第5章 羽衣 ②
 

目の前にまっすぐな道が現れた。
両側に緑から橙色に移り始めた落葉樹の木々が並んでいる。
木の幹は太く、安奈の背丈をはるかに超えるところに枝をつけ葉をつけている。
さわさわとさわやかな音がして、みあげる安奈の頬を風がなでていった。
耳のほてりも消えていく。
「わあー、きっもちいいー」
 そして、太郎の方を向いて言った。
「いきなり、空に飛び出すのかと思ってた」
 太郎はまたアハハと笑った。
「空世界って、地上と洞窟の上にあるんだ。優秀な鬼臣は羽衣をあやつって、空で遊ぶことが出来るんだ」
「空で遊ぶ……、空を飛べるんだ……」
「そうさ、羽衣をあやつれるからな」
「羽衣をあやつれる?」
「そうだよ、安奈。おれらの優秀な仲間は月に帰った者も、宇宙に旅する者もいる。羽衣さえあやつれればなあ。おれも絶対に金星にいってみたいんだ。おれの一番上のねえさんは金星にいったんだ……」
「へえええ? 金星に生きものが居る?」
「当たり前だ。羽衣をうまく、うまく、あやつれれば、どこへだっていけるのさ」
 木と木の間の道をしゃべりながら歩いていた安奈は、地面の段差がきになって下をむく。
「わあ!」
と声をあげる。ふと下を見た時、自分のスニーカーが目についた。
スニーカーの色が深い藍色にかわっていた。
ふたりの服は秋仕様になっている。安奈は落ち葉模様のワンピースに褐色のタイツをはいていた。ワンピースの袖は風船のように膨らみ、袖にはフリルがついている。
脱鬼の選ぶ服はとても優しく華やかな少女向きばかりだ。それを安奈はちゃんと着ている。以前の安奈には考えられない事だった。身体にぴったりで、着ているという感覚さえないほど軽く、ガラスに映る姿はいつもかわいかった。
安奈自身もまんだらでもないと思っている。
 太郎は高く澄んだ空をみて、誰かに言うようにつぶやいた。
「全く脱鬼はかしこい! 一番似合う服を着せてくれてるんだ」
 安奈も同感だったが、やっぱり不思議でしかたがない。
「ああー。わたしら、どこで服をきがえたのかしら?」
律儀に太郎が答えた。
「ホールの壁を抜けた時、着替えをしたのさ。夏服では寒いだろ」
「えええー、そうだったの……」
 安奈はかわいらしいフリフリの袖をまじまじとみた。そして顔をあげて太郎をみた時、
「え?」
と後へさがってしまった。
「太郎! なんか、大きくなってるよ!」
太郎が青年の感じだ。背も高く、身体つきもたくましく、それに唇の上の薄いひげが、八の字をつくっている。
口をぽわっと開けて見つめる安奈に、太郎は満足そうに言った。
「ああ、安奈にもちゃんとわかったんだ。それにしても、おまえはちっとも大きくならないな」
「なんで、なんで? 太郎はそんなに大きくなるん?」
「ああ、おれは鬼臣だからな。おまえも鬼臣になったら、どんどん大きくなるぞ」
 安奈も早く太郎のように大きくなりたい。
 身体が大きくなると何が出来るだろう。
 どこへでもひとりで行ける?
 どんなことだってできる?
