第二話
 谷渡り
                     畑中弘子

       ー作者のつぶやきー
     自らの心を動かすことが前進の要だと思う
。 

       
  
 直蔵(なおぞう)は鬼の村の長、鬼頭の末っ子にうまれた。広くて深い洞窟に住んでいる。人間世界と同じように団らんする居間も台所もトイレも遊ぶ部屋もある。洞窟の奥には清水が流れる川も岩のすき間からさす太陽を受けてそだった草原さえもあった。夏は涼しく、冬は暖かかった。
 山奥の鬼の村の者は洞窟を住まいとしていたが、外で動きまわるのが好きだ。まして子鬼は日がのぼると同時に外にとびだしていく。
 直蔵も外遊びの好きな子鬼だった。が両親ともに年老いて生まれた末っ子鬼。甘やかされて大きくなっていった。
 直蔵が目をさますと、乳母鬼のキヨがやってきて一番に「おはようございます。さ、角をおだしください」という。角をきちんとみがくと、つづいて「牙をだしてください」と言う。牙は自分でみがかないといけないので、直蔵は渡された草でこしこしとする。
 となりの部屋からいいにおいがしている。母鬼の「直蔵、おきましたか」とやさしい声がする。
 のそっと顔をだすと、父鬼がこちらを向いてすわっていた。片膝をたて、右手にうちわをもって顔を仰ぎ、あいている左手をあげると、
「直蔵、ここへこい」
 直蔵はとととと父鬼のところへ歩み寄り、膝の上にちょこっとのった。目を上にあげると、牙がいぶし銀のようにひかっているのがみえる。
「とうさ! 今日は一緒に遊べる?」
「うーん、悪い悪い! 今日も忙しいから、下鬼たちに遊んでもらってくれ」
 洞窟といってもこの部屋は明るい。四方から太陽の光がとりこむようになっている。唯一、鬼頭が家族と団らんをするところだった。
 真ん中にきのこ型の岩があり、そのまわりをかこむように敷物がしかれている。まるで虹が幾重にも重なっているような鮮やかな色をしている。鬼の女たちは糸を紡ぐのもの織るのも上手だ。直蔵は生まれた時から美しい織物にかこまれていたから、不思議に思うことも無い。洞窟の外が凍り付いている真冬も激しく太陽の照りつける真夏も、洞窟の中にもどってくると寒くもなく暑くもない。
 四方からはいる光をうけて一段とうつくしい敷物になっていた。
 父が鬼頭ということは、洞窟も直蔵がまだみない場所がいくつもある大きなものだ。
 下鬼にかしづかれて、朝飯を食べると、直蔵は外にでる。外にでるともう同じ年頃の男鬼たちが走り回ったり、とっくみあいをしたり、相撲をとったりしていた。自分の力をみせたくてしかたがないのだ。
 春になって、森の熊たちが現れ始めると、若い男鬼たちはますます威勢良くなる。
 熊と相撲大会をするのだ。毎日毎日、若熊と若鬼との相撲がおこなわれ、山奥はにぎやかな歓声につつまれる。
 直蔵は美しい身体、丈夫な身体に恵まれている。角と牙と胸の張りがちがう。きっちりとうけついでいた。
「さすが鬼頭の息子だ」と言われ、自分もそうだと思っている。
 熊と相撲をとってもめったに負けなかった。鬼頭に一番かわいがられている末っ子だ。だれもが直蔵には気をつかっているのがよくわかる。だがそのようなことなど、幼い直蔵には全く気がつかなかった。
 村の鬼長、鬼頭の父鬼は村の仕事でいそがしかったが、その分、母鬼はいつも一緒だったし、年の離れた兄鬼たちは、かわいい直蔵の言うことは何でも聞き、ほしいものは何でも与えた。

