俺の歴史
生誕の60年代
自分としてはほとんどおぼえてないが,
一番下のおじさんがまだ家から大商に通ってた.
家も新しくなった.ただ古い家は土間だったが
新しくなって板の間になった.
テレビも入った.カラーだった.
成長の70年代
日本製アニメ・特撮の隆盛
キャンディーズ解散
アウトドアでの遊びからインドアの遊びへ
地元のことで言えば,小学校が木造から鉄筋になった
まだ6年生が2クラスあった頃に1年生になった私はまだ鉄筋の新校舎が建設中だったので木造の旧校舎で学んでいた
もちろん体育館も木造であった.旧校舎はすぐ取り壊されたが,この木造の体育館はしばらく残っていた.
あのあたりの地区の集会所で使っていたようだった.
すぐ山だったので,この体育館で蜂に刺された記憶がある.赤チンをたんまり塗られた.
中学の頃はこの小学校と中学校を結ぶ道路(県道と山手の市道)を一周するランニングコースを部活のたびに走った.
一周だいたい3.5km程度なので20分くらいで一周できるから,ウォーミングアップで走っていた.
この小学校と中学校を結ぶ県道の脇に高田川が流れていて,小学校の時分はよく遊んでいた.
県道からこの高田川をはさんで農道があって,そこが通学路だったのだが,
春先は猫柳を,初夏に山吹を秋には芒をちぎって遊んでいた.冬には雪がつもり土手を滑ったりした.
山吹は枝を折って中の白い芯を取り出して遊んだ.中の芯はふわふわしてて気持ちがよかった.
小学校では春と秋に運動会があった.
もちろん土曜は普通に授業があったので,日曜開催だった.
運動会ではよく出店が出てた.親にねだってジュースやなんかを買ってもらってた.
兼業を含め,生徒の保護者はほとんどが農家だったため
田んぼとか畑は近所のを借りて授業で使っていた.
学校でウサギとかニワトリを飼っていたが,
これも最後は調理実習で使ったりした.
小学校と中学校の途中,中学校よりの県道からちょっと入ったところに天神さんがあった.
秋になるとここでお祭りがあり,よく縁日の店で買い物をした.
5円10円で買えるものがおおくあったので,子供にとってはとても嬉しい臨時店舗だった.
通学路が山道だったので,アケビやクワ,カキなどをとって食べてた.
クワは手が真っ青というか紫というか,そんな色になってしまうので,人の畑のものを取って食べたのがバレた.
農家でもあったので,電話機が当時白石で主流だった有線放送電話を使っていた.
朝晩一定時間で農業関係(国民年金や航空散布の案内など)が放送された
その間電話が使えない不便さがあったが,それほど苦にはならなかった
いまどきの人らみたいにメール・電話でしょっちゅう連絡してないと”つながっている”と
感じないのと違い,電話がないのも手紙がないのもゆったりした時間の中では
それほど頻度が要らなかったのだと思う
電気関係ではたしか科学と学習の科学にゲルマラジオがついてたのが最初だった
山の中だったからか,鳴ったためしがなかったが,その後のゴミとして捨てられてた
ラジオを直したりするようになったきっかけだったと思う
トランジスタがまだ 2SA100 とか 2SB54 とかゲルマが多かった.
その後 2SC372 とか 2SC458 とかシリコントランジスタが増えてった.
子供の科学を買ってたのも同じ小5の頃だったと思う.
その後初ラとラ製に移っていった.
初ラでは平ラグを使った簡単な工作やハトメ基板での製作など,
結構簡単な部類のものが多かった.
ラ製は★マークで難易度が記載されていたように記憶している
中でもナックルラジオを見たときは衝撃だった.
トランジスタをトランジスタとして使ってない,
直列同調と並列同調の複同調回路など,当時中坊だった私としてはその奇抜さにドギモを抜かれた
電子ブロックとかマイキットという学習教材があった.
マイキットは100回路とか200回路とか,かなり多い回路を組むことができた.
今梅澤無線でマイキットもどきが出てるが,こんなので回路に興味をもってくれるといいなぁと思う.
マイコンで言えばシャープマイコン博士のMZ40がこの頃.
まぁまだマイコンに興味がなかったので,マイコンって何だろう難しそうだとしか
思ってなかった.ラ製でもまだマシン語でプログラムを組むようなものしか
掲載されてなかったので,敷居が高かった.
テレビゲームというのが出だしたのもこの頃.
5ゲームとか10ゲームとかのもの.
テレビにつないで2chにあわせてテニスとかスカッシュをする.
バリオームでラケットを動かすもの.
最後は22ゲームというものが出て終わった感じがする.
携帯ゲーム機もこの頃かな.
