ときメモGSシリーズ

カレイドスコープ【瑛主】



 ホームルームが終わった後、遅くもなく、かといって早くもない速さで下駄箱へと向かい、靴を履き替える。
 とんとん、とつま先を鳴らしたあと、校門を出るまでの間に、友人から声をかけられたり、その逆に声をかけたりして、少しだけ寄り道をするのが、ゆきの密かなる楽しみの一つ。
 それは珊瑚礁でのバイトが入っている日もたいして変わりはない。
 何かと慌しく店の準備をしなくてはいけない佐伯とは違い、ゆきには時間にある程度の余裕がある。
 それほど早く店に入らなくてもいいよ、とマスターから言われていることもあり、珊瑚礁へと向かう道中、時として友人とお茶を飲んだり、また、一人海岸線沿いを歩き、自然が作り出す見事なオレンジ色のグラデーションの空に胸をときめかせたり。
 まぶしいくらいの夕日、そして、それに照らされてきらきらと光る水面を見つめては目を細め、ゆったりとした時間を過ごしながら灯台を目指すのがいつものこと。
 それは、はね学に入学してからというものずっと変わらず、喫茶珊瑚礁に向かうまでの、いわば習慣のようなもの。羽ヶ崎学園に入学してからも、そして、喫茶珊瑚礁でアルバイトを始めるようになってからも、早いことで今年でもう二年目になる。
 通い慣れた道。見慣れてはいても、毎日違う表情を見せる空の色。空気。潮の香り。
 そして――変わらない光景が、もう一つある。
「佐伯クン、今日はどこのお店に寄っていく〜?」
 寄っていく、の「く」の後に、小さい「う」が入っているような甘えた声を出すのは、佐伯のお取り巻き――というか、ファンのうちの一人。彼女は大きな瞳が印象的な、小綺麗な顔立ちをしている。
「え……っと、あの、ごめんね。今日は用事があって」
「ウソ。昨日は明日なら用事はないって言ってたじゃない」
「ははっ、そう……だったっけ?」
「そうだよ。ねー、みんな」
 みんな、と呼ばれた人物の総数は、五人。「みんな」と呼ばれた同級生がぐるっと佐伯を包囲するがのごとく、輪をなしている。
 輪の中心の人物は、優しい笑顔を浮かべつつも明らかに困惑して見える。
 彼の本性を知っているゆきは、彼の心の声が聞こえてきそうで「お気の毒に……」と人知れず小さなため息をついたのだった。
 ――アーメン、佐伯くん。がんばって。健闘を祈る。
 クリスチャンではないが、ゆきは心の中で目を閉じ、胸の前で十字を切る。そして、ささやかながら激励の言葉も向ける。
 そう、ゆきがいる場所はまだ学校の敷地内で、今目にしている光景は、校門を出るぎりぎり手前辺りでやりとりをされているもの。
 校門を出るまでの間に、誰かに声をかけられるという確率は、ゆきよりも圧倒的に佐伯の方が高い。だが、そのどれもこれもが素直に喜べるものではないらしく、花に囲まれている彼の前を通り過ぎ、珊瑚礁へと向かうゆきにあとからなんとか追いついては、毎度のごとく深くため息を吐いている。
 そんなに面倒なら、はっきりと言ってあげた方が相手のためにもなるし、佐伯くんのためにもなるよ? と一度言ったことがあるのだが、そうはいかないんだって、と疲れたように言い返されたことを思い出す。
 おまけに「前にも話したことがあるだろ、家の事情」と言われてしまっては、何とも言いようがない。
 おそらく今日も顔いっぱいに「うんざり」の文字を書いて、ゆきの後を追ってくるのだろうが、ゆきは佐伯に目を向けることなく、いつものように一群の横を通り過ぎようと足を進める。
 もちろん、頬のあたりに「助けろ、夏川」という、痛いくらいの佐伯の視線を感じるが、以前見るに見かねて何度か助け船を出した際、取り巻きの女子たちに佐伯とのことをしつこく根堀り葉堀り聞かれたので、彼女たちの前ではなるべく佐伯には関わりますまい、と心に決めたのだった。
