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【ハジメテの××】


 今日は朝からとても良い天気だ。
 こんな日は仕事なんぞ休んで、のんびり散歩でもしたいなぁ・・・。布団も干したいし。やはり布団は、布団乾燥機で乾燥させるより、お日様の下で干したい。干しあがった後の布団で寝るときの、あのなんとも言えない感触が好きなんだよな。そうだ、そろそろ衣替えもしないと。1〜2度しか袖を通してないコートは、陰干ししてから仕舞うとして、良く着たやつは、クリーニングに出さないと。冬物の割引、まだやってたっけ・・・。
 「おーいしーっ!!いつまで顔洗ってんだよ?朝飯冷めるぞっ!」
 益体も無い事をつらつら考えていたら、キッチンから俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
 「今行く!」
 いくら天気が良くても、結局は仕事に行かねばならない俺に、朝からのんびりと考えに耽っている時間はないらしい。急いで顔を洗うと、英二が用意してくれている朝食を食べるべく、ダイニングキッチンのテーブルについた。
 「英二、今日は休みだったよな?」
 まだ暖かかった卵焼きを食べながら、英二の予定を確認した。俺が和食が好きなので、よほど時間が無いとき以外は、たいてい和食での朝食を作ってくれる。
 「うん。」
 朝食を作った本人は、後でゆっくり食べるらしく、俺が食べている向かい側に座って、お茶だけ飲んでいる。
 「じゃあ、昼飯は久しぶりに学食でも行くとするかな・・・。」
 「何で?」
 「いや、前にさ。お前が居ないときに一人で医務室で食べようとしたんだけど、何でか次から次に生徒が来て、昼飯どころじゃなかった事があったんだよ。」
 「ぶっっ!大石、モテモテじゃん♪」
 「笑い事じゃないよ・・・。」
 あの時は、本当に凄かった。本来なら、誰がいつ来ても良いように、なるべく医務室を空けるような事はしたくないんだが、昼食時に用もないのにあんなに来られたんじゃ堪らない。具合が悪くて来ているのなら、俺もこんなことは思わないんだが、ほぼ100%医務室に来る必要のない生徒ばかりが押しかけてくる。本当に具合の悪い生徒にとって、迷惑この上ない。
 普段は英二が医務室まで来て、時々桃や乾もまじえての昼食なのだが、生徒たちは、そういうときには絶対に来ない。俺一人の時を狙ってくるんだが、やはり、教師じゃないってことで、舐められてるんだろうか?
 「あ、そだ。飯で思い出した。俺さ、今日、歯抜いてくるから、夕飯つくるの億劫になっちゃうかも知れないから、夕飯何か食べてきて。」
 「え?抜歯?!何で??」
 英二に限って虫歯というのは考えられない。定期的に歯医者に行くのだって、単なる定期健診で行くだけなのに、『治療』という単語をとばして、いきなり『抜歯』などと言い出したことに、とても驚いた。
 「何か、左下の親不知が、変な向きに生えそうなんだって。」
 ああ、親不知か。しかし、昔とちがって最近は、親不知といえども、あまり抜かないようになってるって聞いてたんだけど・・・。
 「生えそうってことは、まだ生えてないんだろう?無理に抜く事ないじゃないか。」
 「いや、それがさ〜。最近疲れてくると、左奥の歯茎が腫れて痛むようになっちゃってさぁ。今回歯医者に行ったのも、ソレが原因だったんだよね。で、医者にその話ししたら『あー。こりゃめずらしいな。菊丸さんの親不知は、真横に埋まってますよ。こう、手前の奥歯に向かって生えてくるような感じで。普段はなんでもないんだろうけど、疲れてきたりすると、手前の奥歯を圧迫して、それが原因で歯茎が腫れたりするんだな〜。このまま放っておいてもしばらくは大丈夫だと思うけど、この歯が生えてくるまで待ってると、手前の奥歯が悪くなると思うんですよねぇ〜?親不知の形自体は綺麗だから、菊丸さんがよければ、丁度いい機会だから抜いちゃいましょうかね〜。』って事に・・・。」
 英二は俺と同じ歯医者に通っているんだが、あそこの院長は腕はいいんだけど、言い方があまりに飄々としていて、事の重大さが患者に伝わりにくい時があるんじゃないかと思っている。現に、今の英二がそれだ。
 「まあ、あそこの先生なら大丈夫だと思うけど・・・。お前、今日抜く事にして正解だったよ。」
 「何で?」
 「まだ生えてきてないのを抜くんだろ?多分、抜いた後で、ものすごく腫れると思うから・・・。週末をからめないと大変な事になるんだよ。」
 「大袈裟だな〜。大丈夫大丈夫。先生すぐだって言ってたし♪」
 これから抜こうって患者に、大変ですからって言う医者は居ないんだよ英二・・・。
 「とにかく。抜歯したら、真っ直ぐ帰って来ること。買い物も、俺が帰りにしてくるから、ふらふら寄り道するなよ?それと、冷凍庫一杯に、作れるだけ氷を作ってから出掛けて。」
 急に真剣な顔をして注文をつけはじめた俺に、少々英二がびっくりしている。
 「な、なんだよ・・・。そんなに大事にしなくても・・・。」
 「あと、おそらく医者から、鎮痛剤と解熱剤、抗生物質が処方されると思うから、必ず飲んで。あ、解熱剤は、熱が出ていなければ、俺が帰って来るまで飲まなくていい。鎮痛剤の方は、抜いた時は麻酔が効いてるから痛くないかもしれないけど、麻酔が切れる前に飲んどいたほうが良いから。麻酔切れてからだと効かないかもしれないからね。」
 「・・・・・・・・・。」
 立て板に水とはかくやと言った具合に喋る俺の話しを聞いて、英二の顔色がどんどん青くなってくる。
 「そんなに痛いのかよ・・・・。」
 今にも『やっぱり歯医者行くのやめる!!』とでも言い出しそうな英二の様子に、しまったと思った。俺の悪いクセで、できうる限りの対策を取っておこうとするあまり、よく分かっていないだろう英二にいろいろ言いすぎたようだ。曲がり形にも医学部を出て、授業で臨床も学んだのに、患者を不安にしてしまうとは・・・。
 「大丈夫。おそらく『アノ時』よりは、痛くないと思うよ・・・。」
 「アノ時・・・・?」
 「うん。英二、すっごい痛がってたじゃないか。」
 「ぶっ・・・っ」
 とりあえず不安感だけでも払拭しておこうと、英二の人生の中で一番痛かったと聞いている痛みよりは痛くないだろうと、安心させようとしたんだが・・・。
 「『アノ時』って、あん時かよっ?!!」
 「あ〜あ〜。大丈夫か?」
 アノ時が何の時の事なのかに気付いた途端、青かった顔色を真っ赤にしながら、英二はお茶を噴出した。
 「大丈夫かって、お前が変なこと言い出すからだろっ!!」
 不安感をぬぐうことには成功したようだが、朝から何言ってんだというような英二の視線が痛い・・・。
 「と、とにかく。帰ってきて具合が悪かったら、時間気にせずにメール寄越して。話せるようなら、電話でもいいからな。」
 「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。それより、そろそろ出かける時間だろ?食器そのままで良いから、支度しちゃえよ。」
 「あっ!もうそんな時間か?!悪い・・・。」
 時計を確認すると、あと10分で出ないといけない時間だ。ここは英二の言葉に甘えるとして、急いで支度をしなければ・・・。


