花雨の向こう
第四章 地の娘たち
りっぱな楼門がみえてきた。瓦屋根が二重になって天にむかっている。濃い褐色の艶やかな大柱が四本。扉は両側に開いていた。
近づいていくうちに、真弥はあんぐりと口をあけてみあげた。背伸びしても跳び上がっても門の梁に届かない。
脱鬼の方をみると、
「地の界の御門です」
と言った。
門をくぐると、勢いよく歩いていた脱鬼の足がゆっくりとなり、やがて止まった。
「脱鬼さん、どうしたのですか?」
ぎょっとしたように真弥をみて、
「『脱鬼』でいい! これからは『さん』なんてつけるな!」
と怒ったような声で言った。それから前方をじっとみつめて動かなくなった。真弥も脱鬼の見つめている方向をみると、遠くに人影がある。ゆっくりと近づいてきた。肩にかかった若草色の細長い布が地面すれすれにかかり、ゆらゆらゆれている。すんなりとした立ち姿は真弥の年齢とそんなにちがわない娘のようだ。
にこやかにほほえみながら、こちらにやってくる。顔の輪郭もしっかりとわかるようになった。真弥はすきとおるような肌と凜としてこちらをみすえる澄んだ目に思わず息をのんだ。
「なんて美しい人なんだろう」
ぼんやりみつめている真弥にむかって、
「よくこられましたね。ほんとによかったこと」
と言った。すぐに脱鬼のほうをむくと、
「脱鬼! ごくろうでした。もどってよろしい」
とたんに、脱鬼は直立し、「はい! 『地の娘』さま」と答え、ちらっと真弥のほうをみると、白い歯をみせにっとわらった。脱兎のごとく今きた道をかけもどっていく。あっというまに脱鬼はきえて先に黒いもやがかかった。
「地の娘さま」とよばれた女の人はゆっくりとした動きで真弥に会釈をする。
「私は蝶女といいます。あなたのことは総者さまからきいていますから、よくわかっています。ただあなたのほうでわからないことがあれば、きいてくださいね」
というと、あわてて付け加えた。
「総者さまというのは、天界へ向かうために諸々のことを教えてくださる先達のことです」
真弥はちょうど心の中で、「総者さまってどのような方?」と思ったところだったので、深くうなずき、顔をほころばせた。
美しいのは顔つきや姿だけではない。声といい、話しかたやしぐさまでも優雅だった。じっと蝶女をみつめるばかりの真弥に、蝶女は、
「わたくしもあなたと同じ、地の娘となった者です。とても大事にされています。何も心配はいりません。さあ、まいりましょう」
と言った。
真弥は胸がきゅっと痛くなった。かかさまと別れて以来、はじめて安堵に似た思いが身体をつつむ。
真弥はしっかりと自分にいいきかせた。
「わたしはこの地でがんばればかかさまにあえるかもしれない。小郷村にももどることができるにちがいない」
両側に林がつづく。しばらくして道がふたつにわかれた。右の道を選んですぐに蝶女が言った。
「ごらんなさい。あそこがわたしたちの住まいです」
濃い緑の木が両側からせまるようにしておいしげっていた。ちょうどふたりがあるけるほどの道がはるか遠くまでつづいている。
指さした先を息をきらしてみつめる。だが真弥にはえんえんとつづく白い道と両側の緑しかみえない。先はひとつにとけあって、濃い緑色一色になっている。
「わたしにはみえません」
「そうでしたか。すぐに見えるようになりましょう……。さ、いそぎましょう。日のくれないうちに館にはいるほうがいいでしょう。みなもまっていることでしょうから」
館というのは「地の娘」館のことにちがいない。不安に動きをとめてしまった真弥に、蝶女ははっと気がついたようにたちどまった。
「そうでした! わたくしの履き物をおはきなさい。きっと楽になりますよ」
真弥は裸足だった。
「いえ、大丈夫です」
あわてて断ると、蝶女はにっこり笑って言った。
「わたくしには必要ありませんから」
真弥はその意味もわからなかったが、言われるままに沓をはく。朱に若草色の玉模様がいっぱいちりばめられていた。ぴったりと足にはまった。小郷村にいたときは裸足で歩き、走っていた。山に入る時、足を守るためにかかさまはつたで編み込んだ袋をかぶせてくれたことがあった。大人の人が、板にひもをつけ足にくくる田下駄をはいて田仕事をすることも知っている。だがこのように心地よい柔らかい布の沓を見たことも履いたこともなかった。
蝶女が歩き出して、沓をいらないわけがわかった。彼女の足は地についていない!
