最後のシール

「お兄ちゃーん、シール、返してよー」
 春菜がエレベーターのところまで駆けていくと、ドアがゆっくりしまった。
 中にいるお兄ちゃんが両手の親指で鼻の穴をふさぎ、残りの指をひらひらさせて笑っている。
「うもう! お兄ちゃんなんか、だいっきらいや!」
 春菜はその場でとんとん足をならして怒っている。にくらしいポーズだけがしっかりと春菜の目に残る。ここが家の中だったら、春菜はもっと大声を出しているところだ。
ところが十一階建てマンションの八階。叫び声が、どんなにすごい怪獣の声になってあたりに響くかを、小学6年の兄はもちろん、2年の春菜にもよくわかっていた。
「ほんまに、あほなす、かぼちゃ。お兄ちゃんなんか、かえってくんな!」
  ぶつぶついいながら、家にもどる。もどるなり、大声でお母さんを呼んだ。
「おかあさーん! お兄ちゃんがあたしのシール、とったんや」
 居間でかたづけをしているお母さんが、
「またけんか! 春菜、あんた、シールようけ持ってんねやろ。一枚ぐらい、どうってことないやろが」
「どうってことあるんや! 一番大事なシールなんやあ」
 春菜は居間の入り口にかかった玉すだれをガシャガシャいわして、部屋にはいる。お母さんのスカートをひっぱり、甘えた声でうったえた。床の上に足をなげだすと、春菜は持っていた紙袋をひざの上に置く。二つに折られたシールはちょうどはがきの大きさだ。一枚づつ広げ、床のうえに並べた。違った動物のシールである。動物たちは色々なポーズをとって張り付いていた。
「あ、馬さんだ! お母さん、お兄ちゃん、馬のシールをとっていった!」
「お兄ちゃん、馬年だからねえ」
 お母さんはかがんで、春菜と同じ高さになると、
「いいじゃないの。まだ沢山あるでしょ」
「沢山、ないよ。これでもうおしまい」
 床にならんでいるのはたったの三枚。
 お母さんは、
「え、もう三枚になったん? たしか、十二、もらったはずでしょう……」
 そもそもこのお気に入りのシールは、玩具店に勤めている叔父さんが持ってきてくれたものだ。
 叔父さんがわらいながら、
「春菜ちゃんにはわからんわな。干支のシールなんやで」
 ねずみ、牛、とら、うさぎ、竜、へび、馬、羊、猿、にわとり、犬、いのししの十二種類のシールだ。どのシールもぷくんとふくれて、つるつるしている。さわるとぷくん、つるんと、いい感じだった。何かを食べていたり、コップを持っていたり、走る格好、歩く姿、笑ったり、にらんでいたりなどなど、どれひとつとして同じ格好や表情をしている動物はいない。
 初めのうちは沢山あるものだから、得意になって近所やクラスの子たちにみせびらかす。欲しいという子にあげたり、違うシールやおもちゃと交換したりした。
そして……、今では三枚しか残っていない。
 春菜はシールを見ながら言う。
「ね、お母さん、みて、みて。うさぎやろ。犬やろ。牛やろ。わたし、このうさぎ、一番かわいいと思うの」
「菜っ葉を食べてる格好、ほんま、かわいいねえ。お母さん、ほしいわあ」
「あかん!」
 春菜はあわてて床からシールを集め、おでかけバッグの中ポケットにしまった。

