家に来ないか、と誘ったのは今までも何度かある。
別に深い意味を込めて言っている訳じゃなくて、たまには外じゃなくてのんびりと家ですごすのも悪くないかな、と思ったからであって、その……不純な動機では一切なく……いや、100パーセントないとは言い切れない……けど、でも、変な意味で呼んだんじゃない。
なんていうか、家に呼んでもいいんじゃないか、というくらいには二人の仲も近づいている……んじゃないかって、思ったし。
ああもう、だから変な意味じゃなくて。……そう、部屋で二人でいても、会話に困ったりするような間柄じゃなく、むしろ落ち着くような二人になってると思ったからだ。
第一、ゆっくり家で過ごすって言っても、さすがにあいつの家ではマズイだろ。……あ、いや、だから、別にマズイなにかをする訳じゃないんだけど――って、なにかってなんだ。ああもう、そうじゃなくて。
家の人が「男の子を呼び込むなんて!」って思うだろうし、それが原因で両親にいろいろ言われたらかわいそうだ。
となると、俺の部屋――っていっても、珊瑚礁になるわけで。
本当に、ただそれだけ。それだけだ!――念のため。
「ふぅ、ホントに今日は暑いね! あ、瑛くん、アイス買ってきたから、あとで食べようよ。もしよければマスターも一緒にと思って、マスターの分もと思って買ってきたんだけど。……マスターは?」
ブルーの――それこそ俺好みのワンピースを着て、そして、片手にはコンビニの袋を持ち、前から約束していた時間にゆきは現れた。
そう、俺の家まで。
「じいさん、昨日から俺んち……俺の実家に行ってるから、帰りは夕方になるんだ」
「ふぅん、そうなんだ。――あ。だから今日は夜からのオープンなんだね?」
「そういうこと。って、こうしてるうちにもアイス溶けてるな。食べるの、今じゃなくていいのか?」
ビニール袋ごと汗をかいてきているから、結構溶けているはず。冷やしておいて、あとで食べたほうがよさそうだ。
「うん、わたしはまだいいかな。瑛くんは?」
「俺もあとででいい」
「じゃあ冷蔵庫に入れておいてもらえると助かります」
「ああ。――と、そうだ。お気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ、つまらないものですが」
互いに深々と頭を下げたあと、目を合わせて笑いあう。俺、こいつのこういう変なとこ、好きなんだよな。時々ぼけたこと言ったりするのも、こうして屈託なく笑うのも、好きなんだ。すごく。
「適当なとこ、座ってて。ちょっとコレ、冷蔵庫に入れてくる。飲み物はアイスコーヒーでいいか?」
「あ、うん。ありがとう」
コンビニ袋片手に部屋を出て、階段を下りながら俺は思った。
なんかさ、いい香りした――あいつ。
なんだろ、何か香水とかつけてんのかな。
甘い――なんかのフルーツみたいな……。
なんだろうな、あの香り。
そんなことをボンヤリ思いながら、冷蔵庫にアイスを片づけて、今朝作っておいたアイスコーヒーをグラス二つに注ぐ。トレーに乗せて部屋に戻ると、開けっ放しになっていた窓から外を眺めているあいつの後ろ姿が目に写った。
風にあおられて、髪がさらさら揺れている。
そして、俺の方までさっき感じた「いい香り」が届く。それだけでも十分すぎるほど落ち着かない気持ちになるのに――こいつ、無防備すぎる。
バカ。
……このバカ!
ここは男の部屋なんだぞ。おまえ、いくら窓からの眺めがいいからって、ベッドに乗っかって外なんて見るな。
……ていうか、そういう配置なんだからあいつを責めたって仕方ないんだけど……。
でも、少しは慎みっていうのをだな!――と、年頃の娘を持った父親が言うような台詞を心の中で呟いていると、不意にゆきが振り返り、俺に笑みを見せる。
「あっ、瑛くんおかえり」
「ただいま。そこからの眺め、いいだろ? ちょっと前に模様替えしたんだ」
……って俺、そうじゃないだろ。なに言ってんだ。
「どうりで、前来たときとなにか違うな〜って思ったわけだ! ……あ、ごめんね、勝手にベッドに乗っちゃって。窓からちょっと遠かったから、思わずお邪魔しちゃいました」
「ん? あ、ああ。気にしなくていいって、別に」
ああ、違う違う。そうじゃない!
気にしてくれ。
大いに気にしてくれ。
おまえは警戒心ゼロなのか。それとも、俺に対してだけなのか?
俺はおまえにとって何者!?
