第2章 鬼の太郎③

 長い廊下が続いていて、両側に部屋があってしっかりとした戸や壁でくぎられている。けれどところどころにむき出しの岩がでていたりする。
廊下のつきあたりの部屋の戸口の前で、太郎がたちどまった。
「ここが食堂だからね。おぼえておいてくれ」
 シックな茶色の格子戸が両側に大きく開いている。
一歩中に入った安奈は、一瞬どこかの高級ホテルに入ったようで立ちどまる。
前を太郎がすたすたと歩く。
足もとにはぶあつい明るいグレーの絨毯がしかれ、りっぱなテーブルがある。
緑いっぱいの木々がみえ、静かなおとなしいピアノの曲が流れ、テーブルの上からいいにおいがしていた。
そのテーブルに近づくと、太郎が
「安奈は向こう側だ」
と言った。
 安奈はぎこちない動きをしながら、普通の家の何倍もある大きなテーブルに向かう。
―あれ?
 この時、はじめて安奈は気がついた。
「太郎! 誰もいないね……」
 太郎がパチンと指をならすと、
「当たり前だろ。おれらのふたりの朝食だからな」
と言う。
―ふたりだけの朝食? 他に誰もいないん?
 安奈は心の中で叫んだが、口にでてきたのは、
「ああ、お腹すいた!」
だった。
「よし、いただこう!」
二人は椅子に座った。その椅子も中世のヨーロッパからやってきたような重厚なものだった。
テーブルには安奈が好きだといった料理がすでにずらりとならんでいる。
艶やかな緑や白や黄の野菜の側に、ハンバーグ、エビフライ、ナポリタン、そしてピンク色のチキンライス……。ちゃんとプリンも置いてあった。
「わあー、すごーい。ホテルの食堂みたい!」
「いやいや、ホテルじゃない。おれんちだ!」
太郎が満足げに笑った。
「それにしても安奈、これってお子様ランチだな」
 安奈は、自分が小さい子にみられたようで、ぷっと頬とふくらませたが、太郎はきづいていないようだ。
太郎も同じようにハンバーグやエビフライを食べている。飲み物は赤ワインのようなジュースを飲んでいた。
 食堂に居るのは、安奈と太郎と世話をしてくれるおねえさんだけだった。
太郎は、おねえさんのほうをむいて言った。
「何でもあの脱鬼に言って。おれんちの脱鬼(だき)だから、何でもきいてくれるんだ」
この時、安奈は初めて「脱鬼」と言う名を聞き、はじめて「脱鬼」に出会った。
真っ白な長袖シャツを着て、首に赤い紐を巻いている。赤い紐は正面の胸元でリボンになって、優しい顔によく似合っていた。
濃紺のデニムの長スカートをはき、おおいかぶさるように同じ色の前掛けをしていた。頭には安奈もよく知っているコック帽がのっている。真っ白な帽子の下から、黒い髪が両側にたれ、二つに別れ、夫々三つ編みにしていた。
にこにこといつの時も目が笑っている。
―この人、お手伝いさんなんだ……。
安奈が何かを言おうとすると、すぐに恥ずかしそうにうつむき、前をむいたまま後ろへさがって奥へひっこんでしまった。
 脱鬼のおねえさんは言葉を一言も出さないで、スープをよそったり、プリンのお変わりを持ってきたり、一生懸命安奈をもてなした。
 太郎は食事が終わると言った。
「安奈、地上に出て、まずは赤い蛍を捜そう!」
 ふたりはまた長い廊下にでて、エレベーターに乗った。