 その日の午後、春菜はシールの入ったバッグを持って、児童館に出かけた。土よう日だというのに、児童館には4、5人しかきていない。
 春菜は仲良しの子とシールのみせあいっこやおしゃべりやゲームをして、帰ろうとした時だった。
 はっちゃんが声をかけてきたのだ。はっちゃんはいつも長い髪をふたつにくくっている格好いい上級生だ。おかっぱ髪の春菜は髪を長くしてはっちゃんのようにしたいなと思う。けれど面長で目がキリリとしたはっちゃんに比べ、春菜の顔も目も正反対のまんまる。お母さんから「似合わないよ」と、あっさり言われだ。だから、ちょっと考え中なのだ。
 はっちゃんは細長の目をきらきらさせて、
「春菜ちゃんやろ」 
と言いた。
「うん」
「うち、初美! おんなじ、『は』がつくんやね。なかようしょーな」
 春菜はうれしくなった。
 うなずくと、はっちゃんが、
「なあ、春菜ちゃん、うちらのほうの公園へいこか。ジャングルジムがあるんやで」
「遠い?」
 春菜は遠くへいってはいけないと言われている。
「ううん? 春菜ちゃん、1団地やろ、うち、2団地。隣の団地なんやから遠くないよ。2団地のG棟や」
---G棟って、聞いたことない。けど2団地なんやから……。五時までに、帰ってきたらいいんやし……。
「ええで。五時までやったら」 
と、春菜が答えた。 
はっちゃんはすぐ春菜の手をとった。シールをいれたバッグが春菜の腰に当たって大きくゆれた。
児童館を出て、目の前の二車線道路を越えるともう春菜たちの団地だ。高層ビルのうら道をすすむ。垣根や芝生やコンテナ置き場をよこぎった。隣の団地だと言うけれど、春菜にはどこをどう歩いているのか、見当がつかない。入ったことのない隣の団地だった。
「はっちゃん、まだあ?」
「これでも近道してるんやでえ」
「ふうーん」
 建物の谷間をぬけ、ぱっと目の前がひろがった。そこは水のみ場も砂場もすべりだいもぶらんこもある広場だった。
 奥にはジャングルジムが見える。緑色をして、ペンキぬりたてのように光っていた。
 ジャングルジムの大好きな春菜はおもわず駆け出した。うしろからはっちゃんも追ってくる。
そして、ジャングルジムにかた足をかけた時、はっちゃんがふいに言ったのだ。
「春菜ちゃん、あんた、干支のシール持ってきてるやろ」
「え?」
 何のことか、いっしゅん、わからない。
 はっちゃんはまた言った。
「干支のシールや。うさぎとか犬とかの……、持ってんねやろ」
 春菜はおもわず、「うん」 と首をたてにふっていた。
 言ってしまってから、なぜかいやな思いになった。
---持ってるって、言わないほうがよかったかな……。
「見せてえな」
と、はっちゃんが言った。
 春菜はバッグをあけ、中ポケットに手を入れる。
「ふう」
 大きなためいきをひとつして、顔をあげた。
はっちゃんがじっとみつめている。
「ね、見せてえな」
「うん」
 もそもそしていると、はっちゃんが言った。
「ねえ、春菜ちゃん。そのシール一枚だけ、ちょうだい! 仲よしのしるしに……」
 春菜の心臓はドキンと鳴った!
ちょうどシールを一枚つかんでいたからだ。 
春菜は懸命に考えた。 
---そうやなあ……。仲よしのしるしにって言うてるんや……、一枚あげてもいいのかなあ……。けど、最初に、どうぞ、牛のシールがでてきますように……。うさぎは絶対でてきませんように……。
 ところが犬とうさぎのシールがつらなって、出てきたのだ。
 春菜はあわてて、それをバッグにもどすと、ふたたび、中ポケットから、残っている牛のシールをとりだした。
「はい、これ、あげる……。仲よしのしるし……」
 はっちゃんはうれしそうにシールを受け取った。ひっくりかえしたり、すかしたりしてみている。
「わあ、面白い! この牛、みんな、ポーズがまちまちや。かっこいいなあ。それになんかつるつるして、気持ちいいやん。あっがと! 春菜ちゃん!」
 それからジャングルジムで鬼ごっこをして遊んだ。
 
