ときメモGSシリーズ

オレンジ・サマー【瑛主】



 家でだらっとしているよりはいいけれど、急に佐伯くんから電話がかかってきたのには驚いた。
「おまえ今日も暇だろ? 天気いいし、海日和だし、これから浜に来ないか」って。
 急な誘いは初めてだったから、本当にびっくりしたよ。まあ、「今日も暇だろ?」っていうのにはかなりひっかかったけど。
 でも夏の暑い日に浜に来ないか、なんて魅力的なお誘いを受けたら断る理由などここにもなくて、水着持参で、と当たり前のことを妙に念押しをする佐伯くんの言葉に、わたしは二つ返事をした。
 けれど、そこに思わぬ落とし穴があったなんて、そのときのわたしは思いもしなかったんだ。
 てっきり海で泳ぐものだと思って素直に先週買ったばかりの水着を持って家を出たんだけど、途中携帯には「ウェハースとスタッフドオリーブとモヤシとそば玉買ってきて! 金はあとでちゃんと払うから! ごめん、今かなり忙しいんだ。助けろ!」なんて連絡が入ってきた。
 ――遊ぶ寸前までお店の手伝いなんて、佐伯くん、がんばるなぁ……。
 なんて感心していたのは何も知らなかったわたしが素直に思っていたこと。
 言われるままに材料を購入し、ガサガサとビニール袋を鳴らしてやっと珊瑚礁まで辿り着いたわたしに待っていたのは、佐伯くんのオニ、悪魔とも言える非情なひと言だった。
「買ってきたよ、佐伯くん!」
「お疲れ! じゃあ次は、トロピカル焼きそば、上がってるから三番テーブルへ」
 この言葉で、お誘いの理由がはっきりしたよ。いかにも遊びに出かけよう! というノリの口調に、わたしはしてやられた。
「えっ!? ……ねぇ、今日誘ってくれたのって、もしかしなくても、その……お店の手伝い?」
「考えるな。働け。話はそれからだ。で、さっさと水着に着替えて。エプロンつけたら、フロアな」
 冗談を言ってる顔じゃなく、忙しそうに出来上がった料理とオーダー票とをチェックしながらどんどんトレーに載せていく。佐伯くん、わたしの話なんて半分聞いてない。
「うぅ……それ、どうしてもやるの? やっぱり、恥ずかしいよ」
 立ちすくみ、じっと広い背中を見つめていると、ビールやトレーを持ったまま佐伯くんが振り返り、声を潜めて早口で言葉を紡ぐ。
「恥ずかしくない。水着エプロンの女子高生が珊瑚礁に与える経済効果を考えろ」
 ――そんなの知らないよ! っていうか、年頃の女子高生の気持ちも少しは考えて欲しいよ、もう!
「佐伯くんのオヤジ! 悪魔! 信じられないっ!」
「何とでも言え。……つーか、トロピカル焼きそば、早く」
 にべもない佐伯くんのその態度に、わたしは頬を膨らませたんだけど、もう一度「トロピカル焼きそば!」とぴしゃりといい切られ、わたしは素直に従ってしまったのだった。
 半ばヤケになりつつも、お客で溢れる店の中、必死でオーダーを取る。店の人手が足りない分厨房も手伝い、フロアに出たらば、空いたお皿を下げ、さらにはレジを打って笑顔で挨拶というのを気が遠くなるほど繰り返し、気がつけばあっという間に夕方。
 海岸にいる人の数がまばらになった頃、お客さんも退いて、わたしはやっと椅子に座ることができたんだけど、椅子に座るにも足や腰がぎしぎしと鳴ったのには我ながら驚いた。
 海に着いたのはたしか太陽がまだ高い位置にある時間帯だったけれど、いまではもうすっかり日も沈みかけ、空は見事なまでにオレンジ色へと変わっていた。
 水面がきらきらと光っていて綺麗なんだけど、その水面に向けるのはため息ばかり。
 ――今日は本当に疲れたよ。
