「お待たせしました。こちらはアップルシナモンケーキと、スコーンになります」
それぞれを馴染みのお客さま二人が待つテーブルに置くと同時に、わあ、と感嘆の声と笑顔がこぼれる。
わたしはこの瞬間がとても好きで、日ごろ笑顔で接客を心がけていても、さらに笑顔になってしまう。
「きれーい。これ、花の形になっているけど、クリームですよね?」
常連のお客様となっている一人の女性から驚きと喜びの瞳で見つめられる。
花形のクリームを作る練習を自宅でずっと重ねてきて、今日初めてマスターから「お客様に出してもOK」という返事をもらった。
どきどきしながらお皿を差し出しお客さんの反応を伺ったんだけど、こういう風に喜んでもらえたのが凄く嬉しくて、でも、やっぱりちょっと気恥ずかしくて、わたしは少しばかり照れてしまう。
「ええ、そうです。いつものようにスコーンと一緒にお召し上がりください」
「でも、もったいないわ、コレを崩しちゃうの……」
惜しいといった風にプレートを眺めている彼女に、わたしは目を細めて返す。
「そうおっしゃっていただけると、とてもうれしいです。またスコーンをご注文いただいたときに、同じようにお付けいたしますよ。スコーンと合わせて食べるととてもおいしいので、是非」
「そうね……。こちらのスコーン、お嬢さんが言うようにとても美味しいから、もったいないけど崩していただくわね。次回も添えていただけると、とてもうれしいわ」
「はい、もちろんです!」
「ありがとう」
――やった。喜んでもらえたよ。
こういう風に言ってもらえると、がんばった甲斐があったよ。
バンザイ、と両手をあげて大喜びしたい気持ちをぐっと抑え、それでもうれしさが隠しきれないまま笑顔でごゆっくりどうぞ、と軽く一礼する。
うれしい。凄くうれしいよ。許可してくれたマスターにお礼言わなきゃ。
スキップしたい気持ちでカウンターへと戻ると、マスターと話をしている瑛くんが、話に耳を傾けながらもその目はじっとわたしを見つめている。
会話の内容こそ聞こえないものの、その表情が妙に柔らかいので、「またドジしたな!」とお盆で頭を叩かれる内容ではないみたい。
わたし、最近はあまりドジしてないから大丈夫……だよね? うん、そのはず。
でも……何なんだろう。
瑛くん、わたしのこと見てるよ。
マスターも、にこにこしてるし、なんだろう?
喜びを半分残している笑顔で少し首を傾げると、マスターとの会話が終わったらしく、瑛くんがこっちの方へと歩いてくる。
目的はまちがいなくわたしだと思うんだ。だって、視点が変わらないよ。
コツ、と靴音が目の前まで近づき、わたしは思わず一歩後ずさりして瑛くんを見上げる。
こういうときは大体「またドジしたな!」って怒られる時だから、ついつい条件反射でかかとを下げちゃうんだ。悲しい癖だよね。
「な、なに?」
トレイを胸元でぎゅっと抱え、おどおどと瑛くんを見つめると、瑛くんは一つ息をついたあと、おもむろに口を開く。
「あのさ」
「う、うん?」
「スコーンにつけるクリームの盛りつけ変えたの、おまえなんだって?」
さっき常連のお客さんにだしたスコーンのことだよね。瑛くんには何も言わないまま勝手に変えちゃったんだけど、やっぱりまずかったのかな。
でも、ちゃんとマスターには許可をいただいてのことだから、問題ないはずだよね……。
「あ、うん。常連さんが喜ぶんじゃないかと思って。でもね、ちゃんとマスターに了解を――」
「わかってる。さっき聞いた。っていうかさ、おまえ、いつの間に作れるようになったんだ?」
「実は毎日家に帰ってから練習してたの。あの、花の形のクリーム」
「えっ。毎日、か?」
驚き、目を丸くする瑛くんに、わたしはうん、と返す。
わたし、不器用だからずっと前から練習していたんだけど、何度やっても花びらのかたちにはならなくて、さらにはクリームの立てかたが緩かったのと、室温とがかさなって、うまく形にならなかったことがほとんど。