 ――ごめんね、佐伯くん。保身を取るね。ちょっとだけ鬼になります。
 申し訳ない気持ちで、頬に感じる視線から逃れようと視線を逸らし、そしてそのまますんなりと校門を出ようとしたその時だ。
 不意に背後から、ぴんとした威勢のいい声に呼び止められる。
「オッス、ゆき! おまえも帰りか?」
 振り返ると、片手を上げてこちらに歩いてくる針谷の姿。
「あ。オッス、ハリー」
 つられてゆきも小さく手をあげると、屈託のない笑みを浮かべた針谷が、ごくごく自然にゆきの隣に立ち、「途中まで一緒に帰ろうぜ」とさらっと言葉をかけてくる。
 針谷は恋愛という難しいこといっさい抜きにした気の合う男友達の一人で、たまに一緒に帰ったり、放課後ギターを聞かせてもらったりするような間柄。
 勢いよく弾ける気性とはまた違う、耳に優しく柔らかいギターの音色は、聞いているだけで心が穏やかになり、「新曲ができたぞ!」と言われるたび、その音色をとても楽しみにしていたのだった。
 時として強引さもあるように見えるが、あっけらかんとした性格が、一緒にいてとても気持ちいい。勿論、それは友人としてであり、ときめきや恋のように、淡くてふわふわした感情とは少し違う位置にある。
「今日はバイトだから、途中までだったら大丈夫だよ」
「お、そか。それじゃ行くか!」
「うん」
 特に意識はしなかったものの、何の気なしにちらりと視線を移すと、優しい笑顔がほとんど落ちてしまっている佐伯と、好奇心旺盛の取り巻き女子たちの視線、それらすべてとかち合う。
「ヤダ、あの二人っていつの間にィ?」
 ――あの二人、って……わたしとハリーのこと、なのかな……?
 ゆきは幾度か目を瞬かせた後、ほんの少し眉を下げる。
 ――付き合ってないよ。そういうのじゃないのに……。
 いちいち弁解するのも面倒なので、その呟きは胸の内に留めておくことにしつつも、やはりすっきりしない。
「ホント、びっくりだよね」
「でもぉ、結構お似合いだよねぇ〜」
 聞こえるようにわざと言い、今度はそれぞれに佐伯へと視線を向ける。その視線は媚を売るようなもので、ゆきはすこしだけ嫌な気持ちになる。
 ――なんか、やだな。どうしてそこで佐伯くんの同意を求めようとするんだろう。
 くちびるの内側をそっとかみ締めていると、隣を歩く針谷が呆れたようにため息を吐く。
「……女って、ホンットこういう話が好きだよな」
 針谷の耳にもその声は届いていたようで、辟易とした表情で頭を掻いている。勿論、針谷の声は呟き程度の小さいものだったので、彼女たちには聞こえていない。
「ネェネェ、佐伯クンもそう思うよね」
「ん……」
 生返事の佐伯に、取り巻きの内の一人が唇を尖らせ、面白くなさそうな顔をする。
「ねえ、聞いてる? 佐伯クンってば」
 半そでの制服の腕の辺りを軽く引っ張られながらも、佐伯は何とも言い表しようがない表情でゆきを見ている。
 助け舟を出さなかったことを怒ってるのか。押しの強い彼女たちに戸惑ってるのか。それとも、目の前で針谷と共にさっさと帰ろうとするゆきに呆れているのか。
 そのどれもが違うような、当たっているような、複雑な表情だ。
 ――佐伯くん? どうしちゃったの。表情、表情。顔、素に戻ってるって。
 ゆきは不思議に思いながらも、眉間を何度もきゅっと寄せて合図をするが、佐伯はそんなゆきの気配りには気づいていない様子だ。
 彼の目は間違いなくゆきを見つめているのに、ゆきが出すサインなどどうでもいいというか――まったく目に映っていないとでもいうような感じだ。。
 ――なんだろう。佐伯くん変だよ……?
