鬼日和             

第3章 鬼臣のおばば


あたりにはもう雪がない。
地面には緑の葉が芽吹き、木々をわたる小鳥の声もにぎやかだ。どの木にも太陽がいっぱい届いている。
木と木の間をすりぬけるように、太郎は速足で歩く。上り坂の道を安奈は遅れないように必死で追った。
しばらくして、ふたりは小さな広場にでた。
「みどり―、きれいだあ……」
安奈はぴょんぴょんとその場で小さなジャンプをする。その間に、太郎が広場を横切り、先の幅広石段を駆けあがった。そして振りむいて安菜を招く。
安奈も急いで広場を横切り、石段を二段飛びで駆け上がった。
「わあー、すごーい!」
目の前に壮大な芝生広場が現れた。芝生を囲むようにして、左右に長い廊下が続く。廊下にはりっぱな瓦の屋根があり、朱色の柱が等間隔で並んでいた。
廊下の先を指さして、安奈はまた大きくジャンプした。
「わああー、御殿やー」
安奈の声に、
「そうさ、御殿さ、おばば御殿って呼んでるんだから」
と、太郎。
遠目に太い柱が何本もたっているのがわかる。柱と柱の間に淡い紫色の旗のような布が風にゆれていた。
その上になだらかな稜線をひいた大屋根がそびえ、きらびやかな御殿を風格のあるものにしていた。
安奈を待ってしばらく立ち止まっていた太郎。「行くぞ!」というと、靴のまま左側の廊下にとびうつった。
ぴょん!
安奈も後に着く。
 板敷きなのだが、その板がまるで大理石のように硬い。
まわりには誰もいない。安奈は身体を左右に動かし、いい気分で廊下の手すりをぽんぽんたたいて歩いた。
とたん、太郎の声が飛んできた。
「おい! ここはおばばの屋敷だ。脱鬼がとびててきて、お前を追い返すことになるぞ!」
「え? あのやさしい人が?」
「ちがう! ここの脱鬼のことだよ。脱鬼はいっぱいいるんだ」
「ええ? そうなの?」
 安奈の足は止まったが、太郎はどんどん先を行く。
「まってー」
安奈はつま先立ちで、後を追う。
 丸い柱が等間隔で続いていた。朱色がぬられていて、柱のぐるりを大きなひし形の金の飾りがかかっていた。
廊下は左から右へと弧を描いて続いている。左側は木々に覆われていて先は見えないが、
右の芝生が途中から白い砂利の広場に変わった。
その先が御殿の玄関口だった。
 広い幅の板の廊下も両側の手すりも何本も並ぶ朱色の大きな丸い柱も、まるで今たてられたばかりのように光沢を持っていた。
ちりひとつなく、いや、ほこりひとつない世界だ。
安奈はずっと違和感を感じていたことは、周りの景色の美しさや珍しさだけではなく、このほこりひとつない世界にも変な気持ちになっていた。
「太郎。どこもかしこもぴっかぴか。すごーい……」
 太郎はぴくっと形の良い鼻を動かす。
「安奈。そうさ。すごい脱鬼がいるからなんだ。ここにはおれの家よりももっと優秀な脱鬼がいるからだよ」
「ふうん……また脱鬼なんだ……」
 この時、突然、安奈の心に学校での思い出がよみがえった。放課後の掃除当番は嫌いだ。やりたくないけれどやらないといけないからと思い、果たしてきた。
ここではなんて楽なんだ。やりたくないことはみんな脱鬼がやってくれる。
「なんで? 脱鬼はいややないのかなあ……」
「おれにもわからないけれど、脱鬼は一生懸命楽しんでやってるよ。まあ、さぼると、すぐに血を吸われるからな」
「え? 血を吸われるの?」
 太郎はへへと変な笑い方をして、なんでもないというふうにぷっと横を向いた。そして「安奈! それより、ほら、赤い蛍が飛んでるかもしれんぞ」
といって、右の方を指さした。
安奈は廊下の荘厳さに目をうばわれていて、右手に広がる世界をしっかりみていなかった。
「わあ、ひろーい!」
 右一帯は広場になっていた。
広場は御殿の玄関から中央あたりまで砂利がひかれ、後ろになると色鮮やかな緑の芝生が覆われていた。
安奈たちが最初にみたのは後ろのほうの広場である。
安奈と太郎は誰もいない広場に入ってみたかった。廊下の最後の石段から、砂利の広場に降りることにした。
ふたりは三段の石段を駆け下りた。
砂利の上に立つ。
安奈はまた気になりだした。
―どうして誰もいないの?
柔らかな日差しをうけて、遠くに小鳥の声がきこえる。
小鳥のさえずりと一緒に甘い香りが風にのってやってくる。
―こんなに素敵な所に、誰も人がいないってどうして?
「ねえ、なんで誰もいないん? こんなに広かったら、みんなでおもいっきり、走り回れる。野球も出来るし、サッカーもできる」
「ここでは野球もサッカーもしないさ。みんな知ってるけどしないのさ」
「なんでえ?」
「きらいなんだよ。一緒に協力するってことが大嫌いなんだ」
「そんなん、あかん! 駄目やと思うよ」
「お前はみんなといるのが好きなのか……」
太郎は変な顔をした。太くまっすぐだった眉毛が八の字になる。
安奈も眉をひそめて、弟をさとすように言う。
「みんなで協力するって大事なんよ。太郎、協力してひとつのことが出来た時って、すごうすごう楽しいんよ」
とたんに、音楽会で優勝した時のあの沸き上ってくる嬉しさを思い出した。「優秀賞は4年3組のみなさんです」との発表を聞いて,二十二名全員が飛びあがって喜んだ一瞬だけが鮮明に思い出された。
太郎はまた眉を元にもどすときっぱりと言い放つ。
「けど、ここではそんな面倒くさいことはしないさ。何か自分にしか出来ないことを持っていればそれで充分楽しめるんだ。それに……」
 太郎はぐっと口をつぐんだ。
「何なのよ?」
「ふん、何でもない!」
「へんなの!」
安奈は一瞬のあの音楽会での喜びをかみしめるように、砂利道でスキップした。だが、スキップをしながら砂利の広場を抜けた頃にはもう何で喜んでいたのか思い出せなかった。。
太郎が後ろから走って追い越し、芝生の上に勢いよくとびこむと、ごろりと寝転がった。
 安奈も真似て芝生にとびこんだ。どこも痛くないし、まるでふざけて飛び込んだベッドの上のような感触だった。
「きっもちいいー」
と叫んでいる安奈の背中を、暖かく優しい春の光が覆っている。