LEDと上下左右のボタンで操作するもの.
スコアが2桁の7セグメントLEDだったので,
99点以上は10の位が16進数で表示されていた.
最初何の意味があるのかわからなかったが,あとでそうだったんだと思った.
インドアに向かったのもこの頃で
小学当時耳鼻科に通っていた(土曜に授業が終わってから行ってた)
その耳鼻科の待合室にガキデカ,マカロニほうれん荘,ブラックジャックなどが
おいてあってそれを読んでた.
同級生もチャンピオンを読んでたのが多かったのもある
その当時ブラックジャックで小松左京の名前が記載されていて,
誰だ?と気になりSF小説も読むようになった
ただ中学になると小説ジュニアやコバルト文庫にはまり,
その派生で少女マンガも読むようになった.
若桜木ケンのヤマトや999とかの小説からだったかな.
白球を叩け!は小説も漫画も読んだが,小説のが面白かったおぼえがある.
テレビもNHK,東北放送,仙台放送の3局からミヤギテレビや東日本放送が増えた時期で
当時白石は福島放送や福島中央テレビ,テレビユー福島なども状態がよければ入った.
今は電波状態が悪くほとんど入らないが,これは画期的なことだったと思う.
青春の80年代
電気の世界にどっぷり
真空管・トランジスタ・IC・LSI
アナログ・デジタル・コンピュータ
強電・弱電
電機・通信
弱電
高校で電気部弱電班だったので,いろいろ電子工作した.
FCZ研究所からキットを買ったりして作ってた.
トランジスタは 2SC945 とか 2SA733 が多かった.
ダイオードは 1S1555 がメインだったと思う.
シンセサイザに興味があったので SN76477 で基本的なものを作った.
まだ仙台に小松電気があって,そこで部品を調達してた.
その後 2SA1015/2SC1815 がメインになっていった.
この流れで大学ではマイコン制御のものを作成してた.
過去の資産のモグラタタキゲームを直して,大学のメインマイコンMZ731につないで制御した.
またバッティングマシンやルーレットなどの装置も作ってマイコン制御した.
バッティングマシンはBASICだけでは制御しきれず,ボールの移動とバットのスイングをアセンブラで書いて実装した.
Z80と8086はハンドアセンブルしてたので,かなりの命令をおぼえていた.
今はだいぶん忘れてしまったな.
大学では部品のほとんどは梅澤無線で買った.
片平はバス通りで,大学に行く途中だったし,便利だった.
パソコン屋は小松デンキと庄子デンキがメインだったかな?
うちらが小松デンキでパソコンの前でいろいろ遊んでたら,庄子デンキで紹介されたという奴と会ったしてびっくりしたが,
パソコンがまだ庶民に届かない時代だったので,珍しかったのかもね.
パソコン購入
83年PB-100
84年PC-1350 (本当は PB-700 と迷ったが,電気店で PB-700 触ってすごく遅かったので)
85年FP-3000 (円周率を BASIC で 3000桁計算させたが,確か3時間くらいかかった)
86年FP-3000メモリ増設+FDD購入 (FDDと同時に MS-DOS Ver1.25 をもらったが,すぐに 2.11 を手に入れて DOS マシンとして使った)
87年FX-603P(すぐになくしたが)
87年FP-200 (ハンドヘルドという言葉にあこがれて買った.HC40 とかが欲しかったんだけど,高かったし)
88年PC-9801VX21 (FM音源,みゅーじ君, Cバスに刺すSCSI+HDD40MB,3.5"FDD などを増設して,ゲーム&音楽マシンとして使った)
89年X68000
友人は次のようなマシンを使っていた.多彩だったなぁ.
VIC-1001(コモドール)
Pasopia7(東芝)
ベーシックマスターL2(日立)
MB-S1(日立)
SC-3000(セガ)
ぴゅ〜太(トミー)
高校では FM8 や FM11AD があった. でも OKITAC-4300C もメインで使っていた
大学では MZ731 だった.建築科の人らは PC9801 を使っていたのに・・・・
会社では PC9801RA2 だったな.
1円入札とか,そのあたりのネタのせいかも知れない.
ゲーム機購入
86年頃セガマスターシステム
88年頃メガドライブ
90年頃S32X
これらはどこに行ったか不明・・・たぶん実家のどこかで死んでる
メガドラのゲームは実家に残ってた
しかしゲーム専用機だけでなくパソコンや大型コンピュータでもゲームはやってた.
俺が作ったのは FORTRAN で数当てゲームに始まって,ゴルフゲーム,RPGも作った.
ということでゲーム
マスターシステムではマーク3のカードやカートリッジのゲームをやった.