 幼かった直蔵も鬼の年で十才の春をむかえた。
 ある日の夕げ時、直ぐ上の兄が酒の勢いで、直蔵に言った。
 父鬼も兄鬼たちも姉鬼たちももうすっかりよっぱらってところかまわず、寝そべっている。
「おまえも十才になった。おれらといっしょに谷をわたってみるか!」
 そばできいていた母鬼が両手を打った。
「そうだよ。よくいってくれた! 直蔵を谷渡り尾根までつれていっておくれ」
「ああ! まかしとけ」
 兄鬼がいとも簡単に返事をした。母鬼は牙をむきだし、
「直蔵はしっかりした身体をしている。勇鬼とよくにているからの。きっとすぐに谷渡りができると思うぞ」
 勇鬼というのは母の弟、直蔵の叔父のことである。旅に出て久しい。
 谷渡りというのは、尾根の突き出た岩からはるかに遠くにある山の尾根の岩にむかってとんでいくことだ。山から山へ駆けて行くにはどうしても谷渡りをしないといけなかったからだ。
 直蔵は、鬼というものは大人になると谷渡りが出来るようになるものだと思っていた。まして男ならば誰もがすぐに谷をわたって遠くの尾根や谷や森へ遊びにいけると思っていた。
 直蔵は谷渡りをまじかでみたことがない。遠くて鬼の雄叫びをきき、みあげると、谷を鳥のようにとんでいる小さな鬼の姿をみたことがあった。だがその時はまだやっと広場をかけまわることが精一杯の年。その一回だけだ。誰も谷渡りをする尾根にまでつれてはいかない。何の訓練も鍛錬もなく、岩からとびおりると確実に谷に落ちて命を落とす。鬼といえども相当の訓練と共に覚悟が必要だった。鬼頭の大事なかわいい末っ子を危険なところへつれていくことがなかった。
 外遊びのなかでどんどんたくましくなっていく直蔵に、一番年齢のちかい兄鬼が「尾根」にいくことをさそったのだ。
 他の兄たちは首をかしげたり、牙をむいたり、ぎょろ目を動かしたりしている。まだ早いのではないかと思っているからだった。
 だが母鬼はうれしくてたまらない。
「直蔵もきっと勇鬼といっしょだ。すぐに谷渡りをするからな」
 直蔵のほうに顔をむけると、
「勇鬼はすごいんだからな。みんなの跳ぶちっぽけな谷じゃないぞ。この先の大谷をこえてむこうの岩にとぶことができたんだ。おまえは勇鬼にそっくりなんだ」
 兄鬼がちょっと困ったような顔をして、
「母さ。そう、あおるでない! まだ直蔵は十になったばかりじゃ。とにかく明日にでも谷渡りの尾根までつれていくことにする。尾根にはいっぱい若鬼が集まっているから、こいつが跳べるかどうかはわからんがな」
 母鬼はまえかけの裾をひきあげ、目頭をふく。
「とうとう、直蔵も一人前になってくれるのか」
というと、直蔵の一本角をつんとつつくと、
「明日のためには早く寝ろ」
と言った。夕げの後に、酒の酔いのさめた兄鬼や姉鬼たちのおもしろい話をきくこともなく、すぐに奥の寝間におしやられた。
 直蔵は頭の中でまだ整理がつかない。谷渡りとはどんなことをするのか? 母鬼が大喜びをするほどにたいそうなことなのか?
 結局は兄について行けば良いことだと思い、眠りについた。