ネットでの情報や、アルバイトのお金でこっそり洋菓子の技術書なんていうのを買って、少しでも上手にできるよう努力したんだけど、不器用さもあってやっぱり思うようにいかなかった。
何度やってもうまくいかず、誰に頼まれた訳でもないから、「もういいかな」って実は少しだけ投げ出しそうになったこともあったんだ。
でもね、それでもあきらめなかったのは、お店に出るたびに見る、瑛くんの笑顔なんだ。
お客さんと接してるときはそれはもうとても嬉しそうで、生き生きしてる。
ちょっとした気遣いでお客さんが喜んでくれたときなんか、わたしが見ていてもどきっとするくらい綺麗な笑顔をするんだよ。それを本人に言うのはさすがに恥ずかしいから言っていないけど、でも本当にいい表情するなって思うんだ。
多分、瑛くんがお客さんから人気があるのって、かっこいいっていうことだけじゃないんだろうな、ってあの笑顔を見ると思うよ。
嬉しい、という気持ちが素直に表情に表れてる。
作った笑顔じゃなくて、心からの笑顔。
それがきっとお客さんの心を惹き付けるるんだよね。
だから、わたしも瑛くんの気持ちを分けてもらいたいたくなったの。
ただ見てるだけじゃなくて、わたしが今できることをしたい、って。ちょっとしたもてなしによって喜んでくれる人の笑顔を見たい、って。
失敗しても、何もしないよりはずっといい。できることを、ほんの少しでもいいからしたい、って思ったんだ。
まあ、本当にたくさん失敗を重ねたんだけどね。
「もうね、家に帰ってから毎日クリームとの戦い。すごかったんだよ、台所と、わたしの手」
「クリームだらけ、って?」
ぷっと吹き出す瑛くんに笑って頷く。多分、瑛くんは鼻やほっぺたにクリーム付けながら格闘しているわたしの姿でも想像したんだろうな。派手に笑ってるから簡単にわかるよ。もう。
……でもね、悲しいことにその想像は間違ってないんだよね。
学校やバイトから帰ってきて、ご飯を食べたあとすぐに台所にこもってるから、なにをしてるんだろう、って両親も心配にしていたみたいで、ある日台所まで覗きに来たんだ。
必死になってボウルの中のクリームを立ててるわたしは、背後で両親が覗いていることに気が付かなかったんだけど、ふと名前を呼ばれて振り向いたんだ。二人がいることにわたしはとても驚いたんだけど、両親もとても驚いたみたい。
二人ともわたしの顔を見るなり、「鼻、ゆき、鼻にクリーム!」と指さして、そのあと大笑いしたんだよ。
それも、ずっと笑ってるの。……ひどいよ。
わたしは必死だったから怒るどころじゃなかったんだけど、思い出してみればあれはさすがに恥ずかしかったなぁ。あんなに笑われたの、久しぶりだよ。
「そう。クリームで手は滑るし、絞り口をずっと持ってたから暖まっちゃって上手に花びらにはならないしで、ほんとやきもきしたんだよ。おまけに両親には鼻にクリームついてるって笑われるし」
思い出して頬を膨らませるわたしに、瑛くんはぷっとふきだした。
「俺も見てみたかったな、おまえのそのときの顔。きっと面白かったんだろうな」
「……たぶんね」
視線を逸らしながら空笑いをするわたしに、笑いながら言葉を続ける。
「でも……さ、よかったじゃん。努力が実ってさ。おまえ、すごいよ」
「え?」
「がんばったんだな」
よしよし、とわたしの頭を撫でる瑛くんの笑顔がとても優しくて、わたしは驚いた。だってこんな風に笑っているのを見たことがない。それも――わたしのこと、褒めてるよ。いつも怒られたり、バカにされたりで賛辞の言葉をかけてもらうことなんてなかったのに。
目を丸くしながら見上げると、撫でる手を止め、瑛くんは目を細める。
「おまえさ、この商売向いてるよ」
「そう、かな……。あの……ほんとうにそう思う?」
「ああ。ホント」
