花雨の向こう
第三章 脱鬼と楠羅
真弥は何かに導かれる木の間をぬって歩いた。木もまばらになり、足もとは柔らかい草地になった。月明かりに草も木も銀色に輝き、風がふきぬけていく。
先に森がみえた。真弥は一気に、森にむかって走った。小郷村に近づく気がしたからだ。
木々の茂る中にとびこんだ真弥はたちつくす。五、六人が輪になって座れるほどの広場があったからだ。今ここにいるのは自分ひとりだ。恐ろしい闇をみないで、真弥は月明かりの下にいる。
突っ立っている真弥の目の前に小さな岩があった。丸くなってひなたぼこをしている猫のようだ。祠の前の石台にも見える。祭の日にはたくさんの供え物が並ぶのだ。
汗だくの真弥の身体をさわやかな風が吹き、月が明るく照らした。ああ、夜になってしまったのだ。とうさまはきっと心配しているだろう。兄さんたちはわたしたちをさがしているだろう。妹や白布女やおばばはどうしているかしら。早く早くかえらないと……。
だが身体が動かない。身体中が地面に落ち込んでいくようだ。
両足を前にだし、両手を地面について、こうこうと照る月をみつめた。
と、その時突然ぐぐーとお腹がなったのだ。真弥ははじめて気がつく。
「ああ、お腹がすいた……」
どんなに不安になってもお腹はすくものだなあと思うと、真弥の固まっていた身体がふわっと柔らかくなった。
「そうだ! かかさまの袋のシイの実だんご!」
真弥は石台に真向かうようにしてすわる。袋からシイの実だんごをとりだした。シイの葉につつまれただんごが六つあった。二つを食べた。もっと食べたいと思ったが、やめた。かかさまもきっとお腹をすかしているにちがいないと思った。丁寧に残りの四個を袋にしまう。
月の光が真上から真弥をてらし、時折吹く風が束ねた髪を小さくゆらした。
真弥はゆっくりとあたりをみまわした。自分をかこむようにひくい草が生え、草をかこむように雑木が立ち、さらに高い木々がそのうしらをかこっていた。月明かりに照らされた黒の濃淡の美しさを、真弥はぼーとみつめた。その時だった。
石台に似た岩が突然ちかっとひかったのだ。
「何?」
じっとみつめた真弥は、
「わああああー」
悲鳴を上げ、上向きにひっくりかえった。
ひかった石台が地面から浮きあがったのである。
両手をつき、立ちあがろうとしたが、腰がひけてあがらない。ようやく頭をもちあげ、まばたきをこらえて、信じられない光景をみつめた。
やっぱり石が浮いている、
と、いきなり、人の声。
「アハッ、アハッ。おどろいてる、おどろいてる。泣いてるよりましだわい」
石の上ににゅっとでっかい顔があらわれた。驚きすぎると声さえもでない。
「……」
身動きのできない真弥は真正面から異様な顔をみることになった。夜の沼のような土色の顔だ。満月のような丸い目がぎょろりと動いた。
「ほい! じろじろみるな。目も口も鼻もあんたと同じさ! 手も足もあんたとおんなじだろ!」
と、怒りだし、浮いている石を右足で軽石のようにぽんとけった。ころっとその場にころがり、横向きになった。
とたんに、その者の全身が見える。真弥の腰ぐらいしかない小さな老女だった。袖口も足首もすぼんだ形の上衣と下衣をはいている。色は灰色だ。
「あんた、どこから来た? 郷の娘かい?」
沼縁のおばばよりもっとかすれた低い声で言った。
こっくりとうなあずくと、ぷっとほおをふくらます。
「いいもの、もってるじゃないか!」
真弥は袋を衣の中にかくし、まばたきもしないで奇妙な老婆をみつめた。
「じろじろみるんじゃない! ほれ、目も鼻も口もちゃんとあるだろ」
たしかに小さなこぶのような鼻も薄っぺらい口もついている。もしゃもしゃの黒い縮れ毛もわかる。が、真弥は何もいえない。
「……」
「言ってるのがわかんないのかい。ほい! はやく、袋の物をおだし。そしたらあんたを助けてやるからさ」
