美冬のあいさつ

美冬は、小さい時から無口なおとなしい子だった。幼稚園に入り、小学校に入学し、3年生になった今でも変わりがない。だからといって、友だちと遊ばない、遊びたくないというのでもない。公園へ行ったり、友だちの家でゲームをしたり、時には一緒に勉強もする。ただ自分から進んで何かをしたり、さそったりはしない。授業中、答がわかっていてもなかなか手をあげることが出来なかったし、みんなの前で話すのも苦手だった。
美冬とは対照的に、クラスの中で一番発表の出来る子は健斗だった。健斗は、国語の発表も、算数の説明も、話し合いの司会もとてもうまい。はきはきとしていて聞き取りやすい。
---あんなふうに、なんでも話が出来たらなあ。どうしてすらすら話が出来るのかなあ。
 当たり前のように、みんなの前で話したり笑ったり冗談を言ったり出来るのが不思議だった。
美冬も普段と同じように話したいと思う。ただ、話そうとしたら、急にのどの奥にシャッターがおりてきて、うまく言葉が出てこない。話さないといけないと思うとなおさら、お腹のあたりがぐるぐるなってマグマのような渦になって、上にむかってあがってくる。そうなるともう顔は真っ赤っ赤。思ったことのほとんど言えなくなってしまう。

冬休みになって初めての日、夕暮れの冷たい風が美冬の頬を赤くする。空はまだ明るかった。
美冬は、遊びから帰ってこない弟を近くの公園までむかえにいった。家の前の通りをしばらくいくと、低い土手に行きつく。大股で5,6歩もあがるとアスファルトの歩道へ。歩道のむこうは用水路となっていてフェンスが続いている。道に出て、左へ行くと公園や美冬の通う小学校がある。右へ行くと街の中心部を通り、駅のロータリーへと続く。
用水路の向こうに土起こしをされたばかりのてかてか光る田んぼがひろがっていた。美冬はフェンスの手すりに手をやってしばらく眺めた。それからくるりと身体をまわすと、鼻歌をうたいながら歩きだす。
と、その時だった。
にぎやかなしゃべり声が耳に飛び込んできた。聞き覚えのある声たちだ。ぐっとのどに力をいれて口をとじ、にらむようにしてその方を見た。担任の大杉先生とふたりの男の子である。先生はサッカ---クラブを指導しているので、クラブの子たちにちがいない。
 美冬はクラスの子たちと同じように大杉先生が大好きだ。真っ黒に日焼けした顔と、いつも笑っているような細い目の先生。休み時間もみんなとよく遊んでくれる。だから、美冬は大杉先生とはちゃんと話が出来る。
---わ、大杉先生だ!
そして、しっかりと健斗の声も聞こえてきた。
---健斗君も一緒なんだ……。
とたんに、美冬はある思いが身体中をかけめぐった。
---そうだ、あいさつをしよう。あいさつなら、わたしにもしっかり出来る! 健斗君に負けないくらい元気にしっかりとあいさつをしよう!
 だから、美冬はみんながやってくると、大きな声をはり上げてあいさつをした。自信たっぷりに!
「先生、おはようございます!」
 先生はびっくりした顔をしたが、すぐに細い目をもっと細めて言った。
「おお、美冬か。うん、さようなら」
 とたんに、美冬は恐ろしいことに気がついた。
今はもう夕方なのだ!
 すれちがった健斗と友だちは笑いをこらえている。白い息がふたりの口からふわっとわき出た。
---何か言ってるんだ……。
美冬にはそのように思え、胸がキュッとちぢむ。
それからの3人はほんの数分前と同じように、にぎやかに話しながら遠のいていった。
のどの奥がぎゅぎゅっとしめつけられるように痛い。どっくんどっくんと心臓がなる。
---ああ、なんてことを! 朝でもないのに、おはようございます!
どこかに隠れたい。もう二度と言葉を出したくない。なんであんなこと、言ったんだろう。なんで、あんなことを……。
美冬の目はどんどんうるんでくる。

その時だった。
ココロン 
ココロン
大杉先生の去って行ったほうから不思議な音色が聞こえてきたのだ。ふりかえると、先生が右手で、首にかけていた黄色いタオルを高く振っている。美冬に何かサインをおくっているようだ。
その先生の左肩におかしな者が乗っていた。
「なんなの?」
姿はアニメにでてくる妖精に似ている。緑色のとんがり帽子をかぶり、両側に長くとんがった耳と丸い象牙の角のようなものが見える。
黒く大きな目がキラキラ光っていた。緑の半ズボンと半袖シャツ。白いわたげのようなえりをつけ、シャツの中央に星型の7つのボタンがついている。
その子が大きく口をあけた。
ココロン
ココロン
細い長い指、右手の人差し指をくるくるまわしはじめた。
と同時に、さらに勢いよくしゃべりだした。
「美冬、おれなんかしょっちゅう、まちがってるよ」
「え!」
 彼の口から出てきたのは大杉先生の声色だった。大好きな先生の声を聞き間違えるはずがない!
 だが、先生の声だとわかるのに、きこえてくるのは、
ココロン
 ココロン
 身体をこわばらせて、奇妙な子をみつめる。
 男の子はしゃべりつづける。
「うっかりミスってよー、一生けん命、頑張ってる証拠なんだ!」
「美冬はちゃんと声を出せたじゃないか」
「あいさつしてくれて、先生すごううれしかった! ありがとう、美冬」
「えらいぞ! 美冬」
 美冬は目を丸くし、口を半開きにして聴きいった。
 ただただ聞こえるのは、大杉先生の声で、
 ココロン
ココロン
 突然、その子が立ちあがった。紙飛行機のようになって美冬のほうへ飛んできた。あっという間に近くのフェンスに腰をかける。
「おれ、オニロン! おれのこと、気がついたんだ!」
 オニロンははずんだ声で言う。もう違う男の子の声だった。
やっぱり、
 ココロン
 ココロン
としか聞きとれない。
大杉先生はタオルをふりふり、土手の下の道へきえていった。
夕暮れの道に優しいオニロンの唄声が響く……。
「
ココロン
ココロン
輝く大空
煌めく星
ここに
ここに

ココロン
ココロン
広がる大地
深い海
ここに
ここに

ココロン
ココロン
喜び踊り
楽しみ唄い
ここに
ここに

ココロン
ココロン
君は愛されている
君を愛している
ココロン
ココロン
           」
オニロン妖精は一生懸命唄い続けた。

後ろから弟の声がした。
「おねえーちゃーん」
声のするほうを振り返ると、弟たちがこちらにかけてくる。
 美冬は勢いよく両手を振った。
 オニロンは両手を広げフェンスからとびたった。もう人間の誰にもみえない。