第1章  赤い蛍②

お父さんが建築関係の会社から派遣され、東南アジアに出かけていたのは安奈が生まれて1年もたっていなかった。
安奈がはじめての誕生日をむかえないうちに、お父さんとはなれることになった。そして3年後に無事任務を終えて、神戸にもどってきた。
その出張の間、お父さんは三度、帰国していたが、そのたびにどういうわけか、安奈はあまり遊んでもらえなかった。というのも一度目は、安奈がひどい風邪にかかっていたときだった。二度目ははしか、三度目のときはおねえちゃんが怪我で入院した時だった。安奈は須磨のおばあちゃんの家に預けられていた。
結局、自分のお父さんを自分の目でしっかりとみたのは4才にもなってからだ。
写真やビデオやテレビ電話の中のお父さんは、たいていは作業服を着て直立不動でたっていた。バックにいつも木、生きている木や、きりたおされてつみあげられている木材を背にしている姿だった。小さかった安奈はその写真をみるたびに、たくましくやさしく大きなお父さんを想像していた。
お父さんが任務をおえて帰ってくる日は、朝からどんよりと雪雲がかかっていた。飛行機が着く頃には、とうとう雪がふりだした。
お母さんが運転をし、ふたりのこどもは後部座席にのった。
夕暮れの空港にむかう。
車の中はにぎやかだった。
お父さんはもう外地にはいかないのだ。ずっと一緒なのだ。2年生になったばかりのおねえちゃんははしゃいでばかりいた。みやげのことや、むこうでの話など話の種はつきない。
お母さんも高速を結構なスピードをあげて走りながら、ときどきあいづちをうった。
「ねえ、お母さん。春までかえってこれないって、言ってたのに、はやくなったんやあ」
「そうや。仕事が早くかたづいたんやって。うれしいねえ」
お母さんははずんだ声で言う。安奈はふたりの会話をききながら、顔を声にあわせて動かしていた。
安奈のなかでは、お父さんは今、どうしてもつかめない人なのだ。他人ではないことはわかる。だがお母さんと同じ、おねえちゃんと同じ家族と考えるとちょっとちがっていた。何がちがうのかときかれると、幼い安奈にはとうてい説明のつかない思いであった。
「アンちゃん、えらいおとなしいな」
と言うおねえちゃんに、お母さんが返事をする。
「アンちゃんはお父さんにあうの、はじめてみたいなもんやな。お父さんかて、安奈に出会うの、すごう楽しみやって!」
安奈は「うん」と返事をした。
そのあたりから、下腹が痛くなった。空港につくと、お母さんに頼んで、まっさきにトイレにかけこんだ。
お父さんの乗っている飛行機は予定より少し遅れた。
空港は出迎えの人たちでごったがえしていた。人の流れは巨大な生き物のようだ。どどどーと同じ方向に動いたかとおもうとぴたっととまってどくろをまいていた。安奈ははじめての人ごみの中、沢山の足ばかりをみて歩いた。お母さんと手をひいているので、迷子にはならない。けれどふっと、もしこの手がはずれたらと思うと背中がぞくぞくする。ぎゅっと力をこめて、お母さんの左手を握る。
お母さんの丸まった顔が目の前になった。かがみこんで、
「アンちゃん! だっこしたろか?」
安奈は大きく首をふった。もうすぐ幼稚園にいくのだから、だっこしてもらうわけにはいかない。
「ううん、いい!」
「アンちゃんは頑張り屋さんやもんね」
おねえちゃんが早く早くとせき立てる。 
安奈たちは送迎デッキの出口で待った。
そこも人が沢山集まるところのようだ。おしつぶされそうになって上をみあげると、いろんな顔があった。いそがしく動く口や目や鼻や、騒がしい声や音、においにむせかえり、胸がつまりそうだ。
安奈は歯をぎゅっとかみしめ、両足をふんばって立った。
ガラスごしにこちらにむかってくる集団がある。あの中にお父さんがいるのだ。安奈にはどの人なのかわからない。ほおにうっすらと汗がにじむ。ついさっきまで、写真で知っているのだからきっとみつけられると思っていたのだが、それは甘い考えのようだ。どんどん人が通り過ぎて行った。
「もう! お父さん、おそい!」
と、不機嫌な声をだしたおねえちゃん。一分もしないうちに、すごく機嫌のよい声をだした。
「お父さんやあ」
お母さんも大きくうなずく。あの集団の中の誰かがお父さんにちがいない。おねえちゃんは手をふっている。安奈はガラスのむこうでお父さんらしい人を捜したがわからなかった。
数分経って、お父さんはゲートをくぐり、人垣をかきわけ、安奈の真前に現れた。
「安奈か……。えらい大きゅうなったな」
といって、手をさしだした。安奈はさっとお母さんの後ろにかくれた。お母さんが、
「安奈、お父さんよ。何はずかしがってるの?」
と言い、安奈を前におしやった。
写真の中のお父さんとはずいぶんとちがっている。
―どうしてこんなに髭を生やしてるんや。顔がどうしてぎらぎらひかってるんや……、もっと格好良くてスマートやった……」
お父さんは安奈をひょいともちあげた。とたんに、へんなにおいがする。たばこのにおいだとあとからわかったのだが、安奈はぶるぶるると首筋に身の毛をはしらせる。とたんに異様な気味悪さが身体中を襲った。
―写真のお父さんとちがう! 
とたん、安奈は突然「わああ」と泣き出した。どうしてそうなったのか安奈にもわからない。だが、一旦泣き出すともう涙はとまらなかった。
お父さんだけでなく、お母さんもおろおろとして、抱かれている安奈のおしりをさすったりこついたりした。だが泣き止まない。お父さんは、「よしよし、わかった、わかった」というと、安奈を地面におろした。しゃくりあげながら、安奈はお母さんの後ろに隠れた。スカートの裾をしっかりにぎって、そこからはなれなかった。
安奈のかわりにおねえちゃんが抱き上げられた。うれしそうに、お父さんの両腕の中にいる。
「これはかなわん! 重い、重い」
おねえちゃんもすぐにおろされた。腕にだきつくようにして、おねえちゃんはお父さんと一緒に歩く。
「もうずっと一緒やろ、お父さん!」
うなずくお父さんと笑っているおねえちゃんを、安奈は泣きやんだ大きな目で不思議そうにみていた。
おねえちゃんが、
「お母さんいうたらな、お父さんさんがいないと、なまけものになるの」
と言う。
「ほう、どんなふうになまけるのかな」
「掃除とか、洗濯とか……、そうや、料理が簡単になる」
「久子はきっとお母さんを助けてくれてたんだな。いい子にしてたかな?」
お母さんが後ろから、
「いい子だったかな?」
「いい子だったよ。ね、お父さん。あたし、3年生になったらね、女子サッカーのエンジェルスにはいりたいの? いいやろ」
「そうか、久子はサッカーが好きなんだ。お父さんも大好きだよ」
つぎつぎとはずむ話は安奈の耳を素通りしていく。お母さんにしがみつくようにして歩く安奈を、お父さんはちらちらとみる。ふりかえりながら、お父さんは言った。
「安奈ははずかしがりやだったかな。そうだ、お父さんとよく公園へいったこと、おぼえてないかな? ないよなあ、まだ一才にもなってなかったもんなあ」
空港の駐車場までいく。
お父さんとおねえちゃんは後ろの席だ。
安奈は運転するお母さんの横だ。助手席につけられたチャイルドシートにおさまった。
後ろ席のお父さんとおねえちゃんは自分のことや外国のことやこれからのことを話し、運転中のお母さんも加わって、話し声のとぎれることはなかった。
安奈はみんなが外国の人になったように感じていた。早口でしゃべることばも日本語でないように思った。
空港をでた車はすぐに高速道にはいった。 じっと前ばかりをみていた安奈はあれっと思う。
まっくらやみに真っ赤な玉が何個も何個もとんでいる。
「何やろ?」
そして安奈は「あ」と声を出した。
―蛍や! 夏のお泊り会でみたことある……。
幼稚園から連れて行ってもらった「お泊り会」で、みんなと一緒に見た神秘的な蛍の連なっていたのだ。
誰も安奈の見た赤い蛍にきがつかない。
車の窓から見える赤い蛍はときどき消え、また生まれ、美しく舞っていた。

