第2章 鬼の太郎②


 安奈は、こじんまりとした和風の部屋、畳の上に敷かれたふとんに寝かされていた。
深い眠りからさめた安奈の目に一番にとびこんできたのは、森の木々に雪が降っている景色だった。
とっさに身体を硬くする。意識の中に寒さがわっと入ってきたのだが、全く寒さを感じない。
とびおきる。
その景色は壁いっぱいにはめこまれているテレビ画面のものだとわかった。
「ここはどこ?」
なぜ自分はここにいるのだろう。
安奈は正座して、ゆっくりと首を左右に振った。
右の巨大なテレビに写る画面は猛吹雪になっていた。だが、安奈自身はほかほかとした春の野原にいるようだ。
眠っていた頭からほんの5、60センチ先に床の間がきられていた。安奈はかかっている掛け軸をみてぎょっとする。
描かれていたのは赤鬼の顔だ。右からの雪明りに浮かび上がって今にもしゃべりだしそうだ。真っ赤な顔と角がてかてかと光り、鋭い丸い目は金色をしている。
真ん中の真っ黒な瞳が安奈をみつめていた。
大きく開いた口には白い歯と鋭い牙がみえる。赤い顔をおおっているのは縮れた黒い毛だった。
安奈は正座のまま、じっと赤鬼の掛け軸をみつめる。
このような床の間と掛け軸の景色は、田舎のおばあちゃんの家でみたことがある。
「おばあちゃんち?」
だが、安奈はすぐに首を左右に振った。
「ちがう!」
掛け軸の絵はいつもかわいらしい花。その下に野原の花がいけてあった。
「ここはどこなん?」
安奈は声に出して、自分に問うてみる。
ひゅうと冷たい風の音が聞こえる。
テレビ画面はまだ吹雪のままだ。音と画像に、安奈は寒くもないのにまたぶるっと身体を震わせた。
「あ」
安奈ははっとする。
「赤い蛍を見たんやった!」
真っ白な世界に、赤い蛍が飛んでいた……。
思い出すのはそこまでだった。思い出そうとするとキーンと頭がいたくなった。
「なんで、思い出せへんのや?」
まるで魔法か妖術にかかったようだ。身体をぐるりとまわす。
「え?」
 テレビ画面の壁と床の間以外、部屋は全部ふすまでかこまれていた。ふすまはグレーの地に雪の結晶の模様がいっぱいちりばめられていた。
 ふすまの向こうから、
トトトド
トトトト
誰かがやってくる。 
安奈はさっきの赤鬼以上に驚いて、テレビ画面にくっついた。
ガラーガラー!
勢いよく床の間の左のふすまがあいた。
安奈は両手をにぎりしめ、みがまえる。
男の子が入ってきた。
目がくりっとして大きく、眉毛がまっすぐ横一文字になっている。背はたぶん自分と同じくらい。
男の子が威勢の良い声で言った。
「やあ、目がさめたんだね。よかった、よかった!」
 人懐っこい声だ。
 安奈はなぜかほっとしていた。
ここは怖い所ではないようだと思う。
するとますます不思議で奇妙で、魔法にかかっているように思えた。
 テレビ画面に背中をつけたまま、
「ここはどこ?」
と上ずった声を出す。
 男の子はあぐらをかいて、床の間と布団の間に座った。
「ああ、おれんちだよ」
「あんたは誰?」
「おれは太郎。鬼(き)臣(しん)太郎」
「きしんたろう?」
 ますます頭がこんがらがってくる。
―わたし、なんで? こんなところにいるの……。
「あの……」
 安奈は何を言ったらいいのか、言葉がでてこない。
「元気そうでよかった、よかった!」
 この太郎と言う子は自分のことを心配してくれているようだ。
安奈の頬は桃色になり、目もしっかりと開き、言葉もはっきりとしている。
太郎はポンと胸をたたくとまた同じ言葉を繰り返した。
「よかった、よかった! それで、おまえの名前は何て言うんだ?」
―わたしの名前? 山本安奈!
 安奈は自分の名前が口を次いででてきたので、またほっとした。
―名前はおぼえてる!