あと,3Dメガネとスペハリ3Dをやってた.目がすごく疲れた.
以後3Dゲームは目が疲れるので買うのをやめた.
メガドラはアフターバーナーをやりたくて買った.
そういえば,最近このあたりのハードをモチーフにしたものがあるようだ.
http://shg.sega.jp/
ポケコンはI/OやPiOに載ってたリストを打ち込んだり,
ソノシートから読み込んだりして遊んだ.
FP3000の頃はもっぱら移植.
また8086のマシン語を使い出したのもあったので
今思うとFP3000のBiOSはIBM−PCのBiOSと同じだったなぁ,と思った.
FP3000 のメモリは梅澤無線電機でDRAMをチップで買って増設した.
就職時に会社の同僚がフルスクリーンエディタYEを自作ってたので,
そのソースを FP3000 に移植したなぁ.
コンパイルは大変だった(ハードディスクなかったので)ので,
以後 FP3000 は使わなくなった
雑誌
電気系雑誌は子供の科学から始まり,
工高時代は初ラとラ製がメイン。
たまに模ラやCQ(電話帳との名高い)も買ってた。
CQは分厚いので、CQジュニア(現在のQEXに近いかな?)を買ってた。
何冊か残ってる。
電子展望は買ってなかったけど、別冊の333回路集は買った。
大学入ってからトラ技とインターフェース,MJを買うようになった。
ポケコン関連でベーマガやI/O・PiOは買ってた。
漫画雑誌は買ってなかった。
かがみあきらが死んだときのブリッコは買った。
唯一買ってたのはCOMIC BOX JRだった。
アニメ雑誌は自分としては購入してなかったけど,周りではいっぱいいた。
アウト,アニメージュ,ジアニメ,ファンロード,マイアニメ,アニメディア,ニュータイプ あたり。
青年の90年代
バブル崩壊からの脱出
ネット社会への飛び込み
ハンドル名設定(下賤とか下品とかから・・・)
マイコンが8bitから32bitへ CISCからRISCへ
大型コンピュータ・ミニコンからメインフレーム・EWSへ
ゲーム機器の台頭
当時出張時の RRC の上司の名前を探してたらネットにあった。
https://clustrmaps.com/person/Cachat-7q2671
https://www.spokeo.com/Joseph-Kreinbrink/Ohio/Geneva/p11776149071
仕事で使っていた半導体が廃品になってったりした.
1S953/954 がなくなり 1S1588 に変えたがそれも保守扱い.
しかたなく 1N4148 になった.
2SA733/2SC945 から 2SA1015/2SC1815 になったが
これらは現在保守扱いだ.
もちろんCPUも Z80 互換品がどんどんなくなり,
最後の TMPZ84Cxx シリーズも現在廃品.
今は Zilog のへんなものしかないなぁ.
68000 もなくなってしまい,今何を使ってるのか不明.
ColdFire あたりならいいが・・・
でも ColdFire 使うくらいならたぶん ARM のほうが消費電力低いと思うな.
ゲーム機はセガサターンに傾倒
パソコンは中古を買いあさったり,友人から引き取ったりした
Apple ][
FMR50NB1
J3100SS001
PS55
FMTOWN2
Oasys Pocket 3
PC9801FA2
PC9821Xa2
PC9801NS/T
PC9801NC
自作 286→386SX→486→Pentium→Celeron
だいたいどれも壊れたり譲ったりしてほとんど残ってない
ずっと DOS 2.11 だったけど,DOS 3.x をちょっと触ったあと
DOS/V (5.0以降) になった.
その後 Windows 3.1 から Windows 95 を使うようになった.
MIDI に傾倒したのもこの頃から
MT32 → SC55 → SC55mk2 → QY22
SC55mk2 と QY22 は今でも現役.すげぇ
ComputerMusicMagazine という電波新聞社の雑誌は全部もってた
10号くらいから FD がついて,MIDI データを
打ち込む手間やテクニックなどを入手し
いろいろデータを作成した
QY22 や RCM-PC98 (後のレコンポーザ) で打ち込み,取り込み
のちのネット仲間とオンラインバンドをやったりした
ちなみにその頃に P-Model というのを知り
のちのけいおん!に通じる人らが面白いことをしているのを知った
パソコン通信は大学時代 300bps でちょっと触ったりしたが,
会社の寮に電話が引かれた 92年頃から自宅で本格的にやりだした.
1200bps → 28800bps とここまで Modem の性能を上げたが
所詮パソコン通信ではこの程度でも十分だった.
以後自宅では 56 モデムで 30kbps くらいで通信していた.
ADSL の引けない地域だったもので,回線品質は悪い.
