論文

精神科診断において操作的診断基準は信頼性問題を解決したか

大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程 山崎真也

 y-sinya@fancy.ocn.ne.jp

 

精神科診断において操作的診断基準は信頼性問題を解決したか

Has the Operational Diagnostic Criteria Resolved the Reliability Problem in Psychiatric Diagnosis?

 

 

大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程

山崎真也

Osaka Prefecture University Graduate School of Humanities and Social Sciences

Shinya YAMAZAKI 

 

  1.序論

 H. Putnumは、その論文「意味の意味について」において、ある概念がどの対象に適用されるべきかは、「社会の中のサブクラス」、即ち専門家が決めるという仮説(「言語分業仮説」)を提唱した[1]。例えば、目の前の金属塊Xが「金」と言われるべきか「偽金fool’s gold」と言われるべきかを知りたければ、素人は専門家にお伺いを立てればよい。

 だが、概念の適用範囲について専門家の間で「一致」が見られないとすれば、素人は途方に暮れてしまうだろう。専門家αとβが金属塊Xを「Xは金である」と言い、専門家γとδが同じ金属塊を「Xは偽金である」という時、同一の対象に両立不可能な複数の概念が同時に述定されることになるからである。故に「言語分業仮説」の前提として、名づける専門家の間での見解の一致が、それ故適用範囲の一義性が保障されている必要がある。

 精神科診断という本稿の主題に引き寄せて考えると、この問題は「医師による診断の一致」という問題と対応している。後に検討するように、精神科診断の「医師による診断の不一致」という問題は1950年代頃から注目され始めた。この問題は、診断の「評価者間信頼性inter-rater reliability」、あるいは端的に診断の「信頼性reliability[2]問題と呼称され、衆目の関心を集め続けてきた。そして、昨今の精神科診断の動向を大きく規定している精神科診断のマニュアル本DSMDiagnostic and Statistical Manual for Mental Disorders)の第3[3]は、この問題の有望な解決策として、華々しく喧伝され人口に膾炙していったのである。

 この診断不一致の問題、「信頼性問題」の解決の主導原理は、「操作的診断基準operational diagnostic criteria」と呼ばれた。これは「明示的な診断基準explicit diagnostic criteria」とも呼ばれ[4]、(1)明確に定義された症状(基準項目)が列挙され、(2)その中の幾つの項目を満たしたらある疾患と診断してよいのかが指定された診断基準である。その診断作業の流れから、「中華料理店方式」と揶揄されることもある。DSM-III以降の版)は、この原理を全面的に採用した最初の公的な診断基準である。

 本稿は、まず「信頼性問題」の実相を一瞥した後、客観性概念を基軸に、「信頼性問題」がどのような認識論的・倫理学的問題に直面するのかを考察する。そして、信頼性問題解決の強力な手段として導入された操作的診断基準の概要を考察した後、それが結局信頼性問題を深い意味では解決できなかったということを論じたい。そして、この事実がいかなる意味を持ち、今後の精神医学の哲学及び倫理学の理論展開に対して、いかなる方向性を示唆しているのか。このことを簡単に概括してみようと思う。

 

  2

 そこで最初に、「信頼性問題」の実相を瞥見しておくのがいいだろう。

 内沼幸雄は、DSM-IIIが本邦に紹介された頃に湧き起こった、熱狂的な賛美の風潮について、その生起の原因を以下のように分析している。

 

・・・率直に言って、わが国の一部かもしれないが、猫も杓子もDSM−Vといった一時の狂奔ぶりには、唖然とした人たちも少なくなかったのではなかろうか。/・・・なぜ、それほどに狂奔したのか。恐らく誰しもが自分の診断基準に自信を持っていなかったからに違いない。顧みれば、わが国においても、例えば関西と関東とで診断基準が異なっていることは歴然とした事実であったのであり、あえていえば、そのような事実におのずとともなうはずの不安が、そして不安に直面しようとしなかった怠惰が、DSM−Vにみられる診断基準に対する革新的姿勢にとびつかせたのだろう。」[5]

 

 ここでは、精神科医各人に「自分の診断基準」が備わっており、「診断基準」の共通性は存在しない──例えば、関東と関西で診断基準に地域的偏倚が存在する──という事実があからさまに語られている。宮岡たちは、診断不一致のより具体的な事例として、複数の精神科医が参加する症例検討会において、ある者が「急性発症で意識障害様病像を呈していることから非定型精神病が疑われる」と主張するのに対し、別の者が「完全な寛解に至っていないので非定型精神病ではない」と主張する場面を描写している[6]

 こうした事情は、米国においても共通する(した)。

 

「大きな臨床施設で働いたことのある人なら、恐らく、診断カンファレンスではスタッフ全員の合意など存在しないことに気づいたであろう。私の参加していたスタッフ・カンファレンスでは、最終診断final diagnoseが結果的に、参加していたスタッフメンバーによる8対7の投票voteで決められたのである! また同僚諸氏の中に、その人お好みの診断を持っている人がいて、その診断が普通でない頻度で与えられる、ということに気づく人もあるかもしれない。」[7]