 「じゃ、行ってくるけど、歯医者から帰って来たら、安静にしてろよ?休みだからって、家の事いろいろやったりしないで。」
 「はいはい、分かったから。」
 あまりに煩く言う俺に、少々ウンザリした顔をしつつ、行ってらっしゃいとキスをくれる。ここで押し問答している時間はないので、仕方ないとは思いつつ、行ってきますとキスを返して、家を出た。あぁ、しばらくはキスもできないなぁ・・・なんて考えながら。




 英二は昔からハミガキが大好きな上、マメに歯医者に定期検診に行っているから、おそらく今まで、永久歯を抜歯したことは無いはずだ。だから、生え代わることが前提の乳歯と違って、しっかり生えている永久歯を抜く酷さを知らないんだろう。特に今回は、まだ生えて来ていない下側の奥の親不知を抜くんだから、相当大変な事になるはずだ。英二には話していないが、俺が正にそれを体験済みなのだ・・・。
 あの時は、本当にひどかった。食事どころか薬を飲むのも一苦労なくらいに、下顎から喉までものすごく腫れて、熱は出るわ、首から上の、歯を抜いた方全体が痛いわ・・・。歯茎を切ってるもんだから、縫合してあるとは言え、いつまでも口の中が血生臭いわ・・・。二度と親不知は抜くまいと、固く心に誓ったくらいだ。悲しいことにその誓いは守られることなく、その二年後に反対側の生えてきていない親不知を、また抜くハメになったんだけど・・・。
 「何しょっぱい顔をしているんだ。」
 自分の過去の痛い体験を思い出していたら、変な顔になっていたらしい。音も無く背後に立ちはだかっていたのは、本日一緒に昼食を摂る約束をしていた乾だった。一人で学食へ行くのもなんだったので、朝のうちに約束を取り付けていたのに・・・。
 「乾?!って事は、もう昼飯か?」
 「ああ。時間になっても来ないから、急病人でもあったのかと思って来てみたんだが。」
 考えに耽っている間に、乾との待ち合わせの時間が過ぎてしまっていたようだ。
 「スマン!ちょっと考え事をしていて、時間を忘れてた。」
 「おおかた菊丸絡みだろう?」
 あわてて椅子から立ち上がる俺を手で制して、どういう仕組みなのか未だわからないが、トレードマークのメガネを光らせて、ニヤリと笑う乾だった。
 「え、あ、いや・・・。」
 「今更隠す事もないだろう。常に五分前行動を実践しているお前が、時間を忘れるくらいに考え込むこと言ったら、あいつ絡み以外にありえない。」
 「あ、あははは・・・。」
 旧友ってのは、時に気心が知れすぎてて困りもんだ。
 「と、とにかく行こうか。」
 俺のせいで時間が大分過ぎてしまったので、申し訳ない気持ちで乾を促した時、メールが来たことを知らせるように、机上の携帯が激しく自己主張をしはじめた。マナーモードにしてあるので音は鳴らないが、硬いスチール机の上に置いていたため、かえってものすごい音を出して振るえている。乾をこれ以上待たせるわけにはいかないと思い、すぐに内容を確認することはせず、とりあえず携帯を手に学食へ向かった。
 乾と連れ立って歩きながら発信者を確認すると、英二からだった。
 「仕事か?」
 時々出版社から、翻訳の仕事絡みのメールが来ることを知っている乾が、こう聞いてきた。仕事のメールなら、自分の事は気にしないで返事をしろと、気遣ってくれている。
 「いや、英二から。」
 「菊丸は今日は、休みだったか。」
 「ああ。歯医者から帰って来たらメールしろって言っておいたから、おそらくその連絡だと思う。」
 「大石・・・。」
 「なんだ?」
 今度は、乾のほうが何とも言えない表情(眼鏡の奥は分からないが)をして、俺を見ながらとんでもないことを言ってきた。
 「前々から、お前は菊丸に対して過保護だ過保護だとは思っていたが、妻の休日の動向を逐一報告させるのは、どうかとおもうぞ?」
 「はぁ?!」
 「あいつだって、休みの日くらい・・・」
 「ちょっ、乾?!ち、ちがうよっ!」
 何か乾が、とんでもない誤解をしている。というか、変な誤解を生むような行動を、俺はいつもしてるように見えてるのか?
 「・・・何が違うんだ?」
 「今日、英二が親不知抜いてくるって言うから、その様子をだなっ・・・。」
 乾に対しては、どんな些細な誤解もすぐその場で訂正しておかないと、ご自慢のデータに組み込まれてしまって取り返しがつかなくなる。俺は慌てながらも、事の真相を必死で告げた。
 「ああ、それは大変だ。あれは、酷く腫れてしまうことがあるからなあ・・・。」
 俺の努力が報われたのか、はたまた乾も経験者だったのか、思いのほかすんなりと俺の言葉を信じてくれて、あまつさえ英二の状態の心配までしてくれる。
 「そうなんだよ。英二は大した事ないって言ってるんだけど、俺が正にそれで、すごく辛い経験をしたからさ。ちょっと心配でね・・・。」
 「為るほど。じゃあ、余計内容を確認した方が良いんじゃないのか?」
 「いや、昼飯食ってからにするよ。時間的に、まだ麻酔も効いてるだろうから、痛みもさほどひどくないだろうし・・・。」
 「だと良いが・・・。」
 「どういうことだ?」
 「菊丸は、前から歯磨きが趣味というくらいに、歯には気を使っていただろう?おそらく今まで、虫歯になどなったこと、ないんじゃないか?」
 「ああ。虫歯の治療、したことないんだって言ってたな。歯医者には、まめに定期健診に行ってるし。」
 「という事はだ。だいたいの人間が経験しているだろう『歯が痛い』というのがどういうものか、知らないんじゃないのか?」
 「あっ!!」
 そうか・・・。歯が痛いというのは、頭痛や腹痛と違って、どうにも我慢ができないような痛みの場合が多いと思うんだが、それを体験したことのない英二にとっては、おそらく通常の人が感じる何倍も痛いのかもしれない・・・。
 「す、すまん、乾。俺から誘っておいて申し訳ないんだが・・・」
 「気にするな。また今度、菊丸の様子でも聞かせてくれ。」
 そう言って乾は、一人で高等部の方へと戻っていく。
 俺はといえば、昼休みでも人気のない、テニスコートの裏手へと移動して、あわててメールを確認した。


    From 英二
    Sb 抜かれた〜><
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    今帰って来た〜。
    抜くのに1時間半もかかって、
    顎が疲れて痛い(笑)
    熱は出てないから、解熱剤は飲んでないけど、
    鎮痛剤は一応飲んどいたから。
    夕飯、忘れずに食って来いよ〜♪

    英二


 とりあえずは、大丈夫そうで安心した。だが、今はまだ昼間だ。熱が出てくるのは、おそらく夕方からだろう。傷口も、夕方になるにつれて痛み始めるかも知れない。


    To 英二
    Sb 安静にするように
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    英二、おかえり。
    今のところは、熱も出ていないようで
    安心したよ。
    でも、夕方になるにつれて発熱するかも
    知れないから、
    今、何でもないからっていって
    買い物に出かけたり、家の掃除したり
    しないように。
    何もしなくていいから、安静にしていること。
    いいな?

    大石

    追伸>
    辛くなったり、何か買ってきて欲しいものがあったら
    またメールして。


 とりあえずは、これでよし・・・っと。
 昼休みが終わるまでにはまだ時間が大分あるので、ちゃんと昼飯は食えそうだ。乾はもう食べ終えてるかもしれないが、一応学食にでも行ってみるかな。