真弥は急いで袋に手をいれ、シイの実だんごをひとつ取り出しだ。ひったくると、一口で口の中へ。老婆は赤い舌でくちのまわりをなめると言った。
「名前はなんていうんだ」
「真弥……」
「真弥かい、あたしゃ、闇からきた脱鬼っていうんだ。おや、わしをみて怖がらないのかい?」
真弥にとっては恐いと言うより、むしろうれしかった。こんなところで人に出会えたのだ。もしかしたらかかさまのことがわかるかもしれないと思った。「かかさまを探しています」
とたんに、太い黒い眉がびゅんとあがった。
「恐くないのかいってきいてるんだよ」
真弥はじっときみょうな顔をみつめて、
「恐くありません」
今度は目尻がさがる。
「そうかい、そうかい。なら、いい。それから、よろしくっていわないのかい」
あわてて真弥は、
「よろしくお願いします」
と言った。
「よろしい! あたしゃ、挨拶をしない子はきらいでね。挨拶しなかったら、何も教えてやらないと思ったのさ」
「教えてください。かかさまをみかけませんでしたか?」
「誰にもであわなかった。おまえがはじめてだ。闇の脱鬼たちの噂だがね、大ワシにさらわれた者がいたって話さ」
「ああ、やっぱりかかさまは……。大ワシはどこにいるのですか?」
「アハッ! 大ワシを探しに行くきかい」
「かかさまにあいたいのです」
「そりゃ、大変だ! 空をとばないといけないねえ」
脱鬼は短い足の片方をひょいと前に出すと、いきなり踊り出した。顔が重たいのか今にも前に倒れそうになったり、後へひっくりかえりそうになりながら、それでも踊っている。踊りをやめると、大きな頭をゆっさゆっさゆらして真弥の方をむいた。
「おまえ! あきれたことを言うんじゃないよ。おまえはまだ『地の娘』館にも行っていない。だのに、空をとびたいだって! それもかあさんを助けたいだって……、あきれた娘だ。身の程知らず、世間知らず、大馬鹿者……」
ひとしきり、悪態をつくと、頭をぐるんと一回転させた。
「アハッ、そうだな。お前のかかさまがみつからないわけでもない。おまえがきちんと館で修業できたなら、その大ワシのところへいけるかもしれんからな」
「脱鬼さん、教えてください。わたしをその修業できる館へ連れていってください。かかさまに会いたいのです」
脱鬼は首を右に傾け、口をとがらす。何かをぶつぶつ言いながら、一生懸命考えているふうだった。
――わしにとって、いいことかもしれないぞ。館へ連れていくと、ほうびに闇からだしてもらえるかもしれない。いや、この娘をつれていく間は闇の中でなく、こうして地の上を歩けるではないか。う? わしはどうもこいつに出会うように言われてきた気がするな。ああ、どっちにしてもこいつを館までつれていってやろうか! うまくいかなくて、こいつが闇におちるのもおもしろい、おもしろい。
脱鬼は言葉を口に出した。
「つれていかないわけでもないがねえ。あんたが無事に地の娘館にたどりつくかどうか? あんたを連れていかないとはいわないがねえ」
「おねがいします。私の地の娘館へつれていってください」
真弥はしっかりとおじぎをした。脱鬼の足の爪が猪のように鋭く伸びていた。短い膝にはぎっしりと黒い毛が覆っていた。ぎょっとして目をそらし、顔を見上げると、にまっとわらった脱鬼が言った。
「よし、わかった。だがなあ、真弥、たのむからあたしを怒らせないでおくれよ。怒らせると無事につけるかどうか怪しくなるからな」
真弥は大きくうなずいた。
「ついてきな」
脱鬼が下草の茂る雑木林に入った。真弥のほうをむきながらきように後ろ向きに道を進む。というよりひょいひょいと木々の間に道をつくって進む。真弥は対面しながら道を行く。真弥が不思議に思うこと、脱鬼はどこからきたのかとか、ここはどこなのかなどを聞こうとした。が、脱鬼はとぎれなく話し続けるので、口をはさめない。