 ジャングルジムにもあきて、ベンチにこしをかけていた時だった。
 はっちゃんがまた言った。
「ねえ、うち、これからあんたにバトミントン、教えてあげよとおもうね。春菜ちゃん、やったことある?」
「うん、ちょっとだけ」
「うち、うまいんやで。教えたげるな。ほんで教えたげるかわりに、さっきの犬のシールもちょうだい」
「え?」
 春菜はおもわずスカートのポケットをおさえる。
---犬、やってしもたら、うさぎ、一枚きりや!
「せやかて……」
 それだけいうと、春菜はだまりこんだ。
 はっちゃんは、もそもそ身体を動かしている春菜をじっとみつめ、それから春菜のチェックがらのスカートを右手でちょっとつついた。
「なあ、春菜ちゃん、うちら、友だちやろう。それに、バトミントン、教えてあげるんやでえ。なあ、お願い! 犬のシール、ちょうだいよ。あんた、干支のシール、いっぱい持ってるって言うてたやろ」
---いっぱい持ってたけど……、今はないんや。
 春菜は顔をこわばらせ、うつむいた。
クシュン!
クシュン!
 砂場のほうからかわいらしいくしゃみが聞こえた。
ふたりは同時に、その方を見る。女の子が一心に砂をすくっている。そばでみていた女の人がいやがる女の子の鼻をティシュでふいた。
 春菜はその様子をみて、ふいに思った。
―お母さん、どうしてるかな? 
「はよ、出してえな」
 はっとわれにかえった春菜。
―ああ、どないしょ、はっちゃん! 怒らしたら遊んでくれへん。それに、こんなとこで、ひとりになったら、あたし、帰られへん!
 春菜はまた考えた。
---二枚あげても一番大好きなうさぎのシールが残るんや……。
「わかった! けど、もうこれだけやで。もうあげへんで」
 犬のシールがはっちゃんの手ににぎられた。
「春菜ちゃん、あっりがと! うちら、仲よしやもんな。ほな、ラケット、とってくるからな。あんた、ここでまっときや」
 はっちゃんは自分の家のほうにかけていった。
 元気な声といっしょに、はっちゃんの姿が見えなくなる。
急にあたりが静かになった。
 ザザー、ザー
ザザー、ザー
 遠くで、幹線道路を走る車の音がしていた。
 春菜は花壇をかこっているレンガの上に腰をおろした。ジャングルジムと砂場のちょうど真ん中あたりにあって、はっちゃんが駆けて行ったほうを向いていた。
はっちゃんは高層ビルの壁と壁の間を走って行ったのだ。
「ふう!」
ためいきをついて、身体をよじる。と、ふわっといい匂いがした。きょろきょろみまわすと、花壇に植えられたパンジイーからだ。青や黄や紫や白のかわいい花が満開だ。
春菜はたちあがると、2,3歩近づく。
「わあ、ええにおいや」
 それから、「ひとつ、ふたつ、みっつ……」と数えていった。数えきれないほど咲いている花を十二まで数え、またレンガの上に座った。まだ、はっちゃんはもどってこない。
「おそいなあ……」
 クシュン!
 さっきの砂場の方からだ。お母さんらしい人が今度は白いハンカチをとりだし、女の子の鼻をふいている。やがて遊び道具をナイロン袋に入れると、ふたりは手をつないで帰っていった。
 ぼんやりその様子をみながら、春菜が考えていることははっちゃんのことばかり。
---なにしてんねやろう……、おそいなあ、どこまでいったんや。はよ、戻ってきてほしいなあ。 
 ザー、ザー、ザザーー
 ザー、ザー、ザザーー
 車の音がさっきよりもすこし近くにきこえた。
---はっちゃん、どうしたんやろ……。
 春菜は立ち上がって、はっちゃんが去ったほうをにらむようにみつめる。
---何か用事ができたのかな?
 広がっていた青空に雲が増えてきた。
---えらいくろうなってきた……。
 風がほおをひゅうとなでていく。
---寒うなってきたやん。
それでもビルの隙間から、はっちゃんは戻ってこない。
---なんでやろ?
 足がふにゃっとなって、自分の耳が象のようにふくらんでいく感じだ。
---どないしよ……。もし、戻ってきてくれへんかったら……。
 あたりはさっきよりももっと暗くなっていた。空と同じように、春菜の目からも、今にも水のつぶがあふれおちそうだ。
---このまま夜にになってもうたらどないしょう。おなかもすいてくるし、寒くなるし……。
 ぶるんとからだがふるえた。
---あたし、もしかしたら、ここで死んでしまうかもしれん……、お母さん、お母さん。お母さん……。