今、安奈は誰もいない家で、ひとりで赤い蛍をみている。
いったいこの赤い蛍は何なのだろう。
どんどん数が増え、好奇心旺盛な安菜に「おいで、おいで」と招いているようだ。
安奈はダウンジャケットを羽織り、一番厚いマフラーをし、帽子をかぶって、リビングの広い窓をあけ、外へでた、
テラスの隅にあった古いブーツをはく。これはお母さんのもので古くなったブーツを庭用にしているものだ。ごわごわして気持ちが悪い。スニーカーにはき替えたい。
安奈は庭から玄関へと移動する。
玄関ドアには鍵はかかっていなかった。
ドアをガラガラとあけ、安奈は大きな声をだした。
「だれかいるうー?」
やっぱり返事がなかった。
ブーツについた雪をバサバサ落としながら脱ぐと、お気に入りのスニーカに履き替えた。
ふりかえると、まだ後ろに赤い蛍がとんでいる。
「だあれもわたしのこと、気にしてない。わたしもみんなのこと、気にせんとこ!」
そう思うと、ますます赤い蛍を追っていってもいい気がする。
ドアをしめると、飛び石をわたり、表札のかかった小さな門を抜け石段をみっつ、トトトと降りて道路に出た。
地面の見える所はただただ真っ白。安奈が歩くと、しっかりと足跡がついた。そこに道ができる。そして顔をあげると、雪の中に幻想的な赤い蛍が飛んでいた。
吹雪は激しくなり、もうしっかりとみつめることもできない。やがて蛍の赤も雪の白さにとけこんでいく。
安奈は自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。ふうとその場にすわりこむ。何の寒さも感じない。雪吹雪が激しくなって、安奈は目を開けていることさえできなくなった。

雪の朝、真剣に考えて、安奈がリビングから外の景色を見ていた時お父さんはそんなこともつゆしらず、裏庭に並べていた植木たちを雪にかからないように離れの倉庫の軒下に移動させていた。
お母さんと弟の武史はコンビニへ買い物に行き、姉の久子は部活のバスケで学校にむかっていた。
いつもと変わらない安奈一家の日曜の朝だった。
ただその日は思いもかけず激しい横ぶりの雪がふっていて、安奈はたまらなく不安になってしまった。
そんな時に見た赤い蛍はとても不思議で魅力的だった。
                  
                     (つづく)