 

 ここで素朴な疑問が湧いてくる。「自分の診断基準」とか「関東と関西の診断の差」、「投票で診断を決める」あるいは「お好みの診断」といった事態は一体何を意味しているのか。精神科診断には「客観性」など存在しないのか。

 

   2.2 信頼性問題と2つの客観性問題

ある日本の操作的診断基準導入推進派の論者は、かつて次のように述べた。

 

精神科の診断は医師によって異なり、それは「どちらが正しくてどちらが誤っているというものではなく、どちらも正しい診断である」と主張しても、社会的通念からは賛同されない。精神科医療をこのような枠組みから見れば、高い診断一致率は社会的要請である。・・・「病名は医師によって異なるが、どちらも正しい」とか「病名は違っても治療は同じだ」といった主張が、非専門家に受け入れられるだろうか。」[8]

 

 冒頭で論じたパトナムの議論を思い起こそう。素人(患者)が自分の病気が何かと専門家(医者)に尋ねる。そこで、複数の専門家即ち医者が、医者の数だけ違った診断を下したとする。患者は、自分の病気が、専門家の数だけ違って呼ばれることに困惑を覚えるであろう。金属塊Xが、ある人たちによって「金」と呼ばれ、別の人たちによって「偽金」と呼ばれるのと、事情は同じである。藤縄らも言うように、四分五裂違った病名を告げられて、「どれも正しい」と言われたとしたら、患者はますます困惑するだろう。

 ここには、精神科診断の客観性objectivityへの問いという、認識論的・哲学的問題が現れているのである。

 まず、Hardwigも論じるように[9]、例えば医学における診断について、素人(患者)は特別の訓練も医学という特殊専門分野に対する才能も欠いているから、自分の病気が如何に診断されるべきかは、完全に専門家に決めて貰わなければならない。その診断内容は、素人にとっては何故そう診断されるのかよく分からなくとも(証拠evidenceの欠如)、一応正しいものとして受け取っておかなければならない。これに対して、専門家は、素人よりも体系的な専門知識を持っているから、何故そう診断されるべきか、その信念を持つよい理由(証拠)を持っていると考えられる。このような素人と専門家の間の認識論的な非対称性をHardwigは前者の後者への「認識論的依存epistemic dependency」の問題と呼んだ。

 ここでHardwig自身は論じていないが、決定的に重要なのは、専門家の意見に分裂が生じた場合、素人の視点からすれば、結局専門家といえども実は事柄をよく知らないのではないか、専門家も、その分野について自分たちよりは何がしか知っているのかもしれないけれど、所詮は「自分の意見」に基づいて、所見を述べているに過ぎないのではないか──つまり専門的知識を持っているからと言って何か「客観的」なことを探究しているのでは必ずしもなくて、専門家も、究極的には各自の「主観的」な意見を形成しているだけではないか。このような疑念を引き起こすのだ。

 これは、専門知識を所有することで「認識的権威epistemic authority[10]を主張する専門家集団の全体に対して、素人が不信と相対化をつきつけることに他ならない。このように、専門家間での意見不一致が、即ち所謂「信頼性問題」が、専門家及び専門的知識全体の「客観性」を根本から問う契機を与えるのである。筆者は、信頼性問題が専門家及びその特権的知識全体の地位を揺り動かすような位相で現れてくるこのような客観性の問題を、暫定的に客観性Aの問題と呼んでおきたい。

 対して、筆者が客観性Bの問題と呼ぼうと思っているのは、言ってみればより専門家内在的な視点、精神医学という分野の根本概念といえる「疾患」の実在性をめぐる領野で成立が問われる「客観性」の問題である。

例えば我々は、或る漫画が面白いかどうかの判断については、意見に不一致があってもどちらかの意見が「間違っているmistaken」とは思わない。我々はこの判断基準について「客観性」を期待していないからである──つまり漫画が面白いか否かという判断基準は主観的な問題だと考えられる。他方、科学的な分類概念の正しい使用を統制する基準standardに従って或る特定の現象を分類する際に、判断の不一致が生じたなら、「どちらかが間違っていてどちらかが正しいはずだ」と考える。このように、その基準を使用して判断を下した時、そこに不一致が生じ、どちらかの判断に対して「間違っている」という判定を下すことが成り立ちうるところに、Fulfordらは客観性の徴表を見て取った[11]

逆にFulfordらが指摘するように、もし科学的分類の判断基準が柔軟にflexible運用可能で、判断の度に基準を恣意的に変更することができるとしたら、原理的にその科学的分類基準は「客観性」の要請を満たしえないだろう。何故なら判断基準をその都度変更すれば、如何なる判断(分類概念の使用)も正当なものとして承認され、「間違った」判断が生じえないからである。Fulfordらは正当にも次のように指摘する。

