第5章 羽衣
 
 いつものように贅沢な朝食だった。広いテーブルには太郎とふたりっきりである。
今日は和食が並んでいた。白いご飯の横には味噌汁。赤や黄や緑のピーマンピクルスが真っ白な器にのっている。ふわふわの出し巻き卵とサーモンのバター焼きは少し辛めだ。
安奈はどれも大好きな食べ物になった。
最後に大好物のプリンが出てきた。
「わあー、おいしいー」
プリンの中にイチゴが仕込まれているのはわかったがその他はわからない。クリーミーさは格別だ。
太郎にガッツポーズをする。
食べるほどに、安奈の頭はどんどん冴え、身体から元気がみなぎってくるようだ。
給仕をしてくれる脱鬼のおねえさんはいつもにこにこしていた。
まん丸い顔に小さな口と鼻。目の中の黒い瞳が見えないほどに細い目の人だ。
今日は白い割烹着を着ていつものコック帽をかぶっていた。
 安奈が嬉しくなって、「ありがとう」と言うと、あわてて奥へ引っ込んでしまった。
 脱鬼と名の付く人にはあまり話しかけてはいけないのかもしれない。
いつか脱鬼のことを聞いてみたい、いや、聞いてみないといけない気がする。だが聞いてはいけないのかもしれないとも考えてしまう。
安奈は、4年生の高学年になって、自分はとてもしっかりしている、もう何でも理解できる年齢だと思っていた。が、ここではわからないことや不思議なことが多すぎる。
安奈は、脱鬼の隠れた奥の厨房をみつめながら、あれこれ考えてしまった。
太郎が食事を終え、「じゃあ、行くぞー」と言い、テーブルをぽんとたたいて立ちあがった。
「待って,待って」と、安奈が叫ぶと、大事なプリンの最後をいっきに口にいれた。
ふたりはそろって食堂を出た。
また長い廊下が続いていた。今度はくねくねと何度も曲がっていく。両側には格子戸の玄関口が現れ、どんどん後へと消えていった。
「太郎。ここ、全部、太郎んちの部屋なん?」
「ああ、そうだよ。客人をむかえるために用意してるんだ」
「わたしみたいな?」
「そうだよ」
「たくさん、いるん? 私のような人?」
「いると思うよ。おれにはわからん」
「ふうん……」
「けど、空いていたら、どの部屋を使ってもいいよ」
 安奈は初めに寝かされていた部屋で十分だ。なにせ、夕食が済み、お風呂に入るともう眠たくて仕方がない。部屋にもどり、安奈のために用意されたベッドに入ると、すぐに爆睡する。
とはいえ、やっぱり他の部屋も気になった。
「太郎! わたし、また探検する所がふえたよー」
―ああ、ひとつ、ひとつ、どんな部屋なのか調べてみたい。 
 安奈の頭は部屋の中のことを考え始めた。が、太郎はどんどん先を行く。
廊下の先に、エレベーターがドアを開けて待っていた。
ふたりは中に入る。
安奈にはもう、太郎が次に何をするのかわかっていた。エレベーターの小さなボタンをみつけて、それを押すのだ。壁と一体になっているので、安奈にはとうていみつけられないボタンだ。
はじめて見るエレベーターである。濃淡の茶色のつたが壁いっぱいに描かれていた。そこにごま粒ほどのかわいらしい橙色の実がのっている。太郎はその沢山の実の中からたったひとつのボタンをみつけるのだ。
 太郎はすぐにエレベーターのボタンをみつけ、ひょいと人差し指でそれを押す。
とたんにドアがしまった。
 安奈はつぶやいた。
「なんでボタンがわかるんだろ?」
「ああ、安奈もすぐにわかるさ」
「ほんとに? すぐにわかるん?」
「そうだ! おまえが無心になって、分かる、わかるって、思うだけでわかるんだ」
「そんな、あほなああ……、出来るはずない!」
 だが、目の前の壁をぽんとたたいたとたんにエレベーターが止まった。
「わあ!」
 驚く安奈の声に、太郎がワハハと豪快に笑った。
「今のは行先についたからさ!」
 ドアが開いた。
ちょっと心を静めて、外にでた。
ドアのあいたエレベーターの前に、女の人と男の人が立っていた。
そして、
「あ、とうさん! かあさん!」
と、太郎が言ったのだ。
 ふたりとも、大きな身体の人だ。安奈からみると大人と思える太郎がまるで子供にみえる。太郎の頭一つ分は大きかったからだ。
