第6章 脱鬼(だき)の血 ②

気がつくと、安奈は真っ白な雪の中を歩いていた。
 しばらくして後ろから太郎がおっかっけてきた。
「安奈―、お待たせー」
右手に革袋を持っている。その腕をたかくあげて、ほこらしげに袋を大きく振った。中に液体が入っているらしく、動くたびにダブーン、ダブンと音をたてる。
いつもの優しい目をした、もうすっかり大人になった太郎だ。
安奈の方にむかってやってくる。
「え?」
安奈は凝視した。
音にあわすように、袋の口からこぼれ出た液体が地面に落ちた。真っ白な地面に真っ赤なものが落ち、散らばっていく。
―赤い蛍?
 安奈はしっかり確かめようと目を凝らす。
 真向かいになった太郎は、ぎょろっとした目で安奈の頭をみおろして笑っている。
「蛍じゃないぞ。これはかあさんに頼まれた大事な物さ。」
「そう……、けどよう似てる」
「おまえの祝いのために! いっぱい! 採ってきたんだ!」
採ってきたという赤い液体がぽとぽと雪の上に落ちた。
―そうね。違うね……。
地面に沁みこみ、じわっと広がっていく液体をじっと見つめた。と、その時、安奈は、髪の毛がさかだつほどに驚いた。
―これって、もしかして血? 人の血ではないかしら。
「太郎、袋に何が入ってるの?」
「ああ、祝いの飲み物だよ。これで……、すっごく元気……」
と言いかけて、太郎はゲフッと大きなげっぷをした。とたんに、あたりにもやが出来て、なんともいえない生臭い匂いがただおう。
安奈はたえかねて、眉をよせ両手で鼻をおさえた。
 太郎はあわてて口をつむぐ。
もうすっかりひげを蓄えた若者の端正な顔が、はじめて出会った時の少年のようにうろたえる。
「おまえ、この匂い、きらいだったなあ」
「……」
「ああ、どうもおいしいものは、匂いがきついものなんだ。安奈だってプリンをいっぱい食べたら、口から匂いがでるだろう」
―なんでプリンよ! プリンじゃない!
 怖い顔の安奈をみて、
「ああ、ごめん、ごめん」と言って身体をかがめ、安奈を真正面からみつめた。
そしてもっていた革袋を背中に背負う。
ドボンドボン
 大きな音がしてまた真っ赤な液体があたりに飛び散る。
「おっと、もったいない!」
 地面におちた液体を慌てて手ですくい、口に入れた。
 また匂いが四方に広がった。まちがいない。この匂いはついさっき、目の前で見た戦う人達の匂いだった。石のついた太い棒を持って戦っていた。たたかれ、倒れ込み、血を流し、動かなくなった人たちの匂いだ。気味の悪いいななきをきき、駆ける馬の上で刀を振りかざした兵士たちを、安奈は見た。人々の雄叫びや怒声などがとびかい、数分もすると、落馬をするもの、槍でつかれるものたちのうめきがきこえた。
―ああ、今、あの時と同じ匂いがする。
 嫌な臭いで、安奈の身体は潰されそうだ。
 太郎がうつむいて落ちた液体を手ですくっている。もじゃもじゃの頭になにかがある。
 全く気にしていなかったが、確かに安奈の親指ほどのかわいらしい何かが頭のてっぺんについている。
 銀色にきらっと光った。
―角! 太郎は鬼なのだ!。
安奈は太郎に言う。
「太郎……」
「なんだ?」
太郎はたちあがり、再び安奈をみおろす。太郎の顔は日に焼け褐色で、頬は紅く、大きな目は輝いている。生き生きとした元気な若者だ。だが安奈は問う。
「太郎は鬼なの?」
即座に太郎は胸をはって答えた。
「おれは鬼なんかじゃないぞ! 優秀な鬼臣なんだ!」
「優秀な鬼臣の人たちは……」
 安奈は胸がどきどきして、たずねていいのかどうしようかと迷う。
―優秀な鬼臣は鬼ではない。だから、戦(いくさ)をしたり、人の血を吸っったりしない……。
 だがまた安奈は考える。
―太郎はあの館からでてきた。そして口からおどましい匂いを出している……。
 黙ってしまった安奈に、太郎が陽気な声で話す。
「安奈、さあ、飲め。そんなに疲れた顔をするな。これを飲んだら、すぐに元気になるから。おいしいぞ。においがいやなら、鼻をつまんだらいい。そのうちなれるさ」
と言う。
湯気をだしている赤い液をうやうやしくもちあげ、そして安奈の胸の前にさしだすと言った。
「この脱鬼の血は鬼臣の宝なんだ。お前に飲ませてやりたくてね」
「脱鬼の血……」
「そうだよ。いつも世話をしてくれる脱鬼の血だよ」
まるで当たり前のように太郎が言った。
迷っていた安奈の心の問いに答えが出た。
―この優しいたくましい太郎は鬼なんだ。ああ……、時々いなくなっていたのは脱鬼の血を吸っていたのだ。そして元気になっていたというのか!
太郎は陽気に話し続けた。
「そうだよ。脱鬼の血を吸って、おれらはいつまでも優秀なまま、生き続けるのさ。優秀だからこそ戦いに勝つ! 負けた者は皆、脱鬼となって、仕えてくれている。ただそれだけのことだよ」
 安奈の身体から血の気がひいていく。
―太郎は血を食う鬼!
 足の先から頭のてっぺんまで、震えがおそう。
―ああ! ここにいてはいけない。
 心のなかで悲鳴をあげる。
 だが太郎をみると、悲鳴がどこかへ行ってしまうのだ。
いつもわらっている丸い目。髭をたくわえはじめた初々しい若者。何でもきいてくれるやさしい紳士。
だが、太郎は鬼!
安奈は胸をつきやぶる熱いものに押されて、
「ああああー、あああああー」
と声をあげた。
太郎は驚いて安奈をみた。突然の叫びの意味がわからない。
安奈はとうとう言葉を声にした。
「太郎! わたしは帰る!」
 太郎はきょとんとする。
一呼吸置いて、
「ああ、おれも帰るよ。一緒に帰ろう」
と言った。
 安奈が太郎の声におおいかぶせるように言った。
「太郎の家じゃない! わたしの家に帰る!」
「え?」
「わたしの元の家に帰る!」
「人間の家ってことか?」
「そう! 人間の家ってこと!」
その言葉を聞いた太郎は驚きをかくせない。手が震えている。大事そうに持っていた袋の紐を落としてしまった。
ドボドボドボ
地面に赤い液体がこぼれ塊をつくった。
「安奈……、おまえ……本気か?」
 その目は落ち着きなく宙を泳ぐ。
安奈はしっかりとした口調で言った。
「ここ、おもしろかった! 太郎と一緒で楽しかった! けど、わたし、自分の家に帰る!」
「ああ、安奈、どうしたんだ? おまえ、ここが気にいったんだろう。何でも思い通りにおまえなら出来る! おれが見込んだだけある、お前はこれからどんどん技をみがいて素晴らしい鬼臣になれる者なんだぞ!」
太郎の一生懸命な声が安奈の耳にひびく。
「わたしは帰ることにした!」
 安奈のはっきりとした声に反して、太郎の声はかぼそくなっていった。
「安奈……、まだまだ面白い所があるんだ……、赤い蛍なら、明日も一緒にさがしてやるから……」
「そうじゃない。そうじゃなくて」
 安奈にはうまく話せない。
 目の前にいるのは鬼ではなく、自分と同じ人間、そして自分を大事にしてくれた太郎に思える。だが太郎は脱鬼と言う人間の血を吸って生きているのだ。安奈は太郎のように脱鬼の血を吸うことはできない。好きなことをするために、技をみがき力をつけるからといって脱鬼の血をすうてはいけないのだ。
―太郎、太郎はどうしてわからない?
 太郎も安奈に必死になって聞いてくる。
「安奈、どうして帰るなんで言うんだ?」
 太郎は地面におちた革袋をひろいあげ、無造作に中の液体をぐいぐいと飲んだ。口のまわりから赤いしずくがおちる。
安奈の考えはかわらない。
太郎は静かな声で言った。
「ああ、おれにはわからん! こんなにみんなに大事にされてるのに……戻ってしまうのか?」
安奈は深くうなずいた。
その場にすわりこんだ太郎の顔は鬼の顔になっていた。初めて目を開けた時にみた掛け軸の赤鬼とそっくりだ。だが、安奈はなぜか恐ろしいとは思わなかった。
優しい声が安奈の耳に聞こえてくるからだ。
安奈を見つめるぎょろ目がうるんでいるからだ。
太郎が言った。
「わかった……。安奈、また来い! いつだって、客人にしてやる。鬼臣にだってなれる。おまえなら大丈夫。いつでも大丈夫だ」
帰る道は反対の道を行ったらいいと、太郎がつぶやいた。
「わかった……、太郎。ありがとう」
 安奈はくるりと半回転をする。
前を向いて歩き出した。
「安奈―、また来いよー」
安奈はふりむかないで、右手を高くあげた。ふりむいたら太郎に涙をみられてしまう。そういえば、ここでは一度も涙を出したことがなかったなあと思った。