 

柔軟な基準はへし折られることなく曲げられることができる。だが勿論、・・・斯かる基準が客観性に対して持ちうるどんな主張も無効化してしまうのが、まさにそうした分類の使用における柔軟性なのである。というのも、ある特定の現象が如何に分類されるかに関して、二つの判断が異なっている場合に、少なくともその判断のうちの一方が間違っているはずだ、という観念を欠いてしまったなら、世界の中に何が「本当にあるreally there」のかをめぐる真なる(適切な)主張と偽なる(不適切な)主張との間の差異が、決定的に棄損されてしまうからである。[12]

 

 もし精神科医たちが内沼言うところの「自分の診断基準」に従って、いわば学術用語体系の適用基準を各自で恣意的に柔軟に変更しながら、他方で藤縄らの言うように、どの基準による診断も「正しい」とされるならば、まさしくFulfordらも言うように、「間違っているmistaken」と判定されるべき判断、つまり所謂「誤診misdiagnosis」という概念そのものが存在しなくなってしまうのである。というのも、自分の診断基準に従って導出されたどの診断も「正しい」のだから。

 このような「本当にあるもの」、つまり現に目の前にいる患者の把捉されるべき疾患について、真なる(適切な)主張と偽なる(不適切)な主張、つまり正しい診断と誤診という決定的な差異を成立ないし喪失させるような次元で問題となる「客観性」を、本稿では暫定的に客観性Bと名付けたい。

 もちろん客観性AとBは、連続した問題構造を持っている。客観的な存在である疾患に関する知識に通暁していると考えられる(客観性Bを所有すると考えられる)専門家たちが、実は誤診も何も区別していないとすれば、結果的に専門家個人の持つ各信念は、実は何か個人的・主観的なものではないか(客観性Aの欠如)、という自然な推論が導出されるからである。

 もし精神医学が単に主観的な営みではなく、学として客観的なものであるべきだとするなら、信頼性問題は正に精神医学の成立基盤を問うていることになる。それは、素人の専門家(医者)への認識的依存という圧倒的な現実の中で、依存先の専門家が、単に個々人のバラバラな「自分の診断基準」に従い、真なる(適切な)判断も偽なる(不適切な)判断の差異もなく、恣意的に個人的・主観的判断を下しているに過ぎないのではないか、という根本的な疑念を提出するからである。蓋し、素人が専門家に認知的権威を賦与・委譲するのは、専門家の持続的・体系的探究が、素人には分からない何か本当に実在するものに関する知識を齎してくれるはずである、という期待が込められているからであろう。そうであってみれば、精神科診断が単なる個人的・主観的意見に過ぎないと言う醜聞は、一体精神科診断とは何なのか、そうした脆弱な基盤の上に成り立つ精神医学とは、そもそも一体何なのか、という疑問を引き起こすはずである。

筆者が信頼性問題を認識論的観点から問う動機は、このような現実の精神医学の構図に根本的な危うさを感じるからであり、こうした危うさの上に立って、しかし曲がりなりにも精神医学が成立してしまっている事実に驚愕するからである。

 

  2.3 実践的・倫理学的諸側面

だが、ここで診断不一致問題および診断一般の本質的な意義を問う次のような異論が提出されるかもしれない。

第一に、Kraepelinの疾患単位Krankheitseinheiten概念は、Jaspersが言うように、依然「カント的意味での理念Idee[13]に過ぎず、既存の疾患カテゴリーというのは、原因論との対応関係も見出されていない、単なる症候学的な纏まりに依拠した半ば恣意的な構成体に過ぎない[14]。それどころか、「狂気は少数の疾患(例えばSchizophreniaや躁鬱病)に分割されうる」という現代精神医学に支配的な見解自体、実は根拠を欠いた「間違った想定」[15]に過ぎないのかもしれない。そうした暫定的で便宜的な性格の疾患名の判断について、その一致や不一致を問うこと自体、不毛な所作ではないか、と。

第二に、これに関連して、より実践的な観点から、次のような批判もありうる。即ち、精神科治療の現場では個別の「状態像対応」[16]が全てである。状態像に対し臨床上十全な対応さえ出来ればいい。分類枠組みも暫定的であるし、現代精神医学の主要な介入手段である薬物療法にあっても、疾患対応というよりはむしろ状態像対応である。だから、そこに診断名を付けることは、派生的で価値の薄い作業である。故に、診断の一致も不一致も問題にならない、という批判である。

これに対して、私は次のように反論したい。筆者も、現存の疾患概念体系が絶対だとは思わないし、原因論も反映されておらず、将来根本的に再編される可能性もあると見る                                           [17]。然るに、疾患の診断あるいは「分類とはある時点における一つの世界の見方である」[18]。それは、如何に仮説的・暫定的なものであれ、目の前の患者の病態成立機序に対する一つのもの(世界)の見方に他ならず、従って治療介入の方針決定にダイレクトに影響するのである。