 その後は特に英二からメールが来ることはなく、意外と軽かったのかな?なんて思いながらも、やわらかくて消化がよさそうなものをいくつか買って、家に帰った。
 玄関の前に着くと、いつもならチャイムを鳴らすところなのだが、もし英二が寝ているといけないと思い、今日は自分で鍵を開けて入る。
 玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗だった。
 普段ならこの時間、電気がついて、居間の方からはTVの音なども聞こえてくるのだが、今日は真っ暗なうえに、シーンと静まり返っている。俺の言ったことを守って、安静に寝ているんだろうか。
 とりあえず部屋の電気をつけてから寝室を覗いてみると、ベッドの一部分がこんもりと盛り上がっている。おそらく寝ているであろう英二を起こさないように、静かにベッドに近づいてみると、なにやらうめき声が聞こえてきた。
 「・・・英二?」
 「・・・・・・・・・」
 なにやらもごもごと言っているようだが、布団を頭からかぶっているために、はっきりと聞こえない。
 「英二、起きているのか?具合はどうなんだ?」
 邪魔にならないようベッドに腰掛けて、かぶっている布団をそっと剥がしてみると、タオルを口元に当てて、うつぶせになっている英二がいた。
 「・・・・・・・・・」
 口元に当てているタオルのせいか、やはり何かを言っているが、聞こえない。
 「ごめん英二。何を言っているのか聞こえないから、ちょっとタオルを外してこっち見て?」
 そういうと英二は、緩慢な仕草でタオルをはずし、ゆっくりと俺の方へと顔をむけたのだが・・・・
 「英二っ?!!」
 その顔を見たとたん、俺はびっくりして大声を上げてしまった。
 もともとほっそりした顔なだけに、今の英二の顔の腫れっぷりに驚いてしまったのだ。薄暗い中でこれだけ腫れて見えるのだから、明るいところで見たら、どんなことになっているんだ??
 「おーいひぃ・・・・・」
 おまけに泣いていたのか、瞼まで腫れている。
 「ちょ、ちょっとまって、英二。」
 もっとよく状態を見るために、慌てて部屋の電気をつけると、英二の顔は、とんでもない事態になっていた。
 「おーいひぃ・・・・。いひゃいよぉ・・・・・・。」
 「え、英二・・・・。」
 歯を抜いたときに切った歯茎から出ている血が、まだ止まっていないのだろう。それを飲み込めなかったためか、さっきまで口元に当てていたタオルは、血まじりの唾液で真っ赤になっていて、吸いきれなかった分が、枕にまで染みてしまっている。先ほど驚いた顔の腫れは、明るいところで見ると更にひどく、左側の目の下あたりから肩口にかけて、普段の2倍くらいに腫れあがっていた。おまけに、泣いていた所為なのか、熱がかなり上がっているのか、顔が真っ赤になっている。
 「いひゃい・・・・・うぅ・・・・・・。」
 じっくり観察している間にも、普段体験したことが無い痛みに耐えられないのか、英二の瞳からは涙がこぼれ出す。痛みに耐えかねて泣いてしまっているのだろうが、泣く事によって更に熱が上がるうえに、痛みに耐えるつもりで歯を食いしばってしまうのは良くない。
 「英二、歯を食いしばらないで。傷口が塞がらないから。」
 「あって、いひゃい・・・・。」
 「ちょっとまってろ。今、氷嚢用意するから。新しいタオルも持ってくるからな。」
 本当は、口内からの腫れなので、顔の外からあてる氷嚢にはあまり意味がないのだが、熱で火照っている顔に、冷たい氷嚢は、いくらかでも痛みが和らぐような気がするものだ。結構発熱しているようなので、解熱にも一役かうことだろう。
 俺は急いでキッチンへ向かうと、冷凍庫から氷を出して、水と一緒にハンディータイプの氷嚢に入れた。そして洗面所へ行って新しいタオルを用意し、血の味がしているのだろう、口のなかが気持ち悪いようだった英二がうがいできるよう、水と洗面器も用意した。薬も飲ませないといけないので、キッチンのテーブルの上に放り出したままの薬袋も持った。
