第2章 鬼の太郎

大角山の山奥に、太郎と言う鬼の子が住んでいた。
太郎は安奈と同じ年なのだが、同じなのはそれぐらいで、身体つきも生活も家族も住んでいる村の様子もずいぶん違っていた。
 太郎一家は洞窟に住んでいる。といっても安奈が考えそうな洞窟ではない。始めて入った者が迷子になってしまうほど、とんでもなく広くて、水も木も土も岩も山もある壮大なものだ。
太郎の村に今年も厳しい冬がやってきた。
だが、太郎の住んでいる地下の深い洞窟では一年中たいした温度の変化はない。水の温度で夏冬を感じるほどであったし、高度に進んだ文明は地上と同じように美しい季節を創り出していた。 
太郎たちの住む洞窟の入り口に朝日があたる。
威勢よくとびだしてきた子がいた。
太郎だ。
太郎は「ウオー」と一声、雄叫びをあげた。
生気にあふれた姿が朝日にあたって湯気が身体のあちこちからあがる。
白いうすい半袖シャツの上に皮のジャンバーをはおっている。腰にはふさふさとした狒々の皮をまき、縞模様の短パン姿だ。ぬっと出ている足先は裸足だ。
目が大きく、まつ毛がたっているので、涼しい感じがする。眉毛は太く、一文字の形でいかにも向こう意気が強そうだ。
だが、鼻も口も形よく、優しい感じで、茶褐色のちょっとウエーブのかかった短い髪も良く似合っている。
太郎は、今季はじめてみる大雪に心はうきたっていた。
ぶるるんと首を振ると、洞窟の奥にむかって叫んだ。
「ちょっと岩駆けしてくるよー」
 うしろから、母親の声がおっかけてきた。
「太郎―、大角山には黒い雲があるから、遠くへいくんじゃないよー」
「わかってるー」
朝日をあびた新雪の地を意気揚々と踏みつけていく。
自分の足跡が雪の中にきっちりとついているのがうれしくてたまらない。ふりかえり、またもどり、円形にしてみたり、星形にして雪の山を越えていく。
突然、太郎は岩の上から下に滑り落ちた。
太郎の鼻にふわっと甘ったるい匂いがはいってきた。
「うわー、いいにおいだ」
 搾りたてのミルクのにおいだ。太郎はますます陽気になった。
その場でどんどんと、しこをふむ。
その時だった。
谷になった岩と岩の間を点々と足跡がついていることに気がついたのだ。
太郎は崖をのぼるのをやめて、立ち止まった。
「う? どういうことだあ?」
 自分よりも小さな足跡だ。
「なんだ? おれよりも小さなやつが先に歩いたってことか?」
 太郎の身体が急に熱くなった。
負けず嫌いな太郎は男ばかりの5人兄弟の末っ子だ。 
やっと10才になったばかりだが、持ち前の負けん気魂で、走りはもう一番上の兄にさえ、引けをとらないほどになっていた。
「ふん、どこからきたんだ? この足は」
 用心深く、太郎はその足跡の上に自分の足をおく。
確かに自分よりも小さい。すぐに太郎の足跡で先の形は変形する。
 小さいとはいえ、こんな大雪の中を歩いているのだ。もしかしたら自分よりも力の強いやつかもしれないと思う。
身体から湯気が出、息も荒くなる。
太郎は身構えながら、大きな岩の下をぐるりとまわった。
 あっけなく足跡の主はみつかった。
 大きな岩の前でぼんやり立っている。
茶の毛糸帽をかぶり、その上からさらに黄色のふわふわマフラーをかけて、前にたらしている。分厚いクリーム色のタウンジャケット、長ズボンにスニーカー姿だ。
「わあー、暑くるしい。なんでこんなに着こんでいるんだ?」
 近づいていくと、その者は身動きしない。立ったまま、目をつむっているのだ。うしろの岩に身体をつけて眠り込んでいる。
太郎は思った。
―へんなやつ? 立って寝てる……。どうしてこんなところで寝てるんだ?