エライぞ、ともう一度わたしの頭に大きな手を置く。
その手がとても暖かくて、もっと嬉しくなる。
がんばってよかった。ちいさなことでも、誰かに喜んでもらえることが、わたしにもできるんだ。
そう思ったら、嬉しくて胸がじんわりと熱くなった。
「ありがとう。わたしね、何かしたいなって思ってたんだ。瑛くんみたいにブレンドができたり、コーヒーの味の違いがこまかにわかるわけでもないけれど、小さいことでも誰かに喜んでもらえることしたかったの。来てくれるお客さんが、またこの店に来よう、って思ってくれるような何かをしたかったんだ」
それがお客さんを迎える笑顔だったり、挨拶だったり。そして、小さな小さなおもてなしだったりと、わたしにできることは本当に最低限のことなんだけど、それでもこの珊瑚礁に来てくれる人が――マスターと瑛くんが大事にしているこの店に来てくれた人が、すこしだけ幸せな気持ちになってくれるならいいと思った。
本当にそう思ったんだよ。
「あ……、でも、本当にささやかなことしかできないのが、ちょっと残念だけど」
そのうち少しずつね、と言葉を足して肩を竦めると、それでもいいんじゃないか、と瑛くんは笑った。
「俺だって、おまえと変わらないよ」
「そんなこと……」
「そんなことあるんだって。まだまだ全然勉強足りないし。だってここ最近だぜ? じいさん――いや、マスターに『バリスタ』って呼んでもらえるようになったの。うんと前から手伝いして、見よう見まねであれこれノウハウ覚えて、それでやっと今、っていう感じだよ。それでも、コーヒーの知識だって、接客だって学ばなくちゃいけないところばかりだ。俺、もっといろんなこと知りたいよ。店やってくための、いろんなこと」
言って、ちらっとマスターの方へと視線を向け、小さく笑う。
そういえば、前に瑛くんが言ってたな。もっと勉強して、バリスタになりたいって。
経済や経営に関することもちゃんと勉強しなくちゃな、って。
本当にこの仕事が好きなんだね。
コーヒーが好きで、お客さんが好きで、マスターと、この珊瑚礁が大好きなんだ。
そういう気持ち、伝わってくるよ。素直に、まっすぐに気持ちが伝わってくる。
どんな時間を割いてでも、瑛くんが大事にしたいと思うものを、わたしも大事にしたいよ。
――大切にしたい。
「だから、おまえと同じ。がんばろうな。一緒にさ」
腕を組んで、少しはにかんだ笑みを浮かべる瑛くんに、わたしはうん、と頷く。
なんかくすぐったくてうまく言葉が出ないんだ。一緒に隣を歩いてくれるようなこの感覚が、なんだかとても近すぎて、くすぐったいんだよ。
いままで散々ケンカばかりしてきた二人だから、「お互いにがんばろう」と隣を歩いていこうとするこの感じが不思議で仕方ないんだ。
でもね、わたしはこういう関係、いいなって思う。背伸びしないで、できることを一つずつ重ねていこうっていう二人の思いが一緒のようで、なんかいいなって。
いつも言いたいこと言い合って、笑ってる二人もいいけれど、「がんばろう」っていう言葉が胸に暖かく響く。
前に進んでいくっていう気持ちが、わたし一つだけじゃなくて、もう一つ。――となりに瑛くんの気持ちがある。
「なんか、俺、思うんだけど……」
一度言葉を切って、瑛くんが首を傾げる。その表情はなんとなく幸せそうで、そしてその瞳はどこか遠くを見つめているかのよう。
「うん?」
「二人で店やったらさ、いい店になるよな。きっと……」
ぽつりと小さく呟かれた言葉だけど、それはわたしの耳にもしっかりと届いていた。
ちゃんと聞こえてしまったから、わたしは思わず目を大きく開いてしまった。
だって、二人で、だなんて……驚くよ、普通。
その――うれしい、けど。すごく嬉しいけど、私は一人で勝手に勘違いしちゃうよ。
勝手に、いいように解釈しちゃうけど――それでもいいの? それでも、迷惑じゃない?