 急いで寝室に戻ると、英二は先ほど起き上がった姿勢のまま、口にタオルを当ててうなだれている。横になっているよりもラクなのだろう。
 「英二、ほら、新しいタオル持ってきたから、そのタオルよこして?」
 「・・・・・ぅん。」
 「口の中、気持ち悪いんだろう?水持ってきたから、軽くゆすいで。激しくゆすぐと、傷口が開くかも知れないから、ゆっくり濯ぐんだよ?濯いだだ水は、洗面器に吐き出していいからね。」
 血まみれのタオルを受け取り、代わりに水と洗面器を手渡すと、英二は俺の言うとおりにうがいをしはじめた。洗面器に吐き出される水にも、まだかなり血が混じっている。
 「解熱剤、まだ飲んでないだろう?」
 「・・・・・・・」
 声を出すのが辛いのか、俺の問いかけにゆっくりと肯いてみせた。
 「鎮痛剤は、帰ってきてから一回飲んだきり?」
 「・・・・・・・」
 また、ゆっくりと肯く。
 「抗生物質は飲んだか?」
 「・・・・・・・」
 今度はゆっくりと、わずかに左右に首を振る。
 「食事は?帰ってきてから、何か食べた?」
 「・・・・・・・」
 今度もわずかに左右に首を振る。これから薬を飲ませるのに、本当は何か胃に入れてからのほうがいいんだが、何も食べられないだろうな、この状態じゃ・・・。
 そうは思うものの、一応食べられるようだったら食べたほうがいいので、念のために聞いてみる。
 「何か食べられるか?」
 「・・・・・・・・」
 やはり何も食べる気にならないようで、緩慢な動作で首を振る。まあ、一回くらいなら、食事を抜いて薬を服用しても大丈夫だろう。英二は普段、胃が悪いわけじゃないからな。
 「口をゆすぎ終わったら、これ飲んで。」
 そう言って、キッチンに置き去りにされていた抗生物質と鎮痛剤、解熱剤を、一回分づつ水と一緒に手渡した。
 「・・・・・・・・」
 目に涙をためながら、俺の顔を見て『飲めない』と首を横に振る。おそらく物を飲み込むことが辛いのだろう。
 「英二・・・。咽喉が腫れて辛いと思うけど、薬を飲まないともっと辛くなるから・・・。飲み込むのが痛くて大変だと思うけど、我慢して飲んでくれ。」
 本人も、飲み込むのも辛いが、これ以上酷い状態になるのは避けなければならないのは理解しているようで、辛そうにしながらも、何とか全ての薬を飲んだ。それを見届けてから、新しいタオルを手渡し、血で汚れた枕やシーツを変える。汗をかいている英二も、新しいパジャマに着替えさせてから、再びベッドへ横にさせた。すると英二は、新しいタオルを口元に当てて、さっきと同じようにうつぶせに寝ようとする。
 「英二、仰向けに寝て。うつぶせに寝ると、傷口が圧迫されて、余計血がにじんでくるから。」
 「やって、唾、のみこめないかや、きもちわゆい・・・・。」
 たまった唾液を飲み込めないのがツライと、仰向けに寝るのを嫌がった。たしかに、無理に仰向けに寝かせて、たまった唾液が気管支へ入ってしまっても良くない。
 「じゃあ、背中にクッションを厚めにセットするから、それに寄りかかって。唾液は飲み込まないで、タオルに吐き出していいから、ね?」
 「ぅぅう・・・。」
 「ほら、タオル厚めに敷いてあるから、うまく吐き出せなくて、こぼれても平気だから。」
 少しでもラクな体勢を取ろうともぞもぞとしていた英二だが、どうにか安定できる位置をみつけられたようだ。憔悴しきって項垂れている英二の左手をそっと掴んで氷嚢を持たせると、腫れあがった左顎にそっと当ててやった。
 「きもひいぃ・・・・。」
 冷たくて気持ちよかったらしく、すこし眉間のしわが緩んだ。一時の対処療法ではあるが、いくらかラクにはなったようだ。
 「じゃあ、俺は風呂に入ってくるから。眠れるようだったら、そのままの姿勢でいいから寝ろよ?」
 「ぅん・・・・・。」
 とても眠れそうに無いといった様子の英二ではあった。可哀相だが、とりあえずは薬が効いてくるのを待つしかない。
 少し落ち着いてきた英二が泣き止むのを待って、俺は風呂へと向かった。