例えば、同じ自生思考や自生空想表象(偽幻覚)に対峙した場合でも、これを強迫神経症の一随伴症状と考えてSSRIを投与するか、基底に広汎性発達障害の傾向が存すると見て取って──薬剤への過敏傾向や錐体外路症状の易形成性を見越して──漢方薬で対処するのか、それとも初期分裂病[19]の可能性があると考えてスルピリドを投与するか。同じ知覚変容発作を、抗精神病薬の副作用と捉えるのか、sz(以下、引用以外ではSchizophreniaszと略記)の一症状で済ませるのか[20]。同じ患者の同じ症状を目の前にしても、かかる症状の病態成立機序の見方、即ち診断の相違に応じて、見えてくる風景が一変するのである(そこに治療方針の差異や診断者の「構え」の相違が密接に連関する)[21]

勿論、神田橋も言うように[22]、診断留保で純粋に状態像対応に徹さなければならない症例も、確かにあるだろう。けれども、このことが精神科診断一般の否定にまで導くと考えるのは拙速である。それどころか、これは先の「客観性B」の問題に直結するが、仮に状態像対応だけで診断というものを欠くならば、結局は誤診も何もないことになる(状態像に関する判断しかできなくなるから)。これは診断ニヒリズム・診断相対主義によるアノミーを誘発するだろう。

例えば、抑欝状態だからと言って、抗欝剤を処方すればいいのだろうか。断じて否であり、もし躁欝病の抑欝状態ならば抗欝剤の投与により躁転やラビット・サイクリング化(急速交代化)を誘発する危険があるからである。ここで既に、単なる状態像対応ではなく、診断というものが治療場面で如何に本質的な役割を演じているかが見えてくる。そして、先の客観性Bで指摘された事柄は、こうした診断を単なる主観物に貶めるのではなく、客観的な「本当にそこにあるもの」とすること、そして「間違った判断」即ち誤診を、あくまで誤診として成立すべきである、という主張なのである。

 

 3 操作的診断基準と信頼性問題

ところで、信頼性問題の解決のために、所謂「操作的診断基準」が開発されてきた。操作的診断基準の詳細な導入史については、稿を改めて論じたいが、ここでは概要を述べる。

「操作主義operationalism」というのは、物理学者のP. F. Bridgemanに淵源する概念で、例えば、或る客体の長さとは何かというと、規定の間隔の目盛りの付いた定規でその物体を計測するという特定の物理的「操作operation」を加えることである。彼によれば「一般的に言って、・・・概念とは対応する諸操作の集合the corresponding set of operationsと同義である[23]

この操作主義の概念を精神医学の世界に持ち込んだのが、米国の代表的な論理実証主義者C. G. Hempelであった。彼は、米国精神医学会の招待講演「分類学の基礎」において、科学的分類とはいかなるものかを語った。ここでのポイントは、Hempelが「操作主義」の概念を、(分類)概念の「適用application」やその「基準criteria」という主題と抱き合わせに紹介したことである。およそ科学的概念は、概念の使われ方適用のされ方)に「研究者の個人的偏向the idiosyncrasies of investigator[24]を有してはならない。科学的概念は、「明瞭で一様な適用基準」を持ち、その結果「極めて高度に一様な使われ方a very high uniformity of usageをし」[25]なければならない。公共的で明白な適用基準によって、ある概念が研究者間で一様に使用されること。その手段として、Hempelは操作主義に意義を見出していた。

例えば、「~より堅い」という概念があったとして、その語が各研究者によって恣意的に解釈され適用されてはならない。一様な適用を得るためには、或る物質xの尖った部分で他の物質γの表面に引っかき傷を作るが、他の物質γの尖った部分によっては或る物質xの表面に引っかき傷を作らないという間主観的客観的な公共的に観察可能な操作を行う必要がある[26]。そしてここに、「操作主義」を仲立ちに、「信頼性」(概念適用の研究者間での一致)問題、「客観性(ここでは概念の適用方法に個人的偏向がないこと)」の問題と「定義」──概念の明白な適用基準の規定──の問題とが明確な形で接合されたのである。

このHempelの講演は、Stengelを通して、いわゆる米国の新クレペリン主義──「操作的診断基準operational diagnostic criteria」という言葉を普及させた立役者たち──に流入していく。新クレペリン主義は、精神分析学のような明確な学派を形成してはいないが、「診断や分類に明示的で意図的な関心が寄せられるべき」など9つの信条credoを暗に共有する集団に付けられた、Klermanのレッテルである[27]