 背の高さは自分より少し低い。同じぐらいかちょっと年下の子かなと思う。
「どこの村からきたんだ? 相当、疲れているようだが……」
 静かな寝息がきこえる。それに身体中からいいにおいがした。さっきのにおいはこのものからだったのだ。
太郎はおもわずかぶりつきたくなった。
ミルクだけではない。こおばしいにおいも混じって、どこか懐かしい匂いなのだ。
こんなにおいをかいだことがなかった。胸がどきどきするほどいいにおいだ。マフラーの奥の透き通るようなつるつるした肌も気になる。
「おい、どうした! おきろ!」
 声にも気がつかないで目を閉じている。
太郎はそっと顔を触ってみた。
あまりの柔らかさにあわてて手を戻す。
戻した手が勢いあまって、かぶっていた毛糸の帽子を飛ばしてしまった。
黒くふさふさとした髪が現れた。
「わおー、なんてきれいなんだ!」
 短い髪はウエーブをつくっている。
 太郎自身も茶褐色のウエーブのかかった髪だったが、硬さがちがう。こんなに柔らかな毛も肌もみたこともさわったこともない。
「あ」
 太郎は小さく声をもらすと、つぶやいた。
「こいつ、もしかしたら人間の子どもかもしれん!」
かあさんから聞いたことがある。人間の子はおもちのようにふにゃっとしているらしい。
 突然、その者がしゃべった。
「うもー! この吹雪じゃ先へいけないよ!」
 そう言うと、すごい勢いでかがみこみ、落ちた帽子を拾った。
太郎はあっというまに岩の後ろにかくれた。
 その者は大きな声を出して言い続けている。
「うもー! 雪、なんとかならないの!」
 太郎は岩かげから見てにまにま笑う。
「威勢のいいことだ!」
なかなか負けん気が強そうだ。
「おもしろくなってきた」
 奇妙な子は目をつぶりながらしゃべっている。
「どこへいったんやろ。もう! どうせ、みんな、わたしのことほっといて! あ、赤い蛍や。ちょっと、ちょっと待ってよー」
 岩からのぞいている太郎はそっと足音を出さないように進んだ。
気づかれて逃げられたくなかった。
あわよくば友達になりたい。
もっと言えば自分の家に連れて帰りたい。
「それから、それから……」
心の中はもう激しい嵐のように騒ぎだしている。
「こいつ、この村で住むようになったらいいなあ」
―だが……。
太郎はこの村、つまり太郎の住む鬼(き)臣(しん)村(むら)で一番の知恵者であり、誰からも尊敬されている「鬼臣のおばば」の言葉を思い出した。
「人間にはかかわるな。わしらのすばらしい文化が崩れてしまうからな」
 それでも太郎はどうしようもなく、奇妙な子に興味がわいた。
奇妙な子からにおってくるこうばしいやさしいにおいが愛おしいと思った。
とにかく、めったにないチャンスに出会ったのだ。
太郎はさらに近くへと進んだ。
あんなに威勢よくしゃべっていた女の子の声がだんだんと低くなっていく。
しっかりと立っていたのに、両膝が急に前に折れて、正座する格好になった。
それでも目をとじて顔を前にむけている。
 唇が白い肌と同じような色にかわっていく。いや、顔の色が青白くなっていった。
太郎が手の届くところにまできているのに気づかないで眠っている。
このままにしておくとこいつはどうなるかな? との思いが湧いてきた。
―もろい人間なんだ……。きっと死んでしまう……。
この者を助けないといけない。
助けたいと思う。
「どうしよう、どうしょう」
 あれこれ考えている間もなかった。
そいつの頭がうなだれはじめた。
もう声もしない。
 太郎は思った。
―おれらの村に迷い込んだのだ。このままほおっておくわけにはいかない!
