ハンガリー文芸クラブ 5月例会 太田峰夫
文学の世界への帰還
マーライ・シャーンドルの『シンドバード家に帰る』とクルーディの文学との間の関係について
0. はじめに
Marai Sandor (1900-1989) について
(クルーディ・ジュラという実在の作家がこの主人公のモデルになっている。)
Krudy Gyula (1878-1933) について
1. 「シンドバード家に帰る」の様式的な特徴について
この小説について論じるにあたって、まずこの小説がどのようなつくりになっているか、という事から話す事にしたい。
主人公の事から始めよう。冒頭で明らかになるように、この小説の主人公はシンドバードというあだ名を持った人物である。このあだ名は「千夜一夜物語」から取られたものだが、その職業は「船乗り」「作家」「紳士」という事になっている。
既に述べたように、クルーディ・ジュラという実在の作家がこの主人公のモデルになっている。作家クルーディについて後に彼が書いた別な文章を参照すれば明らかになるように、優れたジャーナリストでもあったマーライは、この小説を書くにあたりクルーディの生活ぶりを実に細かく調べている。例えばオーブダのテンプロム通りに住んでいた事、紫色のインクを使って原稿を書いていた事、酒を飲む時は黙って飲むのを寧ろ好んでいた事などはどれもこのような調査から彼が得た情報をふまえている。
この主人公の人生最後の一日を描いたのが、この小説である。但しそうはいっても、それは客観的な情報を積み上げて作られた一種のノンフィクションのようなものではない。寧ろ主人公の内面の世界の表現に重点を置いたフィクションである、と考えた方がこの小説の性格付けとしては的確であると考えられる。
小説の筋は単純なものである。娘の服を買うために六十ペンゲーが必要になったので、主人公はカーヴェーハーズに出掛け、そこで文章を書いて金を調達させる。レストランに寄り道をした後仲間と夜を過ごし、朝方に帰宅してそのまま息を引き取る。大づかみに言えばそれだけの話である。
このような筋の単純さにも拘わらず、鑑賞に堪えうる小説としてこの作品が成立しているのは、文体の特色によるところが大きいと考えられる。
数ページにわたって読んでいけばすぐ明らかになるように、「まるで・・・のように」といった比喩表現や、「恰も・・・であるかのように」といった仮定法の表現がこの小説では非常に多く用いられており、これらの表現を通じて小説の中で実際に起こっているわけではない事柄が実に数多く触れられている。その結果筋の中で実際に起こっている事柄がテクスト全体の中で占める割合は非常に小さいものとなっており、寧ろ主人公の内面の意識の流れの描写に大きな比重がかかるようになっているのである。具体例としてはシンドバードと妻が会話をしている場面を見れば十分だろう。ヘリコン社から出版された版の十一ページにおいてシンドバードの妻は彼に、早く家に帰ってくる事と途中どこにおいても酒を飲んでこない事を約束するようにせがむ。安易に約束事をしたくないそこでシンドバードは考え込んでしまう。彼が返事をするために再び口を開くのはようやく十六ページになってからである。その間の五ページはおびただしい比喩や仮定法の表現によって彩られている。こうした場面での関係節を用いた非常に息の長いセンテンスの多用も、あたかも外界の時間の流れが止まったかのような印象を作りだしており、それによってこのテクストが持つ意識の流れの描写としての性格は一層強調されている。
以上においてこの小説の文体の特徴についてやや大づかみに見てきたが、ここから我々は一つの帰結を導き出せるだろう。その帰結とは他でもない、単にクルーディがこの小説の主人公のモデルになっているのだけではなく、クルーディの文学それ自体もまた小説の文体のモデルとして意識されている、という事である。比喩の多用というのはマーライ自身がクルーディの文体の特徴として挙げていた事であったし、仮定法の多用というのは、まさにセルブ・アンタルが1935年に彼の著書である『ハンガリー文学史』でクルーディの作品の特徴として挙げている特徴であった。こうした文体の類似が登場人物のレヴェルに於ける類似とも絡み合いながら、まるでこの小説自体もクルーディが書いた小説であるかのような錯覚を作り出しているのである。
2. クルーディの文学、及びハンガリー文学の伝統との関係について
シンドバードという小説の主人公の名前は、勿論クルーディの文学作品の中の登場人物にちなんだものである。
周知のように、シンドバードの物語をクルーディは百余りの短編・中編小説との中で、二十年以上に渉り書き続けていた。シンドバードは最初は小説の登場人物として現れるのだが、晩年の作品になるとクルーディのエッセイのペンネームとして使われる事もあった。これら晩年のシンドバード小説においてはシンドバードもまたオーブダのテンプロム通りに暮らしていることになっている、という事には注意する価値があるだろう。数十年に及ぶ執筆を通じてシンドバードは作家クルーディにとってもう一つの自我ともいうべき存在へと高められていった、という事をこの事は端的に示している。マーライがクルーディをモデルとした登場人物にシンドバードという名前を付けた理由は恐らくここにあっただろう。