 のんびり、ぼんやりしていると佐伯から言われるゆきでもはっきりとわかるのはたった一つ。
 佐伯の様子がいつもと違って見えることだけ。――本当にただそれだけで、彼が何を思い考えているのか、ゆきには全くわからなかった。
 取り巻きの一人が佐伯の目の前にひらひらと手をかざしたおかげで佐伯は我に返ったようだが、少し前までの「助けろ」という視線とは別の視線を頬に感じるのは、気のせいではない。
 軽く首を傾げて「どうしたの?」と無言で尋ねてみても、佐伯はつまらなそうにふい、と視線を逸らしてしまう。
 ――あれ? 今、佐伯くん、気付いたはずだよね……。
「いこうぜ、ゆき」
「あっ――う、うん」
 周りのはしゃぐ声などまるで気にしない感じで歩き始める針谷の後を、ゆきは慌ててついていく。
 興味津々の目でゆきと針谷を見送る女子たちの視線を背中に感じつつ、針谷の隣に並んで歩く。
 ――佐伯くん、いつもみたいに、どうして笑わないの? みんないるのに。
 最後にちらっと佐伯を見るが、顔を横に向けたままこちらを見ようともしない。その表情からはすっかり笑みが消えている。
 幸い、ゆきと針谷の二人に視線が集中していたため、佐伯の表情に気付く者はいなかったが、それでも人目を気にする佐伯が笑顔を忘れるというのはよっぽどのこと。
 ゆきは、佐伯が学校ではいい子でいなくてはいけない事情がわかっているから、彼の態度が不思議に思え、気になって仕方がない。
 なんだろう、どうしたんだろう、そんな言葉がぐるぐると頭の中を回り続ける。
 後ろ髪引かれる思いのまま歩き、校門が遠くなった頃、針谷がおもむろに口を開く。
「しっかしよ、佐伯の取り巻きっつーか、ファンっていうの? あいつらホントすげえよな。毎回毎回よくもまあ、あんだけ群れを成すって言うかよ。佐伯も佐伯で、よくにこやかに相手してるぜ。顔ひきつんねーのかな。オレだったらダメ。ぜってー疲れる! ま、将来ロック界にデビューして、どっと人気が出たときののためと思えば、笑顔もいい特訓なのかも知れねえけどよ」
「特訓っていっても、相当つかれるよ、きっと」
 佐伯はいつも疲れたような顔をしている。ゆきの前では深いため息も吐くし、「疲れた……」とがっくりと肩も落とす。
 ただ、それでも彼女たちを邪険に扱わないのは、彼なりの事情があるのと同時に、もともと持っている彼の優しさでもあるのだろう。
 口では面倒だ、イヤだと言ってはいても、最低限の思いやりや、人に対する優しさは決して忘れていないように思える。
「確かに、気疲れはするだろうけどな」
「うん……」
 その後、針谷とは十分少々の帰り道を共に歩いた。
 その間に色々な話をし、赤点をくらって追試を受ける羽目になったとか、新しい曲が浮かびそうなんだけど音が逃げていく、といったような話で盛り上がり、針谷だけでなくゆきも笑顔を見せて話しに相槌を打った。
 ノリのいい針谷との会話はいつも楽しい。いつもいろんな新しい情報を仕入れているし、きらきらと目を輝かせて夢を語るその姿に、ゆきも元気付けられる。
 けれど、今日だけはいつもと少し違う。
 胸にちくんと何かがひっかかる。
 心から彼との会話に楽しめずにいるのは、やはりあの佐伯の表情が気になって頭から離れないからだ。
 ――どうしたんだろ、あの時。何か言いたそうな顔をしてた気がするよ。そして――。
 そして、少し寂しそうな顔に見えた、と心が勝手に言葉を紡ごうとしたが、ゆきは小さく首を横に振ってそれを、紛らわした。
 ――思い違い。絶対にそう。絶対にわたしの思い違いだって。ただ、ちょっといつもと違って見えただけ。
「そうに違いないよ」
「はあ? なんだぁ?」
 思わず声にしてしまい、針谷には怪訝そうな顔をされたが、ゆきはううん、と首を振り、針谷の話に耳を傾けた。