よくみるとつま先だけが地面について浮いているように歩いていた。
そのあとをつくのは大変だった。額から汗がにじみ、短い衣のすそがべったりと太ももにへばりついた。たちどまって、額の汗をぬぐう。蝶女がふりむいて、うなじをかしげていった。
「そうでしたね。新しい地の娘だったのですね。もうすこしゆっくりまいりましょう」
それでもついていくには早足でないといけなかった。
両側におおいかぶさるように繁っていた木々が規則正しく両側に並ぶ。しばらく歩くと真正面に板塀が出てきた。板塀の先に、大きな瓦葺きの屋根がみえた。
「もうすぐですよ」
つきあたりにまた楼門があった。先と同じように屋根が二層になっていたが、柱の色は朱色。扉は鉄であった。両側に塀が伸びていた。
蝶女は扉の前でとまった。
鉄扉の真ん中にある猛獣の顔。その口を押すと、ギギーと観音開きにあいた。
なかの建物が真正面にあらわれた。目にとびこんできた何本もの朱色の柱。真っ白な壁がその間をうめ、黒い瓦が屋根を覆っていた。建物の前には砂利が一面敷き詰められ、緑の木が所々に植えられていた。
建物の正面に、木組みの階段があった。
「ここが、これから暮らすあなたの館です」
階段をあがるとひとりがとおれるぐらいの回廊がめぐっていた。だがあがった先に、観音開きの木の扉があった。扉にはみごとな絵文字がほられている。見とれていると、
「みんな待っていますから……」
蝶女は扉をゆっくりと部屋の方に押した。
扉の中に入ったとたん、真弥は思わず「まあ」と声をあげた。板ばりの大広間だ。中央に通路ができ、ついたてがいくつも行儀良くならんでいる。どれだけの広さなのか計り知れない。通路をすすむと、そのついたては全く同じ間隔で両側に立っていることがわかった。
「わたしたちはここで暮らしています」
ついたてでしきられているだけの部屋ということだ。
蝶女が少し大きな声をだす。
「真弥をおつれしましたよ」
すると、あちこちのついたてが動き、娘たちが顔を出したのだ。いっせいに顔をだしたもぐらのようで、真弥はぎゅっとこぶしをにぎりみがまえた。だがそれはほんの一瞬。顔をだしたむすめたちに、真弥はほっとした。真弥とよく似た年頃のやさしそうなそしてとてもきれいな顔顔が並んでいた。
蝶女がりんとした声で言う。
「新しい地の娘ですよ。そっとおいでなさい」
娘たちはクククとわらってついたての横から走りでる。ほんの一呼吸ほどで、真弥は娘たちにとりかこまれていた。四人の娘たちはすべるように真弥のところへやってきた。
「あら、うれしいこと」
「あたらしいお方ね」
「あたしの名前は……」
それぞれに自分の名前を小鳥がさえずるように嬉々として話した。