「全く、あんたは元気な子だよ、いや、わがままでなくてよかった、どんなにごちそうをつくっても、おいしいっていってくれないとせがないだろ、それにあたしがせっかく部屋をきれいにしてもすぐよごす子はごめんだよ、ひとこともありがとうっていわない子もね……」
その合間に、大きな声で、
「ほい!」
とか、
「えいやっ」
とさけぶ。
脱鬼は真弥を見て後ろ向きに歩く。跳んでいるわりにはゆっくりだったので、真弥はそんなにあせることなくついていけた。時折いら草に足をとられたり、とびでた岩にからだをぶつけたりすることがあったが遅れないようについて行った。
脱鬼が突然たちどまった。
「真弥、あたしゃ、さっきから気になっていたんだがね。背中の袋、何がはいってるんだい」
「あの……」
「あれ、ふたつもあるじゃないか? あたしにみせな」
真弥がもそもそとしていると、
「ああ、じれったいね。早くおだし!」
袋のひとつが首からおろされた。ひったくるようにとると、口をあける。
「お、これはいい! さっきの椎の実だんごじゃないか! あたしの大好物だよ」
地面に椎の実だんごをぶちまける。残っていた三個のだんごに茶褐色の土がへばりついた。まるでうさぎかりすが食べ物をあさるようにして、脱鬼はあっというまに地面のだんごを口に運び、食べてしまった。
「どうして?」
真弥はこのような食べ方をする人をみたことがなかった。全部たべおわると、顔をこちらにむけた。
「何をじっとみてるんだい! 目も鼻も口もおんなじだっていってるだろ。ああ、そうそう。もうひとつ袋があるだろ」
真弥はきっと脱鬼をみすえる。
「これはだめです。かかさまにわたします」
「ほう、なんて生意気な子だろうね。あたしにさからって、ちゃんと『地の娘館』までいけるとおもってるんかい」
真弥はとっさにもうこの者に頼るしかないのだと思った。きっと脱鬼の顔を見下ろすと、凜とした声で言った。
「約束したでしょ! 地の館まで連れていくと」
とたんに、脱鬼が直立した。
「ほい! そうだった! 約束したのだった!」
もじょもじゃの頭をかくと、薄っぺらい唇を耳元までひろげ、にまっと笑った。
「わしはいいことをしてるんだ。だからまだ闇へもどらなくてもいいんだ」
またわけのわからないことを言う。
真弥は両手で袋を大事にかかえこみ、じっと脱鬼をみつめた。「そんなににらむんじゃないよ。そりゃあ、あたしゃ、椎の実だんごを全部喰ってしまって悪かったと思ってるよ。むこうについても告げ口をしないでおくれよ」
真弥はわけもわからないまま、うなずいた。
歩き始めてほんの五、六十歩、脱鬼がまたふりむいた。
「ああ、もうがまんができない! おまえ、もうひとつの袋をこちらによこすんだよ」
大きな目をつりあげ、くちびるが燃えるように真っ赤になっている。
すごい勢いで袋をひったくると、地面に中のものをぶちまけた。
十一才の少女にはどうしようもなかった。
地面にぶちまかれた山芋はあっというまに脱鬼の口に入った。真弥はもうかかさまと一緒に食べるものがない。
あとは沼縁のおばばが袋にいれてもたしてくれた栗の実がある。かくせおおせるだろうか、これだけは脱鬼に取られたくない。地の娘館にいって、食べるものがあるのだろうか?
脱鬼は陽気に歌などうたいながら進む。木々がうっそうとしげっているから、光が届かない。闇の先の脱鬼についていくのは大変だ。のべつ幕なしにしゃべる声をたよりについていく。
先がほっとあかるくなった。脱鬼は飛び跳ねる格好で身体を回転し、前向きになって明かるい方にむかう。真弥も後を追った。
月明かりの中にでた。道がはっきりとみえる。
道は低い雑木林の中をまっすぐ延びていた。
その時、真弥はふと自分はいったいどこへつれていかれるのだろうとむしょうに不安になった。思ったとたんにはっと気がつく。まわりはやけに静かなのだ。森の中では風も吹き、草いきれににた匂いもし、何より脱鬼の声が鳴っていた。だが脱鬼が口をつぐんでいるのではないか? どうして自分の耳に何もきこえないのだろう?