 分かれ道となる三叉路で立ち止まり、針谷は自分の進行方向を指さす。
「じゃ、俺はこっち行くから。ゆき、またな!」
「うん。ハリー、また明日ね」
 指先をおじぎさせるようにしてバイバイと合図し、ゆきは何気なく来た道を振り返る。
 振り返れば、佐伯が仏頂面で歩いてくる姿が見えそうな気がしたからだ。けれど、振り返れどもそこには彼の姿はなく、うんと遠くに佐伯ではない誰かの人影が見えるだけ。
 ――べつに、期待しているわけじゃないけれど……。
 一人そんな言い訳をして、ゆきは珊瑚礁へと続く海岸線を目指し、再度足を進める。
 普段歩く速度は決して遅くないと思うのだけれど、今日はいつもより速度を落として歩く。
 歩いて、歩いて、きらきらと眩しいくらいの光を感じたときには、海岸線へと出ていた。
 瞬きをしても、瞼にフラッシュを受けたように光の残像が残る。幾つもの光が瞼の中に溢れ、目を細めずにはいられない。
 その煌めきはいつもより眩しく、そして美しく感じる。オレンジ、イエロー、ゴールドが時折交じり合い、そして分離し、乱反射する。それはまるで万華鏡のようで、ゆきは足を止めて自然の美しさに目を向ける。
 空も、海も、砂浜も、全てが美しく煌めく。
「綺麗……。こんなに綺麗なのに、なんでかなあ」
 ――なんとなく、すっきりしないよ。……気になるんだもん。佐伯くんがどうしてああいう顔をしたのか、気になるんだもの。
 足を止め、歩道にある手すりへと両手をかけ、海を見つめる。掌に感じるひんやりとした手すりの感覚が気持ちいい。
 夕日が眩しくて、手でひさしをつくり遠くを見るが、潮風の心地よさにかざしていた手を下ろし、瞳を閉じる。
 髪や頬、そしてスカートの裾を揺らしながら、湿り気を帯びた風はゆきをそばを通り抜け、遠くのどこかに向かう。
 さっきから何度となく吐いているため息も、潮風がさらってくれそうな気がして、ゆきは改めて深く息をする。
「なんでこんなにもやもやするんだろう……」
 それがわからない。
 ――どうしてなんだろう。
 何度も自分自身に問いかけてみるが、答えが出ないままそれは延々とループしていく。
 どうして佐伯があんな表情で自分を見つめていたのだろうとか、女子に囲まれている彼をフォローしてあげなかったのがいけないのかとか。それとも、まさかとは思うが、針谷と一緒に帰るのがまずかったのか。そんな問いかけも、校門の前で佐伯と別れてから、ずっとだ。
 ――でも、わたしがハリーと一緒に帰って、なにがまずいんだろう。わたしがすることなんて、佐伯くんにとっては関係ないのに。佐伯くんには関係がないから、なんとも思っていないはず……だよ。うん、そうだよ。そうに違いないよ。
 もう一度ため息を吐き、額にかかる髪を軽く払う。その時だ。
 なんとなく気配を感じ、視線を向けてみると、少し離れた場所でゆきと同じように海を見つめている制服姿があった。それは紛れもなく佐伯で、ゆきはとても驚き、目を瞠る。
「さ……佐伯くん!」
 一度呼びかけてみたが、聞こえているのかいないのか、反応がない。決して声が届かない所にいるわけではないが、ひょっとしたら波音や行きかう車の音に阻まれ、聞こえていないのかもしれない。
「佐伯くん。……佐伯くんっ!」
 一度目よりも大きな声で呼んでも、佐伯は海を見つめたまま。
 どことなくゆきを遠ざけているような――怒っているような気がして、ゆきは少しだけ悲しくなる。
 ぼんやりしていると言われていても、本当に気がついていないだけであって故意ではない。どんなに鈍いと言われていても、わざと知らない顔をされるのは辛い。それが、今胸を騒がせる誰かであれば余計に。
 自分から進んでいけばいい。
 気になるなら本人に近付き、正面から向き合えばいい。