 エレベーターのドアが開いた。
太郎に続いて飛び出た安奈は呆気に取られて立ち止まる。
 安奈の記憶の中では外は真っ白な雪景色だった。
だがあたりの景色は一変している。
緑の葉をつけた木々が周りをおおっている。
 足もとには黄や白や橙や紫の色鮮やかな花がちりばめられ、春まっさかりの野山の風景が広がっているのだ。
そよいてくる風にも甘い香りがする。
安奈はあたりをきょろきょろみた。
―ここはいったいどこ?
安奈は友達と一緒に、団地のはずれの森林公園に遊びにいった。
水遊びにちょうどいい谷川があって、夏場は格好の遊び場だった。
だが、安奈は「うっ」と胸をつまらせた。
その谷川がどんな景色だったか思い出せないのだ。その上、
―なんで? 友達の顔がうかんでこないの?
 すぐ前に両側がかわいい花や草でおおわれたきれいな森の道がみえる。
 その時突然、おねえちゃんが小さい時、足にけがをしたことを思い出した。安奈とちがって落ち着いたおねえちゃん。ただそこを歩いていて、足にガラス片がささったのだ。
ここではそんなことは絶対にないだろうと思った。そして、
「え、なんで?」
とまたつぶやく。おねえちゃんの顔が浮かんでこないのだ。
エレベーターの横に奇妙なボックスが何個がおいてあった。
「あ、このボックス……」
ちょうどお母さんが通販でいいもの買えたと喜んでいた洋服入れと同じ格好をしている。そう思っているのに、安奈の頭にはお母さんの顔がうかんでこない。
―え? なんで、みんなの顔が思い出せへんの……。
 太郎が目の前に立った。
よく伸びた指をそろえて、顔の前で左右に振った。
「おい、おい! しっかりしろよ。何、ぼけっとしてるんだ。おばばに会いに行くんだろ!」
 安奈は顔をあげて太郎を見た。
太郎ははっきりとみえる。しっかりと姿かたちがわかった。目が大きく丸く、その上の眉毛は一文字。鼻と口は形よく、優しい感じだ。
不安げな安奈の様子に、
「大丈夫! 安奈。赤い蛍はきっとみつかるよ!」
と言うと。横の洋服ダンスと似たボックスを指さした。
「ちょっと着替えるからな」
太郎は白いうすい半袖シャツの上に皮のジャンバーをはおり、縞模様の短パン姿は冬の服装らしい
ボックスの四方は透明で、太郎はその中に入っていくのが見える。
入ったかと思うと、あっという間に着ている服の色がかわったのだ。
「わあ! すごーい!」
「お前も調節してもらえ」
 安奈もとなりにある透明の箱に入った。
 中にはいると、いい匂いがする。春の野原にねそべっているようないい気分になった。
 肩が軽くなった思いがすると、どこからか、
「色をお選びください」
と、女の人の澄んだ声がした。
 無数の色がまわりをかこんでいる。安奈はブルーの列のひとつを選んだ。
すぐに「外に出ても楽しめるあなたの服です」の声。
箱の外にでると、箱自体が鏡になっている。
どこに立っても自分の姿が写った。
「ええー」
安奈が変な声をあげたのも当然だ。今までの安奈の着る服装からとうてい想像できないものだった。
幅広のふわっとした長袖のシャツ。白地に紺色の小さなクローバーがちりばめられた模様。さらに淡いブルーのスカートをはいていた。しかも3段になったフリル付きである。
安奈の変身ぶりに、太郎はうれしそうだ。
「客人だから、脱鬼も頑張ってつくったんだろうな」
と、わけのわからないことを言う。
太郎は昨日とは色違いの黄の半袖シャツと黒とクリーム色の横縞の短パンをはいていた。
太郎は満足気に、
「なかなかにあってるぞ!」
と言った。 
安奈はいままで着たこともない服装に落ち着かなくて、両手でスカートの裾をさわってみたり、シャツの模様のクロ―バーをつついたりした。だが、二、三歩歩くと、まるで空気をまとっているように軽く、そのくせ少しも寒くも暑くもない。快適な服であることがわかった。
「安奈、走るぞー」
「オッケー」
ふたりは春の花の咲く道を「鬼臣のおばば」の御殿にむかって勢いよく走り出した。



                  (つづく)