 安奈はまた雪の景色を見ながら、まっすぐ歩いた。 
 ヒュウウヒュウウ
 ゴゴーゴゴー
 ヒュウウウウー
 もうずいぶん歩いた。
 もう太郎はいないだろうと思って後ろをふりかえる。
 はるかに遠くにゴマ粒のよう集団があった。
 もうどんなことになっても、あの中に戻らないと思う。
遠くにいるというのに、安奈の脳裏にしっかりと見える。
安奈に手をふっているのはまぎれもなく鬼たちの群れだ。角があり、牙がある。
「あの人たちは鬼!」
鬼は人間を食らい、血を吸うのだ。
恐ろしさがわっと体をおおうと同時に、鋭い寒さが身体中を覆った。
「ああ、寒いー」
 安奈は襟元を立てた。立てた襟はお気に入りのダウンジャケットのものだ。足もとはスニーカーをはいていた。
「あ」
と、安奈は叫んだ。
「赤い蛍が飛んでる」
ずっとさがしていた赤い蛍が飛んでいる。
―わたし……あの虫を追っかけていったんや。
背景に日にてらされた美しい大角山が浮かんでいた。その下を赤い蛍が緩やかに流れていくのが見える。
―ああ、赤い蛍や……。
 安奈の背中に暖かい風があたる。
―家に帰って来た?
 暖かい風に乗って、聞き覚えのある野太い声がした。
「安奈! 風邪ひくぞ。中に入るんだ!」

                     (つづく)