その上に、お父さんの姿には威厳がある。髪はきれいに七分三分に分けられ、はりつけたようにくついている。ピンと立った耳元できりそろえられていた。鋭い目、太い眉毛、高くとがった鼻、そして真一文字の口をしている。派手な上着をきていた。女物の羽織のような鮮やかな朱色に銀色の縦縞模様、あちこちに星が散らばっている。。
 お母さんはどう考えても太郎の母親には見えない。おねえさん、それもそんなに歳のはなれていないお姉さんに見える。長く伸びた髪を二つにくくり、胸元におろしている。白い学ラン襟に黒いワンピース。おかしな組み合わせがとても似合っている。そのうえにガウンをはおっていた。袖口が広くまるで蝶の羽のようである。白地に薄いブルーとピンクのぼかしがはいっていた。
 褐色と白っぽい肌をした二つの顔がくっつくようにして、何やら話をしている。
 太郎の両親は家にもどるところのようだ。
安奈は、ふたりが太郎のお父さんとお母さんだとわかるとロボットのように動きがぎこちなくなった。放課後、おもいもかけず先生たちに出会ってしまった気分だ。いや、それ以上に安奈は緊張した。ここに来て何日も経っている。思い出せないほどにいろいろな経験をしてきた。太郎が一緒にい、脱鬼たちが何でもやってくれるから、両親のことなど思うことはなかった。当然両親はいるだろうが、意識の中に入ってこない毎日だった。
その両親とのいきなりの出会いだ。
もごもごと口を動かす。
安奈はこんな時はどういうのかと一生懸命考えた。
色々な言葉がうかんでくる。
「はじめまして」
「山本安奈です」
「お世話になります」
「楽しいです」
「うれしいです」
などなど、挨拶言葉が頭の中を走り回る。
だが、実際に安奈が言ったのは、直立不動になって、
「先生、さようなら」。
 安奈は顔を真っ赤にして下をむいた。そして、「あ」とつぶやく。このような状況になったことがある。安奈が小学生になって間もない頃、はじめて学校の外で、先生たちに出会った時だ。お母さんがそばにいて、「いい子だね。ちょんと挨拶ができて……」とほめ
てもらったことば、「先生、さようなら」。
―どうして! 初めてあった人に、しかも太郎のお父さん、お母さんに……。どうして!この言葉なのよ!
太郎の母親は目を細め、細い綺麗な指を揃えて、口元に持っていくと、
「はじめまして、安奈。太郎の母親です」
と言った。
「もう赤い蛍はみつかったかい?」
と、父親の声がした。恐ろしいほどに堂々としたお父さん。その声は太郎よりも優しい響きだった。
 安里は首を左右に振った。
「それは残念! でも、鬼臣村は広いからね。どこかできっとみつかるよ」
と、言い、太郎の方を向く。
「もう夏も終わりだ。かわいらしい客人に、秋の美しいところをしっかりみてもらいなさい」
「鬼臣家にふさわしいように、沢山の面白いことをわかってもらいなさい」
と、母親が付け加えた。
「はい!」
と、返事をした太郎が父親に早口で言う。
「とうさん! 安奈は羽衣をあやつれるもしれないんだ! とてもいい子なんだよ」
 父親はたくわえたひげをぴくっと震わす。
「なんとなんと! この小さな客人がもう羽衣を使える? そろそろ鬼臣になれるというのかい!」
「ああ、もしかしたら……。安奈の無心はすごいんだ。おれが保証する」
「まあ、うれしいこと!」
と、母親が言い、安奈にほほえんだ。そして母親の「それではまた」と言う声といっしょに、エレベーターのドアはしまった。
太郎はホールを横切って歩く。太郎には出口とわかる壁の一か所がみえているのだ。
安奈が言った。
「あたしも出口が見えるようになりたいなあ」
「羽衣をあやつれれば、こんなことぐらいすぐわかるさ」
「ふうん、羽衣をあやつるのってむつかしい?」
「おまえ次第さ!」
「太郎は出来るん?」
「当たり前だろ。おれは鬼臣村の」
と言いかけたので、安奈も一緒になって言った。
「鬼臣家、鬼臣太郎!」。
 キャキャッと高いトーンで笑った。
 ふたりは外に出た。
身体にあたる光が優しい。
太郎が言う。
「この光、おれは好きなんだなあ。日が短くなってきたってことだよ」
「そうなん?」
「もう秋がやってきてるんだ」
 安奈たちはホールからの壁を抜けて、空世界に出た。

                 (つづく)