鬼日和             

第1章 赤い蛍

安奈の家は高台に建っている。
二階の安奈の部屋からだと街並みがよくみえた。ついこの間まで、美しかった街路樹や家々の庭木の葉がすっかり地面に落ちている。
遠くに富士山のような形の小さな山が見えた。大角山だ。その大角山はいつも灰色をしている気がする。その下を高速道路が走っていて、車の走っているのがかすかに見える。
自分の部屋から見る景色は結構気に入っていたが、気に入らないところはどこへ行くにも坂道を通ること。学校へも行きはよいが、帰りはだらだらと登り坂が続く。神戸と言う土地柄で仕方がないのかもしれない。
朝、ショートカットの髪をなびかせながら、安菜は学校へ向かう。十二月に入ったというのに吹く風は暖かい。
安奈は髪をひとなですると、隣を歩く子に話す。
「な、行ったら一輪車やる?」
「やる、やる」
ふたりは同じクラスの小学4年生。いつも一緒に坂道をおりて学校に行く。
広い歩道の横に2車線の幹線道路が走っていた。
途中からまた同じクラスの子が仲間入り。
3人は賑やかにしゃべりながら、学校にむかっていった。
安奈は学校が大好きだ。もちあがりになった担任の先生ともクラスのみんなとも楽しくやっている。特に十二月に入ったこの頃は異様なまでに勉強にも運動にも頑張りをみせていた。
きっとあの音楽会のせいだと思う。
安奈の学校では、古くからの伝統で、十一月のはじめに音楽会がある。楽器の演奏などと共に、各学年対抗の合唱コンクールが行われる。
その音楽会で安奈たちのクラスが高学年をおさえて優勝したのだ。
安奈は歌を聴いたり歌うのは好きだが上手というわけではない。けれどクラスの中にはびっくりするほど歌のうまい子が数人いた。安奈は同じように教室の日当たりのいい窓ぎわに集まって、上手な子と一緒になんとなく歌っていた。
「あんた、こう歌える?」
と言って、上手な子が口伝えに教えてくれる。
安奈がうまく歌えると、大きな声で喜んで、
「そのパートで歌って」と言う。
はじめは少人数で歌っていたのだが、楽しそうな歌声は教室中に響く。少しずつふえてきて、男の子も仲間に入りだした。休み時間は外へ出る子が少なくなっていく。歌う子たちの塊が少しずつ大きくなっていった。
学年対抗音楽会の曲がきまってからは毎日、その歌も自然に歌われた。
ところが担任の先生は音楽が一番苦手だという男先生だ。
いつも「ほお……、おまえら、うまいなあ」と言うのが口癖だ。「好きこそものの上手なれだなあ」と感心する。「もう、優勝や!」と、音楽の授業が終わって教室にもどってくるたびに言う。
安奈は先生はきっと音楽室のどこかにかくれてきいているのだと思った。担任の先生だけでなく、安奈もクラスの皆もそんな気がしていた。
そして5年、6年をおさえて優勝したのである。
音楽会がすぎると、すぐに小さなテストがいっぱい出されるようになった。漢字テストとか算数の計算テストとかである。
安奈は張り切っていた。
ー今度も気をひきしめてやろう。やれる、やれる! 自信をもってやろう。
「音楽会」の合唱の時と同じだと思うことにした。
ーさあ、やってやるぞ!
学校は安奈にとって「やってやるぞー」の場所になっていった。
みんなと出会うのも一緒に動くのも、担任の先生の嬉しそうな顔、時には困った顔をみるのも、なぜかわくわくした。
威勢のいい安奈は時々男の子とまちがわれる。短く少しカールのかかった髪の毛といつも着る服装のせいかもしれない。秋深くなるまで半ズボン姿で、安奈のタンスにはほとんどスカートははいっていない。
12月に入るとさすがに半ズボンでは寒く、長ズボンをはく日が多くなった。

