人恋旅 ―役小角(えんのおづぬ)―
その14 一言主神と雄略天皇
土佐に興味をひかれ、数年前、四万十川の中村市から高知市、そして紙すきのいの町を訪れた。なつかしさが胸をうつ。旅の先々でいろいろな方とおもいもかけない交流ができたが、なかでも当時小学一年生の中田亮くんとは年齢をこえた恋人同士のように楽しい時をすごすことになった。 紙の博物館でのことである。受付から中にはいったら、目の前に亮くんがたっていた。まるで私をまっていてくれたように……。にこっとわらうと、彼もわらった。小学生だということで、「今日はお休み?」というようなことを言ったように思う。入館者はまばらだ。その子が「おばさん、どこから?」「神戸から」「ぼく、いろいろ知ってるよ」というわけで案内してくれることになった。最後にわかったのだが、ちょうどこの館で展示会をされていた墨絵画家、中田耕一氏の息子さんだった。はじめからおわりまで、トイレにいたるまで、まるで騎士のように礼儀正しくエスコートしてくれた亮君! 今はいい青年になっている。 高知県出身の友人が多いとはいえ、どうしてこんなに土佐というひびきに、高知という県に郷愁を感じるのだろうと不思議でならなかった。だが高知と奈良と、高知と神戸と私との接点は、どこにもない。 役行者のことを調べはじめて、ある仰天する事実を知った。「じぶんよがり」な発想とおしかりを覚悟で話したい。今、はやりのDNAである。もしかしたら私の中に土佐人のDNAがはいっているのかもしれない。

それでは一言主神と雄略天皇の話をしてみよう。このふたりの出会いは「古事記」と「日本書紀」に記されている。まずは「古事記」から。と、いうのも同じ内容ではないからだ。微妙にちがって、いや私には相当にちがっていると思える。
・・・あるとき、雄略天皇が葛城山に登った。おつきの百官の人々はすべて美しい青摺りの着物を着、あでやかな紅い紐をつけていた。と、むこうから天皇の行列とまったく同じいでたちで来る者たちがいる。 天皇は、 「この日本の国で、自分以外に君主はいないはずだ。いったい何者がこのような姿で行くのか」 と思い、家来にたずねさせた。 ところが、相手の答えもまた天皇と同じ言い方である。天皇はすっかり不快になり、弓に矢をつがえ百官たちも同じように矢をかまえる。すると、向こうの者たちも同じように矢をつがえた。天皇が、 「何者だ。名をなのれ」 「私は一言主(ひとことぬし)。悪いことも一言、善いことも一言で言い分ける、葛城の一言主の大神ぞ」 それをきいた天皇は、ひれぬし、 「おそれおおいことです。わが大神よ。現実のお姿をお持ちであるとは思いませんでした」 天皇は持っていた太刀・弓矢をはじめとして、共の者たちの着ている衣も脱がせ与え、拝み奉った。・・・
当然想像できるように、この一言主神は当時、葛城地方を制圧していた大豪族であっただろう。志村有弘氏は「代々、葛城の鴨一族(かもいちぞく)の長が一言主の名を名乗っていたのではないか、と推定したい」(『鬼人役行者小角』より)といっている。 「一言主」神、つまり葛城豪族の力は絶大で、いっときは雄略天皇も屈服したと思われる。が、このようなよい時期は長くはつづかなかった。
次回、土佐との接点を明らかにしたい。
つづく
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