さてクルーディのシンドバードを主人公とする作品群では、一つ一つのテクストは緩やかな横の繋がりをもっていた、という事をここで思い出しておくことにしたい。それらの作品はシンドバードという主人公を中心としながら、社交界や酒場、劇場に群がる人々を描き、旅行や、過ぎ去った時代への憧憬のような共通のモチーフで彩られていた。そしてそれらは、全体としてまとまった筋にしたがって構成されたものではなかった。寧ろそれらはその都度これまで読んできた様々なテクストの色々な場面と関係づけながら読むように書かれていたのだった。
クルーディの文学が持つこのゆるやかなネットワークとしての性格は、「シンドバード家に帰る」というマーライの作品を論じる際には是非とも触れておかなくてはならないポイントであるように、私は思われる。というのも、マーライの巧みな文体模倣によって、知らず知らずのうちにクルーディの文学のネットワークと関連づけながら読むように、ここでの我々は仕向けられているからである。いわば既にあるテクストのネットワークの中に導入された、一つの新しいテクストとして我々はこの小説を読む事となる。
この事の帰結としてどのような事が生じるのか、という事については後でもう少し詳しく述べることにしよう。以下においてはクルーディの文学とマーライの小説との間の関係について、より小説の内容に立ち入ったレヴェルの問題に話を移すことにしたい。
既に明らかなように、既存の文学の世界とこのテクストとの間の関係は意図されたものである。我々はこの作品を、クルーディに対するマーライなりの敬意の表明として読む事が出来るだろう。ただそのように言う時、マーライがクルーディの文学の中に何を見ていたか、という点に是非とも触れておかなくてはなるまい。
マーライがそこに見ていたのは、ハンガリー文学の伝統ではなかっただろうか。一読すれば明らかなように、この小説の中ではシンドバードを中心にしながらハンガリー文学やハンガリーの作家達について非常に多くの事が語られている。オシュヴァート・エルネーについて、あるいはオシュヴァートが関わっていたかつての「ニュガト」誌の代表的な作家達について、実に生き生きと描かれている。ガールドーニ・ゲーザやミクサートの名前も言及されているし、登場人物の一人がヨージェフ・アッティラの詩句を引用する場面まである。
こうしたハンガリー文学に関わる様々なエピソードや引用が、全てシンドバードの人生の最後の一日の出来事の中に見事に溶け込みながら、「文学」という大きな枠組みを読者の前に提示している点に我々は注意しなくてはなるまい。一つ一つが一見した所いかに奇妙に見えようとも、それらのエピソードは一つの文学の伝統、一つの文学のありかたや作家のあり方を我々の前に明確に示し、シンドバードをそうした伝統の最後の代表者として特徴づけるのに役立てられている。
それがどのような伝統であったのかを知るためには、小説の前半、温泉へ馬車で向かう場面をみれば十分だろう(参考)。そこで明らかになるのは、作家は単にものを書く人間であるに止まらず社会意識に目覚めた独立した個人、つまり紳士でなくてはならず、社会において果たすべき使命を持っていなくてはならない、というシンドバードの考え方である。いわばこのような精神的態度こそが「文学」を聖なるものとしつつ、作家達同志を互いに結びつけてきた彼にとっては文学の伝統であった。その事を後に続く場面、とりわけカーヴェーハーズの場面は我々に示しているように思われる。
一つの過ぎ去った時代のこのような伝統に対する敬意と愛情をマーライはこの小説によって、創造的な仕方で表明しようとした。恐らく我々はそのように言うことが出来るだろう。なおこれに関連して「シンドバード家に帰る」というこの小説の題名が、単に主人公が帰宅する、という行為を指しているのではなく、同時に過ぎ去った時代への回帰をも象徴的に表現していることを、ここでいい添えておこう(p. 75, p. 125)。
さて伝統という事について更に考察を続ける為に、ここで小説の中の一場面を振り返っておくことにしよう。チカーゴー・カーヴェーハーズで、シンドバードはディデと呼ばれている作家の事を思い出しながら、次のような思いにとらわれる。
"麋y 殕t Dide, a t殘嗷ablak elホtt, s vereset 池t, z嗟d tintaval. Mikor 殕t itt?...Tegnap?...T築 思 elホtt?" (p.47)
(引用1)「そんな風にしてディデは鏡窓の前に座っていたのだった。そして詩を書いていた、緑のインクで。彼は何時ここに座っていたのだったろうか?・・昨日のことだったろうか?・・・十年前のことだったろうか?」(引用終わり)
記憶の中では、過去は単に過ぎ去った事ではなく、現在にまで生き続ける。客観的に測定できるような時間的な距離はそこでは最早何の意味もなさない。上の引用の部分が端的に示唆しているのは、そうした事である。
このカーヴェーハーズの場面では他にもハンガリー文学の過去、その伝統について、多くのことが触れられている。そうした過ぎ去った事の一切も、丁度上の引用の場合と同じように、あたかも同じカーヴェーハーズの煙の中に同時的に存在しているかのように夢想されていくのであった。いわばカーヴェーハーズは作家達のパンテオンやハンガリー文学の伝統を象徴しているのだろうが、この場面で更に興味深いのは、まさにこの伝統を意識した時、シンドバードが自らペンを取り、創作活動を始める、という点である。