新クレペリン主義の、初期の最も偉大な業績は「Feighner基準」[28]の発表であろう。この莫大な引用を受けた論文は、世界中の多施設の医師たちが、この一つの共通の診断「基準」を使って、いわば等質的な患者群を集め、そしてこの基準の妥当性を皆で検証しようと呼びかける「コミュニケーション」の試みであった。そして本文中には「操作主義的診断基準」という用語は見当たらないが、実質的に操作主義的診断基準のシステムを最初に用いた記念碑的論文であった[29]。その特徴的な基準項目例を部分的に引用しよう。

 

 Schizophrenia──Schizophreniaの診断のためにはACが必要。

A.    次の両方が必要。(1)項目評価に先立って最低6か月症状が続き病前の社会心理的適応水準に戻ることのない慢性疾患。(2)感情障害か感情障害の疑診の項目を満たすのに十分な欝ないし躁の期間がないこと。

B.    患者は次のうちどちらかを持っていなければならない。(1)混乱や見当識障害が結びついていない妄想か幻覚。(2)論理的ないし了解可能な組織化を欠くためにコミュニケーションを困難とする言語の産出。・・・

C.    「確定の」schizophrenia診断のためには以下の徴候のうち少なくとも三つが、「疑診の」schizophrenia診断のためには二つが必要。(1)独身。(2)病前の社会適応や職歴が貧困。(3)schizophreniaの家族歴。(4)・・・。[30]

 

このような俗に「中華レストランメニュー方式」(Aの中から一つ、Bの中から最低三つ・・・といった基準項目の選択様式から名づけられたのだろう)と揶揄される基準項目のシステムが、所謂操作的診断基準の特徴である。米国と世界各地で現在広く使用されている精神科疾患の診断基準体系DSM──『精神疾患の診断と統計マニュアルDiagnositc and Statistical Manual for Mental Disorders』は、1980年発行の第三版以降[31]からこの操作的診断基準方式を採用するようになった(DSMが世界中に普及したのはこの第三版からである)。その思想は、現在の最新版である第四版のText Revision Edition[32]に受け継がれている。

DSM-IIIの改訂時に米国精神医学会の「学術用語体系及び統計の作業部会」で部会長としてDSM-III改訂に主導的な役割を果たしたのが、R. L. Spitzer(本人は拒否しているが、普通は新クレペリン主義の主要人物の一人と見做される)であった。

彼は、Feighner基準を改訂し、DSM-IIIの直接の始祖となったRDCResearch Diagnostic Criteria[33]を作ったが、そこで彼は「精神医学の決定的な問題は、・・・現今の精神医学的診断手続きの信頼性が一般に低いことである」[34]と述べ、信頼性問題の改善が焦点の一つであることを示した。そして、DSM-I-IIが「精神医学的診断のための明示的基準」を含んでおらず、診断者は患者の性格に最もよく似た用語集の中のカテゴリーを選択しているに過ぎないので、ここで生じる診断者の恣意的な解釈的要素を排除するためには「明示的基準」(=操作的診断基準)が必要だと暗示する。更に彼らはRDCの草稿を使って3つの信頼性に関する研究を行い、「RDCのカテゴリーの信頼性は極めて高い」[35]という結果を得る。かくて、同論文の結論部分で、「操作的診断基準」と「信頼性問題」が決定的な形で結びつけられる[36]

 

    「精神医学的診断に操作的基準を使用することは、時宜を得たアイディアであるan idea whose time has come! このことは、ここ数年の間に、以前は決して厳格に定義されたことのなかった数多くの精神医学的状態についての操作的な基準が激増していることから立証される。この方法が1960年代以前に広く使用されることがなかったのは、一般的な臨床診断の慣習の非信頼性unreliabilityという問題が数十年の間知られてきたことからして、驚くべきことである。」[37]

 

ポイントは、操作的診断基準を使用すれば、信頼性が向上するというSpitzerらの着想である。その際、先に挙げたように、基準形式にマルをつけ、A〜Cそれぞれの基準項目の中の何個にマルがつけばよいのか・・・という極めて詳細な指示・指定を行うことで、曖昧な解釈を極力排除しようとしたことである。そして、Spitzerはこうすることで、研究者や臨床家に「概念(例えばszmajor depressionなど)」の厳密な「適用基準」を与えたと言ってよい。斯かる適用基準は、客観的・公共的に観察可能な事象にマルを付けることによって、概念の使用者による解釈的要素に由来する概念の用い方の「個人的偏向」を封じると言う、まさにHempelが描いた理想を実現したものだったのである。こうすれば、万人が個人的偏向、恣意的な使用法をすることなしに、概念を一様に使用できるのだ。

このようにして、Spitzerらは操作的診断基準を導入することで、概念の適用方法の一義性を確保し、持って信頼性問題を解決しようとしたことが見てとれるのである。

 

 4 信頼性問題は解決するのか?