冠女、荒女、倒女、泣女、そして蝶女。奇妙な名前ばかりだ。真弥もあわてて「真弥といいます」と言った。言いながら、頬がほっ、ほっ、あつくなっていく。さっきはじめて蝶女にであったときと同じような感覚が身体を包む。こんなにさわやかでうれしそうでそれにきれいな人たちを見たことがない。
名前をしっかりおぼえようとしても一度に五人も暗記できるはずがない。だが真弥は不思議にそれぞれの特徴をとらえることができた。
肩掛けの長布の色と顔がいかにも似合っていたからだ。
思い思いの淡色の絹衣の上から特色のある少し濃いめの長い肩掛けをしていた。肩掛けは「ひれ」とよばれた。蝶女は若草色のひれと、髪型は肩にかかるほどのおかっぱ。色白の顔と黒髪と若草色はとてもよくにあっていた。
冠女は顔と同じぐらいの髷がゆっている。蜂の巣のようだなと真弥は思っておもわず笑ってしまった。ひれは山吹色である。
荒女のひれは紅色で一番短い髪だ。反対に一番長い髪の人は倒女。よく小首をかしげ、たれた髪をなびかせる。うす紫のひれをつける。泣女は水色。髪はうしろにひとつにくくっていた。
「真弥、あなたは桃色のひれになりますね」
倒女の声に、真弥はきょとんとしていた。荒女が、真弥の腰紐を指さした。
「まあ」
うすよごれているはずの腰紐が美しい薄桃色をしていた。
「とてもすてきな色ね。でもずいぶん古くなっています。真弥は着替えをするといいですね」
と、蝶女が言った。最後に、
「この館ではみんな、望みをもって励んでいます」
真弥は誰もが何かの願いをもってここへきたのだと聞かされた。
真弥はついたてでしきられた一角に案内された。中にはいった真弥はおどろいた。
中はきちんとした部屋のようだった。三隅は全部ついたてで区切られているが、一カ所は外にむかっていた。出窓になっていて、そとからすずしい風がはいってきた。明かりはこの窓と天井にできたあかりとりからだった。それで充分あかるかった。
囲っているついたては広く大きく、うす桃色をしている。
部屋には文机、衣装箱、化粧台がそれぞれひと揃えずつおいてある。上品な褐色の色と木目模様に、真弥の心はときめいた。
真弥にとって淡い桃色は特別な色だ。かかさまを思い出す色……。真弥は胸にある首かざりをそっとなでた。自分のの首飾りはかかさまとはぐれた時からなくなっている。そのかわりにかかさまが残してくれた首飾りが胸にあった。かかさまの形見の品だ。
「かかさま、ありがとう。ここまでやってくることが出来ました。待っていてください。きっと大ワシのすみかをみつけますから」
文机の上に新しい衣装がおいてあった。蝶女が「着替えてくださいね」と言っていたことを思い出す。まっしろな衣にきがえた真弥は今まで着ていたうすよごれ、すりきれた衣をていねいにたたむ。そしてふと思った。
いったい誰が新しい衣装を用意してくれたのかしら?
この古い衣はどうしたらいいのかしら?