月の光はしっかりと脱鬼を映し出している。足早になった脱鬼を、真弥は必死で追う。どんどん離されていく距離を縮めようと走るので、汗が額に噴き出てきた。まとわりつく笹や雑草を手でかきわけて走る。喉が痛い。息がつまりそうだ。
前を行く脱鬼がぼんやりとしてくる。
音もなく、目の前のものまでがかすんでくる。それでもあえぐように真弥は前に進んだ。
遠くて、
ホウー
ホオウー
小さな音が、いや鳴き声がする。
ふくろうのようだ。真弥は絞り出すような声で脱鬼に声をかけた。
「フクロウが鳴いてるー」
とたんに脱鬼の声が耳元で爆発したのだ。
「こっちだ! 止まるな、真弥!」
脱鬼はこちらを向いて立っている。真弥が近づくまで大声でしゃべり続けた。
「チッ、あたしゃ、ふくろうがきらいなんだよ。ほう、ほうって、悲しい声でさ。ああ、鳴くなー、うるさい、うるさい、うるさーい。真弥、何をぐずぐずしてるんだ! もっと走れ!」
がらがら声をはりあげる。
真弥は脱鬼がしっかりみえるところまで駆けた。喉も痛いし、息もきれそうだったが、なぜかうれしくほっとして醜い脱鬼をみつめた。
脱鬼が大声をあげる。
「わしについてこないと、こんなところで置いてきぼり! ウヒィ、闇界へ落ちるんだ!それも、おもしろい、おもしろい!」
やがてふくろうの鳴き声もしなくなったが、ときどききらりとひかる目が左右を走るようになった。その目のあたりから、
ウウー
ウウウー
ぶきみなうなり声がきこえた。真弥が声のほうをみそうになると、
「みるんじゃない! あれは狼。手におえるものじゃないんだ。まっすぐ、あたしをみてついてくる!」
脱鬼は今までにない大きな声でうたった。
「
ほいほいほーい
おいらは脱鬼
闇のもの
夜がすぎると朝がくる
闇のなかに光がともる
アハッ、アハッ
朝がくるまで
光がともるまで
おどっていこうぜ
ほいほいほーい
」
ふいに脱鬼がうたうのをやめる。こちらをむくと、にっと白い歯をみせた。
「真弥! よくついてきた! 今まで何も文句をいわなかった! あたしゃあ、気にいった」
遠くに淡い黄色の光が見える。だんだんと赤紫にかわっていく。
「ほいっさ! もうすぐさ。あの明かりのむこうが「地の娘館」のある里さ。ああ、あんたは幸運な娘だね。ここまでやってこれるとはね」
脱鬼が光に向かってかけだす。真弥も後を追う。紫かかっていた黄色がどんどん金色にかがやきはじめた。
「夜が明けたんだ! 朝がきたんだ」
脱鬼はおどるようにして光の中にはいっていった。
長い一日、真弥は一睡もしていない。だが不思議にねむくはなかった。今はお腹がすいて歩けないということもない。
脱鬼に続いて、真弥も光のなかにとびこんだ。
「あ」
まぶしさに目をとじ、うしろへさがる。
さわやかな風がほおをぬけ、衣のすそをゆらし、裸足の足をなでた。
真弥は「ふうう」と大きな呼吸をひとつすると、ゆっくりと目をあけた。
「……」
なんということだ!
真弥は絶壁の上に立っていた。
眼下に、壮大な緑の原がひろがっていた。まるで線引きをしたように濃い緑と淡い緑が交錯している。濃い緑は森で薄いところは平地のようだ。平地には茶色の四角い建物がいくつかみえる。はるか銀色に輝く帯は川である。川のむこうに高峰が連なっていた。この景色はどこかでみたような気がする。だが小郷村の景色ではない。
頭がくらくらとする。へなへなとその場にすわりこんだ。
脱鬼が、チッというと、近くの岩につばをはきかけ、
「さ、急ごう! ほら、うしろで、森のけものたちがさわぎだしたよ」
と言った。
真弥ははっとした。ふりかえると、しげみのなかのあちこちできらっ、きらっと光るものがあった。
「狼?」
「アハッ、あのものたちともおわかれだよ。いそぐよ、真弥」
急ぐといわれても前は絶壁ではないか!