かつての時代とは対照的に無趣味でビジネスライクになった一九三〇年代のハンガリーの世相については、この小説の中でも殆ど文明批評のような筆致で辛辣に描かれているのだが、丁度この世相に対抗するようにシンドバードはこの場面で、ハンガリー文学の伝統を現にそこにあるものとして捉えつつ、それを背負いながら創作に励もうとしている。実はこの場面での彼の行動は、マーライ本人の伝統に対する接し方をそのまま表現したものではないだろうか。私はそのように考えている。少なくとも過去の文学の世界に適合するように書かれたこの小説もそれ自体非常に伝統を強く意識したものである、と言う他ならぬ事実は、そのような推定を支持している。
ところでこの伝統の問題に関して言えば、マーライの文学論と彼の同時代人であるエリオットの芸術論との間にある程度の類似した思考を認めることは恐らく可能だろう。注目すべき事に、ここでのシンドバードの創造行為は丁度エリオットが1919年に発表した「伝統と個人の才能」という題のエッセイの以下の部分を思い起こさせるものにもなっている。
"It (tradition) cannot be inherited, and if you want it you must obtain it by great labour. It involves, in the first place, the historical sense....; and the historical sense involves a perception, not only of the pastness of the past, but of its presence; the historical sense compels a man to write not merely with his own generation in his bones, but with a feeling that the whole of the literature of Europe from Homer and within it the whole of the literature of his own country has a simultaneous existence and composes a simultaneous order."
(引用2)「伝統とは手から手へと継承され得ないものであり、もしあなたがそれを望むのであれば、あなたはそれを大変な労力によって勝ち取らなくてはならない。そしてそれにはまず何よりも、歴史の感覚が必要である。・・(中略)・・そして歴史の感覚を得るには過去の過去性だけではなく過去が現にそこにあるという事をも知覚する事が出来なくてはならない。歴史の感覚を持つ事で人は単に自分がよく馴染んだ自分自身の世代と一緒になって書くにとどまらず、ホメロス以降のヨーロッパの文学の総体が、そしてその内側で彼自身の国の文学の総体が同時にそこにあって一つの秩序を構成しているのだ、と感じながら書くようになる。」(引用終わり)
非常に大づかみに捉えるならば、エリオットが一般論として展開した伝統についての考え方を、小説というジャンルの中で意識的に、目にも明らかな仕方で表現したところに、この小説の本当の独自性があると言う事は恐らく可能だろう。
3. 新しい視点の導入がもたらすものについて
前節の終わりでエリオットのエッセイに話が及んだので、まずそれについて更にもう少し触れておくことにしたい。
エリオットの考えでは、既存の伝統を意識して書かれた作品は、それ自体もまた伝統の一部となっていくのであった。そして一方でこの新しい作品の参入は、伝統全体の姿へ影響を及ぼし、その姿を変えてしまう。そのように彼は考えていたのだった。これについては以下に引用をあげておこう。
"The necessity that he (poet) shall conform, that he shall cohere, is not onesided; what happens when a new work of art is created is something that happens simultaneously to all the works of art which preceded it. The existing monuments form an ideal order among themselves, which is modified by the introduction of the new (the really new) work of art among them. The existing order is complete before the new work arrives; for order to persist after the supervention of novelty, the whole existing order must be, if ever so slightly, altered; and so the relations, proportions, values of each work of art toward the whole are readjusted; and this is conformity between the old and the new."