うしろのついたてがゆれて、蝶女の声がした。
「真弥。いそいでください! みんな、まっていますからね。今夜、あなたの歓迎会があります」
ついたてをちょっと横にずらして、外をのぞいてみる。さきほどの娘たちがそろって立っていた。頭や肩からひれをはおっている。天女たちが舞い降りたように美しい。
真弥も薄桃色のひれをとった。わきあがるうれしさに、真弥は自分の気持ちでありながら戸惑うほどだ。
歓迎会の食卓について、真弥の疑問は解決した。あらゆる雑用は脱鬼が担当していた。あの大橋の上でたむろし、真弥をおどしたあの脱鬼たちである。黙々と掃除をし、洗濯をし、食事をまかなう。影のように動いていた。
歓迎会といっても真弥を入れてたったの六人。巨大な丸太の台をかこんでの食事だった。ただ真弥の真向かいにあたる場に誰もすわっていない椅子があった。背もたれや腕おきのついたりっぱなものだ。真弥はその椅子に最後まで誰もすわらなかったことが不思議でならなかった。歓迎会のあと、蝶女が教えてくれた。
「総者さまがいらっしゃってたのよ。あなたにはみえなかったでしょうが……」
おどろく真弥に、
「誰だってはじめからあの方の姿をみれるなんてことはありません」
と、冠女。荒女が、
「これから、学べばいいのです」
「ただ心の術を磨くことに励みましょう。きっと天界入りがゆるされます」
泣女が天をあおいて言った。見上げる空は黄色のもやにつつまれ、もやのむこうにぼんやりとまるい月がみえた。夜のはずなのに、その下に緑の木々と緑の地面がつづく。緑の地をおびやかすように黒い帯がちらちらとうごめいていた。
はっきりとみっつの色をみることができたのはほんの一瞬だった。だが真弥は実感していた。自分は小郷村とはまるでちがう世界にいるのだ。天と地と闇にわかれた世界だ。自分は今「地」の世界に住んでいる。天はあくまでも美しい金色を、地はのびやかな緑を、闇はどこまでも暗黒を保護色にして存在していた。
そして天界入りが許される頃には、真弥は空をとんでいる。空をとんでいるということは、あの大ワシをさがすことができる。かかさまのことがわかるのだ。
次の日から、真弥は娘たちと一緒に道場へ通うことになった。
道場は真弥たちの住む館からそんなに遠くはない。白い砂利道をおしゃべりしながら行く。今日の朝げはおいしかったとか、衣装が気にいらなくてね、脱鬼を困らせてしまったとか、たわいのないことを話しているとすぐに到着する。
ただ娘たちの住む館とはくらべものにならないほどに大きい建物だった。
屋根が大山のようにそびえていた。ひさしがたてものをかこい、鉄製の何個かの観音扉があった。
その中のひとつだけが中開きになっている。そこへ娘たちはまるで自分の部屋に入るようにすたすたとはいっていく。真弥も一番うしろからついていった。はいったとたん、
「何?」
がらんとしたなにもない大広場が目にとびこんできた。真正面に大きな掛け軸がかかっていた。月や星や太陽や木や草や花、虫や鳥や小動物が描かれている。掛け軸の前に丸座が七つ無造作においてある。
掛け軸の前の座を残して、真弥たちはおもいおもいの座にすわった。
ギギギー
後の扉がしまりはじめた。
ギイイー
しまったとたんにあたりは漆黒の闇につつまれた。
「うう」
真弥はいいようのない恐怖におそわれた。
身動きの出来ないまま息をこらす。目が闇になれてくると、掛け軸の前にぼおーとひかっている丸座がみえた。
そこに誰がすわるのか想像できた。総者さまだ。
ほんのまばたき程度のあと、ひかりのかたまりがその座にすわった。火の玉ではない。もっとうすくもやがたったようであった。その姿は真弥にはまったくみえなかった。かたることばも遠くで聞くいかづちのようだ。
どれだけの時をすごしたのか真弥にはわからなかった。やがて後の扉が開き、あかりが戻ってきたとき、道場での学びがおわったことを知る。
そんな日が一ヶ月ほどもつづいた。
毎日毎日、かすかな光と音をみつめてすごす。
ときおりほんの一瞬だが、総者と娘たちを垣間見るときがある。きみょうな光景だった。誰もが鳥のように一本足でたっていたり、亀のように丸くなっていたり、時には訳のわからない言葉がわーととびこんできたりした。
寝つかれない夜がつづいた。幅広の窓からはいる月光をみつめながら、ふっととうさまやにいさんたちや妹たち、白布女やおばばの顔を思い出した。ぼーと目の前がかすんできた。涙が頬をつたう。
思いはどんどん暗くなっていく。
私はいったい何をしているのだろう。どうしたら心術というものを学べるのだ? こんなことでどうして空をとべるというのだ? どうしてかかさまを助けることができるのだ?
