3
 ふたりにとっては小学生最後の夏休みだった。八月の中旬から奈津はそのまま、莉子の家にとまっていた。
 学校が違っていたが、教科書や夏の宿題の問題集などがほどんど一緒だった。
 理科研究は押し花をすることにした。
 ふたりは草花を集めに、幼い頃よく遊んだ林の中にふみいった。もうハンモックはない。じゃまになるといっては足でけっていた切り株がわずかに広場の面影を残している。ふみいれなくなった広場に雑草や雑木がはびこり、所々にかわいい草花が顔をのぞかせていた。
 みんなで遊んだことがずいぶん昔に思える。以前とかわらないのは、蚊取線香を持ってでかけてきたことだ。
 莉子が奈津に言う。
「わたしは昆虫採集のほうがいいんやけどな。なっちゃんには無理やろな、虫とりはなあ」
「そんなことないで。蝶々とかとんぼとか、うちかて大丈夫や」
「そっか! ほんなこれは」
といって、ぬっとだしたものがある。
「わああ!」
 奈津はうしろにさがる。よくみると、角をふりあげたかぶと虫だ。
「たけしに持ってかえってやるわ」
 持ってきた竹かごの下にかぶとむしをいれ、その上から草をかぶせた。
それから草を採集するたびに、莉子は名前をよんでいる。
「ゲジゲジ」とか「めつぶし」とか「プリン」とか「じゃが虫」とかという。きみょうな名ばかりだ。
「ほんまにそんな名?」
 莉子はにまにま笑っている。
 夕食の時間、そのことが話題にのぼった。おばさんがいう。
「なっちゃん。本気にしたらあかん。この子な、適当に名前をつけるくせがあるんや。ほらっ、バス停の前の店な。なんていうか、知ってる?」
「にこにこ屋やろ?」
「違うね。吉村商店っていうんや。莉子がつけて、よう使うから、みんなそうよぶんや」 
 弟のたけしが口をはさんだ。
「ねえちゃんはむちゃくちゃなとこがあるからな、なっちゃん、用心しーや」
「家に帰ったら、ちゃんと調べるから大丈夫」
 夕食はいつも通り賑やかだった。

 次の日、奈津はなかなかおきられなかった。身体がだるい。
二階の部屋で一緒に寝ていた莉子はとっくに起きている。
 枕元にやってきて、早く起きて川へ行こうとさそった。
「明日には帰ってしまうんやろ。行こうよ。なっちゃんはあたしらが泳いでるのをみているだけでええから」
「わたしは行かへん。暑い所はあかんのや。りっちゃん、行ってきたらいい」
 いつになく莉子は執拗にさそった。部屋にやってきたおばさんがたしなめたので、ぶつぶついいながら階下に降りていった。やがて、賑やかな莉子の声が聞こえなくなった。川へでかけていったのだろう。
 そしてまたうつらうつらと、奈津は眠った。
 どれぐらい経ったかわからないが、奈津は目をさました。
水を飲みに下へおりる。おりたところは結構広い畳の部屋で、場違いな感じのクリーム色のソファが置いてあった。あけはなたれた障子の先は台所へ続く廊下だ。奈津はめざとく、廊下に無造作においてあるまるい入れ物をみつけた。蚊取線香入れだ。
 莉子が帰ってきている様子もない。
―蚊取線香、持っていかなかったんやな。
 奈津はみように気になった。だが頭が痛い。あしどりもふらふらとする。また二階にあがって、横になることにする。ここは莉子の部屋なのだ。帰ってきたら、一番にあがってくるはずである。
 それからまた奈津はひと眠りする。
 莉子の部屋の窓からは家の玄関がよくみえた。家にやってくる人の声や車の音もよく聞こえる。
 奈津は人の声やいそがしく行き来する足音で目をさました。
 誰かが走ってくる足音や戸をあけたりしめたりする音や、ときおりわめき声がまじる。
「何?」
 その中にお母さんの声がした。
「お母さんが来てる?」
 思い身体をおこして、窓までひざで歩いて行った。窓からのぞいた玄関まわりは、さっきとはうってかわって静かである。
「さっきのは何の音?」
 奈津の背中を冷たいものが走る。
---何があったんやろか……。
 奈津は階下におりることにした。ふらつく足を片方の手でおさえ、もう片方でてすりを持って階段をおりた。下りたところはソファーの置いてある部屋だった。
 莉子が帰ってきていた。ソファーの前にふとんがしいてあって、そこに莉子が寝かされていた。洗いたてのようにしめった髪が、ろう人形のような莉子の頬にかかっている。
---なんで? こんなとこで寝てるの……。
 いつものりっちゃんとまるで違う。
 奈津の足は一瞬けいれんをおこして動かなくなった。足というのではない。意識がとまり、思いが停止し、あらゆるまわりの景色が動かなくなった。
---りっちゃんに何がおこったん? 
 お母さんが近づいてきて、肩にそっと手をおいた。とたんに奈津はことのなりゆきを察知した。
---りっちゃんは死んでいる。
 自分が発作をおこすとき、いらだち、得たいのしれないものの到来を感じ恐れた。どうしょうもなく怖くて眠れない時があった。自分以外の人にも等しくかかっていることなど、思いもしなかった。ましてこのりっちゃんに……。いつだって真夏の太陽のように輝いていたこのりっちゃんに……。とんでもないことだった。あるはずのないことだった。
 奈津はお母さんのスカートをぎゅっとにぎりしめた。
 おばさんが玄関から声にならない声をはりあげてはいってきた。お母さんはあわてておばさんの方に行く。
 奈津は、なき悲しむ人たちの姿をまるでテレビドラマのひとこまのように見ていた。
 親戚の人たちが集まり始めた。
 部屋のすみに蚊取線香入れがおいてあった。奈津は夢遊病のようにふらふらと歩いて、線香をとりあげた。そばに置いてあったライターで火をつける。自分が何をしているのかはっきりしない意識の中で、火のついた蚊取線香をもちあげ、それを莉子の枕もとにおいた。
---りっちゃんは蚊にかまれやすいんや。みんなに好かれるから、蚊にまで好かれて困るんや。
 顔の近くに持っていく。赤い小さな火から、ゆらゆらとけむりがたった。
 近所の人がやってきて、
「ここに仏さんの線香台をおくからね。これ、むこうへやるよ」
といって、蚊取線香をよけようとした。
 とたんにヒステリックな声がとんできた。おばさんだった、
「そのままにしといてください! この子は蚊にようかまれますんや!」
 近所の人があわてて蚊取線香をもとの位置にもどした。
 蚊取線香のにおりが胸を突く。激しく咳がでる。
 せきこみながら、奈津は「りっちゃん、りっちゃん」と叫んでいた。
---いつまでも一緒やと思ってた。ほんまはあんたにいっぱいいっぱい感謝してたんやで。ありがとう思ってたんや!
 蚊取線香の煙があたりをおおう。充満する煙の中で、奈津は目をあけていることが出来なくなった。

