蚊取線香

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 奈津と莉子とは従姉どうしだ。仲が良いことと、よく似ていることとは同じでないらしい。ふたりは姿ばかりでなく、ものの考え方や食べ物の好み、好奇心の寄せるものも違えば、歩き方や走り方まで違っていた。
 奈津は生まれつき身体が弱い。未熟児だったこともあって、歩けるようになったのもずいぶん遅かった。すぐに風邪をひき、熱をだす。食べるのにも時間がかかるし、ちょっと身体を疲れていたりすると、食べたものをすぐにもどしてしまう。あたりがどこか知らないところだと緊張し、遠くへ出かける時があると、帰ってくると決まって熱を出した。
 莉子は同じ年頃の子よりもひとまわり大きく育っていった。乳の飲みっぷりからして、奈津と違う。母親の乳房が揺らぐほどにぐいぐいと飲んだ。
 白い顔のこめかみにときおり青い線をつくる奈津にくらべて、焼いたとうもろこしのような顔の莉子である。
 幼稚園に通うようになると、元気さということではますます差が広がっていった。休みがちな奈津に比べ、莉子のほうは二年間を皆出席。
 ふたりの家は距離的にはそんなにはなれていない。大人の足だと歩いて20分もかからない。同じY市なのだが、地区が違い、したがって校区も違っていた。
 奈津は、住宅や商店のたちならぶ市の中心街に住み、莉子は郊外に住んでいる。まわりにはまだ田畑が目立ち、森や林が残っていた。
 奈津は幼稚園にはいる頃から、ぜんそくがではじめ、ぜんそくがおさまるとこんどはジンマシン。ジンマシンがおさまるとぜんそくといったいたちごっこの病状が続く。
 莉子は奈津のことならどんなことでもきいてやった。なっちゃんは弱いから何もできない。自分は元気だから、かばってやらないといけないと、莉子は思い込んでいるふうだった。

 小学生となり、はじめての夏休みを迎える頃には、並ぶと二つ、三つの年の差を感じるほどである。奈津は小さく、莉子はずばぬけて大きかった。夫々に個性の出始めた顔も全く違っている。
奈津は眉毛も薄く鼻も莉子のツンと天を向いたような感じでなく丸くてかわいい。口も小さい。一重のきりっとした目の莉子に比べ、二重の大きな目の奈津だった。
莉子は奈津を妹のようにかわいがる。もっとも妹といえばいえなくもない。生まれるのが十日だけ、莉子のほうが早かった。
 田んぼのめだっていた莉子の家のまわりにも住宅がどんどん建ちはじめた。丘がきりくずされ、その先の林がすぐ目の前にみえるようになる。元気な莉子たちの格好の遊び場所になった。
 小学生になってはじめての夏休み。
遊びにきていた奈津に、莉子が母親のような口調で言った。
「いい、なっちゃん! とっておきの場所があるんやから、いややいわんとついてくるんやで」
「うん、わかった」
 素直に返事をすると、莉子は満足そうに大きくうなずく。いつも遊んでいる林に奈津をつれていくことにしたのだ。らせん状になった細い道を少し歩くと、先に広場があらわれた。切り株があちこちにあって、日が地面にとどいている。
「ここはみはらしがいいんや。それにおもしろいものもある」
 おもしろいものはハンモックだった。ころあいの二本の木にふるい蚊帳をむすびつけてつくったものだ。
「なっちゃん、のってみい」
 奈津はこわごわ莉子にささえられてのった。ゆるりとからだが蚊帳のなかにしずむ。ふわっとした浮く感覚はいままでに経験したことがないものだ。
「うわっ、身体がどっかへとんでくみたい」
 上をむいている奈津の目に、真っ青な空と真っ白な雲。雲は自由に姿をかえる。ふとったひつじが細いひつじへとゆっくり変身していく。横から子どものひつじ雲が肩をよせてくる。
 ひんやりとした風はここちよく奈津の頬をなでた。
 奈津は林のハンモックが気にいって、何度かくることになった。
 ほかにも遊んでいる子がいた。板きれや段ボールを持ってきて基地をつくったり、草滑りや探検ごっこなどをしていた。
奈津が来た時はいつもハンモックにゆられて空をみる。 
そしてときどきはみんなが威勢良く動く姿をぼんやりとながめた。いつもその中には元気な莉子がいた。
 莉子はままごとや花摘みといった遊びをしたことがない。木にのぼったり、虫をとったり、おしりに段ボールをしいて、急な草地をすべりおりたり、男の子とけんかをしたりしていた。
 ある時、莉子が家に何かをとりにかえって、その場にいなかった。奈津のところに男の子がやってきて、ハンモックを替われといった。奈津はいわれるままに替わり、木の横にポツンとたった。
 莉子がかえってきて、
「どうしたん?」
「あの子が、替われって、言うたから」
と、泣きべそをかく。
「わかった!」
 つかつかとハンモックに近ずくと、男の子に言った。
「あんた、わかってんねやろな。この子はうちの従姉なんやからな」
 ハンモックに近ずくと、あっというまに、はしのひもをゆすってひっくりかえしていた。男の子は地面になげだされた。莉子は半ズボンの上からふとももを叩きながら、にらみつける。
「あんたらはむこうで遊び」
 男の子はすごすごと退散した。
 その時だった。
 莉子はズボンをめくりあげて、白いふとももをみせた。蚊にかまれてみずぶくれになっている。奈津は驚いてぶるんと首をふった。
「うわあ! 痛そう……」
莉子はよく蚊にかまれる。ふとももをぼりぼりかきながら、涼しい目を奈津にむけた。
「うちな、ふつうの子より体温が高いんやて。せやから蚊がよってくるんやて」
 次の時、奈津は虫刺されにきく薬を持ってきた。莉子はチューブからでる白いクリーム状の薬を一度はつけたものの、二回目からは「ぬるぬるして、なんやきしょくわるい」と言ってつけなかった。つぎに奈津は蚊よけのスプレー薬を持ってきた。やっぱり変なにおいがするといって、つけなかった。莉子は、
「あんたとこなあ、ほんま! なんでも薬があるんやなあ。あんまり気にせんといて」
というと、「はははは」と豪快にわらった。けれど、奈津のほうががまんができなかった。赤い斑点をみるのがいやでたまらない。まるで自分がかまれたようにむずむずして、胸がわるくなる。
 奈津は莉子と一緒に行くときはいつも持ち運びの出来る蚊取線香を持参した。
 