ますます真弥は眠ることができなくなった。
ある夜、突然枕元で、誰かが叫んだ。
「闇におちるよ!」
真弥はとびおきた。ひとりの脱鬼がすわっている。
「まあ、脱鬼! おどろくじゃありませんか! わたしはあなたを呼んでいません」
と、その脱鬼が真弥をにらみつけて、
「フン、呼ばれなくてもこれるのさ! あたしゃ、脱鬼は脱鬼でもそんじょそこらのやつとちょっとちがうんだ!」
真弥は、
「あ、わたしをここへ案内した脱鬼さん!」
「脱鬼さんじゃない! 脱鬼でいい! そうだよ。真弥、ずっとあんたをみているんだがね。そんなに小郷村をなつかしんでいたら、闇におとされるよ」
「闇?」
「そうさ! あんたには黒いもやにしかみえないだろうがね。この世界には闇がどんなに広く深くおおっていることかわかるまい。闇におとされたが最後、なかなか天界、いえ、この地界の表にすらでてくることができない! 天界にあがる! とんでもない。空をとぶんだって、へっ! かかさまだって、へへっ! とんでもないことさ」
その時、真弥の背中をつめたいものがはしった。得体の知れない黒いいきものがせまってくる。
脱鬼がきびしい口調になって言った。
「真弥、おまえはただ、前をむいて進むことさ」
真弥の顔をのぞき込み、
「おまえの夢はなんだったんだい?」
「空をとんで……、かかさまをみつけて……」
真弥は小さな声でもそもそと言う。
「そうだろ。でっかい夢じゃないか! それじゃなおさら今日のことは今日でおしまい。しっかり眠って、明日にむかうんだ!」
真弥は目をとじた。
その夜、かあさんとぜんまいとりをしている夢をみた。一緒にうたった歌が朝になっても真弥の耳に残っていた。
「
まーわる
まわる
ぜんまい
まわる
まーわる
ぜんまい
なぜ
まわる
郷みて
まわる
宙みて
まわる
」
次の日も、真弥たちは道場にむかう。
道場の入り口の扉がしまったとたんに、真弥の目の前に不思議な情景がうかびはじめた。いつも目の前をおおっていたもやがとけていく。緑の広場があらわれた。そんなにおおきくはない。よく地の娘たちでゆうげの宴をするほどのひろさだった。
真ん中に総者が木の杖をもってたっていた。長い髪は真っ白。ひげも白くのびている。背が高く、ひょろりと立つ姿は決してこわいというのではない。むしろやさしい。だが真弥の足はぶるぶるとふるえ、なかなかとまらなかった。
「落ち着きなさい。真弥、わたしをしっかりみるように」
声が耳にとどくと同時に、総者はいきなりうしろへとんだ。そこには小さなカラスが一羽こちらをみていた。
「わあ!」
真弥はあっけにとられてみつめる。総者はカラスのからだを宙にうかすと、あっというまにもとの姿にもどった。
「真弥、やってみなさい」
「はい」
だが総者のすばやい動きをまねるなんてとてもできない。どうしょうと思った時、脱鬼のことを思い出した。真弥を絶壁から谷下の平地まで運んでやるとえらそうに言った脱鬼。変身してみせたのはカラスだった。あの時、たしかに脱鬼は背転をした。脱鬼をまねてみよう。脱鬼のように背転をしてみよう。
真弥は総者をまねたのではなかった。必死で脱鬼のことをおもいおこし、行動していた。
ゴゴーン!
