第十話
           おにしずく
 
                                    畑 中 弘 子

        ー作者のつぶやきー
        
鬼の本質はいったい何? なかなか答えがみつかりません。  

 鬼の鬼蔵(おにぞう)は山奥の洞窟に住んでいた。
 洞窟をでると、目の前はごろごろとした岩ばかり。平地はどこにもない。
 鬼蔵は岩の上をとぶように走る。速さは鹿や猪や熊や狐や兎など、どんな獣にも負けなかった。
 だが岩の上をとぶように走ることが出来るというのに、鬼蔵は平らなところは苦手だ。鬼蔵だけではない。村の鬼たちは岩場を駆けるのに長けているが平らなところが苦手だった。いつもごつごつとした岩地や木々におおわれたところになれていたから、何の障害もない平らな地では走るどころか歩くのにもおぼつかない。ついつい右足を高く上げすぎたり、左足をさらに高く上げたり、ちょっと膝をおってみたりと不規則な動きになってしまう。鬼の動きはがたがたな地形だと威勢良く、平らな地になると動きがちぐはぐになって鈍くなる。もっとも鬼たちはそんな平地を走ることはない。まわりにはただただ岩と洞窟と谷と森がつづき、平地はどこにもなかった。 普段の鬼のくらしはきらくなものだ。日がのぼると同時におきだして、朝げをとり、気がむくと山へはいって獣たちをおっかけたり、木の実やきのこをとってくる。谷におりていって岩下の水間の魚をとったり、森中の大池で泳いだり、木の上で昼寝をしたりして一日をすごす。お腹がすくと夕げをとるが、とらないでそのまま寝てしまうこともある。鬼蔵はぐんぐん大きくなる年頃で、夕げをとらないということはなかった。
 そんな鬼蔵に大きな悩みがあった。物心がついたころから、頭の上に小岩をのせたようにずっと重くのしかかっている。嫌でたまらない平地を走ることがいつも頭にあった。それも誰よりも速く走らないといけないという思いと一緒に。

 鬼蔵の村の鬼たちは年に一回、「平地(ひらち)走り」大会をする。
 鬼の住む洞窟は森の中の岩場にあった。少しはなれた森の中に大池がある。ぐるりは木々でおおわれ、満々と水をたたえている。鬼の子達はよく泳ぎに行くところだ。この池が夏の頃の数日間、突然水がなくなり、底に平らな地が現れる。近隣の村の鬼たちがあつまり、平地での走り競争をするのだ。「平地走り」大会とよばれている。主に男鬼が参加し、女鬼は応援にまわる。たまに女鬼が走る時があったが今までに優勝したものはいない。いつごろから始まったのか、どうしてそのような大会がはじまるようになったかはわからない。
 鬼蔵も五歳から「平地走り」には参加している。どんどん岩地では速く走ることができるようになっても、平地ではいつも後ろから数えた方が早い。
 大池はそんなにひろくはなく、五十鬼ばかりが手をつなぐと、はしからはしに届いてしまう。 鬼蔵の村には出場できる七歳以上の鬼は二十九鬼。他の村からも参加する鬼がいる。だから、やってきた鬼全員が平地にはおりるわけにはいかない。その者たちは大池をかこんで応援をする。池のまわりの木々や岩の上に着飾った鬼たちがすずなりになる。競技がはじまると、応援もすさましい。山をとどろかすような大きな声をだした。
 大声援を受けた鬼たちの心が弾む。磨いてきた角を天にむけ、肩をいからせ、筋肉のもりあがった胸をたたき、しこをふんでは自分の力をしらせようとした。
 そんな中で鬼蔵はできれば応援のほうにまわりたかった。鬼蔵は岩場を走るのは同じ歳の者のなかでは一番速い。ところが平地では真逆なのだ。やっかいなことに鬼蔵は村の中で最も速く走るとされる家柄の子にうまれた。祖父も父も兄も村一番の平地走者だ。何時の時も大会に優勝する。優勝するのが当たり前の家系だ。
 だが鬼蔵は平地を走ることを考えただけでも身体がむずがゆくなった。平地にひろがっている土の感触がたまらなく嫌いだ。土のねばっとした湿気が足裏にこびりつくと身震いをする。
 はじめて競争に参加して一番最後をもたもたと走る鬼蔵をみて、村鬼たちから「岩を駆けるのは一番なのにどうして?」と不思議に思われ、次の年には「きっと身体の調子が悪いんだろう」と同情され、三年目の去年、九歳の時のへっぴり腰の走りには「またかあ」との声があがった。