 海開き後のお天気快晴の日曜日ときたら、それはもう当然のように海に来るお客さんの数はとても多くて、それに比例するようにお店にやってくるお客さんの数も半端じゃなかった。こんなに混んでいる珊瑚礁を見たのは、初めてで、仕事に慣れてきたとはいえ、今日ほど多くのお客をさばいたのもこれが初めてだった。
「ふう、やっと一段落ついた……」
 スチールの椅子に腰掛け、深くため息をついて瞼を閉じていると、不意に頬に冷たいものをぴたっと押付けられ、わたしは腰が浮くほど驚いた。
「わっ、冷たい!」
「アハハ、気持ちいいだろ? お疲れ様」
 頬を押さえながら慌てて声のほうを振り返ると、そこには笑顔の佐伯くんがいて、その手にはアイスティーが入ったグラスが二つ。冷たさの原因は、このアイスティーだということは間違いない。
 すぐにでも文句を言ってやろうと思っていたけれど、琥珀の色と大きな氷が光を通してきらきらと輝き、さらにはグラスの縁につけられたオレンジが空の色に溶けそうなくらい綺麗。それらが妙に馴染んでいて、わたしは一瞬目を奪われる。
「……もうっ、アハハじゃないよ」
「ゴメンゴメン。機嫌直せって。ホラ、おまえの分、受け取れよ」
「わ、ありがと」
 一つ差し出されたグラスを受け取り、佐伯くんが近くにあった椅子を寄せ、腰を下ろしたところでわたしはストローに口をつける。
 冷たいアイスティーが喉を通り、胃の中に落ちていき、 オレンジの味がかすかに口に残る。
「疲れたろ、今日」
 目を細めて小さく笑う佐伯くんに、私は真剣に頷く。
「うん。とっても疲れたよ。――まさかバイトだなんて思いもしなかったもの。バイトならバイトって、最初から言ってくれればよかったのに」
「最初から素直に言ったら、おまえ絶対に断るだろ」
「もう、こう混んでたら逆に断るのが申し訳ないよ。それにしても、水着で接客だなんて……オニ!」
「悪かったって」
「……そういうふうに見えないんですが」
「そうか?」
「まったくもう……」
 あれよあれよと訪れるお客の対応にてんてこまいで、「羞恥」という言葉がすこんと抜けてしまっていたのだけど、水着の接客というのは、やはり最初はとても恥ずかしかった。
 どうしてこんなカッコで、と何度も佐伯くんを睨んだけれど、「ほらオーダーだ! 夏川、ゴー! もたもたするなよー」なんて調子よく誤魔化されてしまったのだから愚痴や文句のぶつけ先がない。
 ――これが自分だったら絶対ににぶつぶつ文句を言うくせに、人に頼むときだけは調子がいいんだから。……ずるいよ。
 そのことを思い出し、わたしは少しだけ口を尖らせたんだけど、佐伯くんは謝るどころか、そうそう、効果絶大だった! と大喜びで言葉を紡いでいく。
「やっぱ水着っていうのは違うんだろうな。例年より二割増しっていうところだったぞ。よくやった、よくやった! 今週も、来週も、そのまた来週もその調子で頼むな!」
「こ、今週も、来週も……って!? ええっ、夏は水着で接客するの? ウソだよね?」
 驚いて佐伯くんの横顔を見つめると、わたしにはめったに見せない爽やかな笑顔を向けて頷く。
「アハハッ、頼んだぞー、夏川。なになに、恥ずかしがることないぞー。水着なら俺も一緒だからなー」
 その妙なアクセントの物言いに、わたしは手を伸ばして佐伯くんの腕をビシッと叩く。
「痛っ」
「痛く叩いたんだから、痛いに決まってるよ! あ〜あ、今年の私の夏は、アルバイトで消えていくんだね」
 確かに何の予定も決まっていない。
 誰かとどこかに行くという約束も交わしていないし、珍しく今年は家族からも旅行に行こうと誘われていない。
 要するに、ひとりぼっちの気ままな夏休みっていうところ。