従って、Spitzerも示したように、或る操作的診断基準の体系を共有すれば、確かにその体系内においては、診断(概念の適用)の一致度は向上するのである。そうすれば信頼性問題も解消する。

だが操作的診断基準の体系といっても、様々ある。DSM-IIIIII-RIVIV-TR ICD-10Feighner CriteraRDC・・・。これら複数の診断基準群を同一の集団に適用したらどうか? OverallHolisterはこの点に関して調査を行った。彼らは臨床診断で「sz」と診断された166人に、ファイナー基準、RDC、他四つの基準を適用して比較した。すると、Feignher基準では166人の患者のうち26%しかsz診断を受けなかった。しかも、Feighner基準とRDCの間で50%のずれが認められた、という。

結局、如何に厳密な概念適用基準でも、基準体系が違えば、基準体系間で再び診断不一致が惹起されるのである。このことをBentallは「コンセンサス消失効果」[38]と呼ぶ。またSasはこれを「多元診断のジレンマ」と呼び、「このジレンマは昔からの精神医学の学派の多様性と比肩しうる」[39]と述べる。どの学派の認識様式(認識枠組み)を身につけるかで診断に差異が生じていたのと同様、どの「操作的診断基準」に依拠するかによって、診断にばらつきが生まれてくるのだ。

だがここで、ある特定の診断基準体系を万国の医者が一律に採用すれば、信頼性問題は解決するではないか、という提案も想定される。しかしこの方策は不可能である。

その理由の第一は、我々はどの診断(基準)体系が最も適切(妥当)validであるかを判定する明確な根拠を持たないということである。Kupfer[40]らは、DSMは信頼性の点では大いに進歩したが、妥当性の点では何の進歩もなかったという。またAndreasenも、「妥当性が信頼性達成の犠牲にされてきた。・・・DSM診断はそれが妥当性を欠いている・・・」[41]と述べている。よって、次のGarfieldの表現は正鵠を得ている。

 

これら〔=診断基準の諸体系〕に重要な違いがあること、また、異なった基準によって異なった数の患者がschizophreniaの症例と診断されるであろうこと、これらのことは明白である。普遍的に受容されたschizophreniaの定義ないし基準は存在しないのだから、どの体系がschizophreniaの症例を診断するのに最も妥当validかを決定するのは不可能である。」[42]

 

理由の第二は、単一の物の見方が世界を席捲するのは、我々の知識にとって危険だからである。即ちSchwartzらも言うように[43]、我々の精神疾患に関する知識は極めて限定的で未熟である。そのような状況で、単一の物の見方が「ヘゲモニー」を握って世界中を席捲すると、他の有益かもしれない物の見方が封殺され、その結果、我々の知識は貧困に陥ってしまう。それ故、様々な見方(理論)が闘争し合いながら共存すること、これが正しい方向性であるだろう。とすれば、世界中で単一の診断基準を採用すべきではない。

従って、ここで確認すべき結論は、操作的診断基準をただ採用するだけでは信頼性問題は解消されない、という事実である。即ち、(1)診断基準体系の間で診断不一致が生じ、(2)操作的診断基準体系間に妥当性の点で優劣は存在せず、従って選択・統一すべき「絶対的な」基準体系も不在であるから、信頼性問題が再び舞い戻ってくるのである。

妥当性の問題は、Garfieldも言うように「価値」に関わる問題である。即ち、szとは何か(何と考えるべきか)、非定型精神病とは何か(何と考えるべきか)・・・という、概念の単なる定義ではない本質規定の水準に属する問題である。

蓋し、操作的診断基準による信頼性確保は、いわば概念の適用基準を「規約stipulation/convention」として最初に規定しておいて、各研究者や臨床家が、その規約の正当性(妥当性)や本質規定の問題を一旦無視して規約に従うことで、概念の適用の一様性、即ち信頼性を確保しようとするものであった。これは、一見すると基準の柔軟な運用が不可能になるから、(本稿第二節の用語では)客観性Bが確保されるようにも思える(DSMのその用語の使い方が間違っている/間違っていないという議論が可能になる)。

しかし、それはその特定の体系内に完結する限りの話である。規約としての基準体系に、妥当性の点で底が見えて、遵守すべき必然性や説得性を持たなければ、人々の心は離れてしまう。そして現状では、特定の体系を強制する合理的理由は存在しないのであった。とすれば、またしても人々は各自任意の診断基準に依拠することになり、「自分の(お気に入りの?)診断基準」に従うことになるかもしれない。

ここでは何が回帰しているかというと、客観性Bの問題である。AさんはFeighner基準が適切と考えそれを遵守し、Bさんは別の基準を妥当と考えそれに従うなら、両者の間には「間違っている/間違っていない」という議論は成り立たないからだ。それはちょうど、日本語体系に依拠する人と英語体系に依拠する人が、「どちらが正しい」と言えないのと同じである。だから本当に議論が尽くされるべきなのは、今の比喩で言えば些か滑稽だが、英語と日本語どちらが正しいのか、どちらが妥当なのかというレベルの議論なのである。

