第6号(総No.7

目    次

    

【文化の広場】

郭沫若の自己批判(連載完了)・・・・・・・ ・武 継平  

郭沫若の古文字研究(連載完了)・・・・・・・ 成家徹郎

【文学散歩】

郭沫若と巴金の間に起こったこと(連載完了)・ 新谷秀明

市川市郭沫若記念館落成・・・・・・・・・ ・ 藤田梨那

郭沫若――康大川――青山和夫について・・・・斎藤孝治

二〇〇四年度総会報告・・・・・・・・・・・・藤田梨那

お知らせ・編集後記・・・・・・・・・・・・・事務局

 

 

* 日本郭沫若研究会事務局二〇〇五年五月一日発行
〒六〇三-八五七七 京都市北区等持院北町五六-

立命館大学文学部武継平研究室気付  TelFax(〇七五)四六一-八八六一

E-mail: bukeihei@lt.ritsumei.ac.jp

移転後の研究会ホームページ http://www.ritsumei.ac.jp/~bukeihei/

 

【文化の広場】

 

郭沫若の自己批判(下)

 

 

武 継平

 

 ここで、陳明遠氏の回想記「郭先生を偲ぶ」を引用する。それによると、郭沫若が自己批判の直前に知己の友だった葉以群(1911-1966,上海市文聯副主席、文芸理論家としても知名度が高い)に次のようなことを吐露した。葉氏は郭沫若が自己批判した四ヶ月後、思想批判からエスカレートした「批闘」に耐えきれず建物から飛び降り自殺をした。

「わ たしは生まれてこの方最も憎悪しているのは虚偽だ。しかし不幸なことに、われわれ自身は時としてこの悪習に染まることもある。「汚泥ヨリ出デ、而も染マラ ズ」というのはただの喩えに過ぎないのだ。われわれのような汚泥から這い上がってきた人間はだれでも汚泥に染まることを免れないから絶えず身につく汚物を 洗い落としつづけないといけない。もちろん、どしゃぶりのような勢いで洗われたらひとたまりもなく、葉も落ち枝も折れてこっぱみじんになってしまうのだ が……。もしみんな童心に返ることができたらどんなにいいだろうになあ。こんなにたくさんの仮面なんか要らないよ、こんなに嘘偽りの演技は要らないよ!純 真さと素朴さこそ詩の最高境地であり、人生の最高境地でもある」。

 ここの「身につく汚物を洗い落としつづけないといけない」というのが旧知識人の思想改造を指すと思われるが、「仮面」と「嘘偽りの演技」は反右派闘争以降の、度重なる本意ならぬ自己批判のことを暗示しているのであろう。

 

結び

 

郭 沫若の自己批判がいったい本音かどうか。わたしは多くの人と同様に真剣に考え、そして悩んできた。時が三十八年も経った今、振り返って見ると、文化大革命 の十年間は、ほんとうに真実は闇に封印され、嘘だけが蔓延していた時代だったと改めて痛感する。今にして思うのだが、毛沢東がプロレタリア独裁を強化する 時に当たって、郭沫若のような元無党派民主人士出身の指導者は自らアイデンティティーを棄て強権政治の木偶の坊になる(所謂「一切听党的話」)か、自ら心身を消滅させるか、選択肢は二つしかなかった。郭沫若が自己批判をした半年後に逮捕され、一年後に獄中で迫害を受けて亡くなった田漢、屈服を潔しとせず自ら命を絶った老舎、葉以群、そして新中国誕生後自ら断筆して、二度と小説を書かなかった沈従文のような「硬骨漢」もいるが、呉ヨ、周揚、茅盾、巴金、何其芳などのように自分が徹底的に打倒されるまで不本意ながらも部下や仲間を傷つける批判文を書いたり、批判大会で人身攻撃的な発言をしたりした有名な知識人の例も枚挙に遑ない。
  思うに、郭沫若にとって、辞表を出すこと自体が協力拒否を意味するので権力に対する一種の抵抗といってもよかろう。このような自分が加わった共産党政権へ の抵抗は彼の政治人生の中ではじめてであって、最後でもあった。しかしその抵抗はあまりにも無力だった。辞表が却下されたということは、彼が当時、政治の 舞台から自ら退く自由すら持っていなかったことを物語っている。再び二者択一の決断を強いられた時、七十五才の彼は自虐的な自己の全面否定を選んだ。ある 意味では、このように極端に追い込まれた時に決断された郭沫若の自己批判がむしろ一種のカモフラージュに包まれた「精神自殺」というべきかもしれない。 『女神』創作期に彼は「鳳凰のように自らを焼き尽くす」ことで「斬新な自分として生まれ変わる」ために、「地獄で鬼になっていた」「過去の生活」に別れを告げ、「これからは光明の世界で人間になろう」と誓っ て新しい人生を始めたのである(『三葉集』)。自己批判後、彼はまた同じことを口にした。しかし、今度は今まで自分がどこが悪かったのか、これからどんな 新しい自分に生まれ変わりたいのかという極めて肝心なことについては一切触れなかった。一九六六年までの彼があったからこそ、解放後の知識層の旗手である 彼があるのだ。したがって以前の精神世界をすべて否定してしまった彼にはもはや何も残っていないはずである。たとい地位が守れたとしても、全 人大常務委員会副委員長という顕官にしろ、中華全国文芸家連盟主席や科学院長にしろ、何の意味もないからくり人形にすぎないことは彼自身が一番よく分かっ ている。その後「わたくしは全人大の(外国賓客)接待係りにすぎない」と自嘲していた彼の気持ちはああいう選択をした自分の悔しさを浮き彫りにしているよ うに思われる。
 いままでずっと謎に包まれていた一九六六年の有名知識人批判に関する事実がだいぶ明らかになった今日、われわれは当時郭沫若がした自己批判を、 文革という極めて異常な時期における一人の知識人としての苦渋の選択だと言うことができないのだろうか。自己批判以後、文革中せめて加害者にはなるまいと いう姿勢、そして知識無用論が氾濫する風潮の中で科学研究の重要性を力説しつづけたこと、さらに病死する直前まで周恩来批判をめぐって毛沢東がご健在であ るという状況下でも江青らへの協力を断固として拒否しつづけたことなどから、かつて自ら捨て切った一人の知識人の持つべき良心と節操を必死に取り戻そうと したようにも見受けられるのである。
  確かに五十年代以降の郭沫若を見るなら、極めて意志薄弱だったというべきかもしれない。そして彼にとって、『女神』時代の偶像破壊者から社会主義中国誕生 後の偶像崇拝者へ変身してしまったことが人生の最大の悲劇だったというべきではなかろうか。しかし、彼は彼なりに激動した時代を命賭けて生きぬいてきたの ではないか。一九五七年の反右派闘争から文革の終焉まで、彼の抵抗がどんなに無力であっても、彼は毛沢東の強権政治の被害者であって加害者ではなかった。 これは忘れてはならない非常に大事なことである。