「どうしよう……」
頭が混乱していた。何を考えたらいいのだ。
「ほい! 飛び降りるのさ!」
「え?」
「やっほーって、空に飛び出すのさ」
脱鬼はまるで道にできた水たまりをとびこえるようにいとも簡単に言う。
「そんなこと……」
実際に出来るはずがない。あまりにも信じがたいことに、真弥は脱鬼の顔をまじまじとみてしまった。案の定、勢いのある声がひびく。
「じろじろみるんじゃないよ。目も鼻も口もちゃんとあるだろが!」
それでも真弥の目は脱鬼の丸い目からはなれられない。すわりこんだまま、真弥は考えた。ここで私の命はおわりなのかもしれない。こんなところで命を落とすのなら、かかさまと一緒に大ワシにつれていかれたかった。脱鬼の言葉を信じてここまできたのに……。
「真弥。めそめそするんじゃない!」
真弥は顔をあげると、また脱鬼が言った。
「あんたなら、ありがとうもいえる、歌もうたえる、笑いもできる、歩くことも走ることもできるだろう! だったら飛べないはずがないんだ! とぶんだ、とぶんだ、あたしだって助けるからさ」
また息つく間もない早口でしゃべりつづける。脱鬼は何をいっているのだろう。
どのような方法で、私が緑色のあの原へとびおりることができるのだろう。
「どうして助けるというの?」
「後からこうして風をおくってやるさ」
ぷうううと顔をふくらます。風は真弥のからだを崖っぷちにおしやった。
脱鬼は真弥を闇界へつれていきたかった。こんな小娘を自分たちの憧れの地である地界へ、おめおめと送りとどけることなど出来るものか! 脱鬼は思った。先にこいつがとびこんでくれれば確実に真っ逆さまに落ち、そのまま闇界へ一直線だ。脱鬼はにんまり笑って言った。
「この崖から飛び降りると、空飛ぶ術をおしえる道場があるんだ。わたしゃ、これからどうしたらいいのかわからないね。飛んでみることさ」
という。
「それとも、もう一度森にもどるかい?」
真弥は大きく首を振った。
じっと脱鬼をみつめると、
「かかさまのところへいきたいの。大ワシにであいたい」
脱鬼はみつめられて、ますます褐色の顔をてかてかひからせる。
「ああ、そんなにじろじろみるな! わかったよ。わたしゃ、大ワシになれるかもしれん。あの方がでがけに術をかけてくれたから」
脱鬼が身体を一回転させた。バク転をみごとにこなすと、目の前に真弥の頭ほどの黒い生き物がひっくりかえっていた。顔が出、羽があらわれ、ばたばた動いた。
「わあ」
カラスだった。
「カアー。ああ、なんてこった! カラスになってる! あたしゃー、はじめてカラスに変身できたのさ。ああ、スズメやヒヨドリよりはましだろが。なんてあんたは運がいいんだ」
「わたしが運がいい?」
「そうさ。これですこしはあんたの落ちる力をくいとめられるからね。こうしてね」
というと、真弥の衣の衿をくちばしでついばみ、つりあげようとする。
「カラスがこのわたしを?」
真弥はぽかんと突っ立っていた。
脱鬼は羽をばたばたさせて地面にひっくりかえった。
「ほんとは大ワシにならないといけなかったんだ。そりゃ、無理だわ、キャアア」
緑の原までの相当の距離の落下をカラス一羽のくちばしでささえきるなんて無理にきまっている。
「ああ、わたしはどうなっていくのだろう……」
「なに、ぶつぶついってんだよ。はやく、はやく、とびだせ! あんたは運の強い子さ」
真弥も思う。ここまは守られてきたのだ。
「きっときっと何か逃れる手だてがある」
真剣に真弥は考えた。
「あ」
真弥ははっと気がついた。
この景色は……、はるか遠くに峰峰を配し、緑の濃淡を見せる大地、悠々と流れる川のあるこの景色は、山桃採りにさそった少年がみせてくれた。
空に溶け込むような藍色の上下衣と黒い帽子の少年。きっと不思議な力をもった人なのだ。わたしたちが無事に村にもどれたのもあの子、いやあの人のおかげだ。
耳がわっとあつくなった。
「そうだ! あの人をよぼう。藍色の服の人をよぼう」