 朝、朝げのいいにおいで目をさました。直蔵は大きな鼻の穴をさらに大きくする。
「おお、今日は猪肉だな」
 直蔵は急いで朝げの部屋にかけこむ。
 もう昨日の兄が腰に赤いたすきをつけてすぐにでもでかけられる格好で椀を手にしていた。
 母鬼が直蔵をみると、
「はやくお食べ。おまえをおこしにいこうとしてたところさ」
 下鬼が直蔵のために黄色いたつきをもってきた。手づかみで肉をたべる直蔵をくるくるまわらせて、あっというまに腰にまきつける。そして、
「これでいい! ああ、直蔵坊もいよいよ谷渡りですか」
 日にやけて茶褐色になった顔をくしゃくしゃにして笑う。
 兄鬼の声が洞窟内にひびく。
「いくぞ。みんな早いからな。遠いからおれにしっかりついてこい」
 見送りをするのは母鬼だけだ。もう他のものたちは洞窟からでて、山を駆け、鳥を追い、相撲をとったりと、好きな遊びに夢中のはずだ。
 太陽はもう真上近くになっていた。
 いつも遊ぶ広場を越え、林や森をぬけ、山道を登る。今まで歩いたことのない道だった。あたりはうっそうと茂る木々に日の光りも届かない。直蔵は口数がすくなくなった。必死で兄を追っていかないと、こんなところで迷子にでもなったら戻ることすらできなくなる。
 先がほっと明るく、洞の入り口のような錯覚に陥った。それににぎやかな鬼の声がかすかにきこえる。家からとびだして、先に遊び仲間が待っているような雰囲気だ。
 先を行く兄がたちどまり、後ろをふりむくとにっと牙をだす。
「着いたぞ! 谷渡りの尾根だ。大勢いるからな。まっさきに尾根の先に行って、谷に向って跳ぶんだぞ」
 勢いよく明かりの中にとびこんだ。とたんに、あたりは真っ昼間の明るさ。目がくらむ。明るいだけでは無く、その先の広さに直蔵は声もでない。見渡す限り空だ。
「わおー」
 風が下から吹いてきて、直蔵の身体をふきとばしそうだ。ぐっと足をふんばってあたりをみまわした。
 直蔵は大きな岩の上にたっていた。平らなところが洞窟の部屋の二倍もあるおおきさだ。そのさきに熊が寝そべっているような石がある。若い鬼たちがその石に飛び乗っていく。兄のいっていた尾根である。そこから谷に飛び降りるのだ。
 まわりに仲間たちがいた。
「やあ、直蔵がきたぞ」
「直蔵に先をゆずるわけにはいかんぞ」
「谷渡りはおれが先だ」
「がんばるぞー」
「いい風がきたぞー。おれが跳ぶー」
 一番先にとびだしたのは赤顔の若い鬼だ。岩の上にはいあがる。そのまま空をバックに立つ。褐色のつやつやとした背中がみえる。黒と赤の縞模様のパンツが空の青に映えて美しい。
「なんだ? どうなってるんだ?」
 と思うまもなく、空のなかにすいこまれていった。
「わああ、跳んだあ」
 ざわめきがおこる。すこしして、空のむこうから大きな声がこだました。
「谷を越えたぞ−。おれは跳んだ−。もう何処へでも跳んでいけるぞー」
 声が谷に響き渡る。
 いつも一緒に遊んでいた仲間だちが身体をゆらす。準備運動だといって背伸びをしたり、身体をまるめたり、地面にひっくりかえって腹筋までする。中から「うおおー」と雄叫びを上げてひとりが岩から空にむかって跳んだ。一瞬あたりの音が消えたように静まる。誰の心にも「もしかしたら、谷に落ちたかも……」と思う。 次の瞬間、
「谷を渡ったぞ―」
 またひとり岩にあがる。
 その日は十二鬼が谷渡りをした。はじめて谷渡りをしたのは一鬼だけである。直蔵の知らない遠くの村の鬼だ。
 直蔵は尾根岩に近づくことさえもできない。
 兄はいつのまにかいなくなった。尾根岩にのぼり、先に谷渡りをしてしまったのだ。そのまま村に帰っていったはずだ。
 尾根に赤々と夕日がさしはじめた。もうすぐ夕闇がせまる。
「帰らないとな……」
「暗くなる」
「腹がへったな」
「そうだな。帰ろう」
 渡ることのできなかった直蔵たちはもと来た道を重い足どりでもどる。
 母鬼が洞窟の前で待っていた。
 あたりはすっかり暗くなっている。お腹もすいて目がまわりそうだ。兄がでてきて、
「おそかったな」
と言い、母鬼が、
「渡れなかったのかい」
とひくい声でいう。
 ぷっと口をとがらし、牙を奥にひっこめた直蔵はぐっとつばを飲み込んで言った。
「兄さはずるいよ。先にあの岩にのぼってしまうんだから」
 直蔵はぶつぶつ繰り返し同じことを言った。
「おれが跳ぼうとすると、先に跳ぶものがいるからな」
「あんなに太陽が近いと、目がちかちかしてだめなんだ」
「下からゴーッと音がするから、びっくりするんだ」
「いい風がこないからな」
「あーあ。おれはついてない!」
 直蔵は言い訳を言う。言っているうちに、だんだんと跳ぶことができないのは当たり前のように思えてきた。


 次の日も次の日も直蔵は跳ぶことができなかった。もどってくると母鬼が眉をひそめて言う。
「やっぱりおまえは谷を越えられないのかねえ。勇鬼のようにはなれないのかねえ」
 直蔵は誰よりも太く丸い大きな鼻をひくひくさせて言う。
「誰かが先に風をとってしまうからだよ」
 もう誰にも引けを取らない、りっぱな角を立てて、
「おれにはみんなの先を越して岩にのぼるなんてできないよ。今日も、みんなにゆずってきたんだ」
 母鬼は、
「そうだね。おまえはやさしいからね。また明日にでもがんばればいい」
「おれ、明日、行かないよ。広場で遊んでいる方がいい」
「ほう、そうかい」
 母鬼は前掛けにかくした布きれをだしてそっと鼻をかんだ。末っ子だからと甘やかしたのがいけなかったのかしらと思う。
 直蔵は自分にいいきかせた。谷渡りができなくてもいっこうにかまわない! できないからと言って、誰かから怒られることも村をおいだされることもないのだ。熊とも相撲をとれるし、大好きな猪の肉を食べてはいけないこともない。今までと何もかわることなく、楽しく村でくらすことができる。
 鬼頭の父が直蔵に怒ることも無い。それどころか、夕げの折に言った。
「なあに、わしの子どもでひとりぐらいは村に残る者がでてもいい。村をでていくばかりがりっぱな鬼になる道じゃない」
 だが村をでて違う世界をみない鬼は、嫁にいかない女鬼と年老いた鬼、そして「谷渡り」をはじめからできないとわかっている病気の鬼だけだということを、直蔵もわかっていた。