 もう太郎についていかなくても、この奇妙な村中をさぐってまわれる。
鬼臣たちが、どうしていろんな技ができるようになったのかも調べてみたい。
「あ」
 安奈の胸が急に熱くなった。
「そうだ!」
安奈は優秀な脱鬼のことを思い出した。
「太郎、鬼臣になったら、脱鬼のことを調べたい!」
 太郎がきゅっと小首をかしげ、いかにも安奈の言葉がばかげているかのように言い放った。
「脱鬼はおれらの世話をする者だよ。それだけのことさ」
「でも、わたしらとおんなじ! しゃべったり動いたり笑ったりするんでしょ! 食堂のおねえさんみたいに、恥ずかしがりかもしれないけど……」
「あはっ、そんなこと考えたことない! ずっとずっと昔から脱鬼は脱鬼さ。それより安奈。あの空をみろ! 赤いのがみえるぞ」
「え」
 太郎の指さすほうをみる。
 なだらかな丘の上に飛び交っている鳥たち。その中のいくつかが赤い色をしている。
「わあ、ほんとだあ。昨日、みた鳥だあ」
「鳥じゃなく……、あれが鬼臣の羽衣なんだ」
 安奈の思いはすっかり脱鬼から離れた。美しい羽衣の飛びかう姿に胸が高鳴る。次に続くわくわくすることで、頭はいっぱいだ。
「わあ、あれ……、鳥じゃなくて……、羽衣……」
「ああ、鬼臣の羽衣遊びさ」
「みんな……飛んでる……」
「ああ、今日はいい天気だ。どこまで旅する気なんだろう」
太郎はかけだした。安奈もなだらかな傾斜の丘を駆けあがる。のぼりつめると、先がかすみにかかってみえないほどに広い緑のはらっぱに出た。
3,4人がひとかたまりになっている。5,6組はいるだろう。
その多くの人は長い帯のようなものを首にまいたり、肩にかけていた。
鬼臣のおばばの家でみた、舞姫のショールに似ている。
「あれって、ショールだよね!」
「いや、鬼臣の羽衣。おれたちはそう呼んでる」
 安奈は思った。
―鬼臣たちはあの「鬼臣の羽衣」をあやつって、空を飛ぶことができるのだ。
一番近くにいるグループの一人が、その羽衣を首に巻くと、あっというまにとびあがった。ふわふわと飛んでいく男の人はまるで空を優雅に泳いているようだ。
つぎつぎと同じように空を泳ぎ始める人たち。
淡い緑や青や橙や紫やそして真っ白な羽衣が舞い上がっていく。
赤い色のものもあった。だがどれも色を通して透けて見える。
空を飛んでいるのは赤い蛍ではない。
 それでも安奈はうれしかった。手がふるえてくる。顔が赤くなっていく。身体中が熱風を受けたように熱い。
安奈は空に舞う色とりどりの長い布をみつめ続けた。
―なんて、美しいんだ。ああ、なんて楽しそうなんだ。あの羽衣をあやつりたい。自分も空高く舞いたい。どこまでもあの真っ青な空をとんで遠くへ行ってみたい。わたしも飛んでみたい!
 胸が痛くなるほどに願いがふくらんでくる。
―羽衣を肩にかけてみたい。上手に腰や首や手にまいて、とびあがってみたい。
太郎は頬を真っ赤にして両手をぎゅっと握りしめている安奈に声をかけた。
「あはっ、おまえ、やっぱり、飛んでみたいんだ!」
 安奈はうなずいた。
―青空をゆうゆうと舞っている鬼臣の羽衣は本当に美しい……。自分も美しく優雅に空を泳いてみたい。どんな気持ちになるのだろう。どんなに心が浮きたつのだろう。どんなに楽しいのだろう。
「いいなあ、いいなあ、あたしもやってみたいよー」
「ああ! 安奈もやってみればいい!」
 安奈の頭には空を飛んでいる自分が浮かんでいた。
 原には無造作に羽衣がちらばっているのだ。まるでピクニックにやってきた人が忘れて帰った敷き物のように……。
太郎が安奈の背中をぽんと押した。
「やってみろよ。ほら、いっぱい羽衣が置いてある! 安奈はどの色がいいのかな?」
 安奈は布たちのまわりをみてまわる。
「どれにしよう」
 薄いブルーの羽衣を手にとった。
 飛べるかどうかはわからない。けれどもう飛びたくて飛びたくてしかたがない。ただ空を自由にとぶことしか、安奈の頭にはなかった。
 安奈はすぐに羽衣を肩にかけた。せおったというより、なにかが肩をなでた感じだ。
 羽衣はふわふわと両側に布をひろげで泳ぎ出した。
「いってきまーす」