もう少しで大泣きしそうな雰囲気の時、やっとはっちゃんが戻ってきた。
手にラケットを持っている。息をきらせながら、
「おそなってごめん! 捜してたんや。さあ、線をかくからな」
と、そのとき、とつぜん、春菜が言ったのだ。
「あの、わたし、バトミントン、せーへん!」
 はっちゃんは口を半分あけて、春菜をみつめた。
「なんでや?」
春菜にもわからない。
 春菜は遊びがすぐにいやになって帰るような子ではない。バトミントンだって大好き。
 でも、春菜は今、バトミントンをしたくない。わけなどないのだ。ただしたくない。
「ほな、何がしたいんや? かくれんぼ?」
「ううん」
 春菜は首を横に振った。
「ほな、お店ごっこはどうや?」
「いや!」
「そうや、ケンケンしよう!」
「しとうない!」
「ほな、何かしたいんや」
 春菜ははっとした。何もしたくない。ただ家に帰りたい。
「あの、もう帰る!」
「ええっ? もう帰るん?」
「うん、帰る」
「……」
 はっちゃんは春菜をにらんで言った。
「なんや、あんた、へんな子やな」
「せやかて、帰る!」
 春菜も口をとがらせて、はっちゃんをにらむ。
「かってにしい。あんた、ここからどうやって帰る気? うち、おくったげへんかったら、あんた、ひとりで帰られへんやろ」
 春菜の足はおれそうだ。息があらく、耳が熱くなってきた。
「……」
 そして、はっちゃんが言った。
「ほな、帰り。わたし、ちゃんと送ったるから、もうひとつシール、ちょうだい!」
「え?」
「な、もうひとつだけ、シールほしいの! いっぱい、あるんやから、あとひとつぐらい、いいやろ……。いややったらいいけど……」
「……」
 春菜は考えた。
---この干支シールはこれで終りや。けど……、嫌やって言うたら、帰る道をおしえてくれへんかもしれん。わたし、ひとりでどないしたらいい……。
 春菜はのどからしぼりだすように、
「うん。いいけど……」
と答え、最後のシールを差し出した。
にこっと笑うとシールを受け取り、はっちゃんは駆け出した。春菜も遅れないように走った。

公園を抜け、高層ビルを越え、中ぐらいのビルを横にみて、しばらくすると、目の前にまた高い高層ビル群があらわれた。
1団地だ!
春菜の胸がきゅっと痛くなる。
---あたしの家や!
春菜の家は真ん中のビルの8階にある。はっちゃんを追い越し、「さようなら」も言わないで走った。
 また身体中がかっかと熱くなる。
---家に帰れる! ちゃんと家に帰れる。
 夢中でエレベータにのり、8階へのボタンを押し、やっと春菜の家の玄関にたどりついた。
 ドアベルを鳴らすと、すぐに玄関が開いた。
「おかえりいー、ちゃんと手洗いしてね」
台所からのいつものお母さんの声だ。
春菜は一目散に自分の部屋に入る。
ベッドの上に背をまるくしてすわる。とたんに、いろんな嫌な思いが身体中をかけめぐった。
もう自分は一枚もシールを持っていない。どうしてお兄ちゃんが言うように大事にシールはとっておかなかったのだろう。どうしてみんなにいい格好してあげてしまったんだろう!
「しょうない! しょうない! わたしがあげたんやから。いややって言われへんかった! なんで言われへんのや! 何であかんって言われへんのや……」
 目の前がぼわっとぼやけてくる。
 ぼやけてくる目の前が橙色だ。周りの景色が夕焼けに染まっている。
その時だった。
 ココロン
ココロン
 光を震わせ響く優しい音がする。
「何の音?」
春菜は顔をあげた。
「あ」
 机の上に、小さな男の子があぐらをかいて座っている。上半身が振り子人形のように左右に動いていた。
「誰?」
「オニロンさ。あーあ、やっと気がついた! おまえ、すっげえいっぱい! 鬼だらけ」
だが、春菜の耳には、
コココン 
ココロン
としか聞こえなかった。
春菜は目を丸くして奇妙な姿をじっとみつづけた。
 緑色のとんがり帽子をかぶっている。長くとがった耳と黒く大きな目。耳の後ろに太くて丸い角のような飾りが見える。緑の半ズボンと半袖シャツを着て、シャツの中央に星型のきれいなボタンがひかっていた。
ココロン
 ココロン
 オニロンは魔法の唄をうたう。
 春菜はほっと口を半開きにして見つめた。耳にはいってきたのはなつかしい子守唄のような音色だった。
ココロン
ココロン   
優しい響きにまじって、廊下のほうからお母さんの声がした。
「春菜。ごはんにするよー」
「はーい」
廊下の方に顔を向けた瞬間に、奇妙な小人も唄も消えてしまった。

