし、今回はちょっと自信あるんだけど」
じろりと横目で佐伯を見て、口角をにやりと上げる。これはゆきなりの挑発の仕方。
「なんだと?」
「ふふん」
負けず嫌いの二人はいつもこんな調子だ。勝ち負けで一喜一憂するのが二人の楽しみの一つ。どちらかが挑発すれば、もう一方が必ずそれに乗るのが流儀のようなもの。
「上等。……いい度胸だ。後悔させてやる。かかってこい!」
ヒーローものの番組に出てくる悪役さながら声色を変え、さらには上体を起こす。くちびるに笑みを浮かべる佐伯に対し、ゆきも負けていない。
「言ったな!」
生き生きと瞳を輝かせながら互いに向かい合う。
絶対に自分が勝つと思いこんでいる佐伯は上体こそ起こせど、甘く見ているのか対して構えもしない。
そんな佐伯に対し、ゆきはこれなら絶対に驚くだろうということを一つ仕掛ける。
腕力や体力は圧倒的に佐伯が上で、力ではどうあっても勝つことはできないが、腕を引き寄せるぐらいなら今の佐伯の体勢からすると容易なこと。
――別にいい、よね。これぐらいなら……平気だよね。だって、瑛くんこんなに余裕そうな顔してるんだもん。いつもチョップされたり驚かされている分、これぐらい……。
小さく息を呑んだあと、佐伯の腕へと手をかけ、その腕に少しだけ体を預ける。あとは軽く顎を上げ、くちびるをほんの少し彼の頬のラインに押しつけるだけ。
そう、少しだけ頬にキス。
――うぅ、恥ずかしいけど、手段を選んでいられない……かも。
ほんの数秒の間の動作。
けれどその頬に触れるまで、なぜか時間が長く感じられる。
羞恥も増し、高鳴る鼓動に怖じ気づきそうになるが、それを振り切るがごとく、えい、と心の中で声を発し瞼を閉じた。
くちびるにほんの一瞬ほのかなぬくもり感じたあと、それはうんと高い熱となりゆきの頬や耳を赤く染める。
「え……」
佐伯の声が耳のすぐそばで聞こえ、その距離の近さに今していることがどういうことかを改めて思い知らされる。
頬に軽く触れたあと慌てて体を引くが、やわらかな感触がまだゆきのくちびるに残ったまま。
「こ、これならどうだ……っ」
強気な台詞に合わず、声が小さく震える。
恥ずかしくて顔さえ上げることができない。
妙に佐伯が静かなことに気づきおそるおそる視線を上げるが、視点はどうあっても胸元で止まってしまう。それが精一杯。
「あ、あの……」
そっと声をかけても、無反応。
触れているニットの腕をくい、と引っ張ってみても同じく、反応がない。
「……瑛くん?」
えい、とばかりになんとか顔を上げて見ると、口元を覆うように軽く手を当て、真っ赤な顔で横へと視線を逸らしている姿が目に映る。
「……バカ。卑怯者」
彼が非難する言葉は、ゆきの耳を素通りしていく。
――う、うわ……。瑛くん、本気で照れてる……!
佐伯の反応を見て、自分が勝利したことを実感するが、それと同時に顔だけでなく体中にも一気に熱が駆けめぐる。
――相当恥ずかしいことしたみたい、だよ……わたし。勝ちは勝ち、みたいだけど……。
「え、ええと……。あの……。勝ち……かな?」
小さく尋ねると、幾度かの瞬きで「そうだ」と合図される。
「……決まり、かな?」
首を傾げて改めて問うと、観念したように瞼を閉じる佐伯がぽつりと呟く。
「…………うん。おまえの勝ち」
「そ、そう……」
「ん……」
珍しく勝利を収めたゆきだが、手放しで喜べないのは、佐伯も口にしたとおり、やはり少しばかり卑怯な手を使ったことにもある。
頬にキス。
これなら絶対に勝つような気がしたけれど、ここまで効果が覿面とは思いもしなかった。キスはキスでも、くちびるでなければ大丈夫かと思ったのだが、どうやらそれは間違い。
佐伯の反応に煽られ、ゆきも自身の熱くなった頬を押さえるが、二人の間にはただ沈黙が広がるばかりで、次の言葉が出てこない。
――ど、どうしよう、会話……。なにか、会話……っ。
室温が急激に上がったのではと思うほどに暑く感じられ、額にじんわりと薄く浮かぶ汗を指先で押さえながらそっと呟く。
「あっ、あの!…………あのね、瑛くん!」
「……ん?」
「も、もうしません……。その……、ごめん、ね? 今度はもうちょっと可愛いいたずらにします……」
やりすぎましたと思い切り眉尻を下げて謝ると、軽く息をついた佐伯が、視線だけちらっとゆきへと向ける。
「別に……いいけど」
「え?」
口元を覆っている手がそのままなので、言葉が聞き取りづらい。
「十分可愛いから、いい。っていうかさ、来年はおまえにハロウィン用のお菓子作ってやるのやめようかな」
「ええ!? そ、そんなぁ……」
ゆきは悲痛な声を上げて肩を落とし、佐伯はハァ、と深いため息を吐いた後、がっくりと大きくうなだれる。
髪がその表情にかかって見えないため、怒っているのか呆れているのかわからない。
――まずいよ〜……。ちゃんとあやまらなきゃ。ふざけすぎちゃったよ……わたし。
「瑛くん、ごっ、ごめんね! ほんとうにごめんっ。やりすぎたよね。ごめんね……っ」
腕を掴んで必死に謝ると、耳まで赤くし、照れているとも困っているともつかない佐伯が、さらりと落ちた髪の間からこちらを見つめる。
「お菓子をあげなかったら……いたずらする?」
佐伯のこの言葉に、ゆきは目を丸くする。
「えっ……?」
「Trick or Treat――だろ?」
わずかな髪の隙間からこちらを見つめる瞳にはほんのり淡く艶さえ浮かぶ。
本人、それを意識しているのかいないのか。端正な顔立ちだと十分すぎるほどよく理解しているつもりだったが、見たことのない一面がちらりと覗く。店に出ているときのように髪を上げていないにもかかわらず、どうしてこんなに『男の人』に見えるのだろう。
さっきから妙に胸の奥が騒ぐ。
どうしてだろう。いたずらされたのは、わたしのほうかも――そう思うゆきだった。
どきどきと高鳴る胸を感じながら、佐伯の顔を覗き込むように近付き、小首を傾げて囁く。
いたずらか、お菓子か。
「あ、あの……。お菓子をくれなきゃ……いたずらする、よ?」
じゃあ、来年からはあげない。
嬉しそうな笑顔が、照れたようにそう言った。
End.
2006.10.18UP