 いつも彼にはそうやって接してきた。
 けれど、なぜか今日ばかりは横顔のまま遠くを見つめている横顔に近づくのを躊躇ってしまう。
 ――返事、してよ。佐伯くん。どうして何も言ってくれないの。
 萎えそうになる気持ちを何とか奮い立たせるため、ぎゅっと手を握る。
 軽く息を吸い込み、もう一度名前を呼ぼうと唇を開くと、不意に佐伯が不貞腐れた表情を見せる。
「バカ。ウルサイ。聞こえてる!」
 なら、何とか言ってくれてもいいじゃない――そう言おうとしたのだけど、言葉にならない。
 佐伯はこちらに来ようともせず、そのままの位置で黙ってゆきを見ているし、ゆきはゆきで、なぜか足が動かない。
「針谷……針谷と帰ったんじゃなかったのかよ!」
 いつもよりも大きな声で、つまらなそうに言い捨てる佐伯に向かって、ゆきも声を上げる。
「そ、そっちこそ! みんなと一緒に帰ったんでしょ!」
 お互いに離れた場所で言葉を掛け合う。二人のそばを通るのは、行き来する車のみ。人の通りは殆どない。
「おまえがシカトするから、仕方なく帰ったんだ。シカトなんてすんなよ。助けてくれれば、喫茶店なんて寄らずに済んだんだ!」
「シカトなんて……」
 していない、と言ったら嘘になるので、ゆきは言葉に詰まる。そんなゆきを見て、佐伯はさらに横柄な態度になる。
「ほらみろ。おまえのせいで、俺はすっごくマズイコーヒー飲む羽目になったんだからな。それに、こんな……こんな面白くない気持ちになったのは、おまえのせいだ」
 言いながら、やっとゆきの方へと歩いてくる。
 その足取りはゆっくりだが、真っ直ぐこちらを見つめ、近付いてくる。
「そんなの、わたしのせいじゃないもん。ちゃんと断らない佐伯くんが悪いんじゃない!」
 こちらに歩いてくる佐伯の髪が、日に透けてオレンジ色に染まる。きらきらときれいに輝く髪と、まっすぐに自分を見る瞳とに心と瞳がとらわれ、なぜか胸が高鳴る。
 ゆっくりと歩いてくる佐伯が目の前まで近づき、そして、ゆきと目の高さを合わせるべく身を屈め、真っ直ぐにゆきを見つめる。
 あまりに近い顔の距離に、ゆきは目を丸くするが、佐伯の表情は仏頂面のまま、依然変わらない。
「おまえが人のことを言うか」
 短く言って、頭のてっぺんにチョップする。
「い、痛っ」
 よけるヒマなくチョップを食らったゆきは、頭を押さえて眉尻を下げるが、佐伯はまだゆきから離れることなく同じ姿勢のまま、表情を変えずに言葉を紡ぐ。
「針谷とどこか寄ったのかよ」
「え?」
「校門出たあと。……どっか、寄ったのかって聞いてるんだ」
 なぜ佐伯がそんなことを聞くのかわからないが、ゆきはまたチョップが降ってくるよりはましだ、と素直に答える。
「どこにも寄ってないよ。バイトもあるし。……それに」
「それに?」
 その後を続けられず、ゆきは言葉に詰まるが、正直に胸のうちを明かす。
「佐伯くんのことが、気になったから」
「え、……俺、のこと?」
 ゆきの言葉に佐伯は目を丸くする。
「怒ってた、っていうか、面白くなさそう、っていうか……複雑な表情だった。いい子の顔じゃなかったから、本当に気になったんだよ」
「な、んだ……そういうことか。――って、そうじゃなくて、マジで?」
「うん」
「そんなに、俺、面白くない顔……してた?」
 視線を逸らし、何かを考えるかのように遠くを見る佐伯に、再度「うん」と頷く。
「そう……なんだな、やっぱ」
「え?」
「なんとなく、最近自覚してたけど……やっぱ、――きなんだよな、おまえのこと」
 ぼんやりとしたあと、少しだけ困った顔になり、さらには何か納得したように小さく笑みを浮かべる。
「わたし? えっ、わたしが何かした!?」
「いや、何も?」