前 掲「郭沫若の心中を思う――真実の言なのか 絶望の声なのか」という文章の中で福田恒存氏が「始皇帝の恐怖政治も恐ろしいが、郭氏の無責任にうかがえる道 徳的退廃の方が一層恐ろしい」と情け容赦なく叩き、「始皇帝は単に自分の思想に反する「敵」を滅ぼそうとしただけのことだが、郭氏は自分が影響を与え、自 分を支持してきた「味方」を冷酷にも切った」と郭沫若の人格の堕落を嘆いたが、わたくしは福田氏の道徳退廃論には感心するが、「裏切った」という観点は同 感できない。なぜなら、福田氏が指摘した郭沫若の「無責任」は知識人の旗手としての無責任にすぎない。その責任を果たすなら、一九六六年の郭沫若は彼が敬 愛する屈原のように自ら命を絶つしか方法はなかった。もし今日を生きるわれわれは彼から影響を受け、そして彼を支持してきた「味方」だったら、善悪正邪の まったく分からぬ生存環境の中で自分たちのリーダーである彼に「潔く自決してくれ」と願っていたのだろうか。われわれが彼に死の選択を望んでいなかったな ら、その「裏切」説の論理が成り立たないのである。今日安全地帯にいるわれわれが、常に死活の選択を迫られる時代にいる郭沫若に「硬骨漢」の生き方を強い ること自体がどう考えても理不尽であろう。
 郭 沫若が自己批判を行った一九六六年に、かなり多くの有名知識人は迫害を受けて自ら命を絶った。当時の彼らがほとんど例外なく自殺する前に「毛主席万歳!万 々歳!」という内容の遺書を残し、命を絶つという最後の手段で毛への忠誠を誓っていたことを知っていたら、われわれはどんなに強いショックを受けるのだろ う。小稿の結びに郭沫若が自己批判を行った直後に自殺した彼らの名前(筆者の把握している確実な資料による)を記して彼らの英霊を祭ると共に、郭沫若の自 己批判をどう受け止めるべきか、改めて考えていくことにしたい。(彼らの自殺は郭沫若の自己批判となんの因果関係もないことを付言しておく)

 

氏 名   職務           1966

 

鄭拓   『人民日報』編集長   665月縊死

田家英  毛沢東の秘書      665月縊死

李平心  著名歴史学者      666月自殺

傳洛煥  清史専門家       666月自殺

陳笑雨  『文芸報』副編集長   666月自殺

老舍   中国作家協会副主席   668月自殺

白辛   作家          66年自殺  

葉以群  上海文聯副主席     668月自殺

言慧珠  上海市戯曲学校副校長  669月自殺

陳夢家  考古学者・古文字学者  669縊死

儲安平  元『光明日報』編集長  6610失踪

孔厥   小説家         66年自殺

劉盼遂  北京師範大学教授    66年自殺

高仰   南開大学党書記     66年自殺

陶然   著名文学評論家     66年自殺

(連載完了)

 

 

 

郭沫若の古文字研究(下)

 

 

成家徹郎

 