たまに 12kbps くらいに落ちてしまう.
結果,結婚してからは 56k のモデムがフル活用できるようになり,
また CardH" (DDI POCKET の JEIDA カード) でモバイル通信するようにもなった.
知人が死んでいったのもこの頃.
大学同期の横山,大学の恩師の藤野先生,
前の会社の先輩の石井ちゃん,同期の亀ちゃん,
中学の後輩のしんいち,中学の同級のまさよちゃん
責任の00年代
PC9801の終焉
ポケコンの終焉 -- 携帯電話にとってかわった感じ
電子手帳の終焉 -- スマートフォンとか電子辞書にかわったかんじ
ワープロ専用機の終焉 -- パソコンソフトがいろいろできた感じ
何より子供の世話が大変.今でもだけど.
私がファンだった人が死んでった時期でもある
R君の塩沢兼人,
ライジング!の氷室冴子,
ヤマトの宮川泰,羽田健太郎,
節約の10年代
こうなったらいいのに,と思うこと
・新幹線で貨物輸送
・震災のときは携帯電話の拡散率を制限する
3月11日の時に携帯電話がつながらないことが多かった.
処理として64Kbpsで通信させるなら拡散率は16だが
音声12.2kbpsのみであれば拡散率64や128で通信できるはず.
そうなれば4から8倍の人が通信できるようになるので
拡散率制限は入れて欲しいな.
LTEの場合でもサブキャリアの使用数制限とかできれば
非常時の通信には使えるとおもうのだが.
こんなのやってみたい,と思うこと
・電池しぼり器(乾電池の残量をもっと搾って NiMH にためるとか)
・集電器(空中線とか不要な電磁波とかを集めて NiMH にためるとか)
・水道管通信
・ガス管通信
・プロペラのない風力発電(ダイソン扇風機の逆)
・電池式電子レンジ
・電池式洗濯機
・コンデンサ式のUPS(電気2重層とかリチウムキャパシタでやれば交換の手間が要らない)
電気を作るポテンシャルで言えばガスとかペルチェとか使えるかも?
あとはパソコンのFANをばらせば風力発電機になるし,
LEDは光を入れれば(低効率の)太陽光発電に使える
乾電池も単4マンガンであれば1Vまで使えば550mWh,
0.9Vまで使えば600mWh,0.8Vまで使えば650mWhという具合で
絞れるだけ絞ればとても経済的.
だって,単4一本約10円とすれば,1Vまで使うと18円/Wh
0.8Vまで使うと15円/Whと,家庭用の電気代0.018円/Whに比べて
とっても割高なので,使い切らないともったいない.
稲刈りで逆手に持つのを批判する人がいるらしい
http://www.naro.affrc.go.jp/org/brain/anzenweb/column/h27/4.html
ここにある通り,50年近く前に私は逆手で刈るのを教えられた.
私の親以上の世代の人はコンバインなどを使うことがなかったので,早く正確に刈るのを教え込まれた結果だと思う
あと,順手だと小指を切るといわれた.
逆手だと人差し指と親指の間にカマを入れるので安全だが,順手だと向こう側が見えないからという,
料理で包丁をあてることと同じような理由を言われた覚えがある
結局,誰かがケガしたとかそういう経験から出てるものなので,あそこのアイドルを教えた人がそういう人だったんだろうと思うね
いろいろアイデアはあるが,気力が続かない
SF・アニメ・特撮での時代の人々が死んでった.
目玉のおやじの田の中勇
ミスターサタンの郷里大輔
日本アパッチ族の小松左京
ハチャハチャの横田順彌
ガンバの出崎統
ヤマトの西崎義展
沖田艦長の納谷悟朗
真田技師長の青野武
ガンダムの永井一郎
南部博士の大平透
ハーロックの井上真樹夫
昭和は過ぎていく・・・
摂生の20年代
コロナ禍、オリンピック後,どうなるか.
定年にもなるので,健康を考えねばなぁ
父親も死んだし
松本零士も死んだ,
シルバーの若山弦蔵も死んだ,
グロッキーの八奈見乗児も死んだ,
ベムの小林清志も死んだ,
ガーゴイルの清川元夢も死んだ,
マジンガーの渡辺宙明も死んだし水木一郎も死んだ,
ハカイダーの飯塚昭三も死んだ,
ヤマトの豊田有恒も死んだ,
ハニーの増山江威子も死んだ,
ワンサくんの小原乃梨子も死んだ,
羽佐間道夫,野沢雅子,黒柳徹子,清水マリ,毒蝮三太夫,宮内洋 にはまだ生きててほしい・・・
生存の30年代
生死の40年代
祖父も父も82で死んだので,ここらが終わりだなぁ
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