 風呂から上がってすぐ、英二の様子を見に寝室へ行くと、薬が効いてきたのか、ベッドヘッドにもたれた格好のまま眠っているようだった。持たせていた氷嚢を支えていた左手はだらんと横に投げ出されていて、頬を冷やす役割を終えている。すっかり溶けているであろう氷を入れ替えようと、左手から氷嚢をそっと取り去り、キッチンへ向かう。
 氷を入れ替え、新しいタオルを持って寝室へ戻ると、物音で起きてしまったのだろう。英二がこちらをじっと見ていた。
 「気分はどうだ?」
 「・・・・・・・。」
 言葉を発するのが億劫なのか、ふるふると頭を緩慢に横に振ることで、具合が悪いことを示す。
 「今夜は、まだ熱があがるかも知れないから、つらいだろうけど・・・・。」
 俺の言葉を聞いた英二は、まるで死神から死の宣告を受けた人のように、ぶるぶると身体を振るわせた。昼間、乾が言ったように、歯が痛いという初めての体験は、英二に予想以上のダメージを与えているようだった。
 「英二、目を瞑ってゆっくり呼吸をして。あと4時間くらいしたら、また薬を飲ませるから、それまで寝てて。」
 「・・・・・・・。」
 『大石は寝ないのか?』とでも言うように、英二が不思議そうな顔をしてこちらを見た。
 「俺は少し仕事があるから、仕事部屋にいるからね。何かあったら携帯鳴らして?枕元に英二の携帯置いておくからな?」
 「ゃらっ・・・!!ここいへっ・・・!!!」
 「一人のほうが、ゆっくり休めるんじゃないか?」
 こんなときくらい一人でゆったり寝かせたほうがいいだろうと思っての提案だったのだが、折角止まっていた涙をぼろぼろとこぼしながら、英二はふるふると首を振る。
 「ぃやっ・・・」
 「英二・・・」
 気がつけば英二は、泣きながら震える手で俺のパジャマの裾をぎゅっと掴んでいる。


    『いかないで
    独りにしないで
    こっち向いて
    俺のことを見て
    俺の話しを聴いて』


 恋人同士になったばかりの頃、ときおり英二がやって見せた仕草を、久しぶりに見た気がした。

 当時、英二の不安や寂しさが限界に達すると、よくこうして俺の制服の袖口やら裾をぎゅっと掴んだ。決して口で俺に訴えることはなかったが、何度目かにこの仕草をされてから、ようやくそのことに気付いた。


    『イカナイデ
          俺との約束を反故にしてどこへいくの?
    ヒトリニシナイデ
          どうして俺を独りにして手塚と行っちゃうの?
    コッチムイテ
          どうして背中しか見せてくれないの?
    オレノコトヲミテ
          どうして後輩達の面倒ばかり見るの?
    オレノハナシヲキイテ
          ちゃんと俺の方を見て!!』


 今はあの頃とは全く意味合いが違うのだろうが、初めて体験するこの痛みがいつ止むのか、果たして本当に止むのかどうかがわからず、とても不安なのだろう。その不安が、以前良く見せた行動につながったのかも知れない。
 もともと仕事部屋へ行くと言ったのも、俺が居ない方が休めるのではと思ってのことだったので、英二が俺を望むのであれば、側にいてやることくらいなんでもない。仕事があるというのも、単なる口実だったし。
 「英二、もう泣かなくてもいいから。ほら、またそんなに歯を食いしばるんじゃないよ。いつまでも血が止まらないだろう?」
 「・・・っっう・・・・・っらっへ・・・・、お・・・・・っお・・・っひ・・・・・・がっ!!」
 「ああ、俺が悪かったよ。不安にさせて、ごめんな・・・?ほら、もう泣き止んで。俺も一緒にここにいるから。」
 無意識にだろう。ぎゅっと掴んだ袖口はそのまま、緩慢な仕草で俺の入るスペースを空けてくれる。俺は殊更ゆっくりとベッドに入り、英二を安心させるように、けれど左頬には当たらないよう注意しながら、熱を持った頭を抱きこんで、汗で湿った髪をゆっくりと梳いてやった。