 山桜の季節が過ぎ、あちこちにつつじが咲き始め、笹百合が岩のすき間に顔を出す頃、いよいよ「平地走り」大会の日が近い。
 村の若い鬼が村長からの伝言をつたえてまわる。
「大池の水がひきだした。あさってに大会をはじめる」
 鬼たちは角や牙を磨き、身体を大木にぶつけ、岩の上を跳ぶように駆けてまわった。自分の力をみせつける時がきたのだ。
 鬼蔵の心は晴れなかった。
 「平地走り」大会前日、鬼蔵の一家はいつもはばらばらだった夕げを一緒にとる。
 一番上の兄がするどい牙で赤い獣肉をさいておいしそうに食べていた。「大鬼」の部で毎年優勝をしている。鬼蔵は、

「どうして兄さはそんなに走れるの? ぬべぬべって、足の裏にひっつく感じ、いやじゃないの」
 すました顔で兄は言う。
「おれだって好きじゃないよ。だけどおれはこの家の大鬼だからさ」
 父鬼は太くて大木の幹のような首をゆっくり左右にふる。
「ああ、まだまだだな。鬼蔵は」
と言った。
 祖父鬼は落ち込んだ丸い目を見開いて、鬼蔵をじっとみつめる。鬼蔵の胸はちくちく痛んだ。祖父鬼は、
「おまえの岩の走りはたいしたものじゃ。それはのう、平地走りも出来るということなのだ。元気をだせ。明日が本番だからな」
 祖母鬼も母鬼も姉鬼も口々に言う。
「おまえは気持ちさえ鬼になったら、たいした走り手になるのだから」
 最後に何度もきいている、五年前になくなったひいおじいさんの話になった。鬼蔵もぼんやりとおぼえていた。
 祖父が口をひらく。
「いいか。おまえのひいじいさんはすごかった! 『なんだ、なんだ、誰か走ったか?』と言われるほどの速い走りだ。鬼蔵よ、おまえの身体つきはひいじいさんとよくにておる! 早くりっぱな走者になれ」
 まるで風のように走った曽祖父。三日後には命がなくなるというのに、あの速さは信じがたかった。ずっとずっと目の前からはなれなかった。
 たらふく夕げの食事を食べてから、出場する男鬼五鬼、祖父と父と三鬼の兄弟は洞窟の外に出た。手を広げれば岩にとどくほどの平地がある。鬼蔵だけが平地にたち、他の者は岩の上に腰をかけた。それぞれが鬼蔵に言葉をかける。
「岩の上をはしる格好でたて」
「おまえは足の使い方がきれいだ。ひざをまっすぐ前に出してそのまま走る」
「ひじを後ろへ降り続けるんだ」 
「おまえはすぐあきらめる。最後まで力をぬかずに走り抜け」
「その格好でよい! できるじゃないか! 鬼蔵。明日はがんばれ」
 男たちは明日にそなえて、早々に洞窟にもどっていった。
 最後を歩く鬼蔵の前を三つ年上の兄が歩く。この兄は今年から「中鬼」の組で走る。きっと優勝するだろう。鬼蔵は、
「兄さ、おれ、わからないんだ。どうして、平地でなんか走らないといけないんだ?」
 もしゃもしゃのつるのような髪をかきわけながら、聞いた。兄がふりかえってぶっきらぼうに言う。
「どうしてって、当たり前のことをきくんじゃない。鬼だからさ」
 次の日、水のない大池の底に、走る鬼たちが続々と集まってきた。東の端にひとかたまりになる。西の端にむかってまっすぐに走りぬける。まんなかの柔らかい泥地をとおらないといけない。それは鬼にとっては勇気のいることだった。
 いよいよ各組にわかれて競争がはじまった。
 夏のはじめの太陽をうけて、大池は黒々とひかり、そのなかを褐色にひやけした鬼たちがいっしょうけんめい走る。歓声が天にもとどくほどだ。
 「大鬼」「中鬼」の各部は、鬼蔵の兄ふたりが優勝した。「大鬼」の部で走った父鬼も三位に、祖父鬼は十三位だった。あちこちの村からあつまった九十鬼の中からだから、村鬼たちも「さすが家柄だ」と賞賛した。だが今年も「小鬼」の部は他の村の鬼が優勝した。
 予想通りの結果とはいえ、村の鬼たちは残念に思い、鬼蔵の家族は落胆し、鬼蔵は村から消えてしまいたいとさえ思った。