『甲骨文字研究』(上海・大東書局1931

  『中国古代社会研究』はその中に、卜辞資料を駆使した1篇を含むとはいえ、全体としては、新しい古代史観の構築を目指した研究であった。郭沫若の最初の甲 骨文の専著は『甲骨文字研究』である。この著作時期は「古代社会」と同時期であり、同じ意識をもって研究をすすめた。「すでに解読されている字やまだ未解 読であった字を通して、殷代の生産方式、生産関係と意識形態を解明しようとした。」

 「甲骨文字」の中で、「釈支干」一篇は郭沫若の長所がよく現われていると思う。この一篇について、彼は一九五二年再版の「弁言」でこう述べている。

「「釈支干」篇は、十二支の起源問題を論じたものである。いま考えてもこれは依然として謎である。私は、それをバビロンの十二宮に起源があると考えた。現在に至っても、もっと有利な直接的物証はないが、さらに確かな反証もない。」

郭 沫若の当時から(もっとさかのぼって二十世紀初期から、といってもよい)現代にいたるまで、古代バビロンあるいは西アジアの文化と中国古代文化を結びつけ て考察した中国人はいない。新中国成立以後は、特に歴史学界では、愛国主義の高揚にともなって、古代における外来文化の影響を否定する傾向が強い。紀元前 の一千年とか二千年の時代を考えるのに、現代の国境をそのまま設定して、中国古代の文化はすべてその枠内で発生した、と主張するのである。二十世紀の前 半、郭沫若にかぎらず多くの中国文化人は外国(欧米と日本)の著作を多く読み、外国の文化からたくさん吸収しようとした。「釈支干」にはこの時代の潮流が よく現われている。現代の中国人研究者に望むことができない研究姿勢である。

  「釈支干」の中で彼はまず、甲骨文の「干支表」に着目する。“甲子”から始まって「癸亥」で終わる干支六十が順に記されてある。現在我々が見るのとまった く同じ形式の「干支表」である。そして、これは当時の「時憲書」(暦)であり、中国最古の「時憲書」でもある、と考えた。次に十干10文字の起源につい て、甲骨文字と金文の字形を駆使して考察する。そして十二支の起源を考察する段階へと進む。

 郭沫若は、天上における十二支の配列はバビロンの十二宮の影響を受けて出現したと考える。そして十二支の各字もまたバビロン天文学に由来する、と言う。ここでは寅字について彼の説を簡単に紹介しよう。

 寅の甲骨文の字形は「矢」または「矢と弓」の形をかたどったものである。文献は寅の歳名は「摂提格」である、と伝えている。摂提格は、「天官書」によれば「大角」であり、その位置は十二宮の「乙女」に相当する。乙女座は、バビロンの「星表」のGIS.BANに当たる。西方の学者は、これは乙女座の一番星であると考えている。

GIS.BAN は漢訳すると「弧星」である。これは甲骨文の寅字の形と実に暗合する。殷の時代の(天上の)十二支の寅は、もとは乙女座の星に相当した。バビロンでは大角 (うしかい座一番星)をSU.PAと呼んでいた。その意味は「大明星」で、また「国運をつかさどるところの神」とも言われていた。つまり歳星(木星)を “摂行”する職務を持っている。中国の文献に見える、大角は一名「摂提」、歳星はまた一名「摂提」という記録とも暗合している。

  いまでは、郭沫若のこの説は、成立しないことは明らかである。天文学史を考えると、天上に十二支が出現した時期は、どんなに古くみても春秋時代よりさかの ぼることはできない。ただ、郭氏が視野を広くして西アジアに起源を求めた姿勢を私は高く評価したい。実際いま、中国内でインドや西アジア起源の文化がたく さん発見されている。しかし現代中国の研究者はこの方面に目を向けていないので、その事実(西アジア起源)に気づかないのである。

『両周金文辞大系』

 殷 墟出土の青銅器には銘文が記されたものもある。ただ郭沫若が「大系」を著述していた時期は、字数はみな一文字か二文字程度のものばかりが知られていた。 よって殷代の金文を対象からはずした。そして西周初期のものから戦国時代までの青銅器を年代順に配列して考察した。一九三二年に文求堂から出版された初版 (洋装本一冊)の「序」でこう述べている。

「伝 世の両周(西周、東周)彜器は、その銘を持つものすでに三、四千具以上に達する。銘辞の長いものではほとんど五百字に及ぶ。人は言う:『尚書』の一篇に匹 敵する。しかしその史料的価値はそれをしのぐ。『尚書』はおのずから今文『尚書』に限られる。今文中にもまた周代や秦代に偽託されたものも含まれている。 「周書」に属するもの例えば「金縢」「鴻範」諸篇みな信ずるに足りない。周文の信用できるものはわずか十五、六篇のみ。しかもこれら十五、六篇もまた何度 も伝写を経て、何度も隷定を経て、部分的に前後の順番が狂っていたり(成家注:漢代までは竹簡に書写されていた)、また故意に書き変えられたところもあ る。史料としては、疑惑無きものはない。