それからしばらく、春菜は家でも学校でも珍しく無口だった。児童館へ行くこともなかった。
 ある日のこと、6年生になったお兄ちゃんに新しい本箱が家に届いた。小さな本箱もまだきれいだ。春菜もお兄ちゃんの本箱をもらってもいいと思った。だが問題は怪獣やムキムキマンのようなシールがべたべたとはってあることだった。
その夜、お兄ちゃんが本箱を持って、春菜の部屋へ入ってきた。シールはきれいにはがしてあった。
残っているシールの跡をなでながら、お兄ちゃんが言った。
「おまえ、ええシール持ってるやろ。上から貼ったらいい。おまえのすきなデザインの本箱が出来るってことや!」
 とたんに春菜は思い出したくないことを一気に思い出した。胸がきゅっといたくなった。
顔がこわばる。
 口をとがらせると、お兄ちゃんに怒ったように言った。
「干支のシールのことやったら、もうない!」
「ええ! どういうことや?」
 驚いた声を出したお兄ちゃんに、春菜は、
「はっちゃんって子にみんな、あげた!」
「みんなかあ? はっちゃんて誰や?」
 お兄ちゃんの声が大きくなる。
「児童館の子」
「あほか! なんでやったんや」
「せやかて、くれって、いうんやから」
「くれていわれたら、なんでもやるんか!」  
 お兄ちゃんは目をまんまるにして、
「そんなときは、いやや!って、しっかりいうんや」
と言うと、机の上の真ん中に本箱をどんと置くと、部屋を出て行った。
足音がきこえなくなってから、春菜はじわっと目頭があつくなった。どんどん涙がでてきてしかたがない。もうわすれていたことなのに……。涙があふれないように、目を大きく大きく開いた。
「そんなん言うても、あたし……、言われへんかったんや!」
 耳が熱くなって、身体中に熱が伝染していく。春菜はなんせか腹がたってきて、大きな声を出した。
「はっちゃんとはもう遊べへんから! あの子、嫌いや、大嫌いや、絶対遊べへん!」
 ベッドに倒れ込むように横になると、足をばたつかせ、恐ろしい怪獣のような声を出した。その大きな声に驚いて、あわてて布団を頭からかぶった。ひとしきりおんおん泣いた。
 その時だった。
 どこからか聞き覚えのある唄がしたのは。
 ココロン
ココロン
ふとんから顔をそっと出す。目の前の机の上に奇妙な男の子がいた。この前見た子だ。
尖った耳と緑の服をきた小さな子。春菜が見ているとわかると、まんまるい目を急に細くした。
「お、やっと気がついたか! おまえの鬼どもは半端じゃないぜ! 魔法の唄、唄ってやるからよお、元気を出すんだ、春菜!」
 何かを話しているように勢いよく口をぱくぱくさせる。
 春菜の耳には、「ココロンココロン」としかきこえない。けれど美しい優しい響きだった。
「
ココロン
ココロン
輝く大空
煌めく星
ここに
ここに

ココロン
ココロン
広がる大地
深い海
ここに
ここに

ココロン
ココロン
喜び踊り
楽しみ唄い
ここに
ここに

ココロン
ココロン
君は愛されている
君を愛している
ココロン
ココロン
           」
オニロンは一生懸命唄った。
だが、春菜の耳には、やっぱり、
「ココロン
 ココロン
としか聞こえなかった。子守歌のように聞きながら、春菜は眠ってしまった。
 
つぎの日、目をさました春菜は一番に、本箱の上に一枚のシールをみつけた。
「あれ? これは……」
 以前、お兄ちゃんが自分から取っていった馬のシールだ。
 馬のシールは一枚もはがされないで残っていた。笑っている、泣いている、怒っている、手をたたいている、寝そべっている、走っている、歩いている、歌っている、食べている馬たちだった。
「わあ、すごーい。ちゃんと全部揃ってるー」
 わっと身体中に熱いものがかけめぐる。
「お兄ちゃんが返してくれたんや……」
 春菜の頬がほっとあかくなる。
---そうや! 学校から帰ったら、一番に本箱をきれいにしよう。花のシールをはったらいい! 馬のシールもはろうかな? いや……、お兄ちゃんかえそうかな?
 春菜の耳に、かすかに優しい唄が聞こえた気がした。きょろきょろとあたりをみまわしたが誰もいない。
春菜は威勢の良い足音をたてて朝の居間へと向かった。