エレベーターの中

 真っ青な空にうろこ雲が浮かび、飛行機雲が線を引いて突き抜けていく。清々しい日曜日の昼下がり、修(おさむ)は同じ4年1組の浩太の家に遊びにいった。
 浩太の家は修と同じ団地のC棟で、広場をはさんだ向かえ側にあった。13階建ての11階に住んでいる。修の家はA棟の6階だった。
 修はるんるん気分で広場をかけぬけた。まだ修よりも小さい子たちが自転車や三輪車にのって、あちこち走りまわっている。修も、この間まではそうしていたというのに、目をその子たちのほうにむけると、ふんとあごをあげて、えらそうな顔をする。
 広場は時間によって、あそぶ子の年齢層がちがった。はやい時間から順に年齢もあがってくるようだ。団地からどこかへ出かける時、たいていはこの場所にいったんは出てから動くことになる。大きな駅のロータリーのようだ。広さは修のかよっている小学校の運動場ぐらい。レンガ敷きで、6階の修の家のベランダからのぞくと、規則正しく波立つ海のようにみえる。

 修はC棟の玄関にたった。浩太の部屋番号を押して連絡しないと、ドアがあかない。だが奥から男の人が出てきて、ドアがあいたので、呼び出しをしないまま中にはいった。
「ラッキー」
 小さくつぶやいて、すぐにエレベーターにのった。
 中にはいると、おにいさんがふたり、乗っていた。
 髪の毛の茶色いおにいさんがけいたい電話でなにやらしゃべっている。カッターシャツの胸のボタンが2つ、はずされている。何を言っているのか聞きとれないのは、横にいるおにいさんがキキキキ、かん高い声で笑っていたからだ。このおにいさんはきちんと白いシャツと黒いズボンをはいていたから、修はふたりはきっと中学生だと思った。だが髪の毛が長く女の人のように耳を隠している。
修は11階でおりた。
ふたりは上の階まであがっていった。
 エレベーターを降りた修は、すぐ横の浩太の家のドアフォンをおす。しばらくして、浩太のお母さんが出てきた。
「ごめんね。ちょっと出かけんならんの。せやから、遊ばれへんの」
 入れ替わって、浩太が廊下を駆けてきた。いつもと違うよそ行き服を着ている。
「今からばあちゃんとこへ行くね」
 奥へ入ったおばさんは大きな声を出した。
「おさむちゃん、クッキー食べるう?」
「うん」
「ちょっと待っといて。出来たてや。持ってかえって」
 おばさんはすぐにクッキーの入った紙袋を持ってきた。取っ手を持つと、中からふわっといい匂いがし、丸いクッキーが重なって見えた。
「ほな、また帰ってきたらな」
 よく似た丸い二つの顔に送られて、修は元来た廊下に戻った。
浩太と遊べなかったけれどクッキーをもらった。なんとなく嬉しい気分だ。
---急いて帰ってお母さんに見せよう。おやつはクッキー、ラッキー、クッキー! 
エレベーターの前へきた。急いでボタンをおそうとしたが、エレベーターがすーっと上にあがっていってしまった。
「チッ!」
しかたなく下へ降りるボタンを押して待つことにする。
エレベーターはどんどん上にあがっていく。
いつもだとすぐに下りてくるエレベーターがなかなかやってこない。
「なんでや?」
 しばらくして、降りてきたエレベーターの中に、さっき一緒になったおにいさん、ふたりがいた。修はとっさに思った。ふたりはどの階のボタンも押したんだ。ドアを開けたり閉めたりしていたのだ。
修も浩太とやったことがあって、お母さんに叱られた経験がある。
 修はエレベーターの中にそろっとはいる。
と、いきなりはずんだ声がとんできた。
「お、ええにおいやあー」
「何、もっとんのや」
 ふたりは顔を突き出して袋をのぞいた。
「クッキーやんけ」
「ようけ、あるやん」
修は思う。
---ようけなんか無い!
だが、
「ひとつ、くれや?」と言うなり、袋の中に手をつっこんできた。 修のほうな何も言ってないのに、数個のクッキーが引き出された。
 もぐもぐ食べ始めた時、エレベーターは9階に止まった。誰も下りない。このエレベーターは奇数でとまっていく。次の7階でまた止まった。
 修は思った。
---やっぱりそうや! ドアを開けたり閉めたりして、エレベーターで遊んでるんや。
 修はもうどきどきしてきた。
---こんなことしたらあかんのや。
 とうとう、修はぼそっとつぶやいた。
「こんなとこで遊んだらあかんのに!」
 修のことばに、ふたりは修の方を向いた。何のことかわからにような顔をする。
「この子、なんか、いうとるで」
もうひとりのおにいさんが、
「うっ、はっきりー、言うてみい!」
まだ口にクッキーがはいっている言い方だ。
 修は口をとがらしてちょっと怖い声を出した。
「あんなあ、エレベーターで遊んだらあかんのやで。お母さんが言うてた!」
ふたりは食べていたクッキーをはきだすばかりに、ぷっとふきだした。