 歯が痛いのと不安だったことで、しばらくはぐずぐずしていたが、程なくして規則的な寝息が聞こえてきた。やはり仰向け気味な体制がどうしてもイヤなようで、口元にしっかりとタオルをあてたまま、ベッドヘッドに寄りかかっている俺の鳩尾のあたりに顔を埋めるように抱きついたまま、眠ってしまった。俺はといえば、英二に好きな体勢をとらせたままで、今度翻訳をするかも知れない本を読んでいる。先ほど薬を飲ませてから2時間くらいが経っているので、あと3時間ほどしたらまた、薬を飲ませるために起こさなくてはならない。折角寝付いたところを可哀想なのだが、指示通りに薬を飲んだほうが、本人がラクだろうからな・・・。
 英二を起こすために、目覚ましを3時間後にセットして、俺も一眠りすることにした。
 この体勢で英二に抱きつかれながら眠るのも、随分久し振りだ。完全に横になって抱きつかれるのと、座っているところに抱きつかれるのとでは、どことなく縋られている感じが違う。今の体勢のほうが、なんか甘えられてるような感じがするものだ。現在発熱して、普段の体温よりも高くなっている英二に縋られ、先ほどまでの泣きっぷりを思い出し、これから3時間後に薬を飲ませるために目覚ましをかけたことを考えると、なんだか小さい子供を育てている母親のような気分になってくる。
 そんなことをツラツラ考えているうちに、どうやら俺も眠りに落ちていたようで、セットした目覚ましが鳴る音で、あわてて目を覚ました。
英二の様子を伺うと、うっすら額に汗をかいて寝苦しそうだった。氷嚢の氷もすっかり融けてしまったようで、熱と痛みに顔を歪めながらもなんとか寝ているといった様子だ。とりあえず薬の用意をしてこようと思い、英二を起こさないように注意しながらベッドから抜け出ようとしたのだが、当の本人にがっちりホールドされていてまったく身動きが取れない。どうせすぐに起こすのだから、ここで起きてもらおうかと、先に英二を起こすことにした。
 「英二、ちょっと起きて。薬を飲む時間だから。」
 「・・・・・・・うぅ・・・・・。」
 やはり眠りが浅かったのか、普段ならこんな程度では絶対に起きないだろうくらいにしか声をかけていないのだが、すぐにうっすらと目を開けた。
 「氷嚢に新しい氷を入れて、薬を持ってくるから。汗も結構かいてるから、もう一度着替えような?」
 「・・・・・・・」
 コクリと頷くと、俺をホールドしていた体勢から起き上がり、英二が先にベッドから抜け出した。どうやらトイレにいくらしい。その間に俺はキッチンへ行き、氷嚢の氷をいれかえて、薬を用意し、水で濡らして固く絞ったタオルと新しい乾いたタオルを持って、寝室へ戻った。英二も既に戻ってきていて、相変らずぐったりとした風体で、ベッドに腰掛けている。
 「そのまま着替えるのも気持ち悪いだろうから、ざっと汗を拭いてから着替えような。」
 「・・・・・・」
 聞いているのかいないのか、注意していないとわからないくらいに頷くと、着ているパジャマを脱ごうと、ボタンに手をかける。が、熱で朦朧としているのか、上手く外すことができないようだった。
 「いいよ、俺が脱がせるから、じっとしてて。」
 そう言ってから俺は、汗で身体に張り付いているパジャマを脱がせ、持ってきた濡れタオルで一通り身体をふいてやると、新しいパジャマに着替えさせた。
 「咽喉が痛いと思うけど、なんとか頑張って、薬飲んで。」
 「・・・・・・・」
 さっき飲んだときに、よほど辛かったのか、薬を受け取る手がぷるぷると震えている。しかし、薬を飲むとラクになることを知ったようで、震える手で何とか薬を飲み込んだ。
 「えらいえらい。」
 先ほどちょっと思ってしまった、小さな子供を育ててるような気分になるなぁ・・・なんて考えが残っていたのか、思わず小さな子供にするように、薬を飲みきった英二の頭をかるくぽんぽんと叩いてしまった。
 「へへ・・・。」
 ほめられた事が嬉しかったのか、はたまた熱と痛みで朦朧としているだけなのか、英二はへらっと笑ってベッドにもぐりこんだ。今度は、俺が入るスペースをあらかじめ空けて、ベッドヘッドにもたれかかり、はやく来いといわんばかりにへらへらとこちらを見ている。さっきまで痛みに顔を歪めていたのに、今のこの顔・・・・。大丈夫なんだろうか・・・?
 「え、英二・・・?」
 「・・・・・・・」
 相変らずへらへらとした表情のまま、俺が入るスペースをたたく。
 「・・・・・脱いだものとか片付けてくるから、先に寝てていいぞ?」
 「・・・・・やら」
 今までへらへらしていたのに、俺の言葉を聞いたとたん、へらへらしつつ大粒の涙を流し始めた。これは、ちょっとやばいのではないだろうか・・・?
 「え、えいじ・・・? お前、大丈夫か・・・??」
 「ぅう。」
 へらへらと泣きながらうなずく英二が、とてつもなく憐れに見えてきた・・・。意識ははっきりしているようなのだが、薬が合わなかったのだろうか?いや、今回処方されている薬には、英二はアレルギーなどはないはずだし、医者に行くときには、かならず『おくすり手帳』を持って行くように言い聞かせてるし・・・。単に熱が高い所為だけなのか??
 「わ、わかったから。俺もこのまま寝るから・・・な?」
 ちょっとこのままにしておくのが怖くて、片付けは後回しにすることにして、英二がたたいて催促していたスペースに入ることにした。
 「ほら、氷嚢持って。ぎゅっと押し付けないようにして、左の頬にあてると気持いいだろう?」
 「ぅう。」
 話を聞いているのかいないのか、氷嚢はすっぱり無視で、居心地のいい体勢をもぞもぞと探すことに神経を注ぐ英二だった。しかし、どうやらちゃんと聞いていたようで、先ほどと同様、俺の胴体をぎゅーっとホールドする形で落ち着くと、氷嚢を持っている俺の右手ごと、自分の左顎に持っていった。なるほど。押さえてろってことのようだ。どのみち本人に持たせても、眠ってしまえば落としてしまうだろうから、黙って英二の望む通りにそっと左顎に当ててやることにする。そんな俺の気持がわかったのか、俺の鳩尾あたりに俯いていた英二が、一端顔をあげて、俺に向かってへらっと笑った。そんな英二がどうにも哀れで、そっと、あまり押し付けないように俺の胸元へとその頭を抱き込んで、英二の呼吸に合わせるようにゆっくりと背中を撫でてやる。すると、その行為に安心したのか、程なくして規則正しい寝息が聞こえてきた。
 自分で親知らずを抜いたときも相当苦しんだが、今の英二ほどのヤバさは無かったように思う。やはり、それ以前にも何度か歯痛に苦しんだ経験のあった俺が感じる痛み具合と、初めて『歯が痛い』ということを体験している英二とでは、受け取る感覚が大分違うんだろうか・・・。しかし、こればっかりは、代わってやりたくても代わってやれないので、何とか自力で頑張って耐えてもらうしかない。しかも、今夜は抜いたばかりで痛みも熱もひどいけれど、明日あたり、今よりもっと腫れると思うんだよな・・・・。英二、耐えられるんだろうか・・・??