カラスは真弥のまわりをぎこちなくよちよちまわっていた。どすのきいた声で、
「ああ、なにやってんだ! 早くとびおりるんだ。あたしだって、いつまでもカラスでおれないんだから! ああ、はやく、はやく、とびだせ!」
カラスが真弥の足をつつく。真弥は胸に手を当て、祈った。
「藍色の服をきた人! お願い、助けて」
真弥は目をつむって念じた。が答の声もきかないうちに、うしろから脱鬼カラスの羽がバシッと背中をうった。とたんに真弥は崖から空中にとびだした。
「ぐわわわ、わああ」
真弥は、なきそこねた一番鶏のような声をだした。
目をつむったまま、下へ下へと落ちていく。あの美しい緑の地に落ちて、身体をぶつけて、そのまま死んでしまうのだ。かかさまをさがすこともできない。村に帰ることも、とうさまや兄さんや妹たち、おばばや白布女にももう会えないんだ……。
耳だけでなく、身体中が燃えるように熱くなった。
「ああ、もうすぐ私は死ぬ」
つぶやいた時だ。いきなり身体がふわっと浮いた。何か柔らかいところで、身体が留まっている。耳元で、
バサバサー
バサー
風が両耳をかきたてる。真弥は何が起こっているのか見るのがこわかった。耳を鳴らす風の音がやわらぐ。
真弥はそっと目を開けた。
「わああ」
あたりに景色がない。いや、真弥は空中をとんでいたのだ。
真弥は大きな鳥の背中にうつぶせになっていた。
バサバサー
バサー
「うまいもんだろ、真弥。おっこちないように、しっかり首をつかんでおれ!」
声は藍色服の人だ。
風がひゅうひゅうと顔をうつ。顔も身体も大ワシの背にぴったりとはりつく。両手を出来るだけ大きく開いて首の羽をにぎった。
「よし! 降りるからな」
背中を太陽があたる。のぼりはじめた朝の日のひかりが真弥の身体を暖かく包んだ。
「私は生きて空をとんでいる……」
真弥は暖かさの中で意識がなくなっていった。
カアー、カアー。
カラスが耳元ではげしくないた。
「真弥! しっかりおし。あんたは助かったんだよ」
バサ、バサ、バサ。
鳥の羽ばたく音につづいて、
「カアアー。目をあけるんだよ、真弥!」
の声がする。
重たい真弥の目があいた。
「おお! 気がついたね」
真弥の目に最初にはいってきたのは棒きれのような足だった。つづいて、とがったくちばし。それが横にのびてどんどんうすくなっていった。大きな丸い目が土色の顔にもどってくる。脱鬼がのぞきこんでいた。
「あんたはなんという運のいい子なんだ。楠羅さまに助けていただくなんて!」
「クスラ?」
「そうさ。あんたは大ワシになった楠羅さまに助けられてこの地にきた! なんという幸運な娘なんだ!」
ぱっと立ち上がると、
「脱鬼さん……、あの方はどこなの?」
「何をねぼけとる! おまえが気安く話す相手ではない。楠羅さまは天界の方なんだ!」
「あの人は楠羅というのだ……」
真弥はたちあがると、はるかにそびえる岩をみあげた。あの絶壁から自分をここまで運んでくれた。
上空には朝焼けの黄色の世界がひろがっていた。真弥は夢見るように空をみつめていた。大ワシのすがたはどこにもない。
ぼんやり見上げている真弥に、脱鬼は激しい剣幕で言い放った。
「チッ! 甘えるんじゃない! チッ! いつも楠羅さまに助けてもらうなんておもわないことだ。あんたは地の娘。しっかりと術をまなぶんだよ。ふん、楠羅さまをたよっていると、永遠に空をとべない。かあさんにあいにいくんだろ。そんなに簡単に会えるものか! おまえもあたしのように……チッ、闇の脱鬼になってしまうってこと! アハッ、おもしろい、おもしろい」
真弥は脱鬼をみつめる。
「私も空をとびたい! あの楠羅のように」
「チッ、よくいうよ! きたばかりの小娘が!」
脱鬼がおそろしい剣幕で、
「そうさ。妙な了見おこしたら、何もかもが水の泡さ、もとのもくあみ、いやおまえも闇の脱鬼になるんだな。アハッ、こりゃおもしろい、おもしろい」
水の泡にしてなるものか!
わたしはかかさまと一緒に小郷村へ帰るのだ!
