エステルハージ・ペーテル
EPニュース作品リスト講演内容・「時の都市

1950年4月14日、ブダペスト生まれ。エトヴォシュ・ローランド大学数学科卒。名前からもわかるように、かのエステルハージ公家の末裔である。ポストモダンの旗手として、斬新なスタイルと独特な言語感覚により、言葉から湧き出る言葉の世界のなかで、中央ヨーロッパにおける「わたし」のハンガリー日記を綴る。 

エステルハージの作品を日本で初めて紹介する“黄金のブダペスト”が200年3月に出版された:(未知谷Tel:03-5481-3751)。エッセー10作品が収められている。

200年4月に久々の大作「Harmonia Caelestis」が出版された。リンクのAlfold3月号に一部が紹介されている(洪語)。711頁の大作でエステルハージ家の歴史、父親との関係が描かれている。

 エステルハージの作品リスト 


「ファンチコーとピンタ」(l976)、[ポープの海で海賊はするな」(1977)
「創作の小説」(1979)、「従属文」(1981)、誰がレディの無事を保証するのか?」
(1982)、「荷馬車の御者」(1983)、「デイジ−」(1984)」
[ハンガリー・リトルポルノグラフィ」(1984)、「心の助動詞」(1985)
「純文学入門」(1986)、「17羽の白鳥」(1987)、「剥製の白鳥」(1988)
「安全な冒険」(1989)、「フラバルの本」(1990)「象牙の塔から」(1991)、
「小さな魚の不思議な一生」(1991)、「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」
(1991)、「バター色のトーン」(1993)、「おんな」(1995)

パネルディスカッション − 文学のたのしみ

2000年4月8日(土) 午後2時-5時 東京芸術劇場5F大会議室
パネラーに作家エステルハージ氏とゲンツ大統領
司会進行: 沼野充義   通訳: 深谷志寿
日本側パネラー: 岩崎悦子、バログ・B・マルトン

 エステルハージ・ペーテル氏の講演内容  2000年4月8日 

これから自己紹介をさせて頂きます。お互いに知り合うために、ということですが、私を知ることにはならないと思います。ある人を一時間半の間に知ることができるというのも、ちょっと失礼ですよね。つまり、私は今日皆さんが知ることにならない、その人です。
(黄金のブダペスト)の出版社の名前は未知谷と聞いています。”未知”の”谷”ということで、私も未知の谷でいたいですね。ハンガリー文学も当然、未知の谷です。
私が今日ここですることは、講演ではありません。私はそれほど真面目な人間ではありません。どちらかというと、おしゃべりまたはチャットのようなものになるでしょう。少し、お話して後は沈黙します。

実のところ、私は文学について語ることは、あまり好きではありません。文学または書くことは私の生活の全てであり、私の人生、すなわち、書くことなのです。二つを切り離して語ることはできません。例えば、私は文学が好きです、というのは滑稽です。これは、私は妻が好きです、というのと同じように滑稽なことです。好きです、と言ったなら、嫌いです、とも言えることですから。良い例をあげるなら、沈黙は時として有言よりずっと強い主張になります。私が首尾一貫した人間であるなら、文学について沈黙していた方が良いでしょう。1時間半、皆さんの前で沈黙していたほうが。そうすれば、通訳の作業も見事なほど正確になるでしょう。でも、私は首尾一貫した人間ではありません。

さて、では、今日何をお話するかといいますと、東ヨーロッパ性とハンガリー文学の伝統、言語について、そして、それらと私との関係についてです。
ハンガリーでは、文学、特に詩は伝統的に大きな役割をになってきました。大志を抱くハンガリーの子供たちは、将軍ではなく、偉大な詩人になりたいと願っています。それなりの理由はあります。大国ならいざ知らず、小国で将軍になるのは馬鹿げたことですから。

ハンガリーの文学には社会の問題に取り組むという、強い伝統があります。この伝統は、”私”の問題ではなく”私たち”の問題を重視します。20世紀は、まさに、”私”と”私たち”の関係がとても問題視されました。この問題点は1990年まで独裁体制が隠してきました。このソフトな独裁体制のなかで ー私はソフト・ポルノグラフィと呼んでいますがー 文学の状況は極めて明確でした。はっきりしていました。なぜなら、権力は悪で文学は権力と対峙するもので、読者は手に手を取り合って文学の側に立っていたからです。これは、実は心地よい状況でした。せいぜい、作家の人生が心地よくなかったくらいです。

