第一話
 安鬼と太郎 
                       畑 中 弘 子

ー作者のつぶやきー
鬼と人間、外と内、裏と表には大きな隔たりがあって、同時存在は不可能なのだと思う。  
                              

 

 鬼の安鬼(あんき)は山奥に住んでいた。
 昨夜の嵐はうそのように晴れて、あたりはすっかり雪景色になった。うっそうと木々のしげる森も深い谷も同じように白い衣をきている。安鬼たち鬼の一族の住む洞窟だけが黄金色に輝き、大きな口をあげていた。朝から、当番のものが一拭きして雪をけちらしたからだ。
 安鬼は洞窟からとびだしてくる。
「ウワホー!」
 上半身裸の肌は小麦色。同じ色の一本角がふさふさの髪の間からつきでている。まだまだ堅さではおよばないが、すっかり大人の角と同じ大きさになっていた。
 腰にはふさふさとした狒々(ひひ)の皮をまき、腕も足も隆々ともりあがっている。
 今年はじめてみる大雪に、安鬼の心はうきたっていた。どんぐりのような丸い目をさらに丸くしてみつめる。ぶるるんと首を小さくふると、洞窟の奥にむかって叫んだ。
「ちょっと山駆けしてくるよー」
 うしろから、母鬼の声がおっかけてくる。
「安鬼
、まだ黒雲があるから、とおくへいくんじゃないよー」
 安鬼は足をとめ、
「あはっ、黒雲なんか、おれの息でふっとばしてやるわー」
 実際にそうできると、安鬼は思えるほどにどんどん力がつき、身体が大きくなっていた。そんな自分が誇らしかった。心も好奇心でいっぱいだ。
 朝日をあびた新雪の地を意気揚々と踏みつけていく。
 自分の足跡が雪のなかにきっちりとついているのがうれしくてたまらない。ふりかえり、またもどり、円形にしてみたり、星形にしてみたりする。ふっと動きをとめてあたりをみまわした。もし誰かがこんな安鬼をみると、「やっぱりまだまだ子供だ」と言われる気がしたからだ。
「ウッフン!」
 咳払いをしてからまた歩き出した。ほんの五、六歩歩いたところで、安鬼は立ち止まる。
「どうして?」
 先に足跡がついていたからだ。それも自分よりも小さな足跡である。
「え、おれよりも小さなやつが先に歩いた」
 このごろは何に対しても競争心がわく安鬼だ。足跡の主を確かめないわけにはいかない。
 足跡は「蹴り岩」とよばれる岩の前でとまっている。「蹴り岩」の下は深い谷になっていた。鬼たちはこの小さな岩を蹴って、むこうの岩までとぶことが大人の印でもあった。
「こんな早くに谷渡りをした者がいるんだろうか?」
 近づくと岩のすみに誰かがよこたわっている。ちょうど上に木の枝がかかっていた。
「どうしてこんなとこで?」
 近づいてみると、自分よりもまだ小さな者だ。紺色の帽子をかぶり、身体中を分厚い服でおおっている。なんと変わったやつだ。いくら冬だといっても、この厚着じゃ、熱くて仕方がないだろう。暑すぎで疲れたのかななと思う。さらに寄ってみると、その鬼は眠っていたのだ。
 今まで見てきたどの鬼よりも形の整った顔だ。こんな静かな寝息をきいたことがない。それに身体中からいいにおいがする。おもわずかぶりつきたくなるほどに、かわいらしい。生まれて間もない妹よりももっといたいけに感じる鬼である。
「おい、どうしたんだ」
 その鬼はそっと目をあけた。あけたとたんに大きく口をあけ、「あっ、鬼!」と言う。その声も鬼の祭に使う鈴のように軽やかだ。鈴の音を残して、そいつはすぐに目をとじてしまった。
 安鬼はこの者を助けないといけないと思った。胸がどきどきする。こんな美しい鬼をみたことがなかったからだ。
 身体をだきおこそうと、そっと右手を背中にまわす。安鬼はあわてて手を元に戻した。まるで若い苔をさわったような感触なのだ。自分のいや、生まれたばかりの赤子の鬼でさえこんなにやわらかくはない。赤子をだくよりももっと慎重に右手を肩において、だきおこした。
 とたんに、ぽろりと帽子が落ちたのだ。安鬼はその頭をみて、おもわず抱き上げた身体を雪解けの地面におとすところだった。
「こ、こいつは
……
 頭に角がなかったからだ。
「こいつはいったいどこの鬼なのだ? どうしたもんか、どうしたらいいんだ」
 安鬼は鬼をせおって家にかえろうかと考えた。だがもちあげるときに押しつぶしてしまいそうだ。できたての団子のように。
 安鬼はまじまじと顔をみた。色が白いと言うほかに、はなすじがまっすくとおり、口が丸くて薄くてちいさい。太郎の半分もない。
「あれ、口の先が耳まで届いていない」と思ったとたんに、安鬼ははっと気がついた。
「牙はない! 牙がなくって、どうして食べるんだ?」
 身体をつつんでいないところは顔だけだった。額に手をあてると氷のように冷たかった。
「どうしてこんなに冷たいんだ」
 次から次へと、おかしなことが出てくる。
「おっかあをよんでこよう」
 たちあがった太郎の身体からは湯気があがっていた。あたりの雪がとけている。
 反対におかしな者の身体が突然、がくがくとふるえだした。急に滝に飛び込んで、寒くて震える時がある。こいつは寒がっているんだ。
 おれはこんなに暑いというのに。
 ここにおいたままだとこいつは凍え死んでしまうかもしれない。
「しかたがない。ちょっと暖めてやろう」
 安鬼はそばによってふうふう、熱い息をふきかけた。
 顔にほんのり赤みがさしてくる。口のまわりにごま粒のようなひげがはえている。男のようだ。
 五、六回も息をふきかけていると、男は目をあけた。おどろいて、身体を後ろへのけどった。
「心配せんでもいい。わしは安鬼。おまえはどこからきた」
 男は大きく身体をゆらす。
 どうも言葉が通じないらしい。
 村にもどると、物知りの年寄り達がいるはずだ。
「しかたない。とにかく村までいこう。おい、ここにのれ」
 背中をむけると、男は素直に身体をのせた。
「しっかり首をもっておれ」
 安鬼は背中に男をのせて、雪の道をかけた。雪の粉がまい、また男の身体をうつ。