 だから、別にアルバイトで夏が終わったとしても、ぼうっとして過ごすことなく夏が終わるのだから、それはそれでいいのかもしれないけど、それはそれで、なんだか少し味気ない。
「高校二年生の夏なのに、こんなのでいいのかなあ」
 大げさにため息を吐くと、佐伯くんはたいしたことなさそうにケロッと言う。
「なんだよ、いいじゃん」
「よくないよ」
 むすっとしたまま再びストローへと唇をよせ、喉を潤していく。
 すっきりとした後味と、ふんわりと広がるオレンジの香りと甘さ。そして、少しの酸味が妙にクセになる。
 我ながら単純だけど、アイスティーがとても美味しくて、「こんなんでいいのかな、わたしの夏」という疑問も不満もさっと薄らいでいく。
 ――これって佐伯くんが作ったんだよね。美味しい!家でも飲みたいから、あとで作り方教わろうっと。
 わたしはそんなことを思っていたんだけど、不意に耳元で「夏川!」と大きく名前を呼ばれ、手にあるグラスを落としそうになる。
「わっ、な、なに?」
 ただでさえ汗をかいて滑りやすくなっているグラスなのに、不意に大きく名前なんて呼ばれるとびっくりして指先が滑るよ。おまけに、佐伯くんまた怒ってる。
「おまえ、人の話聞いてるのかよ」
「き、聞いてるよ。……で、なんて言ったの?」
「……これだ」
 眉間に皺を寄せて佐伯くんは嫌そうに呟く。
「え、なに?」
「ハア……。この夏、何か予定でもあったのか、って聞いたんだ」
 聞いたんだ、というところを一文字ずつ強調して発音する。
 ――そんな風に言わなくても、聞こえてるよ、もうっ。
「う、ううん、ないよ。だから、どうしようかなと思ってたんだ」
 不機嫌な佐伯くんの顔に多少怯みつつそう答えると、ふうん、とそっけない言葉が返ってくる。
「その……い、一緒に出かけるヤツとか、いないのか?」
「いないよ。はるひちゃんは大阪の友達のところに行くって言ってたし、千代美ちゃんも予備校に通い詰めですっ! ってなぜか嬉しそうに言ってたし、みんな忙しそう」
 本当のことをそう素直に答えただけなのに、何故かチョップが降って来た。
「うー……、なんでチョップ〜……」
 不意打ちはけっこう痛い。非難の目を向けると、顎を上げ、わたしを見下ろす威嚇の目と視線が合う。
 ――こ、怖いですって、その顔。
 学校の皆に見せてあげたいくらいだよ、ほんとに。
「俺が言ってるのはそうじゃないって、アホ」
「じゃあなに?」
「……男とか、っていう話だって」
「男?」
「だから! そっ、そういう付き合いのやつ、いないのかよ」
 頭にあったバンダナを面倒くさそうに取り、なぜか妙に早口で言ってのけ、佐伯くんは横を向いてしまう。
 ――男って、ひょっとしなくても、彼氏とかっていう意味、なのかな……。
「あ、ええと……」
 言葉の意味は判れど、即答するのをなぜか躊躇ってしまう。そういう付き合いの人はいないけれど、だからといって即答で「いない」というのもなんとなく複雑だ。
「……いるのかよ」
 まだそっぽを向いたままでぶっきらぼうに尋ねられる。
「う、ううん、……い、ない……です」
「……ふぅん」
「だ、だから、今年の夏は、バイトをして日に焼けて過ごしますってば」
 そう続けたんだけど、なぜか佐伯くんは何も言わなかった。まだ顔を向けたままで、ちっともこっちを見てくれない。聞くだけきいて、この反応はなんだろう。
 ――気になるよ、なんか。そういう佐伯くんはどうなの。
 そうとは聞けず、でも黙っているのが落ち着かなくて、わたしはさらに話を進める。