 ・・・・・ポーン・・・。

 寝るつもりは無かったのだが、どうやら英二が寝てからそんなに時間を置かずに、俺も一緒に寝てしまっていたようだ。なんとなく玄関のチャイムが鳴ったような気がして、目が覚めてしまったが、こんなに朝早くに一体誰が・・・?荷物が届く予定もないし。気のせいだったんだろうか?
 
 ピンポーン。

 どうやら気のせいではなかったようで、今度ははっきりとチャイムが聞こえた。
 何か緊急の用事だったらと思うと、無視することもできず、折角眠れている英二を起こさないよう、細心の注意を払いながら、起き上がった。

 ピンポーン。

 インターホンにたどり着くまでに、もう一度鳴らされた。英二が起きなきゃいいけど・・・。
 「・・・・はい。どちら様ですか・・・?」
 「おはよう、大石。」
 「いっ乾?!!ど、どうしたんだ??こんなに朝早く!!誰かに何かあったのか??いや、今すぐ開けるからっ。」
 「あ・・・。」
 休みの日の早朝、電話ではなくわざわざ自宅に訪ねてくるなんて、よほど緊急の何かがあったのかと、俺はあわてて玄関へ走っていった。
 寝起きということもあり、妙に焦ってしまってドアチェーンがなかなか開錠できない。いつもは防犯のためにと二重についている鍵をありがたく思っていたのだが、こんなときは、とてもイライラする。
 「くそっ!!」
 英二を起こさないようにという心遣いが全く無駄になりそうなくらいにガチャガチャいわせながらも、何とか鍵を開けることに成功した。慌ててドアを開けるとそこには、乾だけでなく、不二まで一緒に立っていた。いよいよ何かあったのだろうか・・・??
 「やぁ、大石。いくら休日だからって、とんでもない格好してるねぇ。」
 緊急の用事だと思って、パジャマのまま、寝起きそのままで対応に出た俺に、不二がいつもの調子でこう言った。
 「やぁって・・・・。二人そろってどうしたんだ?こんなに朝早く。何かあったんじゃないのか??」
 あせる俺とは対照的に、にっこり微笑む二人。あれ?緊急の用事じゃないのか・・・?
 「朝早くって、いい加減、もうお昼だけど・・・?」
 「・・・・え?」
 「おまけに、何度も電話したんだけど、誰も出ないから、こっちこそ何かあったんじゃないかと思って来て見たら、ただ寝てただけなの?」
 「で、電話・・・?」
 あ・・・。
 いつもなら帰宅したらすぐに、鞄から出して充電器に立てるのだが、夕べはそれどころではなく、マナーモードのまま、鞄の中に入れっぱなしだ・・・。英二の電話も、マナーモードにして布団の上に置いておいたから、全然気付かなかったんだ・・・。
 「す、すまん。夕べはそれどころじゃなくって・・・。」
 「いや、どのみち差し入れがてら見舞いに来ようと思っていたからいいんだけどね。で?英二の具合はどうなの?」
 いいんだけどねといいつつ、序所に笑みが深くなる不二は、とても怖い・・・。
 「あ、ああ。薬が効いているみたいで、まだ寝てるけど・・・。もう昼ならそろそろ起こして薬を飲ませないといけないから・・・。」
 「じゃぁ、様子見がてら、僕が起こしても問題ないよね?」
 有無を言わせない迫力で微笑みながらそういうと、家主の許可など必要無しと言わんばかりに、スタスタと寝室へ向かって行った。まぁ、不用意に不二に逆らうつもりもないので、そのままにしておいたけど。
 「丁度下で会ったものだから、一緒に来た。ほら、これ。」
 そう言って乾は、スーパーのビニール袋を二つ、俺に差し出した。
 「なんだい?これ。」
 ガサガサと音をさせながら袋の中を覗き込むと、ロックアイスとスポーツ飲料、ジャムのような小瓶がいくつか入っていた。
 「大石の家の冷凍庫に入る氷の量と、菊丸が発熱したときに用意する氷嚢のタイミングを考えて、そろそろなくなるころかと思って。買いに行ってる暇ないだろう?で、スポーツドリンクは、まぁ今すぐ飲めなくても、置いておいても大丈夫だろうと思って。そっちの瓶は、フルーツペーストらしい。」