 洞窟の前にくると、
「おっかあ、おっかあ」
 大きな声で呼ぶ。
 おっかあが入り口に出てきて、背中の男に目をやり、悲鳴のような声をだした。
「わわわー、安鬼がどえらいものをつれてきたー」
 声と同時に、中からおっとうも兄も弟もとびでてくる。
 背中の男をみるなり、おっとうが言い放った。
「人間だ。きっと人間だ」
 おっとうも人間をみたことがなかった。
 兄も弟も安鬼をとりかこむ。
「これが人間なのか」
「はじめてみたぞ」
「なんて小さいんだ」
「きれいな顔をしてるじゃないか」
 男は洞窟のなかの暖かい部屋に寝かされた。もう何年も前に亡くなったじいさんの部屋だ。安鬼の家で唯一、いろりをかこってある部屋だ。
 いろりに何年ぶりかで火がいれられた。あたたかい部屋で、男はこんこんとねむりつづけた。
 うわさをききつけて、あちこちの洞窟から、鬼たちが男をみにやってきた。
 そのなかに物知りの年寄り鬼がいた。村でただひろり、人間の姿をみた鬼だ。
 年寄り鬼は安鬼に言った。
「確かに人間というものだ。わしらとよく似た姿や考えをしておるが、住んでいる世界がちがう。はやく、山のふもとのどこかへ置いてきたほうがいい」
 安鬼は首を振って、
「じいさま、こいつをここにおいておくわけにはいかないか?」
「むつかしいな」
「けど、こんな身体で外においたら、死んでしまうよ」
「そうかな」
「こいつを助けてあげたい。どうしたらいいんだ?」
「ま、ここで元気をとりもどしてもなあ
……
「おれ、友だちになりたいんだ」
「そうだな。このもの次第だ。いや、おまえ次第だ」
「おれ次第? どうしてなんだ?」
「いや、やっぱり、こいつには無理だな。こいつは豪村とすもうはとれないからね」
「おれが教えてやる」
「山を駆けることができないんだ」
「そんなの簡単さ。おれがおぶって駆ければいい」
「身体を隠すこともできないんだ」
「隠さなくてもいいよ。ずっとここにいれば食べ物をもってきてやる」
「いいかい、安鬼。こいつは鬼ではないんだ。人間というんだ。ここにいて、決していいことはなにもない」
「どうしてなんだ!」
「外は外、内は内の約束があってね。こいつの頭に角がはえることはないんだよ。それとも角をおまえがうえてやるとでもいうんかい? それに
……
 年寄り鬼の鬼は苦しそうに顔をゆがめた。「人間を食べたくなるのが鬼なのだ」とは、一生懸命人間をかばう、若鬼の安鬼には言えなかった。
 安鬼はくちびるをとがらす。しばらく考えてから、
「なら、おれがこいつの村でくらしたらいいんだ」
 年寄り鬼はまるまった背中をまっすぐにする。
「安鬼、できるのかい? おまえはその自慢の角をどうしてきりおとせるというんだい?」
 安鬼は悲しそうな顔をした。
「ま、しばらくはここにおいておやり。安鬼、おまえが世話をしてやればいい」