だが、ある特定の理論即ち疾患概念体系の妥当性に対して万人の同意が容易に得られるとは考えにくい。少なくとも近い将来は無理であろう。この水準で再び浮上してくる信頼性問題は、それ故、操作主義を導入して技術的に解決しうる問題ではなく、恐らく精神医学が存続する限り常に付き纏う宿痾のようなものであろう。

ここで注意されるべきは、この宿痾の上に、精神医学は築かれているということである。即ち、一方で医者は己が妥当と考える(しかし万人と共有しているわけではなく、客観性を持たない)診断基準に従って診断し、事実上治療はそれに領導される。他方で、認識的に劣位とされる患者は、根拠も分からず、偶然主治医に当たった人物の価値観に基づいて、診断を下され、治療を展開される。信頼性問題は解決不能なのだから、この精神医学の極めて危うい構造が、引き続き存続してしまうのである。つまり、客観性Bの問題が震源地となって、客観性Aの問題──素人の精神医学の専門家へのある種の不信──を惹起してしまう。だがこの不信は、精神医学の構造そのものの危うさに根ざしているのである。

従来、この精神医学の根本的な構造の危うさは、精神医学の哲学でもあからさまに語られることはなかった。しかし筆者は、信頼性問題が開示する精神医学の脆弱な根拠を、問うに値すると考える。この不確かさに日々直面しつつある患者や医者は、これに対していかなる態度をとるのか。そうした実証的研究も含めて、この問題を問い続けることは、精神医学の成立根拠を問い続けることであり、これはすぐれて哲学的営みに属すると考える。

 

 

 



[1] Putnum, H., “The Meaning of ‘Meaning,’” In Putnum, H., Mind Language and Reality, Cambridge University Press, 1975, pp. 227 ff.

[2] 厳密には、「信頼性」には2種類があり、診断者間同士の診断の一致についての「評価者間信頼性」と、同一患者の時点Aにおける診断と時点Bの診断の安定性についての「テスト−再テスト信頼性」があるが、一般に「信頼性」が「評価者間信頼性」のことと同一視される場合が多いので、筆者もそれに従う。

[3] American Psychiatric Association, Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder, 3rd ed., American Psychiatric Association, 1980.

[4] 操作的診断基準が「明確な診断基準」とも呼ばれることについては、cf. Jablensky, A., Kendell, R. E., "Criteria for Assessing a Classification in Psychiatry," In Mario, M., Gaebel, W., Lopez-Ibor, J. J., Sartorius, N. (eds.), Psychiatric Diagnosis and Classification, Wiley, 2002, p. 13, n.

[5] 内沼幸雄「重症離人症をめぐって──分裂病診断の検討──」、内沼幸雄編『分裂病の精神病理14』、東京大学出版会、1985年、61頁、強調引用者。

[6] 宮岡等・千葉裕美「病相ごとに種々の臨床像を呈した非定型精神病」、木村敏・井上令一編『シリーズ精神科症例集4 躁うつ病U・非定型精神病』、1994年、286頁、参照。また、非定型精神病概念自体の信頼性欠如を実証した有名な論文として、高橋三郎、飯田英晴、藤縄昭「いわゆる非定型精神病の一群の診断と分類に関する調査」、 『精神医学』、30 1988年、1107-1113、参照。

[7] Garfield, S. L. "Problems in Diagnostic Classification," In Millon, T., Klerman, G. L. (eds.), Contemporary Directions in Psychopathology, The Guilford Press, 1986, p. 101. DSMが浸透した現在において、米国の1986年における「臨床施設」の現状が不変であると発表者も考えない。

[8] 藤縄昭・北村俊則、1991年、551頁。だが厳密にいえば、「病名(=「見立て」)が違えば治療のスタンスに微妙な変化をもたらす」というべきであろう。例えば、「sz」にバルプロ酸ナトリウムを鎮静目的で補助的に併用することはあっても、あくまで補助的な身分に過ぎないと考えるが、「非定型精神病」ならば、病態成立機序に何か癲癇性や躁病性の要素が混入していると考えて、バルプロ酸が多かれ少なかれ本質的な性格を担っていると考えるがごときである。

[9] Hardwig, “Epistemic Dependence,” Journal of Philosophy, Vol. LXXXII (7), 1985, 335-347. ただしHardwigは医学のみならず、物理学や他の領域全体の素人の認識的依存について論じている。

[10] Ibid., 336.

[11] Cf. Fullford, K. W. M., Thoronton, T., Graham, G. Oxford Textbook of Philosophy and Psychiatry. Oxford University Press, 2006, p. 343.

[12] Ibid.

[13] Jaspers, K., Allgemeine Psychopathologie, 5 Aufl., Springer, 1948, S. 476.