しかるに?器銘文は判別可能な偽器が少数含まれているほかは、一字一句みな古人の真跡である。その貴きこと、同列に論ずることはできないであろう。」

  『両周金文辞大系』は最初、洋装本1冊で文求堂から一九三二年に出版された。これは銘文の釈文と考釈のみであった。これでは不十分だと感じた彼は、一九三 五年にまた文求堂から『両周金文辞大系考釈』と『両周金文辞大系図録』を出版した。つまり彼は、青銅器銘文を研究する際は、それぞれ、器形、文様、および 銘文の拓本と釈文をワンセットとして見る必要があると考えたのである。このはなはだ現代的な研究法は、当時としてはまったく画期的であった。それまで中国 ではもっぱら銘文のみが重視され、金文集の類はたくさん編集出版されていたが、器形や文様も併せて見るという発想はまれであった。最近出版された『殷周金 文集成』(中華書局)は、もっぱら拓本のみであるのは旧来の伝統にもどったのである。

以下、日本亡命中に出版した古文字関係の著作を列記する。

 

『中国古代社会研究』』「卜辞中之古代社会」上海聯合書店1930年1月

『甲骨文字研究』上海・大東書局1931年

『殷周青銅器銘文研究』上海・大東書局1931年

『両周金文辞大系』副題:周代金文辞之歴史・系統與地方分類文求堂1932年 

『金文叢考』文求堂1932年

『金文餘釈之餘』文求堂1932年

『卜辞通纂』文求堂1933年

『古代銘刻彙考・四種』文求堂1933年

『古代銘刻彙考・続編』文求堂1934年

『天の思想−先秦思想の天道観−』岩波講座・東洋思潮・第8配本「東洋思想の諸問題」1935年

『両周金文辞大系図録』文求堂1935年

『両周金文辞大系考釈』文求堂1935年

『殷契粋編』文求堂1937年    

(連載完了)

 

 

【文学散歩】

 

郭沫若と巴金の間に起こったこと(下)

 

 

新谷秀明

 

  郭沫若からすれば些細な事だったかもしれないが、巴金にとっては郭沫若という文学者に対する評価を決定づけるほど重大なできごとであったと想像される。し かし巴金がアナーキズム理論家から作家へと「転身」し、文壇に確固とした地位を占めるようになったのちは、文字の上でこの両者の確執を示すようなものは見 当たらない。

  むしろ郭沫若のほうは巴金の作家としてのその後の成長を十分評価していたようである。一九四七年に書いた「想起了斫櫻桃樹的故事」(文匯報副刊『新文芸』 第四期、『郭沫若全集』第十六巻所収)で郭は、ワシントンが少年時代に父の桜の木を切った話を引き合いに出して自分の犯した過ちを認め罪を償っているのだ が、彼が名を挙げて許しを請うた三人の文学者のうちの一人が巴金であった。あとの二人は唐弢、李健吾である。この文章は『新文芸』第三期に発表された耿庸 「略説不安」、曰木「従文芸界的悪劣風気想起」の二編の文章に対して反応したものなので、郭沫若が具体的に何について懺悔しているのか、私はまだ最初の二 編を見ていないのではっきりしない(ひょっとすると二六年の論争に関係があるのかもしれない)。今その点だけ保留せざるを得ないが、郭が巴金について書い ている部分ではこのように書かれている。

巴 金先生も私がここで細かく述べる必要はありません。彼は文壇で有数の良心を持った作家です。彼は常に暴力に反対し、正義を称える立場に立っています。決し て悪いものに合流することなく、決してごまかしたりはせず、勤勉誠実に自らの位置を守っています。創作、翻訳、出版事業に努力し、どのように言っても文化 に功績ある一人の先覚者です。青年たちは偶像を破壊するのを好むものです。巴金先生がときどき非難を浴びるのも、一種の消極的な崇拝の表現だと信じます。 あるいはそのことがまさに巴金先生の卓越した成功を証明しているのかもしれません。

 作家、翻訳家、編集者としての全面的な評価とともに、「決してごまかしたりはせず、勤勉誠実に自らの位置を守っています」(原文:決不賣虚弄玄、勤勤懇懇地守着自己的崗位)という言葉がある。この言葉に私は二つの意味を感じる。

  一つは、つねに原典に忠実であろうとする巴金の態度である。巴金の郭沫若批判の多くの部分が、原文の誤読、理解不足を根拠としている。最初の「馬克思主義 的売淫婦」からそうであった。郭沫若はむしろマルキシストとアナーキストの間の根本的な立場の違いから、巴金に真正面から反論することを無意味に感じてい たと思うが、巴金はそうではなく、マルクス著作の原典に立ち戻ってその理解の問題を投げかけていたのである。のちに巴金から一方的に展開される郭沫若の文 学作品翻訳への批判に至っては、まったく細かな誤訳の指摘にほかならない。