風は安奈の髪だけでなく、両袖をちょうちんのようにふくれあがらせる。草地にうつ伏せになっていた身体をあわててもとに戻すと起き上がった。
とたん、安奈の頭の中まで、突風が吹いたようになった。
―何? どうなってるの?
 何の前触れ、音も匂いも人の気配もなかった。
というのに、5,6歩先に美しい女の人が立っていた! ふっくらとした面にゆるやかにカーブを描いた細い眉毛、その下にきれながのすずしそうな目、鼻筋がとおり、口は今にも話しだしそうだ。
―天女……。
天女のような人が、安奈のほうをじっとみつめていた。
光沢のある絹のロングドレスに身を包み、上から幾重にも白や黄色や桃色の透けたショールをはおっている。また女の人は優雅に舞い始めた。
どこからか、
ひゅうひゅう 
ひゅるる るるー
笛の音が聞こえる。
―なんてきれいな音色なんやろう……。
女の人の優雅な姿だけでなく、美しい調べは安奈の心をつかんではなさない。
安奈はあたりをきょろきょろと見まわすが、舞姫と太郎以外には誰もいない。
太郎が言った。
「鬼臣の舞姫だよ。客人のお前にあいさつしてるんだ」
「……」
言葉にならなくて、その場にぼーと立っている安奈である。
太郎は、
「あの舞いに、近くの森の木や生き物たちがあいづちをうっているんだ……」
「あいづち?」
「そうだ。笛……、あ、太鼓の音も……」
流れる曲のアクセントのようにトトン、トトンと小太鼓がなった。いや、森のほうから木々や生き物たちがエールをおくっているのだという。
やがて女の人は大きく手を広げると、カーテンコールの受ける歌姫のような恰好でお辞儀をした。
太郎が女の人にむかって言った。
「舞姫、ありがとう。客人も大喜びだ」
舞姫は答えるようににこっと笑うと、安奈たちがやってきた方向へ消えていった。