そんなことを本気で尋ねたくなるけれど、でも、両膝をベッドについて、でもって窓際で頬杖なんてつきながら遠くを見ているゆきは、なんていうか……その、やっぱりかわいくて。
……甘いよな、俺。細かいことどうでもよくなる。
それに……なんか、さっきから甘い香りがするから、その香りがなんなのか、もう少しだけ近づいて知りたくなって……。
気がついたら、手に持ってたトレーはテーブルの上に置いていた。
片膝に体重をかけると、ぎし、とベッドが軋む。
その音に俺自身、妙にどきりとして、思わず「やましいこと考えてないからな! 違う! 断じて違う!」と理由付けしたりする。
我ながら情けない……。
バカだ、俺。
でも、さ。
気持ちよさそうに瞼を閉じてる顔が本当に可愛くて。
あー、もう……。
バカでもいいからもう少し近付きたい。
頬杖ついてるゆきのすぐそばに片手をつき、もう片手は上の窓枠に。ゆきの斜め後ろのいいポジション。
なんかさ、こう――外から見たらかなり雰囲気いいカップルみたいだよな。うん、悪くない。いや、そうじゃなくて。
でも……やっぱ、悪くない。
「風、気持ちいいだろ」
隣にいる俺を見上げて、ゆきは目を細めて笑う。
「うん。とても。瑛くん、ホント、素敵な部屋で過ごしてるね。毎日海と風を感じられる部屋だなんて、贅沢だよ」
「だろ? 俺もそう思う。店の手伝いが忙しくてなかなかサーフィンできなくてもさ、こうして毎日海を見て、潮風感じてると、心が穏やかになるんだ」
「そうだよね。わたしもこうして目を閉じてると、すごく気持ちいい」
言って、また目を閉じるゆきの髪が風に煽られ、額があらわになる。
「潮風の匂い、すごくいいね」
「……ん」
それは俺も思うよ。すごく好きだし、気が立ってるときも、波の音と、風と、潮の香りを感じてると、不思議と安らぐしさ。
でもさ。
でも……今はちょっと、違う……かな。
「――なあ」
「うん?」
「ひとつ聞いてもいいか?」
「なあに?」
頬杖をついたまま、首を傾げて俺を見上げる。
ああ、今の一瞬、カメラがあったら写真に撮りたい。
すごく……いい、と思う。
カメラがなくても、絶対に忘れないけど、でも今のこいつの顔、ぐっときた。
少しだけ口角が上がってて――幸せそうな顔。
……って、いけね、脱線した。
「おまえさ、なんかつけてきてる、今日?」
俺の問いかけに、何度か目をぱちぱちと瞬かせ、なにを言っているのかわからない、といった表情をする。
「あ――。ええと……その、香水……とか、なんか。なんていうか――……すごく甘い匂いがする」
「甘い匂い? なんだろう」
ゆきは腕や、ノースリーブの肩の辺りをくんくんと鼻を鳴らしながら確かめ、あっ、多分アレだ! と笑みを浮かべる。
「あのね、午前中にお母さんから庭の草むしりを頼まれていてね」
「ん? ああ」
「頑張ってせっせと草むしりしていたんだけど、途中抜けない草を無理矢理抜いたら、しりもちついちゃって……」
少し照れたようにこめかみの辺りを指で触れる仕草に、大体その先が想像できる。
「派手に倒れたのか」
「……ぴんぽんです」
「うわ、マヌケ。ベタすぎる、おまえ!」
俺の言葉にゆきは頬を膨らませるが、先を続ける。
「もう! わかってるよう。……でね、手だけじゃなく腕にも土がついちゃったし、結構汗もかいたからシャワー浴びたんだけど、そのときに前に密ちゃんから貰ったボディーソープを初めて使ってみたの。それが、パパイヤの匂いがするボディーソープなんだ。体洗ってるときもすっごく甘くていい匂いがしたから、多分それだと思うんだけど……いい匂い、やっぱりまだする?」
もう一度肩へと鼻を寄せて笑う。
「パパイヤのボディーソープなんてあるのな。へえ……面白いな。言われて見れば、マジでそういう匂いする。――実はさっきからずっと気に……」
気になっててさ、と続けようとしたんだけど、俺……相当近付いていたことに気がついた。
ゆきと同じように、肩に鼻寄せてて――あと少し顔を寄せたら……その、なんつーか……。
キス、できそうなくらい。
「…………あ」
驚いたように目を丸くして俺を見てるゆきが、小さく呟く。
「…………わ、悪い……。ごめん……」