  なお、巴金は現代作家の中でも突出して語学に堪能であったと言われる。巴金に親しい人によると、英語、フランス語、エスペラントの順に優れ、そのほかにド イツ語、日本語をある程度読むことができたと言う。若い頃エマ・ゴールドマンやバルトロメオ・バンゼッティに宛てて書いた英文の手紙が残っているが、それ らを見ても巴金の優れた英語力は実感できる。

  二つめの意味は、いかに巴金が先鋭的な理論家から作家へと転身したとしても、思想を形成するコアな部分は不変であるという認識である。郭沫若はそれを見抜 きながら、しかしアナーキストとして異端視するのではなく、アナーキズムを土台としながら文学者として成長した巴金を正当に評価している。アナ・ボル論争 から二十年、動乱の時を経て、アナーキストを排除するというような思考さえ過去のものになってしまった一九四七年の時点で、郭沫若は巴金が思想的土台とし てアナーキスト的な部分を持ち続けていることをむしろ好ましいものとさえ認識していたのではないだろうか。

  さて、話を戻そう。確かに私が留学中に書き写した文章のうちのほとんどが『巴金全集』に収録されて、ただ字の練習をした結果になったのだが、実は「馬克思 主義的売淫婦」をはじめとする郭沫若批判の文章は収録されなかった。巴金のアナーキスト時代の旺盛な活動を示すものがかなり収録されているにもかかわら ず、郭沫若批判はやはり問題が大きかったようだ。

  さらに今から数年前のこと。新しくなった淮海路の上海図書館へ行ったおり、思い立って再び一九二六年の『学灯』を検索してみた。こんどはちゃんとコピーを 取っておこうと思ったのである。ところが意外なことに、目録カードの中にこの年の『学灯』が見当たらない。留学時代は確かに南京路の旧上海図書館でカード を探してから閲覧請求をした。旧図書館の蔵書はそのまま新図書館に受け継がれているはずである。係員に事情を話してオンラインで探してもらっても出てこな い。どうやら二六年を含む『学灯』の一部がどこかに移動されているようなのである。その後、日本で東方書店から送ってきた「マイクロフィルム資料総合目 録」の中に『学灯』を見つけたのだが、それは一九二五年四月までの分で、その後の部分がない。マイクロフィルムを作成中だからカードごと移動していたの か、あるいは問題があるから意図的に隠匿されているのか。まさかこの時代に後者のようなことはないと思うがどうだろうか。

  一昨年出版された陳思和・周立民編『解読巴金』(春風文芸出版社)は、郭沫若・巴金論争をめぐる問題について紙幅を割いている。私がこれまで目にした中国 出版の巴金関連の書物の中で、この問題について注目しているのはこれがはじめてだと思う。この中の第四編「辯誣中的巴金言論」に、『全集』に収録されてい ない郭沫若・巴金論争に関わる文章が部分的に収録されている。さらに陳思和執筆の「巴金的意義(代序)」を読むと、「馬克思主義的売淫婦」などが『全集』 に収録されなかった事情が明らかになっている。

  それによると、『全集』編集時に陳思和は論争のすべての文章を収録することを巴金に提案していた(陳思和は編集委員の一人)。巴金は、「自分がまだアナー キズムを宣伝していると他人に言われることが些か心配」だと言いながら、結局は陳思和の提案に同意した。ところが、出版社側が最終的に原稿を校閲する段階 でこれらの文章が削除されたのだという。巴金はのちに陳思和に「やはりあちら(全集の責任編集者)が私たちよりも経験があったようだね。私たちはあまりに も書生気質にすぎるよ。」と苦笑しながら語ったそうだ。

  郭沫若や巴金のように膨大な著作を残している文学者について全集が編集されるという意味は、その生涯にわたる精神史を全方向的に余すところなく掬い取るこ とにあるはず。欠けた部分が全体量からしてほんのわずかであったとしても、その遺漏によって作家の精神世界の実像がいくらかでも霞んでしまう可能性がある なら、欠けることは許されない。この『巴金全集』の場合のように、意図的に手を加えた編集が行われたのならば、そもそも全集と銘打って編集する意味が問わ れるべきであろう。そういう点では、中国で第一線級の現代文学研究者である陳思和氏が自ら「汚れ役」を買って出て、はじめて内幕を暴露したことに私は内心 賛辞を送っている。

  余談であるが、その陳思和氏、私が復旦大学に留学していた時、まだ大学院を出て間もない若い講師であった。巴金の研究をしたいと訪ねて行った日本人留学生 に、手取り足取り色々なことを教えてくれたものだ。不肖の弟子はいつまでたっても不肖のままだが、このたび『郭沫若研究会報』に書くスペースを与えられた のを機に、留学中に出会ってから今までずっと気になり続けていた郭沫若・巴金論争の問題を、自らの思い出とともに整理してみた。郭沫若研究者諸兄のご参考 になれば幸いである。2004.8.24

(連載完了)

 

 

市川市郭沫若記念館落成

 

 

藤田梨那

 

  市川市(千葉県)は市制施行七十周年を記念して、郭沫若が一九二八年以降日本亡命中に居住していた旧宅(郭沫若旧宅)を復元し、「市川市郭沫若記念館」と して、去る九月二十六日にオープンした。記念館は旧宅の近くの真間五丁目公園内に移築された。八月中に、市川市長から記念館落成記念式典のご招待をいただ き、当日、式典に参加した。