「あーあ、なんか悔しいなあ。みんなどこかに遊びに行くんだろうなあ。わたしはヒマをもてあましながらも炎天下、バイトに勤しむ悲しい勤労学生。こんがり肌を焼いていくんだ……。毎回バイトのたびに『日焼け記念写真』を撮ろうかな。多分、一枚ごとに佐伯くんと二人でどんどん黒くなっていくんだろうね」
 言いながら、日に焼けて少し赤くなっている腕をしげしげと見つめていると、不意に佐伯くんが視線だけちら、と流す。
「……それでも、いいだろ。別に」
「え……。あ、う、うん……。あっ、なら、毎回本当に一緒に写真を撮ろうか?」
 わたしは半分冗談のつもりで言ったんだけど、返ってくるのは、思いもしない言葉だった。
「俺は構わないけど。写真ぐらい、別に」
「一緒に撮るんだよ?」
「別に」
 そう呟く横顔が、なんとなく照れているように見えるのは、わたしの気のせいなのかな。夕日の色が強く、あたりが鮮やかなオレンジ色だから、細かな表情までよくわからない。
「じゃあ、二学期になったら、撮った写真を佐伯くんファンの子にでも売ってがっぽり大儲けの商売をしよう!」
 ふざけてそう言うと、それはだめ、と怒った顔で即答される。
「儲かるよ?」
「バカ。んなもんで儲けるな。それに、おまえとのツーショットの写真なんて、絶対に売れるわけない」
「あっ、ひどい」
「ひどくない。本当の話。ほんとおまえ鈍い。ボケボケ。……わかれよ少しぐらい」
 その言葉とともにまたチョップをもらったんだけど、佐伯くんがとても楽しそうに笑っているから、なんだか怒る気持ちなんてちっとも沸かなくて、むしろ、楽しいくらい。不思議だよね。
「ボケボケじゃないもん」
「そういうところがボケボケなんだ。まったく、おかしなヤツ」
 佐伯くん、本当に楽しそうに笑っているんだ。なにがそんなに楽しいのかわからないけれど、でも……学校での、かっこつけてる笑顔じゃなくて、本当に楽しそうな笑顔。それが、なんだかとても嬉しかった。
 嬉しくて、楽しくて――オレンジ色の笑顔が、なんだかとても眩しくて、わたしは目を細めて笑った。


 そんなこんなで、バイトばかりで何の予定もないはずの今年の夏――だったはずなんだけど、不思議なことにさみしさなんてこれっぽっちも感じることなく、あっという間に夏休みが終わってしまった。
 「一人で寂しがってるのを見るのも心苦しいから、付き合ってやる」
 そう言って佐伯くんはわたしをあちこち誘ってくれたんだ。佐伯くんだって、本当はお店の手伝いが忙しいのに、それでもわたしに付き合ってくれた。
 花火大会も。遊園地のナイトパレードも。フリーマーケットでお互いに掘り出し物を見つけたときも。いつも一緒にいてくれたよね。
 バイトを重ねるごとに日に焼けていく二人が、約束の写真となって残っている。
 エプロンをつけて、並んで楽しそうに笑っている二人が、そこにいる。夏の記憶が、手元にこんなにたくさんあるよ。
 いつかこれを懐かしく見るときが、きっと来るんだろうな。
 目を細めて笑いながら、あの時はこうだった、この時はこうだった――って。
 時が経って、一緒に思い出を懐かしんでくれる人。
 それが、佐伯くんならいいな――そう思うようになったのは、夏休みが終わる、少し前のこと。
 彼に恋をしていることに気がついたのは、たくさん笑った夏休みが終わる間際のこと。
 アルバムを整理するわたしの机の上には、汗をかいたアイスティーがひとつ。そのグラスの端には、カットしたオレンジがちょこん、と添えてある。
 このおいしいアイスティーの作り方を教えてくれたのは、もちろん佐伯くんだった。



End.
初出:2006.0829『Blogにて』(2007.05.20改)
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