第7章 雪の日

リビングからの風は暖かい。
お父さんが窓を開けて、大きな声を出していた。
「安奈―、風邪ひくぞ。中に入るんだ!」
―あ、お父さんの声や!
 胸の中の重い塊がわっと溶けていく。喉がぐっと痛くなり涙があふれてきた。
―帰って来たんや……。
「何しとるんや、安奈、はよ、入れ!」
 なつかしいお父さんの声だ。安奈は両手で頬の涙をぬぐい、ついでにポンポンと顔をたたいた。ふりかえり、とびこむようにしてリビングに駆けこんだ。
「わああー、あったかーい!」
窓をしめると、身体をぶるるとふるわせた。
横に、お父さんが呆れた顔をして立っている。
「おまえ、そんな薄着でなにしとう!」
「うう……、ちょっとな」
と、あいまいな言葉でごまかした。ついでに、大仰に鼻をかむ。
 振り向くと、お父さんはおかしな格好をして安奈をみていた。手拭いでほおかぶりをし、右手にスコップ、左手にどろまみれの軍手をにぎっている。
「お父さん、なんやの? その格好」
「ああ、植木を倉庫にうつしてたんや」
安奈は、それでお父さんを呼んでもきこえなかったんだと思う。
「あの……、お母さんは?」
お父さんが、
「ああ、コンビニに行った」
と言うと、安奈の横を通って手洗いのほうに歩いて行った。
―ええ? お母さんはコンビニにいっただけ……。たけくんもいっしょやろ、きっと。
ついでにおねえちゃんのことも聞こう。
「おとうさーん。おねえちゃん、どっかへ行ったん?」
「部活や言うて出ていったけど、この雪や。すぐかえってくるんとちがうか?」
安奈は何事もなかったように、ソファーやテレビを素通りして、キッチンテーブルの前にすわる。ふっとコーヒーのいいにおいがする。目の前に飲み残しのコーヒーがあった。安奈の手がごく自然にそのカップを持っていた。ぐっと飲むと、
「う、にが!」
まだほんのり温かい。渋い大人のコーヒーが喉をこしていく。
ぽんとテーブルに戻した時、お父さんがもどってきた。置いたばかりのカップを持つと、ソファに座った。テレビのスイッチをいれて、ニュースをみはじめた。
―ああ、そうなんや……、よかった! わたしってほんま、あほやなあ。てっきり置いてきぼりや、思ってしもて……。
 だが、窓の外にはまだ赤い点点が執拗に動いている。何もかも、あの奇妙な赤いものから始まったのだ。
 安奈は大きな声でお父さんを呼んだ。
「お父さん! ちょっときて!」
「なんや?」
 顔をテレビにむけながら、返事をし、立ち上がった。
「あれ、なんやの?」
近づいてきたおとうさんはひげもそって、いい顔をしている。
「なあ、あれ、さっきからずっと、動いてるんや。なんか赤い蛍みたい……あれ、何なんや?」
ニュースを話すアナウンサーの声だけが聞こえて、お父さんの声はしない。
「なあ、お父さん!」
と、安奈は答えないお父さんに催促をする。
お父さんは安奈のいう事を聞いていないのでも、答えられないのでもなかった。
ただ、おかしくて笑いをこらえていたのだった。
「安奈、おまえなあ、歳、なんぼになった?」
「……」
―何を言ってるん? お父さん。こんなに真剣にきいてるのに?
「十才やけど?」
「4つの時から、安奈の思考経路はかわってないんやなあ」
「なんのことや?」
「あの時も赤い蛍、赤い蛍いうて、えらいこっちゃった!」
 安奈ははっとした。
―お父さんは赤い蛍のことを知っているんだ!
 その時、突然、陽気な声がまじってきた。
「そうやったなあ。あれって、お父さんが外国から帰って来た日やったわ」
 お母さんだ。
お母さんがコンビニから帰って来たのだ。買い物バックから、牛乳や卵や野菜などをテーブルの上に並べている。
 そのままにして、お母さんも窓のところにやってきた。
武史はリビングに座って、何かを組み立てている。
 お母さんが安奈とお父さんの間にわりこんできて、外を見た。とたんに弾んだ声をだす。
「ほんまや。あの時の赤い蛍や!」
「お母さんもわかってるん?」
「当たり前や! 武史でも知ってるわ」
と、お母さん。
安奈は首をひねる。
安奈には赤い蛍としか思えない。
お父さんが窓をあけた。
「音が聞こえるやろ。あれ、車の音や」
ミルク色のなかに赤い灯が消えたりついたりしてゆっくり動きだした。
「あのあたりは高速道路が走ってるんや。あれは車のテールランプなんや」
「え! そうなん!」
―あれって、高速道路の、車たちの、テールランプ!。
安奈が、はじめて赤い蛍以外の姿を脳裏に思い浮かべた瞬間だった。
わっと、肩にかかっていた荷物がとりはらわれる。身体がふわっと軽くなっていく。
 お母さんは窓をしめながら、ケラケラ笑いつづけた。
笑っているお母さんは何かをまだかくしているようだ。
「なんなんよ、お母さん!」
「あんたはちっとも成長してへんなあ。ほれ、お父さん! この子、あの時もそうやった。あのテールランプで大騒ぎしたやん」
「おれも思い出してたとこや」
お父さんが安奈に言う。
「お父さん、外国からもどってきた時や。おまえ、赤い蛍や赤い蛍や言うて、大騒ぎしてなあ……」
「そうなん?」ととぼけた安奈だったが、ふたりの話から、いつもかすみがかかっていた一場面が鮮明に思い出されてきた。
「赤い蛍や!」
と、確かに安奈は助手席のチャイルドシートの中で叫んでいた。
「赤い蛍がとんでる。赤い蛍、赤い蛍」
 車の渋滞がひどくて、もう1時間以上もとまっていた。
安奈があんまり真剣にいうものだから、お父さんが、「赤い蛍の正体をみせてやるぞ」と言って外につれだした。
お父さんは自分の分厚いコートを安奈の頭からすっぽりかぶせて、だきあげ、「赤い蛍、みえるか、みえるか」なんて言って身体をゆする。安奈は面白くてきゃきゃきゃきゃ笑ったそうだ。
その時と同じように、おとうさんは弾んだ声で安奈に言った。
「あれは車の後ろについているテールランプ! 『ここに車がいますよ』という合図をしているんだ。ほら、雪が降ったり霧がふかくなるとわからなくなるだろう。それに、後ろから車に追突されては困るから、ブレーキをかけた時に後ろの人にわかるように、合図をしてるんだ」