  真間五丁目公園は、郭沫若旧居から裏手の坂道を辿り、須和田台地の頂上にある須和田公園を抜けた所にあった。式典は午後二時からであったが、かなり早く着 いたので、久しぶりに須和田公園を散策した。園内には人影もなく、閑散としている。私はゆっくりと園内にある「平和記念碑」と郭沫若の「別須和田」の詩碑 を眺めながら、過ぎし日の祖父と母の面影を思い浮かべて、しばし静寂の中に沈んでいた。

  落成記念式典は午後二時に始まった。参列者の中には、郭家の親族として、私の他、郭喜代(伯母)と郭昴(従兄弟)がいた。その他、市川市役所の関係者、県 会議員、市会議員、中国大使館の一等書記官、郭沫若の故郷楽山から来た政府代表団の一行、合わせて七十人ほど集まっただろうか。市川市長千葉光行氏は挨拶 の中で市川市と楽山市の姉妹都市の歴史や郭沫若旧居復元の経緯を紹介し、記念館が今後両国、両市の友好を発展させる一助となることを望むと述べた。郭喜代 氏は郭家を代表して挨拶し、旧居復元に携わった関係者に感謝の意を表した。関係者のスピーチが終わって、テープカットが行われた。引き続き来賓たちは記念 館内を見学した。館内には、郭沫若の写真、彼が市川に居住していた間に執筆した著作のほか、岡崎俊夫訳『亡命十年』、小峰王親訳≪日本亡命記≫、殷塵著 『郭沫若日本脱出記』、武継平著『郭沫若留日十年』などの書籍が展示してある。

  復元された郭沫若記念館は規模、設計、デザインは元の旧居と同じようにしているそうである。それでも建材が新しいためか、旧居よりずっときれいに見えた。 私は八十年代に約八年間市川市新田に住んでいたことがあり、須和田までは自転車で十分ほどの距離だった。当時は叔父の郭志鴻が旧居に住んでいたので、暇な 時によく遊びに行った。たまに泊まったりもした。そんなある日、祖母郭安娜がアジア平和賞を頂くため日本にやって来た。旧居に滞在していたので、会いに 行った。大きな賞を受賞するのだから、本来なら嬉しく思うはずだが、しかしあの時の祖母はたいして嬉しくもなかったようである。受賞の話をしても軽く受け 流し、むしろ一九三七年以後郭沫若が秘密裏に中国へ帰った後の苦しみや憲兵のしたことを話してくれた。その時私が漠然と分かったのは、須和田の旧居での前 後約二十年の生活は祖母にとって必ずしも平坦ではなかった。いま目の前にあるこの新しい邸宅はどの部屋も私が以前見慣れて、よく覚えている旧居のそれと そっくりである。祖母がもし生きていて、この記念館を見たらどう思うだろう?またどんな話をしてくれるだろう?私はそんなことを考えつつ、記念館の内部を 見て回った。

  記念式典の記念品として、郭沫若の「別須和田」詩の拓本を頂戴した。これは朱墨で採拓されたものである。この詩について、斎藤喜代子氏は「郭沫若研究会会 報」創刊号において「郭沫若と須和田」という文章で言及したことがある。斎藤氏は須田禎一氏の翻訳に疑問を提出し、詩の最後の「別矣須和田」の一句につい て、「果たして須田氏の訳のごとく、さらばなつかしき須和田よ、と解するのがよいかどうか、いささか気になるのである。要するに郭沫若にとっての須和田と はどういう所であったかという問題である。」と言う。この詩をどう理解すべきか、この問題は私にとっても以前からの気がかりの一つであった。記念式典の前 に須和田公園を訪ね、「別須和田」の詩碑の前で長い間佇んで考えたのもこの問題であった。

 

       別須和田

    1,草木有今昔,人情無變遷。

        2,我來游故宅,鄰舍盡騰歡。

        3,一叟攜硯至,道余舊日鐫。

        4,銘有奇文字,俯思始恍然:

        5,“此後一百年,四倍秦漢磚。”

        6,叟言“家之寶,子孫將永傳”。

        7,主人享我茶,默默意未宣。

        8,相對眉宇,舊余在我前。

        9,憶昔居此時,時登屋後山。

       10,長松蔭古墓,孤影為流連。

       11,故國正荼炭,生民如倒懸。

       12,自疑歸不得,或將葬此間。

       13,一終天地改,我如新少年。

       14,寄語賢主人,奮起莫俄延。

       15,中華有先例,反帝貴持堅。

       16,苟能團結固,驅除並不難。

       17,再來慶解放,別矣須和田。

 