文学にとってどういう社会が良いかを語るのは、難しい問題です。自由が文学にとってよいとは限りません。場合によっては、自由が良かったり、または、自由の欠乏がよいこともあります。例えば、著名なわが作家仲間、ドフトエスキーは処刑されかかったという事実から多大な恩恵を受けました。そのおかげで、美しい文を残しました。だから、全ての作家は殺されかけねばならない、というほど、私は文学者ではありません。

この状況は1990年まで続きました。そして、文学の状況も正常なものになりました。独裁体制下では、文学は本来の姿より、ずっと重要な存在でした。独裁体制のなかでは勇気ある作家が必要でした。民主主義の世界では勇気ある読者が必要です。これは、別の言い方をするなら、文学は此処10年間の間にその権威、地位を失ったとも言えます。多くの人がこの事を嘆いています。私は違います。文学はとても小さな事だと私は考えます。大きな事はパンとか、製鉄所で、文学はちっぽけなものです。小さいものですが、それがなくては生きることが出来ないようなものです。

この伝統的な社会との強い関係、これはドイツの影響とも言えます。ドイツ文学はずっと自国の社会を扱ってきました。もうひとつの伝統、言語中心主義的、個人主義的なもの、これはオールとリアの伝統とも言えます。単純化して言うなら、トーマスマンとムジルとの対比でしょうか・私にとっては、ムジルの伝統のほうが身近です。

私は高校卒業後数学を学びました。学位も持っています。実は、得意分野ではないのですが。昔、背中の痛みがない頃はサッカーもしました。書くことは、ずっとしています。この三つのこと、数学、サッカー、書くことはいつも同等に頭の中にあります。三つとも遊びとしてとらえています。


遊びとは何か不真面目で、子供っぽいことではなく、正反対のものです。遊びとは、ある広場、空間があり、そこでは日常とは別のルールがあるということです。異なった法則があり。そこではこの法則のみが有効なのです。例えば、両親を尊敬しなければいけないというルールは、サッカー場では必要ありません。サッカー場で父親を敬う必要はありません。最初のサッカー選手はエディプスだったのでしょう。ですが、そこでは、手でボールを触ることは許されません。手で父親に触れることは許されますが。文学も異なったルールのある空間と考えます。そこでは、他の事はあてにできず、その空間にあるもののみが重要になります。これは、ある分野の数学にも当てはまります。例えば、代数とか。

この”私”と”私たち”の混乱した関係、この問題性が20世紀文学の大きな特徴です。問題は、私たちに語られているもののみが理解出来るものであるが、語るのは私という個人のみが語れということです。一人の人間のみが、それのみが信憑性がある、のです。しかし、私の話しは私にとってのみ理解出来るものです。文学の言葉はもはや共通の言語ではなく、言わば、方言のようなものになってしまいました。ということは、小説の役割は”私”と”私たち”に橋を架けることです。その中に、”私”があって、信憑性があって、かつ、”私たち”にまでたどり着くもの。つまり、自分たちのなかだけでモグモグ話す独り言であってはなならいのです。私は独りで呟くことしかできず、私抜きの私たちは嘘でしかないのです。小説はこの葛藤、対立の解決を絶えず試みるべきです。それにより、小説は初めて真の語りの舞台になりえます。私は年を取るにつれ、ますます小説の中でのみ語ることを好むようになりました。

私に関して、私の作品に関しては、多くの人が私の言葉、言語を話題にしています。私は、言葉にしか、主語と述語にしか関心かないと。こういう人に対しては、私にも責任があります。私も時々同じ事を言っていますから。私は、これに関しては、煉瓦とモルタルについてしか話せない石工のようなものです。いずれにしても、石工がどんな家を建てるかが大事で、それより大切なことは、その家に誰が住むかということで、それより大切なことは、その家でどんな人生を送るかということです。結局、私が興味のあることはこの事です。
中央ヨーロッパも文法の分野も遊びの理論も、ヴィトゲンシュタインも、、ジョイスも興味がなく、ムジルもラブレーも,どうでもいいことでー おわかりですよね、わたしにとってとても大切なことを上げているのですー
私にとって大事なのは、その石工が建てた家に住んでいる女、その女のみが私にとって大切なのです。
それが、私の歓びです。(この講演は、彼の作品”女”の朗読から始まった)