[14] 「症候群syndrome」と「疾患disease」については、cf. e.g. Jablensky, A., Kendell, R. E., op. cit., p. 5 f. 筆者も、現状において「sz」や「躁鬱病」が「疾患(単位)」よりはむしろ「症候群」と呼ばれるべきであることは、もちろん同意する。

[15] Bentall, R. P., Madness Explained, Penguin Books, 2004, p. 8.

[16] 筆者は先の医学哲学倫理学会で、精神科の治療には「症状対応」(「症状」は、ここでは漠然と「状態像」「症候」概念と同義と見做す)があるのみだから、診断名付与という作業自体が不要ではないか、という質問を受けた。質問と同趣旨の主張を表立って行っている文献を、筆者は寡聞にして知らない(前註のBentallは、この主張の系譜に属するかもしれない。Cf. Bentall, op. cit. p. 141)。神田橋も指摘するように「診断名留保」として、症状対応を行った方が「誤りが少ない」場合もあるだろうが、神田橋自身は診断一般を否定しているわけではない(神田橋條治『追補 精神科診断面接のコツ』、岩崎学術出版社、1994年、36頁)。

[17] szの異種性heterogeneity」問題は、現今の診断体系(Kraepelinの偉大ではあるが問題も多い遺産)の最も明白な欠陥ではないか。

[18] World Health Organization, The ICD-10 Classification of Mental and Behaviour Disorders, World Health Organization, 1992, p. vii.

[19] 中安信夫『初期分裂病』、星和書店、1990年、参照。

[20] 複数の医者に「それは難治性のsz症状」と言われ続けたが、別の物の見方の医者に「それは抗精神病薬の副作用である」と指摘され、抗精神病薬の大幅な減量(一時中止)を行い、結果、知覚変容発作は消失した患者の具体的事例として、誤診・誤処方を受けた患者とその家族たち、笠陽一郎『精神科セカンドオピニオン』、シーニュ、2008年、135頁以下、を参照。

[21] 言うまでもなく「観察の理論負荷性theory-ladenness」という問題である。

[22] 註14参照。

[23] Bridgman, P. W., The Logic of Modern Physics, Macmillan, 1927, p. 5.

[24] Hempel, C. G., Aspects of Scientific Explanations, Free Press, 1970, p. 145.

[25] Ibid., p. 143.

[26] Cf. ibid., p. 141.

[27] Cf. Klerman, G. L. "The Evolution of a Scientific Nosology," In Shershow, J. C. (ed.), Schizophrenia: Science and Practice, Harvard University Press, 1978.

[28] Cf. Feighner, J. P., Robins, E., Guze, S. B., et al., "Diagnostic Criteria for Use in Psychiatric Research," Archives of General Psychiatry, 26, 1972, 57-63. セントルイス基準とも呼ばれる。

[29] 「これ(ファイナー基準)が成功したのは、著者たちが、哲学者カール・ヘンペルによって十年以上も前になされた示唆を最終的に採用したからである」(Bentall, op. cit., p. 58)。

[30] Feighner, J. P., et al., op. cit., 59.

[31] American Psychiatric Association, Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder, 3rd ed., 1980. 邦訳はない。

[32] American Psychiatric Association, Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 4th ed. text revision, 2000. 邦訳は、高橋三郎・大野裕・染矢俊幸監訳『DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル』、医学書院、2004年。

[33] Cf. Spitzer, R. L., Endicott, J., Robins, E., "Research Diagnostic Criteria," Archives of General Psychiatry, 35, 1978, 773-782.

[34] Ibid., 773.

[35] Ibid., 779. 3つの研究のうち第三研究はテスト−再テスト信頼性に関するものである。

[36] RDC1978)に先立つ4年前、Spitzerkappa(これについては紙幅の関係上割愛せざるを得ない)を導入したFleissとの共著論文で(Beckに倣って)、信頼性問題の原因を特に「用語体系nomenclatureに固有の弱さや曖昧さ」に求めている。Spitzer, R. L., Fleiss, J. L., "A Re-analysis of the Reliability of Psychiatric Diagnosis," British Journal of Psychiatry, 125, 1974, 345.

[37] Spitzer, et al., "Research Diagnostic Criteria," 781.

[38] Bentall, op. cit., p. 64 f.

[39] Vgl. Sas, a. a. O., 357.

[40] Cf. Kupfer, D. J., First, M. B., Regir, D. A. (eds.), A Research Agenda for DSM-V, American Psychiatric Association, 2002, p. 13.

[41] Cf. Andreasen, N. C., "DSM and the Death of Phenomenology in America," Schizophrenia Bulletin, 33(1), 2007, 111.

[42] Garfield, 1986, p. 106.

[43] Cf. Schwarz, M. A., Wiggins, O. P. "The Hegemony of the DSMs," In Sadler, J. Z. (ed.), Descriptions and Prescriptions, The Johns Hopkins University Press, 2002, pp. 199-209.