頭を床にぶつけて、目の前がまっくろになった。
「真弥、わたしの声をきくように」
もうろうとする意識の中に、おかしな声がはいってきた。
「カミナガシ、タマチコウコウ
タマチナガシ、カミチトウトウ」
カラスにはカラスになるための呪文が必要だった。空をとぶものになるには形だけでなく呪文をおぼえていかないといけなかった。
この日から、真弥は総者の姿の模倣だけでなく、言葉の一句一句まちがうことのないように覚えていくことになった。
背転をして呪文をからめる。目がくらくらとするなかで一心に総者の教えてくれた呪文をとなえる。
「カミナガシ、タマチコウコウ
タマチナガシ、カミチトウトウ」
一瞬、身体が軽くなる。しっかりと目をあけてたちあがった。
「う?」
きみょうな感覚に、目を足のほうにおとすと、
「あ!」
鳥の足になっている。バタバタと動く羽の手。真弥はもんどりうって、ひっくりかえった。そういえば、脱鬼だってひっくりかえった。カラスになれたことにおどろいて、羽をばたつかせたではないか。
真弥も羽をバタバタ。あちこち、はしりまわる。
「なれた、なれた、カラスになれた!」
背転をして呪文。呪文をとなえて背転。いや同時にやらないといけない。カラスに変身できる回数が多くなっていった。
とぶことはできないが、羽を動かすだけで、真弥はうれしかった。もうすぐ空をとぶことができるのだ。空をとぶ、それは真弥が地界入りの娘となった大きな理由でもある。空をとんで大ワシにであうのだ。
「かかさま……」
胸にかかるかかさまの形見の首かざりは今もまだ色あせていない。
「真弥、カラスのまま、ここまでとびあがりなさい」
とつぜんの総者の命令だった。
「はい」
だが、返事ほどにうまくいくものではなかった。木の上までとびあがるのがせいいっぱい。羽をバタバタしたとたんに地面におちている。なんどもしりもちのくりかえしだ。
とびあがるだけの日が何日もつづいた。
ある時、さわやかな風がカラスになった真弥の羽をなでた。
「いい気持ち……」
ふうと息をすって、左右の羽をゆっくりと動かした。と、吸った息にあわしたように、すーと身体が浮いたのだ。まったくの偶然だった。
「う? 息を吸うとうかぶのかしら。息をはくとどうなる?」
息をすること、呼吸がどんなに大事かを真弥が体得した一瞬だった。
真弥は総者の息の出ると入るとを観察しはじめた。総者は白いひげをゆらして、
「真弥、わたしがどのような呼吸をしているか、わかるかい」
真弥は一心に総者の息の入りと出をさがす。羽が浮くのときっと関係があるのだ。
総者が息を吸って、羽を動かすと、
「わあ、飛んでいる……」
真弥はつぶやいた。
総者が息をとめていると、
「空中に浮いている……」
総者が息をはきだし、羽を動かすと、
「地におりていく……」
真弥は少しずつ飛べるようになっていった。
カラスの変身術をてがけるようになって、あの案内役の脱鬼のことをおもいだした。だが真弥にはどの脱鬼も同じにみえてみつけることが出来なかった。それに脱鬼たちは恐ろしい顔で恐ろしい速さで動きまわり働いていた。
真弥は空いた時間を地の娘たちとすごす。それぞれのの古里の遊びを順番に楽しんだ。真弥は沼であそんだ石すべらしを教えたが、みんなはすぐに上手になった。荒女など兄たちよりもうまいほどだ。石けりやかくれんぼなどもよくする。真弥はここにきて二年、もうすぐ十三歳になるはずだ。他の地の娘たちはそれ以上の年だ。喜々として遊びに興じる姿は子どものようだった。
道場の学びが急に休みになったり、早くおわったりすると、真弥と蝶女はよくカラスになって遊びにでかけた。蝶女は蛍のように光をつくるむつかしい変身も、大きな姿の鳶の姿にもなることができた。けれど真弥とでかけるときはいつも、
「カラスに変身しましょう」
という。
真弥は道場以外でもなんどもカラスに変身する機会ができて、ぐんぐん黒い羽を強くしていった。