来週いっぱいで冬休みに入る、寒い日曜日の朝だった。
目をさました安奈には気になることがあった。
明日、漢字のテストがあるのだ。
万全の準備をしていくこと。それが一番大事なのだ。学校へ行くと涼しい顔をして絶対にあたふたしない。すると思った以上にテストがうまくいく気がしていた。
朝、日曜日にしては早く起きて、階下におりる。朝ごはんを早くすませて、漢字ドリルをしあげたいと思った。
昨日はテレビの見過ぎで、予定どおりには出来なかったのだ。
こおばしいパンのにおいがする。階段の途中からはわっとコーヒーのいいにおいもあたりをおおいはじめた。
お父さんが起きてきていた。
まだねまきに厚めの上着をはおっている。台所テーブルに両肘をつけている横顔が見えた。
ーあれ、ひげをそってる!
安奈は口には出さないがほっとした。
お父さんはパンを口にほおばりながら、お母さんと話していた。
「今日はハッピーモールに行くからな」
むかえに座っているお母さん。いきなり拍手する。
安奈は今度はお母さんのこどもっぽさが変に気になる。お母さんはさらに弾んだ声を出した。
「わあ、うれしい! ちょっと買いたいもんがあるから、助かるわああ。それに武史の入学準備もあるし」
その武史が眠そうな顔をして二階からおりてきた。階段下の安奈の腰にいきなりぼんと身体をぶつけ、お父さんのほうに走っていく。
安奈は大声を出した。
「う、もう! タケー、なにすんの! うっとおしい!」 
騒々しいふたりに、こちらむいたお母さん。
頬をふくらまして丸い顔がさらに丸くなる。
「あれ? ふたりとも、えらい早いやん!」
 武史が走っていった先はお父さんの横の椅子だ。
お父さんに甘えた声で言う。
「なあ、今日、ハッピーモールへいけるやろ」
「今、お母さんと話してたとこや」
 お母さんが、
「そうやね。武史の机も買いたいからねえ」
と言う。それからぱっと立ち上がると、
「みんな、パンは自分で焼いてよ」
と言い、流し台のほうに歩いて行った。
いつものパターンの朝食だ。
おねえちゃんがいないと思っていたら、トイレから出てきて、安奈の横の椅子にすわった。それぞれがテーブルに並んだパンをとり、カップに牛乳を入れ、口に運んでいる。
久子が、ハッピーモールで買ってほしいものがあるからと、食べながらメモをとりはじめた。
武史も同じようにはしゃいでいる。
「ぼくの机、つくえ。ツークーエ!」
いつものように、お父さんの車で行くことになった。