「安奈……、山本安奈!」
「そうか、安奈っていうんか。人間の村からきた安奈! うん、よかったあ、ほんとによかった」
 丸い鼻がぴくぴくと動く。
―この子は優しい子なんや。
もう一度、その子の名前を確かめようと、
「ええーっと、きしん……」
といいかけると、その子が、
「鬼(き)臣(しん)村(むら)の鬼臣家、鬼臣太郎っていうんだ」
と、嬉しそうに言った。
「きしんむら? 聞いたことない!」
「アハハハ、そりゃ、そうだろう。おまえたち人間に知られたら、やばいってことさ」
 安奈にはその言葉の意味もわからない。というよりしっかりと耳に入ってこない状態だった。今、自分がどうしてここにいるのか考えることで精いっぱいだ。
わたしはどうしてここにいるのだろう? どうして何もおもいださないのだろう……。
思い出そうとしても、何も浮かんでこない。また頭が痛くなりそうで、安菜は「うっもお! どうなってんの!」と甲高い声を出す。
目の前の変な男の子がニマニマ笑う。奇妙な服を着ている。白の半袖シャツの袖がやけに大きい。短パンをはいている。横縞模様でまるで鬼の衣装だ。
 太郎が目を泳がす安奈をみて、
「ああ、かあさんが着替えさせたのさ。ずぶぬれだったからな」
とおかしなことを言った。
「わたし、ずぶぬれだったん?」
 安奈ははっとして、自分の胸や腰や足もとをみた。
太郎と同じように白シャツと縞模様パンツをはいていることに初めて気がついた。
シャツは長袖でまるで着物の袖のような幅があった。
あまりにも自然にフィットしていて、着ていることさえ忘れるほどの服だ。
「おまえの服はクリーニング中だ」
「なんで? なんで?」の思いが頭をぐるぐると回る。
だが現実に安奈は大きなテレビのある部屋で鬼の着るような服を着て、太郎と名乗る男の子と一緒にいる。
「わたし、なんでここにいるん?」
 太郎は安奈が雪の中で倒れていたことを話した。
「おれが助けてやったのさ」
胸をぐんとそらして言う。そして、
「びっくりしなくてもいいよ。ここは楽しい所さ。それにしてもおまえ、赤い蛍ってなんなんだ? うわごとで、赤い蛍、赤い蛍ってわめいてた……」
と言った。
「え? 赤い蛍?」
やっぱり、自分にとって大事なものなのだ。
「ねえ、赤い蛍って、この村にあるかしら?」
太郎はにまっと笑った。
赤い蛍を捜してやるといえば、きっとこいつと仲良くなれる。この村に残るにちがいないと思ったからだ。
元気になったからと言って、せっかく連れてきた人間を返したくなかった。この世界においておきたいと思った。
―それに……、あの雪の場所に戻したら、こいつは死んでしまうにきまっている。
太郎は弾んだ声を出した。
「鬼臣のおばばに聞いてみてやる! この村で一番の物知りなんだ!」
「鬼臣のおばば?」
「そうさ。おばばの住む御殿に行けば出会えると思うよ。それに、おばばの所には特別な力のある者たちが集まるんだ。きっとみつけられるから」
頬を赤くして、太郎は一生懸命話す。
安奈にはまだまわりの状況がしっかりわかっていない。テレビの前で、正座しかしこまっていた。
太郎が、
「とにかく、腹がへっては何もできん。安奈、朝ごはんにしよう。安奈はいつも朝、何を食ってるんだ?」
と言った。
 とたんに、安奈は今すごく空腹であることに気がついた。
―わたしはきっと何も食べていないのだ。ずっと眠り続けていた? らしい……。
 安奈は膝を崩すと、ちょっと大きめの声で言った。
「朝は……パン。わたしはオレンジジュースが好きなんよ。一番好きなのはプリンだけど……。朝からはお母さん、駄目って言うよ」
 まるですらすらと自分の好きなものの名がでてきた。
太郎が、
「なるほどな。おれたちは和食が多いんだ。だいたい味噌汁、お魚と卵と野菜色々と……。プリンがほしいなら大丈夫、出てくるよ」
「へえ、朝から?」
「あったりまえだ。おれらは鬼臣村の鬼臣家、おれは五男の鬼臣太郎だからな」
 また鬼臣という名がでてきた。
 安奈はもう憶えてしまった。頭がからっぽだからかな? と思いながらも、口はなめらかだ。
「わかった! 鬼臣村の鬼臣家の鬼臣太郎さん!」
 それに続けて、
「あたしはハンバーグとポテトチップとオレンジジュースとそれから、あ、プリンがいい!」
と言った。
 太郎はほっとしていた。
―こいつは怖がっていない。おれたちの家になじんでいる。これなら大丈夫。ここでおれと一緒にいっぱい遊べばいい。好きなことをすればいい。
 太郎の心にわっとうれしさがこみあげてきた。
―いろんなことを楽しませてやるぞ! そして鬼臣村の鬼臣にしてやるぞ! なにせ、鬼臣の歴史は優に2000年をこえるんだ。こいつを鬼臣にしたら、おれはもしかしたら人間と行き来できるかもしれんな! こいつがおれらの所へ来たように、おれも人間界に住んだりして……。愉快、愉快!
 体中が火の玉のように燃えている思いだった。
 安奈がそんな太郎の心を読むことはできない。
 ふたりはしゃべりながらふすまを開け、二つの部屋を通りぬけた。
安奈はきょろきょろしながら、、太郎の後について、老舗旅館のような部屋の玄関口から廊下へと出た。

                  (つづく)