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 ふたりは小学5年生になった。5年生になると、秋の総合運動会に参加できる。市内の四つの地区の学校が合同で行う運動会のことである。
 莉子はその日を指折りかぞえて待った。
 一方、運動の苦手な奈津にとってはそんなに楽しいことではない。
 その日は絶好のスポーツ日和だった。
莉子は、自分のために今日の日があるといわんばかりに張り切っている。奈津は好天候とはうらはらに身体の調子がよくなかった。咳がでる。水鼻も止まらないし、耳までがジンジン鳴った。
当日、一緒に参加出来ると思っていた玉入れまでも出られなくなり、生徒席から、テントの張ってある本部席の横に移ることになった。
 よその学校の先生が奈津の背中をさすってくれて、しばらくここでいるようにと言った。
本部席は次から次へと人の出入りがあって、あわただしい。退職した先生や地域の役をしている人や、合間にプログラムをもらいにくる人、駐車場をどうしてもっと広くとらないのかと文句を言いにくる人、そのような人たちの動きを見ていると、奈津はまた耳がジンジン鳴った。
 こんな時は遠くを見る。と、ちょうど誰も演技をしていない運動場が目にはいった。まるで体育館の白い天井のように浮き上がってみえる……。
---もうすぐ、終わるかなあ……。ああ、家に早く帰りたい。
 そんな時だった。
「ちょっとすりむいたんです」
と、莉子の声がしたのだ。
 はっとして、声のほうをみる。
 きりりと頭にはちまきをまいた女の子が膝小僧を先生にみせている。ちょうど傷をみとおせる位置に、奈津の目があった。皮膚がはがれ、血がふきだしている。奈津はおもわず「わ!」と声をあげた。
 莉子がこちらをむいて、
「あれ、なっちゃん。どうしたん?」
「うん……、しんどうなって……」
 先生が「消毒するからな」と言う。莉子は大きくうなずき、すぐに「ひゃー! しむうー」と声を出した。
 奈津も同じように顔をゆがめる。
「痛いやろ?」
 莉子がいつもの明るい声で、
「どっちゅうことない。それより、次、学校対抗リレーなんや。うち、走るからな! なっちゃん、応援たのむね」
と言った。
「うん」
「けど、あんたとこの学校もあるしな。ま、両方、応援して!」
 片手をあげ、手をふると、風のようにかけていった。
 治療をしていた先生が、
「あなた、知ってる子?」
「従姉です」
「同じ5年生?」
 ゆっくりとうなずく。
「そう……。あの子の元気印、わけてほしいね。おんなじ5年生やもんね」
 先生のいった言葉に特別の意味はなかっただろう。が、「同じ5年生」という言葉が奈津の心に残った。
---ほんまや。同じ5年生やのに、えらい違いや……。
 4つの学校の対抗リレーはダントツの強さで、莉子たちの学校が優勝した。
 この総合運動会が終わったころから、奈津は日焼けした莉子の顔を思い浮かべ、その横に青白い自分の顔をおくようになった。
---元気になりたい。りっちゃんのように身体を気にしないで走り回ることが出来たらどんなにいいだろう。ひとりででも山や川に遊びに行けたらどんなにいいだろう。りっちゃん、羨ましいなあ……。
 奈津は莉子にあこがれればあこがれるほど、昔のように彼女の好意を素直にうけられなくなった。
 奈津が莉子に電話をしたり家に出かける時は、莉子の都合など考えたことが無かった。思い立った時、自転車に飛び乗り、急に行くものだから、莉子と遊べない時があった。学校へ行っていたり、これから出かけないといけなかったりしたからだ。奈津はぷいとふくれて帰り、あとから電話をかけて、莉子に文句を言う。
「うちをほっといて、いい気になって。あんたなんか大きらいや。いい! もう絶対に遊びにいったげへんから」
 いつも莉子のほうがあやまり、奈津をなだめた。
「なっちゃんをほっといたんやないって。うちらの学校行事なんやから、つれていけないやろ」
そして、「あんたの分もとってきたからね。おみやげや」と言って、どんぐりや色づいた美しい落ち葉を持ってきた。
 奈津自身も、自分がわがままをいっていることはよくわかっていた。母からたしなめられるまでもなく、どんなに莉子を困らせているのかも知っていた。それでもいつも同じことをくりかえす。
 奈津は一人っ子だったが、莉子の家には妹と弟がいる。莉子にしてみたら、もうひとり妹がいるという思いだったのかもしれない。
 莉子を見るにつけ、自分はもしかしたら莉子のように元気になれないのかもしれないと思い、同時に得たいのしれない恐怖が奈津を包んだ。
 