うっとりとして舞姫を見送る安奈の耳に、。
ドドー、ドドー
ノッシ、ノッシ!
ドドン、ドドン!
 地鳴りのような音がきこえなかったら、安奈はいつまでもつったっていたかもしれない。
うしろのほうがなにか騒がしい。
安奈が機械仕掛けの人形のようにふりむく。
「わああああ」
 安奈はあわてて太郎の後ろに隠れた。
「何なの? あの人たち!」
 奇妙な姿の人たちが御殿の開かれた扉から出てきたのだ。
まるで祭に出かける妖怪たちだ。怖いというのではなく、いつもみる人たちとは明らかに変わっている姿、姿、姿。顔が身体の半分を占めている人や、背の高さがみんなの倍もある人や、力士のように太っている人たち。笑っている顔、怒っている顔、泣き顔やいつもくしゃみをしているような顔など、どこかに特徴のある人たちだった。
 呆気に取られて見ていると、太郎が突然、大きな声を出した。
「あ! 鬼臣のおばばだあー」
 芝生の広場から砂利の広場にむかって走り出す。
「おばばあー、客人をつれてきたぞー」
 先頭にたってやってくるのは大男。後の3,4人がかくれてしまうほどのでっかい身体だ。一歩足を進めるたびに、
ドドン
ドドン
地鳴りがする。
「あのでっかい人がおばばなん?」
「違う、違う。左肩に乗ってる人、見えるだろ……。あれが鬼臣のおばばなんだ」
 大男が芝生の手前で膝を折って座った。
「あ、ほんとだ……。おばあさんがいる」
 おばあさんが大男の差し出した左腕を足場にして、ふたりの前に飛び降りた。
華やいだ若者のような声が響く。
「太郎! ひさしぶりじゃのう」
安奈は声の主をまじまじと見る。
一瞬、昔話に出てくるおばあさんを思い出した。
安奈のおばあちゃんよりもずっと年寄りだ。
髪の毛は真っ白。真ん中から二つに分けられ、ぎゅっと後ろに結ばれている。腰にまで伸びた長い髪は先になるほど細くたよりなげになっている。眉毛さえも白くて顔にとけこんでいるようだ。鼻は大きく立派で、口はもっと大きくて真っ赤な唇をしている。笑うと、白い歯がしっかりと見えた。
おばばは奇妙な服を着ていた。白いワンピースの上に光沢のある白い着物をはおっている。襟や袖の先に奇妙な模様のテープがついていた。テープの色は濃紺でそこに銀の星がちりばめられている。
首飾りをしていた。大きな青い勾玉が揺れている。
そして安奈の目をくぎづけにしたのは、腰にしている朱の帯だ。その帯の先がだらんと垂れていて、時々蝶のようにひらひらと舞っている。
安奈ははっと、大事なことを思いだした。
「あ、赤い蛍?」
―自分は今赤い蛍をさがしていたのだった!
 安奈はすっかり忘れていたことで顔を赤くしながらつぶやいた。
太郎は安奈を指さして言った。
「おばば、まだニンゲンの子なんだ。こいつ、赤い蛍さがしてるんだって? おれ、見つけてやりたいんだ! おばばならいろいろ知っているだろうから」
「ほう、それはごくろうさんだな。じゃ、みんなにきいてみようかね」
 言うが早いが、おばばのまわりにいた人たちははしゃぎだす。
 太郎は右手を大きく広げた。安奈に向かって、
「この者たちはみんな、鬼臣村の優秀な者たちなんだ。赤い蛍を知ってるかもしれないよ」
と言った。
 奇妙なのは姿、かたちだけではなかった。その出で立ちも面白い。
―この人たち……昔の人?
みんな変な履物をはいている。安奈のようにスニーカーを履いている者は誰もいない。下駄、ぞうり,わらじ、裸足の者もいる。
―なんで?
着ている服も変だった。古い時代を描いた絵本やアニメや映画にでてくるような衣装をつけていた。
まわりではまた賑やかな声がとびかっている。
さっきまでおばばを肩にのせていた大男が大きな声をだした。
 奇妙な節回しの声だ。
「やあ、やあ、客人―、われは赤い蛍をみたことがござらんがあー……」
安奈の耳にしっかりときこえてきた。ところが、誰からの返事も聞こうとしないでしゃべりだした。
「さあ、さあ、客人! きいてくれえー……」 
腰にぶらさげている刀が激しく揺れている。
「われこそはあー、鬼臣きっての力持ちいー、今ここで、客人に披露するものなりいー」
 黒髪を両耳のまわりにふくろをつくってくくりつけている。まるで黒いひょうたんが耳にくっついているような髪型だ。あわい水色のふわっとした上着に、だぶだぶのズボン。裾がくくられていて、なかに空気がはいってふくれている。
目が鋭く眉毛が墨で描いたように整っている。
大男のろうろうとした声が流れる。
「わしはあー、時の帝に従って、あちこちで戦ってきたのであーるうー。いつも勝利はわがうちにあったのであーるうー。なにせわしは天下一の力持ち!」
 大男は、
ノッシ
ドドン
安奈の前を通り抜け、広場の真ん中に立った。
「さあ、さあ、みんなあー、かかってこい! 一度にだ! ここにいるもの一度にだあ。われこそはあー、鬼臣きっての力持ちいー……」
 とたんに、
「わー」
 歓声があがった。
おばばの後についていた者たち、誰もが大男に突進していく。
「わあー」
安奈をよけて走っていく。
安奈はみんなの顔が笑っているように思えた。実際、突進して行って、すぐにはねとばされた。跳ね飛ばされた者たちは芝生の上に寝転がって、
キャキャ
キャキャ
大笑いをしているのだ。
 笑っているみんなよりも高い声で、大男が叫ぶ。
「どうじゃ! わしの力にかなう者はなかった! わしは鬼臣きっての力持ちいー」
 この大男だけではなかった。
芝生の広場いっぱいに散らされた優秀な者たちは自分の得意技を披露して喜んでいる。まるでサーカスをみているようだ。
太郎も鬼臣のおばばも、安奈の側からいなくなっていた。あちこちにあがる黒い煙や炎、飛びかい、走り回る者たち。あまりの騒がしさに、安奈はだんだん考えることがおっくうになってきた。頭の中が真っ白で何もうかんでこない。



                 (つづく)