 か なり長い詩なので、便宜のために各聯に数字番号をつけた。一聯から六聯までは郭沫若が須和田を訪問した折の、隣近所の歓迎ぶりを詠う。七聯から十二聯は昔 日の回顧になっている。ここでは彼の回顧が決して懐かしい、楽しいものではないことを語っている。「昔日ここに居りし時、時に屋後の山に登る」とあるが、 彼が昔よく訪ねたのは今の須和田公園のあたりなのであろう。母も生前何度か須和田公園で遊んだことを話してくれた。しかし母の印象にある須和田公園は今子 供たちが楽しく遊ぶ公園とはかなりイメージが違っていた。そこは樹木が鬱蒼として、昼間でも薄暗く、時折牛蛙が寂しく鳴いて、気味悪く感じられたという。 郭沫若は十聯で詠んだ裏山の雰囲気は母が子供心に感じたものを髣髴とさせる。子供だった母はただ気味悪く感じたのに対して、郭沫若はもっと深い寂しさ、不 安と危機を感じていた。それは十二聯「自ら疑うらくは帰りえずして、或いは将にこの間に葬られん」に詠み込まれている。約十年間須和田で生活し、毎日特高 の監視を受けていた。彼は須和田公園にやってきて、自分の抑圧された心を慰めようとして、松の陰や古墳の辺りを徘徊した。しかしそれらは故国の自然ではな い。古墳が死を象徴するように、彼もまた自分はもう祖国に帰れずに、ここに骨を埋めるようになるかもしれないと感じた。この挫折感と抑圧感は一九二三年留 学生活を終えて、中国に帰るときに詠んだ「留別日本」に見られるあの開放感、自信とはまったく異なったものである。このことは却って亡命生活が彼にとって 苦痛で疎ましいものであったことを物語る。彼の自伝≪創造十年≫や≪私は中国人だ≫、自伝小説≪帰去来≫などにも亡命生活の苦痛が痛切に描かれている。そ うだとすれば、この詩の最後の一句「別矣須和田」は「さようならなつかしき須和田よ」と読んではならないのではないか。須和田を訪問した時、郭沫若はすで に中国政府の要人であったし、訪問団の団長でもあったので、政治的立場に立って発言しなければならないと彼はずいぶん配慮したのであろう。「別須和田」の 詩は大きな部分において政治的、外交的性格を帯びていることは否めない。彼が須和田に抱いた思いは恐らくこの詩に盛り込まれないほどのものであったろう。

 頂戴した「別須和田」の拓本と一緒に、この詩を訓読した一枚の紙が入っていた。見ると最後の一句は須田氏の読みと違って、「別れなん須和田よ。」となっている。郭沫若の亡命十年を理解するために、われわれはいまこの詩を再読、再解釈する必要はあるのではあるまいか。

  

市川市郭沫若記念館

場所:市川市真間五丁目三番真間五丁目公園内

開館時間:午前九時――午後五時

月曜日休館・月曜日が祭日の場合は翌日休館

 

 

郭沫若――康大川――青山和夫について

 

 

斎藤 孝治

 

つい先頃、抗日戦争中、郭沫若が庁長をしていた第三庁で働き、鹿地亘らの在華日本人反戦革命同盟会との結び目的役割を果たした康大川の訃報に接し、生前お会いする機会を持った一人として何ともいえない複雑な気持ちです。

康大川の逝去については、ある訃報には次のように書かれています。

康大川氏は二〇〇四年九月二二日午前零時七分、入院先の北京市積水潭医院幹部病棟で腎不全のため永眠しました。八十九歳でした。八宝山で茶毘に付された遺骨は、二人の娘によって故郷台湾に運ばれ、苗栗の山に葬られる予定です。

私が旧北京駅に程近い西城区車公庄中里にある康大川のお宅をお訪ねしたのは、二〇〇〇年五月のある日でした。お宅は、古びたアパート群が並ぶ中、八号楼の一室にありました。

その日は、五月雨がしとしとと降り、やっとの思いで探し出したのを昨日のように憶えています。

その頃、私は郭沫若や周辺の入々、そして抗日戦争前後の状況について取材を始めたばかりでした。

康大川をお訪ねしたのは、当時の全体像については当然のことながら、とくに反戦革命同盟会のメンバーの一人とされた「青山和夫」という人物に関して知りたかったからです。

それというのも、抗日戦争終結後、郭沫若は日本に帰国する青山に、別れたままになっている安梛へのメッセージなどを託した、と聞いていたためです。

郭沫若は、当時、反戦革命同盟会の面々が信頼する康大川を彼らが重慶を離れ、日本に戻る帰国船が出港する上海の埠頭まで同行の上、見送らせました。台湾生まれで、早大出身の康大川は、何にもまして日本語がペラペラでした。

ですから私としては、康大川なら青山和夫のことを熟知している、と思ったわけです。私の問いに対して康大川は「反戦革命同盟会の中に"青木稔"という元陸軍伍長はいましたが"青山和夫"の方は…」といわれました。