外はいつのまにか雪も止み、明るい日の光がさしている。もう赤い蛍は太陽にのみこまれてあとかたもない。
お母さんはテーブルの上のものを冷蔵庫や棚にしまっている。
お父さんがリビングからキッチンまで移動して、テーブルの前に座った。
お母さんがまた弾んだ声で話し出す。
「お父さん! あの帰りの豚まんのこと、おぼえてる?」
 それからお母さんが嬉しそうに話してくれた。
 空港からの帰り、すっかり時間のかかったのでお腹がすいてしまった。
 コンビニで豚まんを買った。安奈はプリンがほしいといったが売り切れだ。またまた「プリン、プリン」と駄々をこねる。
 お父さんもお母さんもおねえちゃんも安奈にかまってられないほどにお腹がすいていた。おいしそうに食べていると、安奈もなくのをやめてうらめしそうにみている。そして安奈も食べた。みんなと同じように2個も!
いつのまにかおねえちゃんも帰ってきていた。おねえちゃんが、
「豚まん、おいしかったん、わたしもおぼえてる!」
「いやがってた安奈が、でっかいのをふたつも食べたんや」
 そばによってきた武史がつまらなさそうに顔をあちこちと動かす。
「何のこと?」
お父さんが言った。
「武史の生まれていない頃の話や」
「ぼく、豚まん大好きやで!」
と言って、仲間に入ろうとしてくる。
 安奈は身体だけでなく、心もうわっと暖かくなっていった。
 お母さんが言った。
「モールで久しぶりに豚まん買って食べようか!」
「さんせーい!」
 おねえちゃんが上機嫌で言った。やっぱり部活が中止になったのだ。
 昼から、安奈たちは予定通りハッピーモールへ行った。そして久しぶりに大きな豚まんを買った。

 帰り、安奈たちはハッピーモールの駐車場まで行った。
そこからだと、いつも見ている大角山がグンと近くにみえる。
山の頂上にしっかり雪が積もっていた。
山から、
「おーい」
 誰かが安奈を呼んでいるようで一瞬立ち止まる。
 車の助手席からお母さんが呼んでいる。
「安奈、何してるん! はよ、乗りなさい」
「はーい」
 安奈は学校と同じように威勢のよい返事をした。
                   完