そして目が覚めた。
「え?」
 目の前を、細いけむりがゆらゆらとゆれている。
 奈津は機械人形のように飛び起きた。ふとんからはみ出し、廊下近くまでとびだしていたようだ。燃え尽きたばかりの蚊取線香が目の前にある。
「夢?」
 とたんに、言いようのない安堵感が身体をおおう。
「夢やった、夢やった! ああ……、わたし、夢を見てたんや」
 だがまだ不安が残る。
---ほんまみたいやった。ほんまにほんまにリアルやった!
 奈津は夢と同じように、寝間着のまま廊下に出て階段を駆け下りた。
 あたりはしーんとしずまりかえっている。
「りっちゃん……、帰ってる?」
 お昼にはまだ間のあるこの時間だ。おじさんもおばさんも畑仕事にでかけている。
「よかったあ……、夢でよかった、ほんまによかった!」
 奈津はソファに座る。
 遠くで救急車の音がした。
「救急車……」
 その音は川のほうからだった。幹線道路を走っている。そこには近隣で唯一の救急病院があった。
---川のほうからや……。ああ、どうしょう、正夢ってこともある。りっちゃん、りっちゃん! 死んだらあかん!
 ソファーの背に張り付いたように、奈津の身体はかたまった。
---わたし、もうごんた、言わへんから。好き嫌いしないで食べて、苦くても薬も飲む……、頑張るからなあ。りっちゃん、夢のようになったらあかん、あかん、あかんのや……。
涙がぐわっと溢れる。のどの奥がつまって息苦しい。
と、その時だった。

ココロン
 ココロン
 どこかで聞いた優しい音色だ。
「コスモス畑で?」
顔をあげると奇妙な子が目の前に立っていた。
緑色のとんがり帽子をかぶっている。両側に長くとんがった耳と太い丸まった角の飾りが見える。緑の半袖シャツと半ズボン。白いわたげのようなえりをつけ、シャツの中央に星型の色とりどりのボタンが7個ついていた。
オニロンだ。
 奈津は、言いようのない嬉しく懐かしい気持ちでいっぱいになった。
オニロンは一生懸命、魔法の唄を唄う。 
「
ココロン
ココロン
輝く大空
煌めく星
ここに
ここに

ココロン
ココロン
広がる大地
深い海
ここに
ここに

ココロン
ココロン
喜び踊り
楽しみ唄い
ここに
ここに

ココロン
ココロン
君は愛されている
君を愛している
ココロン
ココロン
           」
 だが、奈津の耳にはやっぱり「ココロン、ココロン」としか聞こえなかった。
心地よい音と楽しそうに踊っているオニロンを見ながら、奈津は思う。
「これって夢? それとも現実?」
 ドドドドー  
ドド―
 誰かが勝手口にある板をわざと踏んで入ってきた。けたたましい音だ。
奈津は驚いて立ちあがる。
声のするほうに向かう。
薄暗い土間で、莉子が顔を隠すほどの大きなすいかをかかえて立っていた。そして、
「わあ、なっちゃん! 起きてるんやあ。ほな、川にいけるなあー」
 いつもの元気な声だ。
 板間にぼんやり立った奈津は、莉子と一緒なら川へいってもいいと思った。いや、行きたいと思った。
「いいよ」
「オッケー。すいか、ひやしとくからな」
 莉子は土間をぬけて、裏口へ駆けて行った。
足の裏に板のひんやりとした感触を受けながら、奈津はまだ夢と現実の区別をつけかねていた。

 奈津と莉子はそれから、一緒に川へ出かけていった。
うしろから、オニロンがあの大きな目を線にして笑っていたことを誰も知らない。  

                       完