その日も調子のよくない日だった。
 莉子が自転車でやってきた。家に入ってこないで、玄関口で奈津を呼んでいる。
「なっちゃん、いるうー。いいとこへつれていったるからなあー」
 出ていくと、自転車に乗ったまま、男のような口ぶりで言った。
「後ろに乗れ。なっちゃん! 絶対喜ぶと思う!」
 お母さんがでてきて、莉子にあげたてのドーナツの入った袋を渡した。
「うわあ、おいしそ! おばさん、ありがと!」と言うと、前のかごに押し込んだ。
「ほな、行くよ」
 自転車は莉子の家を通り越して、しばらく走った。
 ついたところは休耕地を利用してできたコスモス畑だった。見渡す限りのコスモスの花、花、花。
 風にふかれて波打つ花の海に、ふたりはみとれた。
 莉子がゆったりとした口調でしゃべり出す。
「なっちゃん、いいか……。誰かてな、いやな思いの時もあるし、悲しい時もある……」
「りっちゃんはいつもそうやない!」
「そんなことない。うちかて、腹立ったり、いらいらするわ! うちはな……、そんな時、自転車にのって走るんや……。こんなきれいなとこ、みつけられるし……、すーとするやろ」
 奈津は莉子の遠くをみつめる横顔をみた。
整った眉毛は太く、鼻筋がとおり、きりっと結んだ口も切れ長の目もりりしい。身体も丈夫だし、何だって出来る。何もかもが恵まれているように思えてくる。
奈津は口をとがらして言った。
「りっちゃんはいいわな」
 莉子はふりむいた。
「なにが?」
「どこまででも自転車にのれて。うちなんか、自転車で遠出もできん!」
 莉子はむっとした顔をする。
「あまえるな、奈津! せやからここへのせてきてやってるんや! あんたな、人のせいに何でもしてたら、自分がだめになるで。そんな子はうち、すかんわ」
 奈津は黙った。
 目の前にコスモス畑が続いていた。淡いピンクや白や薄紫の花が大きなうねりになってたなびいている。
ゴオオーン
ゴオオーン
遠くで鐘の音がする。
もう帰らないと家につくまでに暗くなる。それでもしばらく、ふたりは黙って花をみていた。花をみながら、奈津は考えていた。
---こんなわがままはいかん……。りっちゃんと私は同い年や……。「りっちゃん」
「なんや」
 「ありがとう」なんで照れくさくていえない。くっと首をすくめて、
「コスモスもこうしてみたら、えらいきれいやな」
「そやろ、ほんま、きれいや」
 莉子は自転車にまたがり、奈津に言った。
「帰るよ。後ろに乗って!」
 そしてにやっと笑うと言った。
「うちの家で、ドーナツ食べて帰るやろ」
「うん」
 
走りだしたとたんだった。奈津の耳にききなれない音がきこえてきた。
 ココロン
ココロン
 音はコスモス畑のほうからだ。ひょいと横を見ると、コスモスの花の上を緑の服をきた小さな何かがゆうらりゆうらり飛んでいる。蝶のようだ。だが蝶にしては大きい。
 ココロン
ココロン
泳ぐようにして、奈津たちについてくる。
「何?」
緑のとんがり帽子と長い耳。耳の後ろに巻貝のようなきれいな飾りをつけていた。両手をひらひらさせ、宙に浮いたままだ。
こちらを向いた奈津に、弾んだ声を出す。
「やあ、気がついたね。おれ、オニロン! そんなにいらいらするなよ。おまえの身体に鬼がいっぱい。いらいら鬼、怒り鬼、へんねし鬼、うらめし鬼、怖がり鬼……。よしよし、魔法の唄をうたってやるから……」
だが奈津の耳には、
ココロン
 ココロン
と子守歌のような優しい音色がきこえるだけ。
莉子がスピードを上げた。奈津はあわててサドルを握った両手に力を入れる。
 後からしばらく「ココロン」と響く音がしていた。
「
ココロン
ココロン
輝く大空
煌めく星
ここに
ここに

ココロン
ココロン
広がる大地
深い海
ここに
ここに

ココロン
ココロン
喜び踊り
楽しみ唄い
ここに
ここに

ココロン
ココロン
君は愛されている
君を愛している
ココロン
ココロン
           」
ふたりの乗った自転車はあっという間に莉子の家についた。
オニロンの姿も声も消えていた。