 こうして何もかも忘れてしまった男は安鬼の家族と住むことになった。
 男は年寄り鬼から鬼の言葉を学んだ。すぐに覚える。みんなと遊ぶ。まるで生まれた時からこの村に住んでいるような態度だ。男は自分の名前を太郎と言った。それ以外は全く覚えていなかった・
 太郎はちょうど安鬼と同じ年頃だ。好奇心の強い安鬼は人間のことを知りたくてしかたがない。「おまえはどうして雪の中にいたのか」「どこからきたのか?」「村にはおいしい食べ物があるのか?」「誰もおまえのように角がないのか?」と、いろいろなことを聞いてみたが、太郎は全く覚えていない。
 太郎は兄のように安鬼の後をついてまわる。
 うさぎを追っかけるのは、安鬼の背中に乗る。
 相撲の時には、太郎は小さな身体を大きくして行司をひきうけた。
 春になると森の獣が冬眠から目をさますように、鬼たちも動き出す。獣たちのように手当たり次第に戦うことはない。その年の狩場をめぐっての相撲大会が行われる。隣の豪鬼村には是が非でもかたないといけない。去年は僅差で負けてしまい、なかなか不便をした一年だった。豪村の鬼との競争には絶対に勝ちたいと思うから、鬼たちはそれまでに相撲の練習をしておくのだ。
 鬼はやりたいとおもうと一生懸命だ。相撲はとりたい、相手を負かしたい一心である。だからどの鬼も行司になるのが嫌いだ。太郎はもってこいの行司ということになった。太郎も相撲が好きだ。なぜかなつかしい気がする。すんなりとうけいれ、「呼び込み」はろうろうとしてわかりやすく、勝敗の判断も的確だった。鬼たちはまえにもまして、相撲に夢中になった。「太郎は行司がうまい」
「ずっと行司をやってくれ」
 太郎も願ってもないことだ。勝つことなんてあるはずのない、でっかい鬼たちと相撲をしなくていいのだ。

 相撲をするとなると、太郎がよびだされた。安鬼も一緒についてきて、いつもにぎやかなことになる。やればやるほど、行司の采配はうまくなっていく。
「はっけよい」
「みあってみあって」
「さあ、のこった、のこった!」
 この分だと春にはきっと豪村との相撲大会では我らの勝になるだろう。そうすれば谷の魚獲り場がひろがり、魚をたっぷりたべることができる。夏はもっと広い水場であそべるというものだ。
 雪の日の相撲の稽古でも太郎はもうそんなにさむがらない。最も安鬼とくらべると上着もきているし、耳当てもつけている。太郎は耳当てをはすじてしまった。

 安鬼はにまりと笑うと言った。
「寒くないだろ、太郎」
「ああ」
「それはな、ほれ、おれらと同じ飯を食ってるからだ」
「そうなの? 安鬼。何か秘密があるの?」
「おおありさ」
「なに?」
「それはな、ヒヒ肉のせいだ」
「ひひ?」
「ほれ、おまえが気味悪がった年寄りの洞窟でヒヒンヒヒンってないていたやつ」
「え、泣いていたのは鬼の子じゃなかったの?」
「角がなかったはずさ。あいつの肉はわしらに力をくれる」
「ふうん、ヒヒ肉ってすごい力があるんだ」