しかし北京まで足を運んで来た私に同情されたのか、日本になお存命中の反戦革命同盟会のメンバーの氏名や住所を懇切丁寧に教えて下さいました。

優しさを身にしみて嬉しく思ったものです。

この取材で取り分け印象的だったのは、いただいた名刺の肩書きが「中華人民共和国公民」となっていたことです。

瞬時に「この人は虚飾を嫌い、気骨を大切にする人だな」と推量しました。

併せて「やはりジャーナリズムの世界に身を置いた人は…」と感じました。

ちなみに康大川は、あの「人民中国」の初代編集長です。今年六月末、北京を訪れた折、康大川のかつてのジャーナリスト仲間の一人、田家農と再会でき、楽しいひとときを過ごさせていただきました。

その時、田家農は、郭沫若絡みの本の進捗状況などについていろいろ尋ねられました。

これに私は「来年晩春には完成すると思います。題名は「シュトルム・ウント・ドランゲ――疾風怒濤――」といいます。でき上がったらまた北京に来ます」と答えました。

田家農はまた、康大川の病気にも言及されました。

しかしながら私は、次の訪問地上海に行かねばならないために時間の都合がつかず、康大川にはコンタクト致しませんでした。

折しも康大川は、積水潭医院のベッドで必死に病気と闘っていらっしゃったのですね。あの時、積水潭医院に駆け付けなかったことが悔やまれてなりません。今はただ、ご冥福をお祈りするばかりです。〔敬称略〕

 

 

【二〇〇四年度総会報告】

 

二〇〇四度郭沫若研究会総会は年十月三日東京法政大学市ヶ谷キャンパスで開催された。出席者は: 岩佐昌ワ、齋藤孝治、郭偉、武継平、新谷秀明、藤田梨那。議題は役員の選出、事務局の移転、二〇〇五年度の活動計画、「聞一多学会」との共同研究会の開催などであった。

参加者の討議によって、二〇〇五年度の運営を次ぎの通り決めた。

一.研究会代表は岩佐昌ワ氏に継続して引き受けていただく。

二.事務局は一旦岩佐研究室に移し、二〇〇五年四月以

降は武継平さんの所に置き、会報の編集も兼任して

いただく。

三.研究会のホームページの運営管理については、今後

藤田梨那さんと新谷秀明さんも研究会のホームペー

ジの管理に加わり、有料サーバー利用も視野に入れ

て検討された。

四.二〇〇五年六月二十五日、郭沫若研究会と聞一多学会と共同で研究会を開催する。

五.「日本郭沫若研究論文集」の刊行について議論された。

出版経費が捻出できれば、年度内で「日本郭沫若研

究会編」の形で刊行することを決めた。(藤田梨那)

                    

【事務局からのお知らせ】

 

@ <事務局・研究会ホームページの移転>

  昨年の暮れ武継平事務局長の九大任期満了に伴い、事務局の移転は余儀なくされました。その後の数ヶ月間研究会代表岩佐昌ワ先生の研究室に置きましたが、二 〇〇五年四月にはまた岩佐代表の異動があったので、事務局は立命館大学文学部常勤講師武継平研究室(尚学館八三四室)に置くこととなりました。改めてお知 らせいたします。「武継平研究室」とはいっても、三人共用なので、色々な不便さが予想されます。誠に申し訳ありませんが、今後のご連絡の宛先は「立命館大学文学部武継平研究室気付」の形にしていただくようよろしくお願いします。住所は会報の目次のページに書いてあります。尚、研究会ホームページは次のウェブサイトに変わりました。Yahoo Japanのような日本国内の大型検索エンジンに登録してあるので、「日本郭沫若研究会」と入力すれば、ワンクリックで繫がります。是非アクセスしてみてください。掲示板は書き込みができますのでご利用ください。

 http://www.ritsumei.ac.jp/~bukeihei/

 

A < 研究発表会の共同開催>

日本聞一多学会との共同研究発表会の開催についてはすでに事務局から電子版ニューズレターでご案内しました。その後、報告希望者の募集などを経て、両事務局間で準備は着々と進んでいます。開催日時と場所は次の通です。

日時:  六月二十五日(土)

場所:  二松学舎大学(東京都千代田区九段)

 

 

【編集後記】

 

昨年九月会報第五号が出て以来七箇月の月日が経つ。第六号の発行はもともと昨年十二月の予定だったが、事務局の移転等の原因で大幅な延期がやむをえないこととなりました。この場を借りて今号執筆なさった成家、新谷、齋藤、藤田四氏に感謝の意を表すると同時に私の異動で事務局の運営に支障を来たしたことを深くお詫び申し上げたい。

わ れわれの小さな研究会は誕生してからまだ二年しか経っていない。定期研究発表会が開催できるまでまだまだ長い道のりがあると思うが、皆様の多大な支持のお かげで研究会報を五号まで出した。振り返ってみると、われわれの会報は単なる情報誌のみならず、エッセーとはいえ、学術の薫りが高いものもいくつか掲載し ている。これはわれわれの長所であって、他の学会や研究会の会報と異なるところかもしれない。今後とも皆様からより沢山のご寄稿を期待する。われわれの研 究会報は「不定期刊行物」として国会図書館に登録されてはいるが、どこまで長続きできるかどうかはわれわれの努力次第だと思う。  (武継平)