安奈は一緒にいくのはきっと昼前になると思った。お父さんはまだ寝間着姿だし、武志はきっとゲームをはじめるにちがいない。
朝食が済むと、安奈は自分の部屋にもどった。
仕上げてしまってから行きたいからだ。
あと少し残していた漢字3個だけを覚えたらいい。
ーまたお父さんが褒めてくれるだろう。お母さんはさすが優等生といってくれるかも……。安奈の心にいつからこのような思い、家族へ向けた負けん気魂が生まれたのかわからな
い。ただおねえちゃんや弟との違いを感じ始めた頃から意識し始めた気がする。
「おねえちゃんはフャッションセンスがあってその上にかわいい、たけくんは言いたいことは何でも言えてかわいい。わたしはかわいくない……」
めったにかわいいなどと言えれない。ただこの頃わかったことがあった。
「テストの成績がふたりよりもいい!」
またよくできた成績をみせて、お父さんに言ってもらおう!
「安奈はいつもいい成績だな」
今朝も自分に「よし!」と言うと、勉強にとりかかったのだ。
一時間もすると、覚えないといけない漢字がしっかり頭に入った。
安奈はあごをひいて、うなずく。
「ばっちりや! これでよし!」
 安奈は机の上にノートや漢字ドリル帳をきちんと並べて置き、筆箱も並べた。月曜日は体操服と給食エプロンも用意しないといけない。
頭の中にはしっかりと漢字がはいっているのだ。
準備完了だ。
これで思いっきり、ハッピーモールで遊べる。
ーああ、今日は誰とも遊ぶ約束をしてなくてよかった!
安奈はルンルン気分で階段をおりた。
トントントンとリズミカルに降りていき、最後でポンと両足でリビングの床へ飛び降りた。
と、その時、安奈はおやっと思う。
「あれ? だれもおれへんの?」
階段をおりるとたいてい誰かがいる。
テレビがついていて、誰かと誰かがしゃべっていて、誰かが笑っていて、それに言い合いをしている時もある。
リビングはにぎやかな舞台のようにいつも何かが動き、音がしていた。
だが音がない。
人もいない。
「なんで?」
安奈はリビングの続きになっている台所の奥にむかって大きな声をだす。
「お母さーん!」
返事がない。走っていって、さらに、
「お母さーん!」
「おねえちゃん? たけくん?」
姉の久子も弟の武史の返事もない。
階段をトントンとあがっていくと、「おねえちゃーん」とよびながら開けられた部屋をのぞく。無造作におかれた寝間着がベッドの上にあるだけだ。
「たけくんはお母さんのひっつきムシやから」
とつぶやきながら、また下の階へおりる。
「お父さんがいるかも?」
「おとうさーん」 
一階のお父さんの部屋のドアをどんどんとたたく。
ドアを開ける。
「だれもいない!」
何度目かのこの言葉をつぶやいたとき、はっとさらにいやなことに気がついた。
あたりがうすぐらくなってきた。
突然、安奈の背中がぶるるっ。わっと寒さが広がった。
リビングの端のラックに置いていたカーディガンをはおる。もこもこしたクリーム色の毛糸でお母さんが作ってくれたものだ。お気に入りのひとつだった。
少し寒さがましになった。
安奈は自分に問いかける。
「なんで誰もいないんや?」
あたりはどんどんくらくなっていく。
そんななかでやけに白っぽい一角があった。
庭に面した窓、大きなサッシ窓から見える外が白くもやっている。
安奈はかけよった。
窓いっぱいに白いものがおおい、前のテラスを隠している。
「わあ! これって雪なん?」
窓にへばりつくように身体を押し付けた。
雪が降っていた。
激しく降ってくる雪。いつもなら、すぐに外にとびだしただろう。みんなと雪合戦をしよう、雪だるまも作ろうとわくわくする安奈だったが、今は楽しいことが全く浮かんでこない。
舞う雪をみて考えることはひとつ。、
「みんな、どうしたんや?」
もう一度、二階へあがる。
部屋中をまわり、みんなの名前を呼んでみた。
だがだれからの返事もかえってこない。
「なんで、なんで?」
つぶやきながら、またリビングへもどる。
そしてその時、安奈ははっとしたのだ。
「先に行ったんや! わたしを置いてきぼりにして!」
とたんに背中を何かが走る。ぶるると身体をふるわせた安奈はカッと耳のあたりが熱くなった。足の先からシュシュシュウ、尖った何かが頭のてっぺんまで走り抜けた。
「置いてきぼり!」と言う言葉が頭のなかをぐるぐるまわる。
「なんであたしだけ、置いてきぼりなんや」
ーそんなことない! お母さんがそんなことすることない!
安奈は涙声になって、うしろをふりむいて、台所にむかって言った。
「お母さん……」
やっぱり返事はない。
もう一度窓の方を向く。
静まり返った部屋の外、雪がさらに激しくなってきた。
「そんなはずない! わたしはいい子なんやから。学校で頑張ってるやん、勉強も頑張ってるやん……」
言えば言うほど、耳の奥で太鼓がどんどんなりはじめ、身体中が震えてくる。
耳があつくなるだけではない。頬のてっぺんが真っ赤になってきた感じがする。
実際安奈の頬は紅色にそまり、大きな目がうるんでくる。
口を半開きにして、のどをクンクンならしていた。もう一秒もすれば涙があふれてくるところだ。だが安奈はきゅっとくちびるをかんで思いとどまった。
泣いて怒ってもここには誰もいないんだ。
また背中あたりが寒くなる。
おもわず肩を高くして偉そうに歩いて、台所へむかった。台の上にお茶の入ったポットが無造作におかれている。そのまま口うつしにぐっと飲んだ。まだ暖かい。
 お茶がお腹に達すると、安奈は小さな声で「みんな、どこへいったんや?」とつぶやいた。また喉のあたりがくわっと熱くなって、今度は涙がでてきた。
「なんで? なんで?」
ーあたしだけを置いてきぼりにしていくんや! なんで? お父さんもそれにお母さんも、やっぱりおねえちゃんとたけくんがかわいいんや。わたしはどうなってもいいと思ってるんや。せやから置いてきぼりに出来るんや。もしかしたらわたしはこの家の子ではないんやろか? こんなにいい子にしてるのに! おねえちゃんよりもうんと勉強ができるし、武史のように甘えん坊やない!
安奈の足はふたたびリビングの窓際に立った。
 いつも見える大角山がかすんでみえる。
庭の木々、南天と梅と、武史が生まれたときに植えられた大王松の上に雪帽子が出来ている。揃って顔を天にむけたすいせんの葉たちも雪におおわれ隠れはじめた。
雪はどんどん降ってくる。
もうあたりの景色は図工の時間にみせてもらった北斎の絵のような白黒世界だ。
テラスも庭も白いじゅうたんで敷き詰められたようになった。
「すごい雪や……」
その時だった。
ちかっと何かが光ったのだ。
「何?」
小さな赤いまるっぽいものだ。
はじめはひとつだったが、まばたきを一回したとたん、3,4個に増えた。
「え? 赤い何?」
5,6個、重なるようにして雪の中を走りぬけていく。
「赤い蛍?」
走った方向に目をやる。
「大角山だ」
美しい形の大角山の輪郭がうかびあがっていた。
赤い蛍たちは大角山の方向にむかっていく。どこからかふいに生まれ、誘い合って大角山へ飛んでいく。
「何なの? あの赤い蛍」
窓を開けて、その正体を確かめたいと思った。ただ窓をあけると、外は大吹雪。どんな状況なのかは、小学4年生の安奈にはわかっている。
安奈はぷっと唇をとがらした。
「ああ、こんな日やのに、みんな、いない! あたしのことなど、なんも思ってないんや」
また赤い蛍が窓の外で舞う。連れ添い、ざれあうようにして、同じ方向へ飛んでいく。
白と灰色の世界に、燦然と輝きながら遠のいていく赤。
「きれいやあ……」
安奈は一瞬感じた。自分の今を忘れて見入ってしまった。
見入っていた安奈は、
「あっ!」
と声をあげた。
全く思いもしていなかった映像が頭の中に浮かんだのだ。
「この虫! どこかでみたことがある。どこでやったかなあ」
さらによくみようと額を窓にあてた。ヒヤリとした無機質のつめたさは今の安奈には気持ちがいい。
ぼおーと見つめている安奈の脳裏によくにた光景がうつってくる。ぼやっとぼやけているまわりの状況に、くっきりと見える赤い蛍。赤い蛍が飛んでいた。
「そうや! あの時や!」
 
はじめて赤い蛍をみたのは武史がまだ生まれていない時だった。たしか安奈はまだ幼稚園にもいっていなかった。
                 (つづく)