 珍しく表情がくるくる変わる佐伯に多少戸惑い、そして彼の言葉の意味が分からず首を傾げると、佐伯は不意に体を起こし、さらには海のほうへと向きを変える。
「なんなの? なに?」
「なーんでもない!」
 笑って言って、佐伯は両方の手を手摺に預ける。ゆきは海を見つめる佐伯の隣に立ち、その横顔を見つめる。
 ――佐伯くんは、一人で勝手に納得しちゃっているみたいだけど、わたしはわからないよ。
 一人でずるい、とそっと小さく頬を膨らませる。
「もう、なにがそうなんだか、わたしには全然わからないよ。心配したのに、教えてくれたっていいじゃない」
 ぽつりと口にすると、プッとふきだした佐伯が、わからなくて結構、と楽しそうにゆきを見る。
「そうだな……まあ、なんていうか……。いつか、気が向いたら教えてやる」
「ウソ。そんなこと言ってて、絶対に忘れちゃうんだから」
 いつか――というのは意地悪な言葉だと思う。興味を引くだけ引いておいて、「そんなこと言ったっけ?」といつかの約束を口にした人の記憶をどこかに埋めてしまうのだから。
「忘れない。絶対に。っていうか、忘れられるわけないよ、こういう気持ちは」
「……え?」
 佐伯は珍しく、妙に清々しい笑顔で海を見つめる。
 ゆきはというと、さらにわけが分からない彼の言葉に眉間を寄せるのだが、ちらりと視線を移した佐伯に表情を見られ、派手に笑われてしまう。
「アハハッ、ヘンだ! おまえの顔、今すごくヘン。そんなにシワ寄せてたら、戻らなくなるぞ」
「えっ、そ、そんなヘンな顔してた?」
 両の手で慌てて眉間を押さえるが、佐伯はまだ笑っている。
「ああ。傑作。カピバラの困った顔ってこういう顔なんだろうな、って思うくらい」
「またカピバラっていう〜! コラッ!」
 手を振り上げて、腕の辺りを軽く殴ろうとするゆきの手を捕まえ、佐伯は二ヤッと笑う。
「甘い。トロい」
「うぅ」
 いつもだったらここでチョップの応酬とくるのだが、手を掴んだまま佐伯は離そうとはせず、それどころかゆきの指先をまじまじと見る。
 ――な、なに……?
「夏川ってさ、マニキュアとかってしないのな」
 何故か佐伯は目を細め、優しい声色で呟く。
「だって、バイトで水を触るし。それに、長い爪で食べ物出されて気分いい?」
 特に誰かに言われたわけでもないが、食べ物を扱うなら当然だとゆきは思う。深爪にならない程度には短く切りそろえている。
 マニキュアだって塗りたくないわけじゃない。ただ、せっかく綺麗に塗っても水を使っていたら剥げてしまうし、それ以前に塗ったままの状態でバイトをしたくないだけだ。
「ま、確かにあまりいいもんじゃないよな」
 苦笑する佐伯に、ゆきも頷く。
 これでも「女の子」としても身だしなみやおしゃれに気を配らないわけではない。むしろ気にかけている。
 放課後や休日には、友人である水島や西本と新しいコスメ用品を探しに出かけたりするし、新商品などは雑誌でチェックもしている。
 フルメイクとまでは行かないが、薄くファンデーションを塗ったり、口紅をひいたり、女の子同士であれこれ楽しんだりすることもけして忘れていない。
 けれど、それはそれ、これはこれ。TPOは人並みではあるがわきまえているつもりだ。
「かわいくない手だけど……」
 どんなに爪を短くしても、まれに割れたりする。爪の表面だって水仕事をすれば傷もつくし、冬場なんてハンドクリームを塗っても手荒れをする。女の子の手じゃないみたいかもしれない、と思い、眉を下げる。
「別に……可愛いと思うけど。俺は好き」
「えっ!?」
「あ、いや、その……なんていうか」
 驚き、まじまじと佐伯を見つめると、次第に頬や耳が赤く染まっていくのが分かる。
「さ、佐伯くん?」
 ――今、可愛いって言ったのは……本当? いつもみたいにからかってるんじゃなくて、本当に? 
