十 『赤土』
畑中 弘子
第三部
赤 土 よ
第二十二章 妖道V
魔弥が気がついたところは岩影のすずしい草の中だった。小鳥がさえずる。鳴く方向を見て、魔弥は仰天した。
「え! もう赤池に……」
最後の道を行くときにあるとしるされている池ではないか!
まだ半分も道をのばしていないと思っていた魔弥の目の前に赤池があった。
魔弥はわっとうれしさがこみあげる。
「ああ、みんなに会える。じじさまやおばさま。竜胆はどうしているだろう。各国の長たちはちゃんと楽しくくらしているだろうか」
岩場の間から、清水がしたたりおちていた。魔弥は肩を洗った。ほんの少ししみるだけだ。これなら一気に道をくだり、池をこえ、妖道出口へむかおう。
「それにしても……」
魔弥はふとたちどまる。
雲がぬけて、かっと真夏の太陽が顔をだした。手でおおいをつくり、
「トヨサが私をはこんでくれたのだろうか」
とおくで、もの人たちの声がきこえた気がする。
「 魔弥がもどってくる。
魔弥がもどってくる。
魔弥がもどってくる。
魔弥がもどってくる。 」
「え? もの人たちが私の身体をはこんでくれたのだろうか」
魔弥が妖道の最終地点にいることだけは確かだ。
はじめに身につけた白い衣はすっかりぼろ布になっていた。あの清楚に装った美しい魔弥のおもかげはない。日課のように、滝にうたれ、川にはいった。肩に届くまでに伸びた黒髪だけが唯一、かつての魔弥を思いおこさせる。背が伸びた分、胸骨がめざち、面長の顔がいっそう長くみえる。
身体は疲れていたが、心は浮き立つ思いだ。妖道図をみるかぎり、もうすぐそこに出口がある。
「みんな、私を待っていてくれている」
魔弥は重い足をひきずりながらふと、だれかがむかえにきてくれているかもしれないと思った。ぱっと厚朴の笑顔がよぎる。魔弥は顔をほころばせる。
「今もまだ厚朴さまをお慕いしているの?」 自分に問いながら、恋することを覚えている自分がいとおしい。
「竜胆もきっときてくれているわ」
いつのときも自分の後で力強くささえてくれていた竜胆。魔弥はなぜが胸が熱くなる。 「王爪や当帰も心配しているにちがいない」
魔弥の足は速くなった。
だが、もうすく出口ということも、竜胆たちが迎えにきてくれているということもすべては魔弥の思い込みにすぎないことがすぐにわかった。
魔弥は最後の難所ともいえる「油岩」へのぼる。つるつるしてなかなかあがれない。それでもまわりの地形から考えて、この上から道をさがすのが一番近道だった。
何度か挑戦して、やっと油岩のてっぺんに立ったとき、魔弥は目を丸くした。
「ああ、これは……」
うっそうとした森林が足下にひろがっている。道はどこにもない。こんなことは今までになかった。たしかに身の危険を感じるところもあったが、誰かが後からおしてくれているように道があり、道をつくり歩いていけた。今、目の前にあるのはうっそうと茂るおばけしだ、熊笹、雑木だ。
そして魔弥をおどろかしたのは、森林全体から湯気がたちのぼり、かなたはもうかすんでいた。魔弥は背筋を冷たいものが走る。
「糸遊がかかってきている」
どの場所におりよう。後もどりはできない。
困った時、よくするように岩の上で正座する。太陰の神に祈る。祈りながら、ああ、こんな時、ひとつでもいいから、妖の呪文が思い出されたらと思った。
今もまだひとつの呪文も思いだせない。なりわいの業でどうにかきりぬけるしかないのだ。
「おりていって、ちょっとでも土が見えるところをさがそう。そこを道にしよう」
魔弥はあちこち擦り傷をつけながら、低木の間を抜け、おばけしだの茂みにすべりおちた。全くどこをいけばいいのかわからない。
「ああ、太陰の神よ。道をあたえたまえ」
太陽はゆっくり西に、岩の左手にかくれていく。またここで一夜をすごさないといけないかもしれない。このままやみくもに森の中にはいっていくのはあまりにも危険だ。
あたりのしだをあつめて、一夜の寝台をつくった。
「明日になったら、また何かがはじまるだろう」
魔弥は横になった。
あくる朝、魔弥は誰かに揺り動かされる。
「魔弥さま、魔弥さま!」
目をあけるとそこにみおぼえのある顔がある。
「キジヤ!」
もの人のキジヤの顔があった。
自分は「木の流れ」族の王だとものがたった男である。なにかというと、からだをうしろにそりかえって、太鼓橋にする。
「魔弥さま。たいへん、たいへんなのです。蜘楠蛛の一大事。久仁族が、久仁族がせめてくるのです!」
キジヤが必死なのはよくわかるが、何をいっているのかつかめない。
「どういうことなのですか?」
「赤土の扉が開いたのです。ものすごい数の赤土が現れています。魔弥さま、早くもどってください」
「私もそうしたい。だが道がなくて困っているのです」
「道ですって! 道ならすぐわかります。このあたりはわたしたちがよく木をいただきにくるところですから」
キジヤのいうとおりだった。不思議なことに、しだの葉を五、六枚もふみしめてわたると、道があらわれた。
魔弥は早足になった。足はとっくに素足のままだ。たくましく日にやけた手や足。目をきっと道のさきにむける。
おおかみのようなりんとした耳にあの音がはっきりときこえてきた。
「 ウドドン
カンカン
ウドドン
カンカン 」
魔弥の足はもっと速くなった。
はるか遠くの記憶が一瞬のうちによみがえる。誰かの胸に抱かれていた。誰かに腹をたてていた。誰かを恋していた。誰かが悲しんでいた。誰かが自分を呼んでいた。
魔弥は胸がしめつけられるような、切なさを感じた。たちどまり、風の流れをじっとみつめた。においはもっとはっきりとしたものとなって運ばれてくる。
蜘楠蛛の人々のなりわいがあの大いちょうの下、イユルの森や深い森のかなたにある。自分はその生活をまもらないといけないのだ。
魔弥は一本角を金色に輝かせていた。
「わたしはもどる!」
魔弥は風のように身をけって、妖道の最後の坂をくだる。なつかしい甘い花のにおい、木の芽やきのこのにおい、人肌のにおいが魔弥を包んでいった。
「ああ、蜘楠蛛の民が呼んでいるのだ」
妖道の出口にある大いちょうとその横にかかった鳥居がみえはじめた。
つづく
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