 笹百合の季節がすぎると、雨の季節を迎え、大池に水があふれた。真夏のひと時を洞窟ですごすと、鬼たちの大好きな季節だ。川に魚、森に木の実やきのこがあふれ、狒々(ひひ)がのこのこ現れるのもこの頃なのだ。
 そんなある日、鬼蔵はほんのちょっとの好奇心から今まで行ったことのない森に入った。入ったとたんにいいようのない美味しそうな匂いがしたのだ。美味しいと言えば、鬼にとっての好物はヒヒ肉である。だがそのにおいとはちがうもっと甘酸っぱい匂いだ。
「なんだ?」
 鬼蔵の足は匂いに向かって勢いよく走る。シザや笹が腰まで生えた崖をすっ飛ぶ。
 うっそうと茂っていた木々の間隔がひろがってきた。同時に、木の太さも枝ぶりも小ぶりになって、日の光が地面にしっかりと届きだした。岩場のような乾いた地が現れた。
「もう、引き返した方がいいかなあ……」
 口から洩れた言葉に相づちをうって、こくりとうなずく。立ち止まり、あたりをみわたした。ところどころに朽ちた木が横たわっている。鬼蔵は枯れた太い幹に近づいた。
と、その時だ。
「う?」
 ねべっとした何かが足裏にこびりつく。
「平地の土?」
 最もいやな感覚だ。ぎょっとして足元を見ると、
「わおお」
 おもわず鬼蔵は声をあげていた。
 キノコの群生だった。日の光をうけ、茶や緑やこげ茶や橙や、みごとなキノコたちが輝いていた。きのことりの名人と自称している祖母鬼だって、きっとみたことがないだろう。もしみつけていたら、黙っているはずがない。
鬼蔵は腰あたりをぽんぽんとたたく。
「あった!」
 いつもぶら下げている網袋だ。
 ひろげると、さっそくキノコをとって入れていく。とっては袋にいれ、またキノコをさがす。ふつうは木の根をうろうろして、一個、二個とさがす。だが、今探すのは、たくさんのキノコからどのキノコがおいしそうでりっぱかをみきわめて、探すのである。自然に顔がにやけてきた。 その日、鬼蔵はきのこ採りに夢中になって、どんどん山を下りていった。
 カッ!
 カッ!
 規則正しい音がする。
 カッ!
 カッ!
 顔をあげた。網袋には見事なキノコがいっぱいだ。背中にくくりつける。それから音のするように足をむけた。足裏の気味悪さも気にならない。
 カッツ!
 カッツ!