 「ジャムじゃないのか・・・?」
 「いや、何でもベビーフードらしいぞ。離乳食だから、噛めなくても大丈夫だし、栄養もあるからと、不二が買ってきたようだ。」
 こっちは不二か・・・。
 「あ、ありがとう、助かるよ。やっぱり夕べ、英二のやつかなり発熱しちゃってさ・・・」
 「ひっ・・・?!!えっえいじっ?!!えいじぃぃぃぃぃっ!!!」
 「不二っ?!」
 夕べの状況を乾に説明しようとしていたところで、寝室から不二の叫び声が聞こえてきた。さっきまでなんでもなかった英二だが、何かあったのだろうか?
 「英二っ?!・・・って、えぇ・・・っ??」
 慌てて寝室に駆け込むと、ベッドの上でへらっと笑いながら血まみれになって目を閉じている英二に、不二が馬乗りになって肩をゆすっている光景が目に飛び込んできた。
 「うわぁ・・・・。シュールだなぁ・・・・。」
 思わず呟いてしまった俺に対し不二は、それだけで人を殺せるんじゃないか?というくらいの鋭い視線を付き立てて、怒鳴った。
 「大石!!これは一体どういうことっ?!!英二に何したのっ!!!」
 あー。こりゃ、不二も抜歯したことないんだろうなぁ・・・・。
 おそらく英二は、寝ている間に強く歯を食いしばってしまったんだろう。気持ち悪くて飲み込めなかった血混じりの唾液が、口に当てていたタオルがズレてしまったために、盛大にシーツや枕に広がってしまっただけだ。自分のパジャマも、よくよく見れば、結構血まみれになっている。
 激高する不二に、現状をどう説明したものかと逡巡している俺を見かねて、乾が不二に声をかけた。
 「不二、落ち着いて・・・。」
 「僕は至って冷静だよっ!!」
 ここまで取り乱す不二を見るのは初めてで、珍しいものを見てしまったな・・・・などと考えていたことが分かったのか、はたまた英二の非常事態にのんびり構えている俺が気に入らないのか、不二の怒りは俺一人に向けられた。
 「大石っ!!英二が死んだら、お前の命も無いものと思えよっ!!」
 すっかり開眼モードの鋭い視線で、物騒なことを言う。相手が不二なだけに、本当にやりそうで怖い・・・。っつか、英二、この騒ぎの中で、 何で起きないんだ・・・・。今やもう、この事態を収拾できるのは、お前しかいないんだよ・・・。
 そんな俺の願いが通じたのか、英二がやっと目を覚ました。
 「ぅう・・・・」
 「英二っ!!英二、しっかりしてっ!!僕が分かるっ?!!」
 そういいながらも不二は、あいかわらず英二に馬乗りの姿勢のまま、ガクガクと英二の肩を揺さぶっている。俺と乾が同時に『不二のその行為が、英二を死に追い遣るんじゃぁ・・・』と考えてしまったなんてことは、それこそ死んでも言ってはならない事だ。
 「・・・・ふ・・じ・・・?」
 苦しげに顔をゆがめながら、口から血をながしつつ、なんとか英二が不二に答える。あの苦しさは、間違いなく不二がのしかかっているからだろうことは、俺と乾には良く分かっていた。それに気付いていないのは、不二本人だけだ。
 「そうだよ英二、わかる?!僕だよっ!!一体これは、どうしたのっ!!」
 「え?え・・・??」
 寝起きではっきりしないところに、いきなり不二にのしかかられて、英二の方こそ『な、何っ?!!一体なんなのこれっ???』といった顔をして、目線だけで俺を探している。
 「英二・・・・」
 「お・・・・いひ・・・っ・・・・」
 英二・・・。
 抜歯したところがまだ痛むだろうに、不二に馬乗りになられてガクガクと揺さぶり続けられるお前を助けてやれなくて、ごめんよ・・・。あとでちゃんと看病するから、今は耐えてくれっ!!
 「英二っ!!英二っ!!!」
 なおも叫び続ける不二になすすべもなく、俺と乾は、寝室の入り口で、ただ立ち尽くすだけだった・・・。


END