 安奈は今までみてきた人と同じように、布にひっぱられたように走り出した。走り出すと布もまた勢いをつける。あたりに風がおこり、ふわっと身体が浮いた。
地面に自分の足がついていない。
「飛んだ、飛んだ! ほんとに飛んでるー」
 歩いていた時感じた身体の重さが、今はとても軽い感じがする。
足の下からふわっと風が起こる。安奈の着ているワンピースが空気をふくんでふくらんでいる。
上に上にとあがっていくのがわかる。
ゆるい風が吹いてきて、羽衣の先をヒューんと舞い上げた。
「わー、もっと風、風―、もっと吹けー」
 大きな風がやってきて、安奈を舞い上げる。空高くのぼる竜のようだ。
「ヤッホー、おもしろい、おもしろいー。もっと飛べー、もっと飛べー」
ぐるりをかこむ真っ青な空。羽衣と同じような薄いブルーの美しい雲が浮いている。つかまえようとすると、雲はするりと逃げていく。安奈は雲をおいかけた。
安奈の羽衣と雲の鬼ごっこだ。
「それーい、もうちょっとだああー」
 肩にかかった羽衣をいっぱいに伸ばした。。
「あ!」
 羽衣が安奈の肩からはずれる。
「わああー」
 目は自然にとじていた。
下に落ちていっているのは確かだ。
―ああ、わたし……、どうなるうううううー。
だが途中でふわっとやわらかいものに身体が包まれた。
目を開けると、離れたはずの羽衣がまるでハンモックのようになって安奈を包んでいた。
太郎が水中で泳いている格好で、安奈のまわりをぐるぐるまわっていた。
「大事な羽衣、傷つけないでくれよ」
安奈は心底、ああ、よかった! と思い、
「すごい羽衣や、ありがとうー」
と叫んでいた。
 安奈も風にのらないで、太郎のように遊泳する。
 落ち着いてくると、周りが良く見えてきた。
 空はこんなに晴れているのに、見下ろすと、雪雲が一帯をおおい、下の景色をかくしている。
 雲の間から、次々と人の姿が飛び出てきた。羽衣を身につけた太郎の家族たちだ。安奈をかこむようにして、父親、母親、そして4人の兄たちまでが一緒だ。思い思いの色の羽衣を肩や腰や足もとにはべらせている。
―わあ、みんな一緒やあ。
安奈はもうおどおどとすることもない。
隣へ飛んできた太郎の父親が言った。
「安奈。どうだい? 鬼臣村は楽しい所だろ。ここに住んでみる気はないかい」
 安奈の心は嬉しさでいっぱいになった。
―そうね。ここではなんでも出来る。したいことは何でもできる。
 そんな思いが身体中をおおって、ますます羽衣をつけた安奈の動きが優雅になる。
 母親が太郎によくとおる声で言った。
「太郎! よいことをしましたね。安奈もすっかり鬼臣の娘です。今日はみんなでお祝いしましょう」
 そして母親は太郎に奇妙なことを頼んだ。
「太郎。お祝いには脱鬼の血が必要です。帰りに脱鬼の血をもらってきておくれ」
 父親が言う。
「安奈に飲ませてやろう。われわれの力の素だからな」
 兄たちが口々に言う。
「安奈がおいしく飲む姿を早くみたいものだ」
「それでこそ鬼臣の住民」
「そうだ。鬼臣家の娘」
「鬼臣安奈なんだ!」

安奈は高く高くあがっていく。
もっともっといろんなところへ行きたいし、やりたいし、自分は出来ると思う。
 安奈はワクワクする気持ちでいっぱいだ。
何だって出来そうだった。
 地面におりると、ほわっとした雪がやさしく安奈の頬をなでた。
もう日は西にかたむきはじめている。
「ああ、冬の到来だ」
と、太郎が空を見上げて言った。
 大粒の雪が舞いだした。
 だが安奈は少しも寒くない。今まで羽衣のように浮き上がっていた羽衣が首にふんわりまきつき、身体をおおっている服がまるで分厚いコートをはおっているようだった。
 一緒に飛んでいた家族も他の人達も誰もいなくなっていた。
安奈はきょろきょろと周りをみわたすが、太郎がそばにいるだけだ。
―みんな、どこへいったんだろう?
「みんな、鬼臣の館(やかた)にいったんだろうよ」
「鬼臣の館って?」
「ああ、厳しい冬がやってくるから、元気をもらいに行ったんだ」
 丘を降り始めると雪がますます激しくなって、あたりの景色を墨絵の世界になっていった。
安奈は自信にあふれ、意気揚々と太郎の後を歩いた。

                 (つづく)