(引用3)「詩人が既にあるものに適合し、それとつじつまを合わせる事の必然性は、一面的な性格のものではない。新しい芸術作品が作られた時に起こる事とはそれに先立つ全ての芸術作品に同時に起こる何かの事である。現にある記念碑的な作品はそれら自身の間で一つの理想的な秩序を構成しているのだが、そこに新しい作品、というのは本当に新しい作品の場合のことを言っているのだが、それがそれらの間に導入される時、秩序もまた改められる。新しい作品がやってくるまでは既にある秩序というのは完結したものである。それでも新しいものが介入した後にもそれが存続していくためには、既にある秩序全体も、たとえ僅かではあれ、変化しなくてはならない。そのようにしてそれぞれの芸術作品の関係や釣り合い、価値は再調整されるのである。これこそ、古いものと新しいものとの間の適合性なのである。」
以上にあげた引用部分は、クルーディの文学とマーライの小説との間の関係を考える時非常に示唆的ではないだろうか。少なくとも私はそのように考えるのだが、以下においてそう考える理由を明らかにしていきたい。
既にここまで見てきたように、この小説はマーライが彼なりにハンガリーの文学を、とりわけクルーディの文学を解釈した結果生まれたものであった。
それはあくまでもマーライの視点にあわせて書かれている。小説の中における語り手に注目すれば、その事は明瞭だろう。シンドバードの人となりについて、その仕事ぶりについて語るその口調は、殆ど追悼文のそれであり、クルーディの小説の中における語り手の気の利いた口調とは全く趣が異なっている。
他方恐らくクルーディの文学を無意識のうちに誤読している面もマーライにはあったように思われる。例えばマーライは冒頭でシンドバードを「船乗り」「作家」、及び「紳士」として特徴づけているが、この三番目の「紳士」という性格付けに注意する必要があるだろう。この紳士は誰からも愛される存在であると同時に、自らの社会的な使命感を胸に秘めた孤独な存在として描かれている。
マーライの小説の主人公が持つこの「紳士」という属性はどこからやってきたのだろうか?この面においては一体誰が主人公のモデルになっているのだろうか。クルーディの小説の登場人物としてのシンドバードだろうか。それとも実在の作家クルーディだろうか?これはにわかには判定しがたい問題だが、第三のモデルがあった、と恐らく我々は考えるべきなのだろう。第三のモデル、それは1930年代末の困難な社会状況の中で市民社会のあり方を描く事に一人取り組んだ芸術家、つまりこの小説の著者であるマーライ当人に他ならない。ロヴァシュ・ジェルジが以前に指摘していたように、シンドバードの声を借りながら、マーライ自身が自分の考えについて話している、等という事が実は小説の中で屡々起こっている事に我々は気が付かなくてはならないだろう。
さてマーライの小説が、クルーディの文学との間に一定のずれを持っている事が以上から明らかになったが、この事に関連して興味深いのは、この新しい作品がどのような仕方で既存の作品に影響を及ぼしているか、という点である。この小説を読む事によって、明らかに我々読者の持つクルーディの文学への認識も変化するのではないだろうか。私が注意を促したいのは、その点である。少なくともシンドバードの晩年生活について書かれたマーライの小説を読む事によって、クルーディの文学がどのような時代のコンテクストにおいて書かれたものなのか、それがどのような葛藤から生まれたのか、という事に関して我々は一つの新しい解釈を得るだろう。この新しい解釈を通じて我々は新たな視点からクルーディの作品を読むようになるのではないだろうか。そしてマーライが描いたところのシンドバードが屡々クルーディではなくマーライ自身がモデルとしていると分かってはいても、それでも我々は知らず知らずのうちにそのマーライ風シンドバードをクルーディの文学の中に認めようと努力するようにならないだろうか。マーライの新たな作品が登場することによって、少なくとも読者の体験の次元において、たとえ僅かではあるにせよ、「それぞれの芸術作品の関係や釣り合い、価値」が「再調整される」事は殆ど必然的であるように思われる。エリオットの議論が示唆的であるといったのはまさにこのような事情による。
4. まとめ
以上の議論を纏めるならば、テクスト間の相互的な関係を読み手に強く意識させる点においてマーライのこの小説は非常に際立ったものであるという事が出来るだろう。そしてこうしたテクスト間の相互関係性を、つまり現代の用語法で言うところの間テクスト性を単なる技術的な面白さとして提示するのではなく、クルーディの文学に対する愛着やハンガリー文学の伝統に対する敬意、さらには時代と対峙する芸術家としての自己意識等を表現する手だてとした点に、我々はこの小説の著者のすぐれた独創性をはっきりと認める事が出来るように思われる。テクスト間の相互的な関係への関心が高い今日の読者にとっても、このような小説を読む事は非常に有意義な体験となるのではないか。現在私はそのように考えている。