 直蔵の十一才の春がやってきた。
「おーい、きいたかあ」
 山桜の花が山々の景色を華やかにいろどっている。夕闇のせまりはじめた広場を恐ろしい勢いで駆けもどってきた兄鬼たち。われさきに洞窟になだれこんだ。
「叔父さがもどってくる」
「勇鬼さだよ」
「十年ぶりだ」
「おもしろい話がきけるぞ」
 すぐに村中に噂はひろまった。世界を巡ってきた叔父鬼の勇鬼がもどってくる。
 直蔵の父、鬼頭が呼び返したのである。
 次の日の昼過ぎ、洞窟の前にうわさの勇鬼が立った。
 ぴんと伸びた太い1本の角。
 豪快に笑う口にはするどい牙が2本。
 今までにみたこともないパンツをはいている。曼荼羅模様のトラの皮だ。
 背中にせおった大きな袋をおろす。中からみたこともない異国の品がわんさわんさ出てくる。
 言葉のひとつひとつ、仕草のすべてが直蔵の心をゆさぶった。
「なんて格好がいいのだ」
 直蔵の心の底から熱いものがこみあげてくる。
「この人がいつも母が話していた叔父鬼なんだ」
 自分の親戚にこんなにすごい鬼がいるとは思ってもみなかった。

「ああ、叔父さのようになりたい!」
 むくむくとわいてくる闘志、熱情、熱い心をもてあます。
 叔父が直蔵をみつけて、歩み寄る。
「おお! 直蔵か! りっぱになったな。もう谷渡りをしたか?」
 いきなりの問いに、直蔵の耳が赤くなった。首をふり、
「あの……」
 直蔵はそれ以上は何も言えなかった。身体中が燃える。谷渡りをしていたら、この叔父にどんなにいい格好ができただろうと思ったからだ。むしょうにくやしさが身体中を巡る。叔父は、
「すぐに跳べるさ。心を動かせるのは自分しかいないんだからな」
と言った。

 次の日、直蔵は尾根の岩地に立っていた。
 あちこちからやってきた若鬼たちが次から次へと尾根岩にのぼる。
 直蔵はやっぱり岩の上にたつことができない。昨日と同じように尾根岩にたてなかったが、直蔵の心は昨日とはちがっていた。恐くて仕方がなかったのだ。怖さが身体中におしよせてきていた。この谷をとびこえたい。だが誰にも頼ることができない。自分ひとりであの空にとびださないといけない。
 あの勇鬼叔父さのように勇ましい鬼になりたい。叔父さに「やったね」と言ってもらいたい。
「そうだ。跳ぼうと思う心だ」
 谷に向かうのは自分しかないのだ。
 跳ぶということは、何のいいわけもなく自分の足でこの岩を蹴ってとびだすしかない。空をとびこえ、むこうの岩に着地するしかないのだ。
 身体がふるえだして、歯ががくがくする。自慢にしている立派に成長した牙がおれそうだ。
 気持ちだけがあせる。
「早く跳ばないと、今日も日がくれる」
 ちがう思いがむくむく沸いてくる。
「いい風がこないから」
「強い風ではとべないよ」
「誰かが先に飛び出すから」
「先を越すなんてずるいことはできない」
「みんなにゆずっているのだ」
 直蔵はどの言葉をあてはめても、
「跳ぶのか、跳ばないのか」
との声が身体中を走る。
 直蔵はぐっとつばをのみこむと、自分にいいきかせた。
「おれは跳ぶ!」
 直蔵は誰の姿も目に入らない。尾根岩にはいあがった。
 自分が跳ぶか跳ばないかなのだ。
「よし! 直蔵、いけ!」
 あこがれの叔父の声が耳元でする。
 直蔵は空にむかって跳び込んだ。

                (完)