「こいつ、ちびのくせにおれらに意見しとる!」
と、茶髪のおにいさん。
「おれらはいいんや」
と長髪のおにいさんがあごをつきだして言った。
 修は首をひねって、一生懸命な声で言う。
「だれかて、あかんのやで!」
「こいつ、生意気やな」
と、ひとりが言うと、もうひとりも口をへの字にした。
  そして、ふたりは修を挟んで両横に立った。
 修はびっくりしてうつむいた。
5階のドアがあき、またゆっくりとしまった。誰も乗ってこない。
 修の目の先に強そうな腕が4つ。4つが修をかこうように伸びている。
頭のはるか上で、
「ゲンコツ一発やな」
「そやな。ぼうずにゲンコツ一発!」
そういった時、ドアがぎぎーとあいた。修の左の顔が明るくなる。
開いた先の廊下に3の文字がみえた。3階だ。3階でおりたことなどない。だが、修は4つの腕をくぐって、外にとびだした。
耳の中がかっかしてきた。3階から階段を下りて、やっと1階のエントランスへ。ドアがあくと勢いよく外にとびだした。波のモザイクがかかったレンガ敷きの広場がひろがる。
ふりむいても、ふたりの姿はみえない。きっとまだエレベータの中なのだ。
修の前を、小さい子の手をひいた女の人が歩いて行く。
 ふうと肩で息をした修は一目散に広場を駆け抜け、A棟へ。
棟に入るにはエントランスドアの鍵がいるのだ。持っていない場合は、部屋番号を入れて、むこうからあけてもらわないといけない。
---あいつら、おっかけてきたらどうしょう。
今頃になって足がガクガク震えだした。
---怖いこと言うてた!
「生意気だな!」
「ゲンコツ一発やな」
---早く、早く、家に帰らんと……。
 ドアのむこうからいつもお掃除をしているおばさんがやってきた。修を見て、にこにこと笑っている。修は今、笑い返すなんて出来ない。ドアが開くと一秒でも早く、エレベーターのところは走っていきたい。一瞬でも早く家に帰りたい。
 おばさんの姿が大きく見え、ドアがあいた。
 おばさんが、
「おさむくん、おかえり!」
 首だけで返事をすると、そのままエレベーターのほうへ。
今日はいつもとは違うのだ。ちゃんと挨拶なんで出来ない。早く早く家に帰りたい。
ぎゅっと紙袋の取っ手をにぎりしめると、エレベーターの方に向かう。
すぐエレベーターのボタンを押した。あせっているのに、なかなかエレベーターはおりてこない。
と、その時だった。うしろから、
コロロン
コロロン 
ふりかえると、おばさんの姿が目に入った。5,6歩先を歩いている。
「え?」
 胸がどきんと鳴る。
後ろ向きのおばさんの前で、腰あたりしかない小さな子が仁王立ちをしている。奇抜な緑色の服をきて、胸の七つのボタンが虹のように美しく光っていた。同じ色のとんがり帽子をかぶっている。帽子と服を左右に大きく揺らして何かを言っている。 
「おまえ、誰や?」
 その子は大きな口をあけた。
ココロン
ココロン
「何、言ってるん?」
 ココロン
 ココロン
修はポカンとしてみつめ続ける。
 その子は近づいてくると、近くの椅子の上にひょいと飛び乗った。修と目の位置が同じになるとうれしそうに言った。
「お! おれがみえるんだ! おれ、オニロン!」
だが修にきこえてくるのは「ココロン、ココロン」という言葉だけだ。
大きな丸い目にくるくるまわる黒い瞳。その横の両耳が異様に長く、とんがり帽子の飾りリボンのようだ。
オニロンのほうは上機嫌。
---この子は自分に気がついた!
右の人差し指をくるくるまわすと、口に持ってきた。
---ようし! 恐怖鬼、いらだち鬼、泣き虫鬼たち……、みんな、まとめておっぱらってやるからな。
「修くん、強い子だったね。大丈夫! 大丈夫!」
「え!」
修は目を白黒させる。おばさんのだったからだ。オニロンの口にあてられた指先から、おばさんのゆったりとした優しい声がでてくる。
「大丈夫! 大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
 おばさんはゆっくりと歩いて、玄関の大きなガラスのドアのむこうへ消えていった。右手を大きく振りながら。
目の前のオニロンが身体をふりふり、楽しそうに唄い出した。
「
ココロン
ココロン
輝く大空
煌めく星
ここに
ここに

ココロン
ココロン
広がる大地
深い海
ここに
ここに

ココロン
ココロン
喜び踊り
楽しみ唄い
ここに
ここに

ココロン
ココロン
君は愛されている
君を愛している
ココロン
ココロン
           」
修には「ココロン、ココロン」としか聞こえない。優しい子守歌のような心地よい響きがする。
修はクッキーの入った袋をきゅっと抱きしめると、自分にいいきかせた。
「大丈夫! 大丈夫!」
くるりときびすをかえすと、エベーターがちょうど降りてきたところだった。