カッツ!
 カッツ!
 木を切る音だ。
 若い男が木をきっている。

 カッツ!
 カッツ!
 自分と同じ年頃だ。斧を振り上げた時、しっかりと顔がみえた。
 ひげをはやしている。ぎろりとした目と太い眉毛。顔じゅうが水浴びをしたように、水滴でぎらぎらとしていた。がっしりとした両腕がよろよれの上衣の袖からはみだし、斧を持ち上げている。
 男は何かの気配を感じたのか、突然斧を地面に置いた。こちらを目をほそめてうかがっている。
「どこのものだ?」
 かん高い声だ。
 鬼蔵も、
「どこからきた?」
と低い声をだす。
 それから二人は黙ってにらみあった。鬼蔵が男を観察するように、男も鬼蔵を観察していた。突然男が目を大きく見開いて、
「おまえは、鬼!」
と言った。彼がそう言ったと同時に、鬼蔵も、
「おまえは人間か!」
 角と牙のない鬼によくにた生きものがいることを、鬼蔵は長老や祖父母、父母からきいていた。それは人間だから、決してちかよってはならないと言われた。鬼蔵は身体を後ろにずらす。人間のほうも後ろにさがり、さっと鬼蔵に背をむけ、木々の間を駆けだした。しっかりと斧を背中に背負っている。あたりにいい匂いがわっとあふれた。
「ああ、人間だ、人間だ」
 ずっと気になっていた匂いはこの匂いだったのだ。甘酢っぽく、なつかしく、どきどきとして、いつまでも嗅いでいたい匂い。
 鬼蔵の胸が高鳴った。異様に身体があつい。わなわなと身体中がふるえ、自分でも自分をおさえられない感情がわっとあふれる。曽祖父からも祖父からも父からもきいていない感情だった。「ああ、おれはあいつともっと話したかったのに」
 いや、そうではない。
「あいつのことを知りたかったのに」
 いや、
「あいつと友達になりたかった」
 そうではない。そうではなくて、
「あいつを食いたい! どうしてだ?」
 こぶしをにぎって、頭をポンポンたたく。
「馬鹿な! おれは今腹がへってるわけではない。朝げをたらふくたべてきた」
 鬼蔵は遠のいていく後ろ姿をじっとみつめる。なつかしさに胸が張り裂けそうだ。どこかでこいつを見た気がする。いつだったのだ?祖先の鬼がみただけか? 友達になりたい。いや、喰いたい。
 鬼蔵は自分の思いをどうしたらいいかわからない。わけもなく叫びたくなった。
「うおおー」
 人間の遠のく足は速かった。
「うおおー、おれは、あいつを食いたい。いやあいつの首にくらいつきたい」
 鬼蔵の足は人間をおいかけて、山の下へ下へとおりていった。
 汗が額から滴り落ちる。鬼が汗を出すことはめったにない。だが地面におちるほどに汗がでる。汗を両手でふいて、歩が遅くなったとき、おかしなものをみつけた。
 鬼蔵ははたとたちどまる。
「何なんだ? これは?」
 木々の間をぬって、熊皮をつないだようにずっと続いている地面。
「なんと……平地がこんなに……」
 平らな地が細く長くくねくねとつづいて、山をくだっている。あの若者がその地を跳ぶように走っているのだ。
「すごい走りだ!」
 岩の上を駆ける最速の大鬼のようである。
「ああ、どんなにしてもあの速さにはおいつけない……」
 首からしたたりおちる汗のしずくは褐色になっていく。鬼蔵の身体があつく、身体から血がとびでていくようだ。
「あいつを喰いたい」
 同時に、たまらなく、
「あいつと一緒に走りたい」
と思う。一歩も先へ進めないでたちつくす。
 やがて人間の影は見えなくなった。

 次の年の「平地走り」大会で、鬼蔵は懸命に走った。この平地でしっかり走ることができたら、きっとあの細くて長い遠い平地を走り抜けることができるかもしれない。そしてもう一度人間に会うことができるかもしれないと思った。そんな思いが鬼蔵をかりたて、後押しをする。
 つぎつぎとおいこしていく鬼蔵にまわりから大きな歓声があがった。
「すごいぞ、鬼蔵」
「それでこそ、駿足の家柄」
 とうとう、曽祖父鬼の時のように驚きの声があがる。
「なんだ、なんだ? あの鬼は! すごい走りをするじゃないか」
 鬼蔵の額から汗があふれる。いや、汗を知らない鬼たちは、黒い土のうえに落ちていった水滴を、「おにしずく」と言って驚嘆した。
 鬼蔵は、伝説に残る速さで優勝した。