「なら、甘えるんじゃない! いつもいつも運がいいばかりじゃないんだ。チッ!」
真弥はたちあがると、大きくうなずいて、
「わかっています……」
と、もう一度くりかえした。
もう決して楠羅の助けを求めてはいけないのだと思った。
ふたりは再び歩きはじめた。
深い森のなかに入った。脱鬼の顔が密生する木々にあわすようにどんどん黒くなった。ぞっとする形相で、「ふん! 腹の立つ」「こんな森、きらいだね」「チッ、生意気な小娘」といったことばを吐く。ときおり「ほいっ!」と異様なかけごえをかけた。そのたびに真弥は心臓がとまるほどにおどろいた。顔が紅潮していくのがわかる。耳が燃えているように熱かった。
いったいどこまで歩いていくのだろう。
今は脱鬼を信じるしかない。
「ほいっほいっ、ほい、そらっ。ここを走っていこうぜ」
すばしこく木々の間を走りぬける脱鬼。真弥も必死で走った。
かすかな光がときおり足下におちる。遠くで川のせせらぎの音がしはじめた。音のするほうをみると、ぼーと明かるいところがあった。
先をいく脱鬼が両手をあげて、叫んでいる。
「やったあ! 川だ、川だあ。真弥、やっとついた! 『地の娘の館』ももうすぐ。あたしゃ、道をまちがえないで案内してきたってことさ」
朝の光にてらされて、ゆるやかなくだりの草原がひろがっている。真下を、川が流れていた。
「まあー」
真弥がおどろきの声をあげたのはりっぱな橋がかかっていたからだ。小郷村の丸太橋とではくらべものにならない。四、五人が横に並んで歩ける幅だ。木板がきれいに敷かれている。両側を朱塗りの欄干が守り、橋脚に、がっしりとした丸太の主桁と横桁がみえた。
めずらしそうにみていると、脱鬼がどんと真弥の腰をたたいた。
「ぼけっとするんじゃない! ほい、急ぐんだよ!」
脱鬼が走り出し、ぶつぶつという。額に汗がにじみだしている。
「ここをわたらないと……、ここをぬけないと……、チッ、せっかく、ここまできたというのに、チッ」
脱鬼が橋の中央を走る。真弥もあとにつづいた。
ちょうどなかほどまできた時だ。真弥は、
「ひー!」
悲鳴をあげて、その場にとびあがった。氷のようにつめたく、ぬるっとした何かが真弥の足をさわったのだ。
うつむいてみると、欄干のすきまから細長い手がのびて真弥の足をつかんでいる。にゅっと欄干の上に顔があらわれた。脱鬼と同じ土色の顔に丸い目がひかっている。薄いくちびるが動く。
「通行料だよ!」
棒立ちになった真弥のうしろで、脱鬼が叫んだ。
「しまった。みつかった!」
真弥には何のことかかいもくわからない。
「真弥、こいつら、何かくれっていってるのさ。根性なしの脱鬼め。チッ!」
もうその時には頭でっかちのちいさな生き物がつぎからつぎへと欄干をよじのぼり、橋にあがってきた。
脱鬼は舌打ちをして、
「真弥、何かもってるものをわたすんだな」
と言った。
「もってるもの?」
とっさに、真弥は胸をおさえた。胸にはかかさまの形見の首飾りがある。だがこれはあげるわけにはいかない。
「そんなんじゃない! 食うもんだよ」
食うもの?
といっても、かかさまの袋の食べ物はみんな脱鬼が食べてしまったではないか!
「どうしょう……」
手が腰にあたる。
「あった!」
おばばがくれた袋。栗の実十個が入っている。
真弥は袋に手をやった。その間にもつぎつぎと足にまとわりつく。むらがる脱鬼に、脱鬼は頭付きをくらわせた。
「真弥、早く、するんだ、早く、チッ、もうすこしだというのに、チッ、あいつらに食われてたまるか、チッ、もうすぐ、地の世界、やられてたまるか!」
真弥は必死で栗の実をとりだす。小さな口の袋だ。あわてるとなかなか出てこない。しかたなく袋をひっくりかえした。
ポトッ、ポトッ
ポト、ポト、ポト、ポト
実がころがっていく。
真弥の足から離れた脱鬼たちがその実に一斉にむらがった。
「急ごう!」
ふたりは橋をわたりきった。
ふりかえると、脱鬼たちのかたまりはかすみのかなたに黒雲になってうごめいている。
「助かった!」
脱鬼の額に、汗がてかてかひかっている。
橋をわたると今までとはちがった景色がはいってきた。まっすぐに白い砂利道がつづく。だれかが整備しているように、雑草もちりもなかった。ふたりが両手をひろげても充分あるける幅の道だ。
脱鬼がうたをうたう。
「
ほいほいほーい
おいらは脱鬼、
闇のもの
夜がすぎると朝がくる
闇のなかに光がともる
アハッ、アハッ
朝がくるまで
光がともるまで
おどっていこうぜ
ほいほいほーい
」
脱鬼の指さす先に木の門がみえてきた。人影がみえる。
(つづく)
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