 その日、お母さんも用事があって莉子の家に行くことになった。
 農家では田の草取りに忙しい時期で、お母さんは奈津を降ろすと、車を田んぼの方へ走らせた。おばさんたちは田んぼの方にいるらしい。
奈津は家に入る。田舎の家の土間は真昼でもどこかうす暗かった。ひんやりとした空気が奈津の顔をなでる。
「りっちゃーん、いるー」
 暗さになれてくると、にんまりわらってこちらをむいている莉子が目にはいった。
 がっしりとした肩をちょっとひねって手まねきをした。
 莉子は、板間の前の長いすにすわっていた。大口をあけ、りんごをまるかじりしている。
「食べる?」
奈津は首を横にふった。こんな薄暗い土間で食べたくないし、りんごを皮ごとたべるのも嫌いだった。
「おいしいよ」
「まるのままたべるの、あたし、すかんね」
 とっさに莉子はたちあがった。奈津は自分のために皮をむく包丁をとりにいくのかと思い、その動きをじってみていた。
 莉子はそうはしなかった。また椅子にすわりなおし、さらにうつむいて、椅子の下におかれた蚊取線香を左手でとりだしたのだ。ゆらゆらと煙がうごいている。右手のりんごの芯を土間のすみのごみ箱に入れにいく。そして左手の蚊取線香をその横においた。
 奈津はあわてて言った。
「そんな遠いとこにおいたら、りっちゃん、また蚊にかまれるやん」
 莉子はにっと笑いながらもどってきた。
「ええね、ええね。あの匂いがあると、なっちゃんの匂いがどっかへいってまうから」
「え? うちの匂いが?」
「そうや。なっちゃんはいつもいい匂いがするからなあ」
いきなり奈津にむかって「クンクン」と言って鼻を近づける。
「わあ、りっちゃん、犬ころになった」
「クンクン、いい匂いだあ。なっちゃんは花の匂いがするぞ。りんごの匂いかな。クンクンいい匂いだ。くってやろう!」
 ふたりは土間から裏庭にかけだし、ひとしきり鬼ごっこをして遊んだ。
 奈津も莉子の匂いが大好きだ。乾燥した薬草の匂い、干したふとんの匂いがした。
 奈津と莉子は甘えん坊の妹と面倒見の良い姉のように育っていった。