地の娘館をでて、東へ東へ飛んでいった日のことだ。森や川や池をこえて、ふたりは結構とおくまでいった。
蝶女が、
「真弥、下をみてごらんなさい」
川がゆうゆうと流れていた。真っ赤な欄干のある大きな橋がかかっていた。
「まあー、赤い欄干……」
真弥がおどろきの声をあげた。
地の世界の入り口の川にかかっていた橋にちがいない。みおぼえのある頭でっかちの脱鬼たちがうごめいている。あの赤い橋の前で真弥はぽかんとたちつくしていたっけ。
「急ぐんだよ! すぐにきえちまうよ!」
と、脱鬼が真弥を急がしたけれど、橋はきえなかった。そのかわり、真弥は心臓がとびだすほど、おどろいた。氷のように冷たく、ぬるっとした何かが真弥の足を突然、ぎゅっとつかまえたからだ。そやつらは要求してきたっけ。
「通行料!」
真弥はさけんでいた。
「ふふふ、真弥も思い出してるのですね」
と、蝶女。真弥は、
「蝶女も通行料を納めたのですか?」
「おじさまからいただいた椎の実ぜーんぶ、とられてしまいました!」
「わたしは沼縁のおばばからいただいた、栗の実ぜーんぶ」
脱鬼たちにむかって、ふたりは大声でさけんだ。
「わるものー、わるものー」
だが、脱鬼たちの耳には「カア、カア、カア」と執拗になく声しかきこえない。
上をみあげ、こぶしをふりあげて、
「うるさーい!」
「はやくとびされー!」
真弥たちはもう怖くはない。二人は「ふふふ」「ははは」笑いながら橋の上をいきつ、もどりつ、飛んだ。脱鬼の耳には「カーカー」ずいぶんうるさくきこえたにちがいない。
夏のはじめのある日、総者がみんなにいった。
「里帰りをゆるそう。今年は真弥も行きなさい」
とたんに、
「わー!」
と歓声があがった。
里帰りとは、地の娘たちにあたえられるごほうびだ。大きな術を習得すると、一日だけ自分の好きな所、「里」へ帰ることがゆるされる。
「真弥、おめでとう!」
蝶女がまっさきに抱きついてきた。甘いにおいが遠のくと、つぎつぎ、地の娘たちがよってくる。冠女、荒女、倒女、泣女たちが心からよろこんでいるふうだ。
「一人前の地の娘ね」
「ともに天空をめざしましょうね」
「あなたの望みがかなえられるのも、もうすぐですね」
真弥は「望み」という言葉をきいて、かっと胸が痛くなった。
「真弥……、よかったね」
かかさまの声がきこえた気がした。
この里帰りこそが地の娘たちに課せられた総者からの試練だとは、誰も気づいていない。
その晩、ひさしぶりに案内役だった脱鬼が真弥の部屋へやってきた。木のうつわに明日の朝用のシイの実だんごを二つのせている。まだゆげがあがっていた。
「あたしゃ、あんたのことが気になってね」
と言う。
「久しぶりね、脱鬼。そうだ。あなたはシイの実だんごが大好きだったわね」
脱鬼は食べるものならなんでも好きなのだ。そのようなことを言えば絶対に食べてしまうに決まっていた。
クククとふくみわらいをしたと思うと、脱鬼はふたつとも一度に口にほおりこんだ。もぐもぐいわしながら言う。
「いいかい……、うん、なかなかうまいよ、これは……。うん、そうだ。真弥、いいかい、小郷村に帰って、村に残ろうなんて、里心を出してはいけないよ! ああ、悪かったね。みんな食べちゃった。誰にもいわないでおくれよ。総者さまにわかったら、当分、この地へ出てこれないよ。ああ、ところで、真弥! いや、こんなことおまえにいってはいけないんだが……。けど、いっておく。いいかい、どんなことがあってももどってくるんだ。そうでないとあんたは闇に落ちる。わたしゃ、おもしろい、おもしろいけどね。いいかい、小郷村に残るんじゃないよ」
「脱鬼は何をいっているのですか? わたしは小郷村に残るなんてことはありえません。まだかかさまを探しだしてはいないのですから……」
真弥は胸に手をあてた。かかさまの形見の沼玉が手の中でころころと動いた。
(つづく)
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