「う、うん……」
すぐにでも離れなくちゃいけないのに、何故か離れられなくて。
なんか、離れたくなくて、思ったより長い睫毛とか、大きな目だとか、触れたら柔らかそうな頬とか――そういうのを、この数秒の間にまじまじと見つめていたんだけど。
……少しだけ――そう、一瞬だけでもいいから、触れたらだめかな、なんて思ったりした。
「瑛、くん……?」
事故とはいえ、一度キスしてる……んだよな、俺たちって……。それも、唇に。
だから、頬ぐらいだったら、別に……悪くない、よな。
嫌だったら、多分……逃げる、よな。
「あ、あの……瑛、く……」
そんな都合のいいことを考えながら、照れてほんのちょっと困ったような伏し目がちのその横顔に、近付こうと僅かに頬を傾けた――そのとき、だ。
突然海からの風が強く吹いた。
肩につくかつかないかの長さのゆきの髪が風に舞い上がり、すぐそばまで近付いていた俺の顔にふわりとかかる。
「……わ」
目にこそ入らなかったものの、目の前を遮るように髪が舞い上がったため、俺は少しだけ体を離した。
「瑛くん、大丈夫? 目に入らなかった? コンタクト、平気?」
「あ……、大丈夫。おまえは平気?」
「うん、わたしはいいんだけど……。その、ごっ、ごめんね……」
べつに、おまえのせいじゃないだろうが。
やーらしーこと少し――いえ、ウソです、「かなり」考えたのは俺なんだし。
軽く額にかかった自分の髪をかき上げ、ちら、とゆきを見ると、気遣わしげにこちらを見る目と視線が合う。
ついさっきまでしようとしていたことのやましさもあり、さらにはなにを言っていいのか分からずゆっくりと視線を逸らすと、ゆきも何度か瞬きをしたあと、そろそろと視線を外す。
二人の間に広がるのは、沈黙ばかり。
参る。
参った。
こういうとき、どうすればいいんだ!?
このまま無言でいるのもヘンだし、かといってやたら喋るのも不自然だし。
っていうかさ、今すっごく恥ずかしいんだ!!
――ああ、クソ!
特にこれと言ってうまい案が浮かばなかった俺は、無言が耐え切れずにベッドから降りてドアへと向かう。
「て、瑛くん……?」
戸惑いがちのゆきの声に、俺は振り返って慌てて笑みを見せる。
頼む神様。今の俺の顔、自然な笑顔になっていますように。
「あー……、俺、アイス食いたい。なんつーか……ホラ、あ、暑いから、冷たいもん食いたくなってさ」
苦しい。
苦しすぎるよな、この台詞。なら最初っから食えばよかったじゃん、っていう話しだもんな……。
とことんかっこ悪い。
マジで情けない。
「あれ……、でもアイスコーヒーがあるよ?」
バカッ! こういうときは突っ込むな! 流して過ごせ。
「俺はアイスが食いたいんだ!」
食いたいんだ、を一文字ずつ強調して言うと、ゆきは少々面食らいつつも、仕方ないといった笑顔を浮かべて「はいはい、わかりました」と言葉を返す。
「……おまえは?」
「えっ……。えーと……じ、じゃあ、わたしももらおうかな……?」
アハハと笑うゆきに、了解、と応えて俺は部屋のドアを閉める。
そして、座込んで深くため息。
「うわ、俺、やっちまった…………」
正確には何もやってないんだけど、間違いなく「やっちゃった」らしい。ゆきの様子からして、相当「バカ」なことをやっちゃったらしいぞ。
「ハァ…………」
ため息をつきながら、階段を下りていく。そして、冷蔵庫のドアに額を押付けてもっとため息。
冷やしたほうがよさそうなのは、間違いなく俺の頭。いっそこのまま海にでも潜ってきたほうがよさそうなくらい。
「あー、もう! しっかりしろ!」
ごつ、と音を立ててドアに頭をぶつけ、そしてそのままひんやりとしたドアに額を押付けながら、この期に及んで俺は思う。
「………っていうかさ、どうせならキスさせて」
そして、頬にキス一つできなかった情けなさついでにもう一つ頼みごとをする。
「頼むよじいちゃん。早く帰ってきてくれ……」
まだまだ日が高い時間だっていうのに、これからどうやって過ごせばいいんだよ。
ああ、マジでわかんねえ。
すこしでも不純なことを考えた俺に、この夏最大の難関が大きく待ち構えていた。
End.
2006.09.12UP