 そんなことを思い始めたらどんどん顔が熱くなる。
 ――うわぁ……。きっと今、わたし、耳まっかだ……。
 少し俯くと、照れたような声が上から降ってくる。
「ば、バカ! 勘違いすんなよ。そ、そう……可愛いって言ったのは手のことだっ。……た、たまには褒めてやる。手のことだけど」
「あ、ありがと……」
「お、おう」
 その後どう続けていいのかゆきが必死になって言葉を選んでいると、不意に「げ、いけね」と佐伯が短く呟く声が聞こえる。そして、おもむろに携帯を取り出しては、ぱっと明るく光る待ち受け画面をゆきの方へと向ける。
「え? なに、携帯?」
「違う、時間。のんびりしてたら、こんな時間だ。夏川、おまえ店に入る時間迫ってるぞ」
「うわっ! いけない、のんびりしすぎちゃった!」
 のんびり歩いていたのもあるが、佐伯との時間はいつもあっという間に過ぎてしまう。二人で出かけているときも、そして――こういう風に何気ない時間を過ごすときも。
 ――不思議。佐伯くんといると、時間が早く過ぎるような何かがあるのかな。……っと、今はそれどころじゃないんだった!
 カバンを持ち直し、佐伯に「ごめん、先に行くね!」と声をかけようとしたのだけど、不意に手を握られ、突然の佐伯の行動に、ゆきは驚きのあまり言葉を失う。
 ――えっ……。
「……行くぞ、一緒に。カバンしっかり持ったか?」
「わっ、え、あっ……、は、はい!」
 慌てて返すと、目を細めて笑う佐伯が、ダッシュだ、と短く言った後、言葉通り本当に容赦ないダッシュを始める。
「わっ、わわわっ!? ギャー!」
 引っ張られるような形でもたもたと足を進める破目になったゆきだが、なんとか佐伯についていけるまでになる。
 オレンジ色の空は勿論だが、きらきらの海も一緒に走っている。それはまるで『がんばりなさい』と伴走してくれているような感じで、ゆきは自然と心が弾んでくる。
 足がもつれそうになりながらも、光を受けたシャツの背中に大きく声をかける。
「さっ、佐伯くん! 転んじゃうっ! もっとゆっくり、ゆっくり〜! ……わぁ!?」
 言いながらも早速躓き、危うく転びそうになるが、佐伯がしっかりと腕を掴んでくれる。
「せ、セーフ。ありがとう、佐伯くん」
 助けてもらう際に、したたかに佐伯の肩に額をぶつけたような気がするが、佐伯はそのことには触れずに笑顔を見せる。
「な? 転ばないって。何のために手を握ってるんだよ」
「それはそうだけど……。なら、責任もって途中で離したりしないでね。転んだら、う〜ら〜む〜ぞ〜」
 小さく頬を膨らませて見上げると、了解、と佐伯が肩を揺らして笑っている。
「あ、笑ったな。わたし、本気だからね」
「俺も本気。……離したりしないから、マジで。だから、ホラ、ちゃんと手を貸せって」
 ゆきよりも大きい手が差し出される。暖かくて、大きい手。自分とは性別が違う、男の子の手。
 ――凄く恥ずかしいんだけど、こういうときは恥ずかしいなんて思ったらいけないんだよね、多分。
 ドキドキする胸の鼓動を懸命に押し隠し、そろそろと手を差し出す。
 その手が再度佐伯の大きな手に握られたとき、海からの風がふわっと通り抜けていった。
 海が見える街。
 潮風が通り抜ける場所。
 海に浮かぶ船から見れば、きっと自分たちが立っているこの場所もキラキラと幾つもの光を反射させ、眩しく輝いて見えるに違いない。
 そんなことを思いながらも、ゆきはオレンジ色に染まるシャツを見つめ、足を進めた。
 「離したりしないから」と繋ぐこの手を信じ、光の中を駆け抜ける。
 少し前に一人でこの道を歩いたときよりもうんと軽い足取りで――加速度をつけて。



End.
2006.09.05-09UP(2007.05.20改)
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