「え、えっと、それって……」
熱くなる頬を感じながら瑛くんを見ると、はっと何かに気付いたように瑛くんが目を丸くし、慌てて首を振る。
「ち、ちがっ!……いや、例えば、な。例えばだ。うん。そう、例えばの話!」
「例えば、なんだ?」
「な、なんだよ」
「わたしも、思うんだけど……」
「え?」
「その……いい、と……思う、かなって」
きっと、こういう人のそばでなら、嬉しそうな顔でコーヒーを飲むお客さんの顔を見ていけると思う。
ほんの少し遠くて――でも、近い未来を見ながら、ずっと笑顔でやっていけそうな気がする。そんな気がするんだ。
だって、お客さんを見る目が、とても暖かいから。
大切なものを、とても大切にしているから。
そのための努力をずっとしている人だから。
「だから、もっといろいろがんばろう、かな……なんて」
息をのんだ瑛くんが、まっすぐに私を見つめる。そして何度か目をしばたかせたあと、小さく咳払いをしながら顔を横に向ける。その耳が少しだけ赤く染まっているのはやっぱり照れているからなの、かな?
「ここが、……でよかった……」
顔を背けたままぽつりと呟かれた言葉が聞き取りづらい。
「えっ?」
「ここが「珊瑚礁」で――店でよかった、って言ったんだよ」
「う、うん?」
眉を寄せてその言葉の意味を考えるんだけど、だめ。全然わかんないよ。
なんで珊瑚礁でよかったの。わたしがさっき言った言葉と全然つながらないよ。
頭いい人は、勝手に別次元飛んじゃうのかな。それとも、瑛くんがヘンに屈折してるだけ?
っていうか、わたしがひとりでわからないだけなのかな。
――うーん、謎。
真剣に考える私の額を、指先を整えてとん、とつつく。
「アハハ、ヘンな顔」
「真剣に考えてるのに!」
「気になる?」
「なるなる」
コクコク頷き瑛くんを見上げると、僅かな間、甘く柔らかい笑みが浮かぶ。少しの艶さえ滲むその瞳は、閉じた瞼と共にさっと消えてしまう。
「たぶん――いや、間違いなく正面からおまえのことぎゅっと……しめてた」
――しめる!? なんで!
「ええっ、しめられるようなこと、わたし何か言った?」
思わずじりっと後ずさりするわたしに、瑛くんはゆっくりと目を開き、言った言った、とにやっと笑う。それはいつもの「いじわる」な笑顔。この笑顔に私は何度怯んだことか。まったくもう。心臓に悪い笑顔だよ。
「ここが珊瑚礁でよかったな。別の……俺の部屋だったら、ちょっと違ってたかも。おまえ、運がいい」
「なに、それ」
「わかんなくていい。でも、まあ、アレだ。……そのうち、な」
「そのうちしめるんですか?……ひ、ひょっとしなくても」
おずおずと訪ねると、背中を向けてカウンターの奥へと足を進める瑛くんがちらっと私を見て笑った。
「覚悟して待つんだな。いいな?」
「……オニ。絶対に逃げてやる」
「ウルサイ。誰が逃がすか」
『うるさい』はいつもの台詞だけど、その声がなんだかとても楽しそうなんだ。
だから、かな。
締めるなんて物騒なことを言われても、憎めないんだよね。
でもね、だからと言ってこのまま言われっぱなしなのも悔しい。ほら、わたしも負けず嫌いだから。
「いじわるなんだから……もう」
わたしは白いシャツの背中に、小さく舌を見せてささやかな抵抗をした。
そのあと――それこそ本当に、近くてちょっとさきの未来に、瑛くんが言った『しめる』の本当の意味を知ることになるなんて、今のわたしは思いもしなかった。
『抱きしめる』だったら、そういってよ。
ただの『しめる』じゃ誰だって誤解するってば。
『言えるわけないだろ、バカ』なんて笑っていっても、納得なんてしてあげないんだから。
End.
2006.10.14UP