 時の都市 「黄金のブダペスト」から  訳 粂 栄美子 

私が最初に見たブダペストは恐怖の都市だった。わが故郷の町は恐怖に支配され、なにもかもが、その所有物となっていた、王城の小道、散歩道、薄汚れた市街地、優雅なアヴェニュー、どこもかしこもが、そして、その頭上には、― ある詩人が語ったようにー「巨大な、潰瘍のできた、醜い尻をだして」恐怖の主が居座っていた。自慢話のつもりはないが、これはエステルハージ通りをプーシキン通りに、必然的にエステルハージ・ステーキをプーシキン・ステーキと改名した時代のことだ。(後者のことでは、はや、揺りかごのなかにいる時から、労働運動への憤りを感じていた。ところで、なぜ私はこれまでの豊かで、多様な人生のなかで、一度も、何処においても、本物の美味なるエステルハージ・ステーキを食べたことがないのか? なぜだ?)

私の揺りかごからは、とにもかくにも、すばらしい展望がブダペストの町、ヴェールメゼー、ヴァール(王城)へと開けていた。ブダペストは実に美しい、私は若干傲慢にこう言う、美しさはどうでもよいと思い込んでいる人と同じように、だが、どうでもよいなら、美しいほうがずっと楽ではないか。(これは、いずれまたゆっくり考える必要がある・・・)ブダペストは真のドナウの都市だ。ウィーンはこの点でライバルでなく、ウィーンはドナウ河に目もくれず、一方もっと下流では、ドナウ河は自らに目もくれない。いわゆる、地形学的記述に死ぬほどうんざりしないなら、ブダペストは「恍惚として、両の乳房の間にドナウ河という蛇をはわせる都市」と、美しく描写できるかもしれぬ。ドナウの河幅はここでおおきく広がる。これを目にした異人たちは、たちまち故郷に戻ったような安らぎを感ずる。

子だくさんの父親であるにもかかわらず、私は揺りがごというものは何時まで使うものなのかを忘れてしまった、いずれにしても象徴的なわが揺りかごは一九五一年六月まで、観光的にも際立ったこの地で揺れていた、あの邪悪な共産主義者たちの命令により、私たちの家族が追放された時、つまり二四時間以内に指定された強制居住地に移動しなければならなかった時までは。この出来事には二重の利点が伴った、つまり、人民の敵(これは私たちのことだったが)とは誰であるかの授業が受けられたし、おまけに、空室が一つできて、忠実な人間、つまり同志がそれを占有できた。誰もが得をしたのだ。プルーストにとって紅茶の中のマドレーヌの一片の味だったもの、それは私にとっては早朝わが家の前に止まったチェペルのトラックの臭いだった、ディーゼルエンジンの重油の臭いだったと思うが。滑稽な話なので、もう少し続ける、その日、シュワルツェンべルグの曾祖母はタクシーでトラックの後を追いかけ、こんな朝早い灰色の中では景色がなにも見えないじゃないか、と道中ずっとわめき続けた。親父はあやまり頭を下げることもしなくてはならなかった。まだ、そんな気力も残っていた。

一九五四年夏、二度目に見たブダペストは水の都市だった。ちょうどその頃父は、スイカ栽培者として法学及び政治学の博士号を、ブダ北部の生産協同組合に投資していた。ドナウ川の洪水により堤防が決壊し、スイカ畑に水があふれた。スイカが水面に泳いでいた。まるで何百ものサッカーボールのように!( この年スイスでサッカーの世界選手権が開かれ、決勝戦では、誰もが知っての通り(!)ハンガリーがドイツを三対二で下した。( 注:実を言うと、昔は二つのドイツ、つまり、ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国があったのだ。)私たち、ちびっこギャング団は堤防に座り、スイカを釣った・・・私はとりわけ洪水が大好きで、社会的影響などには無頓着で、ただただ河に向かって、これまでの記録を破るよう声援した。また機会があったら、たくさんの美しく、艶っぽい水の伝説をお話しましょう、いつかまた。

三度目のブダペストは革命の都市だった。私たちはもう強制居住区ではなかったが、まだ地方の村で生活していた頃、一日がかりでブダペストにやって来た、歯医者に行くためだったと思うが、私は従兄と一緒にそこを抜け出した。マルギット橋の近くのその建物には、去年もまだその銃弾の跡があった、きらめく眼差しの青年がその時私たちの横から発射した銃弾だった。まるで、戦争ごっこをしているかのようだった。今年、その建物は、ひどく悪趣味に改修された ― いまさら隠喩で注解する必要がないくらいに。