『赤土』(黒い角改題)   畑中 弘子


 第一部    黒い角

 第五章  呼ぶ声

  その日の夕ぐれどき、当帰が魔弥の着物をもってやってきた。
「じじさま、魔弥の『秋入り』の衣をもってきましたよー」
 よくとおる、うつくしい声だ。魔弥はこの声をきくと心がおちついた。ものごころついた時からである。魔弥にとっては母親のようだ。
 当帰に亡くなった母親のことをきいたことがある。
「美しくてやさしい人だったね。そう! わたしといっしょ。美人でかしこい白桃華……」
 当帰は大きな白い前歯を出してわらった。目は細く,鼻はだんごのようにまるかった。そんな当帰とにていて、かあさまはほんとうに美人だったのかしらと考えてしまう。きっとおばさまとは正反対の顔や姿なのだ。夢で見た美しい女の人こそがかあさまにちがいないと考えた。
「魔弥、すてきな着物に仕上がったよ」
 当帰が身体をゆすりながら、食堂にはいってきた。
 王爪が、
「これからゆうげじゃ! 一緒にどうじゃな」
「いえ、今日はゆっくりしておられないのです。苦参のぐあいが悪くて……」
「ああ……、どんなぐあいじゃ」
「熱が少しでてるのです。けれど、明日はぜひ太陰神に礼拝したいといってました」
「無理をせんように。で、『月の目』葉はまだあるのかい?」 「ええ、ええ。まだ十分に。よく使っているのですが……」
 月の目芋の葉は万能薬だ。いや、月の目芋は蜘楠蛛の国をささえているといっても過言
ではなかった。食料になるだけでなく、葉は乾燥させ、薬に、茎は固いさまざまな太さの縄や紐や糸になった。
 この芋はその昔、洞窟の最奥で発見されたという。うすぐらい窟の中で、まあるく月の形をしてひかっていたという。
 今では窟外の地上に植えられる。
 秋、収穫され、最もりっぱな芋、九個が「秋入り」祭の供物となる。蜘楠蛛国は九つの小国からなっていたからである。それぞれの小国は数百人規模の村のようなものだったが、かつて栄えていたことを象徴するように、国という言葉をつかう。九小国はそれぞれ太陰神の光をうけたものがおさめた。オニ、コガネ、クサ、ワカバ、ウズキ、ニョロウ、アシダカ、ハナ、ゴミ国の九つである。オニ国の頭となるものが代々蜘楠蛛国の総長となった。魔弥の祖父である王爪がそれである。
 当帰の夫、つまり竜胆、竜菊の父、苦参は脊髄を痛めて、長い間ふせっていた。当帰の窟の入り口にはまだ青々とした葉が、中にはいるとこおばしい茶褐色の葉があちこちにぶらさがっていた。
 魔弥は苦参も大好きだった。芝草の寝台におきあがり、よく蜘楠蛛の国に伝わる昔話や太陰神の話をしてくれた。魔弥にとって、父親でもあった。 
 
「魔弥、もし寸法がうまくあわなかったら、明日の朝にでももってきなさい。式までには充分間にあいますから」
 当帰はいつもなら、袋の中をあけてみせるのだが、今日はそのこともしないで、そそくさと帰っていった。
 苦参のことがよほと心配なのだろう。
 ゆうげのあと、魔弥の衣装のはいった麻袋は太陰の神の祭壇にそなえられた。
 蜘楠蛛の民は太陰、つまり月を神としてあがめている。月の満ち引きで暦をつくり、畑をたがやし、狩りにでる。各民の住む窟々にも小さな太陰の神の祭壇があった。祭壇といっても、窟の中のへこみに、イチイの枝でつくった棚をいれる程度だ。棚の上に奇妙な顔のかいた二枚の札が飾ってある。
 ふたつの顔には名前がついていた。
「赤土(あかつち)」と「長下(おさした)」
 秋入りをすませていない魔弥はまだこの札にかかれた名前などしらない。
 王爪が祭壇の前で、両手を大きくあげ、祝詞をあげる。魔弥には王爪は自分の衣に呪文をかけているようにおもえた。なんどとなく当帰から衣をもらっているが、太陰の神にささげ、王爪が祈ったことは一度もない。
「じじさま、この衣服は特別なのですか」
「そうだよ。特別なのだ」
 衣を棚からおろすと、
「さあ、魔弥、きてみなさい」
「はい」
 魔弥は白い衣を頭からかぶった。身体にここちよくなじむ。裾には九つの紫や、橙、緑など色とりどりのふさがゆれていた。
「おばさまにこれでいいっていいましょう。ほんと、ぴったりです」
「ほんに当帰はよくしてくれる……」
と、王爪はつぶやいた。
 魔弥の着るものはたいてい、当帰が用意してくれた。当帰はじぶんの子の竜胆や竜菊よりもいつも良い材質で美しく織り上げて、魔弥に着せる。
 魔弥や竜菊たち、女子は一枚の大きな麻布の真ん中に穴をあけ、頭からかぶる。竜胆たち、男子は布を身体にまきつけて、紐でくくった。とはいえ、ときどきは男の子も頭からかぶることもある。
 
 その夜、魔弥は明日の晴れ着をついたてにかけてねむりについた。
 部屋のあかりは蛍粉を調整して淡い黄色である。王爪の寝室は灰色一色だ。よくねむれる色なのだそうだ。
 魔弥にとっては寝やすくなる色などとかんがえる必要はなかった。どんな色であれ、寝台に横になるとすぐに寝入ってしまう。
 ところがなぜが今日にかぎって、明るさが気になる。おちつかない。
「なんだか、ちっともねられない……」
 高い天井をみながら、「ふー」とためいきをついた。
「きっと明日のことが気になっているから……」
 ねがえりを何度かしたあとだった。天井の一カ所がだいだい色になってゆれていることに気がついた。
「う! なんで? 」
 魔弥は一点をみつめる。
「あの色、まさか……」
 瞑想洞屋から奧の洞窟でであっただいだい色。
「ああ、こんな色だった……」
 目をつむっているのに、色が気になってしかたがない。目をあく。
 しっかりと一点を見つめた。
「きゃ!」
 ひかりの中に顔がある。ひくくて、でっかい丸い鼻。目が細長く一文字。口は耳までさけてわらっている。
「うひー」
 その顔が天井から落ちてきた。
「あ!」
 寝台とついたての間に人がたった。いや赤い土人形がこちらをむいて笑っていた。
「だ、だれなのっ」
 はっきりとした声がかえってくる。
「赤土です。ああ、魔弥さま、どうかお力をおかしください」
 魔弥は目をそらすことができなかった。
 このものは赤土。じじさまはたしか「帰れ」といって怒った相手だ。
 魔弥はうわずった声でいう。
「赤土! わたしは蜘楠蛛の総長、王爪の孫娘。じじさまはあなたに戻りなさい! といったはずです」
 とたんに、赤土の姿が小さくなる。魔弥はふるえながら、声をはりあげた。
「お帰りなさい! そうしなければ、今すぐ、じじさまをよびますよ」
 赤土は消えた。
 魔弥は浅い眠りのうちに、「秋入り」の朝をむかえた。
つづく