「そうさ。冬にはかかせないのだ」
「なんかぽかぽかするよ」
「そうだろ、そうだろ。それでこそ、鬼の子だ」
 太郎は今度は上着を脱いた。ひし形の胸当てと安鬼のお古のだぼだぼズボンで土俵に上がった。大きな声をはりあげ、土俵に上がる鬼の名を呼ぶ。小柄だが、太郎のりゅうりゅうと筋肉のもりあがった肩や腕や裸足の足は、鬼の子とひけをとらないほどにたくましい。
 どんどん鬼の世界になじんでいく太郎は時折、肩に何かが張り付いたように重くなった。ヒヒ肉をおいしく食べたことにも奇妙な思いが身体を襲う。だが、安鬼と遊び回るうちに、どんどん重苦しい気持ちが薄れ、同時に、自分が人間であることを忘れていった。

 谷の底を雪解けの水が大きな音をたてて流れ出す。この時期だけはさすがの元気者の鬼も谷渡りをしない。ほんの数日がまんをすると、奥山の原に緑の芽吹きがはじまる。山桜の花が若葉と一緒に色鮮やかな姿をみせる。
 これからが安鬼の一番好きな季節なのだ。
 生暖かい風が頬をなでていく。いつものように洞窟から飛び出した安鬼と太郎は今日は谷に下りて、魚を捕まえるのだ。
 安鬼の走りに、太郎もおいつくほどに足が速くなっていた。
「今日は少し川をくだってみようか」
 安鬼がさそうと、太郎も、
「ようし! おれも負けずについていくぞ」
と言って、ポンと胸をたたいた。
 ごつごつとした岩をつたって、川をくだっていった。

 急な川の流れが少しゆるやかになった。まわりの岩も丸みをおびている。風が吹いて、甘酸っぱいにおいがあたりをおおう。
「うっ」
 太郎が突然足をとめた。
「どうした? 太郎」
「いい匂いがするぞ」
「おれには何のにおいもせん!」
と、安鬼が言う。
 先にたって太郎が岩をとびこえていく。どんどん川下に向かっていく。安鬼も後をおいながら、ふと不安になった。こんなに川下までやってきた覚えがなかったからだ。あたりの木々は密生し、幹も太く枝も張っている。
「おい、太郎、もどるぞ!」
 先を行く太郎に声をかける。ふりむくと、
「いい匂いがするんだ。おれ、いい匂いが気になるんだ」
「おれには何もにおわん!もう帰るぞ」
 それでも太郎は足をゆるめない。

 安鬼は走りよって、後ろから太郎の腰紐をぐいとひいた。
「もどるんだ!」
 太郎が振り向いた。紐を持つ安鬼の手をふりはらう。とその時、安鬼もふっと甘酸っぱいにおいがした。なつかしいにおいだ。もう何年になるだろう。はじめてこいつに出会った時の匂いのように思う。
 太郎が訴えるように言った。
「それに……、聞こえるんだ」
「何がきこえるんだ!」
「おれの名を呼んでる……」
「太郎ってか?」
 太郎は大きくうなずいた。
 ふたりはじっと耳をすます。
 匂いと一緒に遠くから声がする。
「ほーい、ほーい」

 安鬼は叫んだ。
「おまえの名をよんでるんじゃない!」
「おれをよんでるんだ。この森の先から」
 太郎は声にむかって駆け出した。すごい勢いで走る。今までにみたこともない力強い走りだ。 安鬼は太郎を追った。
 追いながら、これ以上追うと、自分は戻れないかもしれないと思った。
「太郎、もどってこーい」

 安鬼はひとりで鬼村へにもどった。
 年寄り鬼が言った言葉が頭をよぎる。
「鬼は人間を食いたくなるんだ」

 ふりかえると、自分は確かに鬼であった。
 一緒に遊んでいたときも、むしょうに太郎を食ってみたくなることがあった。いつまでこの恐ろしい思いをおさえておれるかどうか心配だった。いっそのこと、自分の前からいなくなってほしいと思うことがあったのだ。
「これでいいんだ」

 安鬼はときおり太郎の匂いをさがして、森をさまよう。はるかに風にのって、太郎の匂いに出会う。安鬼はいつも思った。もう一度遊びたい。太郎の行司で相撲をとりたい。谷渡りもしたい。いっしょに川を泳いだり、魚を捕りたい。
 そしてしてやっぱり食いたくなった。