太郎は決心をした。
「しかたない。とにかくおれの家まで運んでから考えよう」
と独り言を言う。
 太郎はその者をそっと抱きかかえた。何という軽さなのだ。しおれた柳を手にしているようだ。
太郎は人間を両手で抱え、雪の道を飛ぶようにかけた。あっという間に元の洞窟の入り口についた。

洞窟に入ると、すぐに鉄の扉に行き当たる。
岩にしっかりとはめこまれている鉄の扉だった。上の部分が半円形、下は四角くなった美しい形の扉だ。
扉には、ふちどりを際立たせるように突起した鉄の帯がぐるりを囲っている。さらに真ん中を分けているしっかりとした線がある。両開きになるからだ。作られた当初はきっと燦然と輝いていたと思われる。とはいえ、今もなお渋い光を放っていた。
太郎が前に立つと自然に扉が両側に開いた。
その扉は玄関や庭にはいる門扉ではなかった。扉の先はがっしりとした鉄で囲まれた四角い箱、エレベーターだった。5,6人は充分入ることができる。
中にはいると、太郎がなにもしていないのに、すーと扉が閉じて凄い勢いで降りていく。
すべてが音もなく動き、止まり、そして再び扉が開いた。
開くと目の前にあったのは、広い幅と先が見えないほどに長い廊下だった。
左側には部屋の入口が続き、右側は壁だった。ところどころに行燈のような形をした電灯がぶら下がっている。
太郎は扉から出るなり、大きな声で叫んだ。
「かあさーん、かあさーん」
 太郎の母親が廊下の中ほどから突然あらわれ、駆けてきた。
肩までの髪は太郎と同じようにしっかりとウエーブがかかっている。だが太郎よりももっと褐色で時々金髪のように光った。目も心持ちグリーンかかっている。色白で、太郎たち5人の母親とはとうてい思えない、若々しい女の人だった。
「太郎。どこまでいってたんだね。朝食もとらないで」
 近づいてきた母親は突然、悲鳴をあげる。
「わあ、太郎! その子は、人間! きっとそうよ!」
 声と同時に、廊下のあちこちから兄たちが飛び出てきた。
 4人の兄たちのなかでは年長のおにいさんはもう父親よりも身体が大きい。大きいだけでなくどっしりとして落ち着いている。その年長のおにいさんまでが顔を出してきた。
兄たちは色とりどりの縞模様パンツと太郎とちがってきちんと長い袖のシャツをきている。
誰もが「人間」という言葉に惹かれて、自分の部屋からとびでてきたのだ。
「ほう、これが人間?」
「はじめてみたぞ」
「なかなかかわいいもんだな」
「ちょっとさわってみてもいいか」
母親が両手をひろげて、太郎の前に立ち、人間をかばった。
「さわっては駄目! ここに来たばかりで、まだ身体がなじんでいないはずです!」
そして、
「とにかく、客間につれて行きなさい!」
と言った。
母親が先頭にたっていき、身体を左にむけたとたん、音もなく廊下の左の一部分がぱっくりと口をあけた。客間への入り口の扉が開いたのだ。
中にソファーとテーブルのある応接間が現れた。安奈はソファーに寝かされた。
 眠っている小さな人間を前にして、太郎たちは顔をつきあわしている。
 母親は、太郎の肩をたたいて、
「おまえと同じぐらいの年齢だねえ……」
と言い、「ふう」とため息をついた。
「やっぱり、もとの場所へ戻してきたほうがいいと、わたしは思うよ」
「そんなことしたら、こいつ、死んでしまうよ」
と、太郎。
兄たちも口を出す。
「だからといって、目をさまして騒がれたらどうする?」
「どっちにしても、こんな小さな生き物が生きてられないよ」
「そうだ、そうだ。こいつは確実に死んでしまう」
 太郎はもう一度奇妙な人間の顔をみた。ほっと頬が赤くなってきている。だが、まだ髪の毛も帽子も衣服もぬれたままだ。
 太郎はみんなの方を向いた。
「わかったよ、みんな! けど、おれ、腹が減った。朝ごはん食べたら、もう一度考えてみる。それまでここに寝かせておいてもいいだろ」
「そうね。ちょっと様子をみましょう」
母親の言葉で、兄さんたちはどやどやと部屋を出ていき、入れ替わりに父親が入ってきた。
「何かあったのか?」
がっしりとした体格の人で髪をきちんと七三分けにし、八の字に髭をたくわえている。髪も髭も墨を塗りつけたような黒だ。威厳を持ったいい方で、
「この者は確かに人間だ」
と言った。
 太郎は父親の大きな黒い目をしっかり見つめて言う。
「とうさん! こいつ、ここが気にいったら、外にもどさなくてもいいかなあ……」
母親が、
「ここが気にいったらね」
とつぶやいた。
「そうだな、太郎。この子が村を気に入ってくれれば何の問題もない」
「やったー、気にいったら、ここにおいてもいいだね。とうさん! こいつ、女だから妹だね。おれはお兄さんになるんだ!」
 奇妙な女の子はそれから一日中眠り続けた。朝ごはんも晩御飯もとらないで、身動き一つしないで眠っていた。
ソファーから客間の寝室に移され、やがて朝になった。

                 (つづく)